第2章―5

 薄明かりをもたらせていてくれた太陽も、とうにいなくなっていた。目をつむるより暗い闇の中、微かに揺らされる力でかなり強い風が瀟瀟と吹いているのはわかる。アルカナが暗視モードを起動させた。バイザーには段々暗闇の中、障害物の輪郭が映し出された。

 岩や朽木など温度の違いを感知する高度なサーモグラフィによって、ほぼ日中の薄暗さを再現する程度には視界が確保された。ナビゲートされた距離はエアカーで移動するまでもなかった。エイルは前室を出てはじめてドーム外の大地を踏みしめた。右手を暗黒の雲天に伸ばしてみる。身体は浮き上がらない。エイルは今しっかりと大地に足を下ろしていた。不安はない。

 訓練の時と同じように、スーツ内のヘリウムの濃度を二百五十メガパスカルまで上げると、全身に浮力を感じた。右足で大地を蹴ると、斜め前に大きく身体が浮き上がる。バイザー内に表示された赤い矢印に身体を向けると、肩とふくらはぎあたりにあったバーニアスラスターから推進ガスが噴射され跳躍に勢いをつける。着地する度に右、左と大きく大地を蹴りだし、一回の跳躍で何十メートルも進んだ。飛行するよりこの方が推進ガスを節約することができた。

 左手にドームの平坦な壁がどんどん流れていく。内側からは透明だったが、外からは灰色になっており中は見えない。スイードがすべり落ちるようにみがかれ光沢を持った壁の厚さも、どれくらいあるかわからない。頂上も見えない巨大な鏡餅だ。この天蓋に人類は守られている。いや、不満と不安と一緒に閉じ込められているのだ。

 数分もかかることなく目的地に到着した。アルカナに説明してもらうまでもなく、目標は遠方からも視認できた。灰色のドーム壁面がびっしりと黒でおおいつくされている。遠くからはそこだけ激しい炎であぶられ燃え尽き煤のようになってべったりとしていた。

 だが接近しさらにバイザーをスコープモードにして拡大してみると、そこは燃え尽き死んでいるわけではない。漆黒やこげ茶色をした、巨大なブローチのように光沢を持った背中が、無数にドーム壁面に張り付いている! その一つ一つが微かに蠢く。波を打つ黒いうねりのように全体が生きているかのごとく。

エイルは懸命に息を吸った。だがとりこまれた酸素も肺のところで止まって、全身に運ばれている感覚がない。

 身体の末端が壊死したかのように、指先に脳からの指令が伝わらない。

 エイルは言うことを聞く肩に力を動かし、黒い壁面に向って右腕を向けた。右腕に内蔵されたレーザプロセスの照準がカタカタと揺れた。

 あれは……演習場にいたのと同じ種類だと思う、が、あの数はどうだ。震えをとめようと左腕を右手首に添えたが、伝染して全身が揺れる。あたりの空気がざわめき、高周波のような高音が、ヘルメットを突き抜けエイルの鼓膜を連続して揺らせた。この一定間隔の旋律の合間に、エイルは微かな、それでいて明確な声を聞き取った。

「喰らえ! 全てを、喰らい尽くせ!!」

 彼らは自分を失っている。悪寒が走ったときのように冷たい汗が全身をつたっているだろうが、インナースーツが全て吸収した。周囲全てに向けられている敵意に、脳が揺さぶられ、激しくなった鼓動が血液を送り、痺れがとれるように指先に感覚が戻った。その敵意に、考えもなくトリガーを引いてしまいそうになった瞬間、バイザーが割れるようなくらいの声がヘルメットの中に響いた。

「遅い! バカヤロウ! 何やってんの!」

「止めてください。早くこっちですわ」

 バイザーに右前方へのガイド矢印が表示された。数十メートル先の岩を掩体にして身を隠しているマァイとミロが、一瞬肩の青いビーコンを光らせる。早くこっちへこいとの仕草を確認し、エイルは脚部のスラスターを最大出力にして二人のもとへ転がり込んだ。

 マァイに腕を引かれて岩影に入ると、ゴツンと大きな音がし、頭突きとくらわるようにヘルメットが打ち付けられた。

「バカじゃないの? あそこでぶっぱなして一匹やそこら殺したって、他のやつらに食い散らかされて終わりになるわよ」

 バイザー部を直接つけた接触回線でマァイは話しかけてくる。ヘルメット内にガンガン響く声色で、怒り狂っているのはわかるが、幸いバイザーに表示された文字で表情は途切れた。

「気づいた奴らがこっちにきますわ」

 ミロも腕を伸ばし、エイルの肩を掴んで接触回線を使った。マァイの大きな舌打ちも後を追いかけて響く。エイルは肩越しにさっきまで自分のいた場所に視線を向けた。

 ドームの壁からはがれ落ちた三つのブローチが、せわしなく駆けまわっている。頭から飛び出た二本の長い触角は左右に揺れ、六本の足はとげとげしく、動いては止まるを繰り返す。大きい固体は優に体長一メートルを超えている。演習場にいた個体の倍ほどの大きさだ。

 エイルから離れたマァイは、岩陰にすれすれのところまで立ち上がってドームに張りつく群れの様子をうかがう。ミロは身をかがめて、走り回っている方に注意を向けている。ミロが左手をエイルの右肩に置き、右手でマァイの腕を掴んだ。

「聞いてくださる? 下位種のコックローチに、群れて同じ行動をしたり、索敵するような知能はありませんわ。おそらく彼らを統率している進化種が近くに潜んでいるハズです。私たちは二人でそちらを叩きますわ」

 ――進化種? 操る?

 アルカナがバイザーに表示させた情報を、ミロは冷静に分析しているようだ。ミロの身体を伝って冷静になったマァイの声が響く。

「あっちからきてくれるなんて初めてじゃない? セフィロトの近くにあいつらの巣があることがわかってるんだから、捕獲するチャンスよ。今から飛び出すから援護して。仲間なんでしょ?」

「わたしひとりで?」 

「他に誰がいるの? 他のユニットが来るまでのんべんだらり待つの? あの数のあいつらをほっといたら直にドームの壁を食い破るわよ。今頑張らないと消えちゃうんじゃなくて? あなたの守りたい大事なもの」

 ミロも立ち上がってエイルと身体が離れたため、それ以上接触回線での会話ができなくなった。マァイが右腕に内蔵されたレーザプロセスを構え、蠢く黒い海から少し離れたドームの壁を一閃した。その光線に、海の一部が割れるように分離したコックローチの群れが殺到する。同時に二人はスラスターを全開にし、岩陰を飛び出しエイルから遠ざかった。

 囮を打ったのにもかかわらず数匹のコックローチが羽を開き、スラスターの軌跡を追った。エイルは立ち上がり銃口を向けた。的確な射撃はふたつ、みっつと飛翔する黒い物体を撃ち落とした。が、違う光源に気づいたコックローチの群れの一部が割れ、数十匹がエイルに黒い固まりとなって向ってきた。

 身体の前面にあったスラスターを吹かし、後ろに跳躍しながら射撃を続けた。全射命中しているはずなのに、黒は小さくならない。黒い塊はぐにゃぐにゃ形を変えつつ迫る。

 ――だめ……追いつかれる!

 丁度跳躍の最高点で黒に飲み込まれたエイルは、錘を吊るされたように一緒に地面に叩き落された。

 衝撃はヘリオスーツが吸収し痛みはなかったが、身体の上をガサガサ、ガサガサ押さえつけ踏みつける圧力が感じられる。右手に内蔵された近接用の水素サーベルを発生させ、胸、腹、下半身に圧し掛かっていた固体をなぎ払い排除する。何とか立ち上がり、水素の熱にひるんだ群れにレーザプロセスを向けたが、絡みついた死骸が射出口をふさぎ光線はでなかった。

 その一瞬の隙を突き右腕、左足に再び取り付かれ、ヘルメットに飛び掛ってきた衝撃で再びあお向けに倒れた。

 コックローチの顔がバイザーの全面をおおう。角の取れた三角形のような形をした頭から飛び出た触角の下には、一対の複眼らしきものがある。光を感じるくらいの機能を持ったそこは黒く濁り瞳の動きはない。巨大な牙を持った顎が開閉している。その度にガシャガシャと、硬質同士が摩擦する嫌な音がヘルメットに響く。

 やがて右太ももと左腰あたりを牙が食い破ったのか、肉を激しくつままれ、ピアスで突き刺されるような痛みが走った。

 何匹が群がっているのだろう。身をよじることもできない。

 このまま食われる。

 ――わたし、死ぬかもしれない。

「うわああああああああ!」

 エイルは自分ではない叫び声を、ヘルメット越しに微かに聞いた。青白い炎が走り視界が開けた。ヘリオスーツを身に着けたアンが、エイルの身体をさらうようにサーベルを振り回し続けている。炎を恐れたコックローチがエイルの身体から離れる。

「エイル! エイル! 大丈夫? 生きているわよねぇ?」 

 バイザーを覗き込み叫ぶアンの声に、エイルは視線だけで応えた。

 ――やっと来た。遅いよ。わたしの一番の友達。

「警告! 警告! 気密が破られています」

 おそらく先ほどから鳴り続けていたアルカナが発するアラート音だがほっとするとただ煩い。バイザーに表示された破損箇所に、バックパックから取り出した応急の修復パッチを張るとそれだけはおさまった。アンはコックローチの群れに向って水素サーベルを必死に構えている。

 一定の距離を保ち落ち着きなく動きながら数を増す彼らは、獲物を前に順番を決めているかのごとく先頭を争っている。先ほどエイルがサーベルで両断した仲間の死骸は、触角と足の一部だけ残してすでに複数の強靭な胃袋に収まっていた。

 緊急招集に応じ次々と到着した別の小隊が、各個コックローチの群れに銃撃を加えている。だが、ドームの壁から次から次へとはがれ落ちるように向ってくるそれを撃ち落とし切れない。

 ある者はレーザーガンのアタッチメントを替え、燃料ガスによる直接火炎放射に切り替えてなんとか距離をとっていた。間に合わず距離をつめられた者は、サーベルでの白兵戦となっていた。戦場が乱れる。焼かれたり、切り払われた仲間の死骸を次々栄養に変え、彼らはますます勢いを増すようだ。

 死骸よりもっとうまいものを知っているのか、エイルのように取りつかれて倒される者もでてきた。一旦気密を破られてヘリウムの一部が流出したせいか、スーツに浮力がすぐには戻らず、上体を起こすことが精一杯で立ち上がることができない。コックローチの圧力に押されて、アンがサーベルを構えたままジリジリ下がった。恐怖に引きつる顔が浮かぶ。エイルは通信回線を開いた。

「ごめん立てない! アンコ! やつらにはシラン火炎のほうがいいわ!」

「わかってるぅ! でもエネルギーがぁ!」 

 シラン火炎は発生が早いが持続時間が少ない。

「ごめん……」

「ごめんごめんって、エイルはいつもそればっか!」

 アンはあっちに行けと、前に進み出ようとするコックローチに向ってサーベルを振った。しかし前方に集中するばかり、横から後方に回り込む固体を見逃していた。エイルがそれに気づきアンに声をかけた。

 アンが振り返った瞬間、コックローチたちは一斉に飛び上がった。

 スローモーションのようにコックローチの腹が脈打ち、羽がこすれ動く。

だが彼らはおおいかぶさってくることなく、その全てが散り散りに迷走するように空に遠ざかって行った。エイルもアンも、襲われていたほかの者たちも、ただ分厚く茶色い雲の海に向って飛び去っていく無数のコックローチの群れを見送っていた。彼らは流れ去る雲を追いかけて飛び込むように混ざり、それはだんだん見えなくなった。

 ――マァイとミロがやったのだ。

 間もなく、アルカナを通じ総員回線が開きセルフェスからセレナ司令官の声が聞こえた。

「第302小隊が目標を確保。指揮系統の消失を確認した。各小隊は損害を報告。負傷者が出た小隊は工作隊と交代。残りは工作隊を護衛し、ドームの修復作業にあたれ」

 頭を振ると、ドームの壁面はコックローチに食い荒らされ、いびつな凸凹ができていた。力なく地面に転がり、動かなくなった仲間のもとに人が集まっていた。アルカナを介して一般回線が開かれ、悲嘆にくれる泣き声や怒号がエイルのヘルメットを満たした。エイルは感情に溺れてしまわぬにように、意識して深く呼吸をした。

 工作班の隊員が現場に到着し、火炎放射を使いコックローチの死骸を見つけては丹念に焼き払った。先日の演習で、マァイに殺されたコックローチの幼体から検出されたことのない空気波が発せられていた。それが仲間を呼び寄せることが皮肉にも今回実証された。

 負傷者を運搬するエアカーが間もなく到着すると告げて、アンは肩を支えるように地面に横たわらせてくれた。

「エイルの、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ――!」

 一人で突出したことを責め、アンは縋りつきポカポカエイルの頭を叩きながら泣いた。バカが十をこえるくらいまで数えて、それに飽きたエイルは出血を抑えるため太ももを押さえた。

 再び見上げた視線のコックローチに群れは、雲の向こうに完全に見えなくなっていた。上空の風が弱まったのか、雲の流れが止まっている。砂の上に落として汚れた綿菓子のように、所々濃い茶色が張り付いた雲は、エイルの手の届きそうな場所にあった。そこに向って右手を伸ばそうとしたが、腕は少ししか上がらなかった。銃口にはちぎれたコックローチの頭が挟まっていた。まだ生きているかのごとく、エイルの顔を見つめていた彼の瞳に戻った光は、だんだんと消えていった。

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