第1章―4

 カンティーネの奥にある扉から通路を進んだところにニトロルームの入り口があった。アンに続いて扉を開けると、部屋の奥は透明な大きな窓になっており、ドーム外の景色が見渡せる展望ラウンジのような造りになっていた。二人は別々に定員一人の分圧カプセルに入ると、それは自動的に立ち上がって音もなく窓際まで移動した。

「すごぉーい! 街のとちがーう。ひとりひとり別で動くやつは始めてだねぇ」

 エイルとアンのカプセルは、セルフェスを使ってアクティブチャネルの回線が開かれていた。何人かで固まってチャネルで話をしている者、一人で窓の外に向っている者。セルフェスがエイルの生体データを読み取って、窒素分圧の調整に入った。圧力がかかり、疲れた身体の筋肉にたまっていた疲労物質を押し流すように、窒素ガスの粒子が血液にしみこみ身体全体を巡った。たちまちじんわり暖かく広がる多幸感にエイルは包まれた。

 アンも目をつむりそれに浸っていた。中生代までの人間は、酒という液体飲料を使ってこの感覚を得ていたらしい。その引き換えに体内で中間生成されるアセトアルデヒドという物質は毒性が強く、人間の活動を大きく妨げていた。エイルたちはそのリスクを犯すことなく、幸福感に酔いしれることができた。ニトロバーは深海にダイビングする人間がかかったという窒素中毒の症状を、安全に人工的に再現する施設だった。

「エイル見て。あれミロって子じゃない?」

 目を開けたアンがカプセルの中でエイルの反対側を指差す仕草をした。

 エイルの左手数メートル向うのカプセルは一人で風景に向っていた。この窓はセルフェスの操作一つで、ライブカメラや擬似空間の画像に変換できるディスプレイになった。ミロの前のディスプレイは、ドーム外の空の風景になっていた。

「エイル。話しかけてみようよぉ。三人のチャネルつなげるよ…………あ、こんにちわぁ。私同じ隊のアンでーすぅ。そしてこっちがエイル」

 ミロは反応してカプセルをこちらの方向に向けた。回線が繋がったのを確認して、エイルとアンもカプセルをそちら側へと寄せた。

「適正な窒素分圧を各個人の耐性に合わせて読み取って、酸素濃度も微妙にコントロールして、中毒にならず、酸欠にならないような絶妙なラインで保ってるわ。妙な減圧症にならないような減圧システムも、しっかりプログラムたすごいテクノロジーですわ!」

 突然話し出したミロの声は甘みがかっていた。街のニトロバーでアンが酸素中毒になって病院に運ばれたことがあった。街のバーにあるのは数人が一緒のカプセルに入るタイプで、分圧耐性の個人差から気分を悪くする者もたまに出ていた。ミロはその原理を饒舌に説明していた。

「ぇ?? あっ?? そうだね」

 アンはミロの様子にたじろいでいた。

「スイードや希ガス類がヘリウムの気流に巻かれて上空で固まり雲になってる。その中で生じたプラズマが太陽光を吸収して、雨にまじり黒々と輝くスイードを降らせているわ。やっぱりここのサイエンスがないと。いつかこの雲が割れた空、いつか見たいですわ」

 ミロは窒素で酔いが回りかなり正体を無くしているのか、うっとりとスイードの嵐の画像を見つめ一人ごちていた。

「そうですね。はい。はい。わかりました」

 アンも酔いが回ってきており、ますます理解することのできない内容を、聞き流すだけで精一杯だった。

「おやすみー」

 しゃべるだけしゃべって一方的に別離を述べたミロは、チャネルと切り離してカプセルを移動させていった。

「びっくりしたねー。あの子あんなにおしゃべりなんだ」

「意外とアンコと気があうんじゃない?」

 エイルのからかいに、アンはカプセルの中で外れるくらい激しく首を振る。 

 アンは開放され胸をなでおろしたのか、カプセルのシートに深く身体を埋めた。エイルも窒素が体中に染み込み、意識が渦巻いてドームの外の空の様子に食い入った。

 何色もの絵の具をパレットの上でぐちゃぐちゃに混ぜこぜにしたような空は、真っ黒になって禍々しい雨を降らせている。嫌だから画面変えるよとアンが言っている。

 エイルは右手を肩から小高い膨らみを経て腰、太ももに這わせた。陶酔に引き込まれ目を閉じると、嵐の中にこの身体を躍らせる自分が瞼の裏に浮かんであわてて目を開いた。

 画面は燦燦と明るい太陽の下、どこか実在しない澄んだ湖のほとりの、緑のどかな風景に変わっていた。湖畔には異形の神アイン・ソフ神が風を浴び凛々しく起立していた。在りし日の光景はもう忘れ去るべき憧憬でしかなかった。それは偶像と並立されても、何の違和感もないくらいありえない物だった。

 シャワーも浴びて部屋に戻ると、マァイのベッドは相変わらず遮蔽光壁が張られていた。声をかけても返事はなく、カンティーネから持ってきたロールパンと、廊下にあったベンダーで手に入れた固形栄養食品の箱を前においた。ミロはまたフローディスプレイを浮かせ何かしていたが、振り返り会釈だけはした。

 明日から訓練で早いからと、エイルはそう言ってまだ話し足りなさそうなアンに引導を渡し寝る支度をした。二段ベッドの下で遮蔽光壁をはると、外部の光は完全に遮断された。

 照明を落とすと、目を閉じているのと同じくらいの闇がエイルを包んだ。仰向けに手を伸ばしても天井には届かない。それはこのドームの中と同じ。何かを掴もうとしていた手を下ろすと、一気にまどろみが忍び寄ってきた。

「エイル。起きてる?」

 落ちていく意識を引き止めるように、アンの声が闇の中を急降下してくる。眠れないのか、エイルの寝床に潜り込んできた。半覚醒のまま身体をひねり背中を向けると、アンはそっと密着してきた。背中にはアンの胸や太ももの質感が柔らかく広がった。

「エイル聞いてぇ。あたしたち今までトーラーとか行って仲良く、わいわいやってきたよね……でも、なんていうか……これからは違う。あたしたちが頑張らなきゃ、ママ達も、エイルのママも、ここに来なかったみんなも、暮らせなくなる。消えちゃうんだよねぇ?」

 キベルに入隊することなく、ただ危機を知らぬふりをして誰かに任せて暮らし続けることもできた。ドームの壁に守られて、母に見守られて、自分や誰かが吐き出した不満や不安が、換気されず充満するここでまたそれをまた吸い込んで。

覚醒の海に戻され浮上していたエイルは、黙ってアンの独白に任せていた。

「あたしぃ、エイルみたいに身体大きくないし、サンディみたいに頭も良くない。でもエイルがいるからあたしここに来たんだよぉ」

 後ろからアンが巻きつかせるようにエイルの身体に腕を回した。ニトロバーの酔いを残しているかのような火照りが身体を包んだ。

「どうしてアンコはいつもわたしのことを助けてくれるの?」

 エイルは再び意識が沈み落ちそうになる前にそう言った。

「……エイルぅ。好きって感情わかる?」

 エイルは触れられてもいない下腹部に、鋭利な熱が集中して持ち上がるのを感じた。

「あたしエイルのことが好きぃ。だからぁ」

 好きという感情はもちろん理屈ではわかる。だがしかしこの欠陥品の身体を抱え、エイルはまず自分が好きになれなかった。ただ違和感だけが何重にもオブラートのようにエイルを包んでいた。こうやって抱きしめられているのに、何かアンの向けてくる気持ちが、本当の自分に触れていないように感じた。

 ただ自分の身体の芯がどこにあるのか、わからせるような熱のありかに戸惑った。エイルは問いかけに一言も答えることもなく、懸命に戸惑いを振り払うように眠ろうとした。やがて意識が逃げるようにアンの腕から転げ落ち、深い意識の底へ落ちていった。

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