第1章―3

 キベル特別区は、スイードの影響から住民を退去させた二地区を改修した広大な敷地をもっていた。エイル達が住んでいた居住エリアにあったそれを、小ぶりにした建造物の前でリニアは終点だった。セルフェスのガイダンスに従って五号棟の302号室に向かった。

 扉を開けると部屋は板張りの正方形の空間だった。配送手配をしていた二塊の荷物がベッドの下に置かれている。片方の荷物からは、アンが好きなうさぎと呼ばれる動物のぬいぐるみが首を出していた。肩よりやや下までの黒髪の女が、奥でセルフェスをフローディスプレイにリンクして何やら作業に集中していた。彼女はメガネ型の視力補助機構を身につけていた。様々な電子ツールを仕込める利点もあるが、装着のわずらわしさから廃れた装置だった。おそらく同じ小隊のミロという人なのだろうが、エイルたちに気づく素振りはなかった。

「ちょっと、そこに突っ立ってないでどいてくれる?」

 背後からの不愉快をしこたまこめた低い声色に、エイルは振り向くより先に弾かれるように飛びのいた。エイルと同じぐらいの上背の大柄の女が扉に右手をかけて、エイルのつま先から頭頂まで視線を上らせていた。

 整った顔のパーツは絶妙にずらされ歪んでいた。頬に斜めに走る大きな傷跡も曲がる。まずそこに目がいった。女は制服を脱ぎ胸の固定着と、トランクスという下着姿だった。くっきりと割れた谷間を象る胸の丸みはそこからはみ出そうで、それにも細かな鋭傷が乗っており、エイルは視線を逸らせてあわててあいさつの言葉を口にした。

「もしかしてマァイさん? エイル・アシュナージと言います。宜しくお願いします」

「アン・コモリでーすぅ」

「あんたたち何で敬語なの?」

 マァイはエイルにそう言葉を投げつけ、後ろに隠れて縮こまっているアンには横目だけくれて自分のベッドに向った。マァイは二段ベッドの下に入り遮蔽光壁を閉め切ってしまった。いつの間にか上のベッドに上がっていたアンが、うつぶせで顔だけ突き出し頭上からささやいた。

「他の地区の人ってぇ変わってるね?」

「マルクトにもいたよ。多分」 

「そうかなぁ。エイルは誰とでも話してたからねぇ。それよりもうこんな時間だよぉ。先にご飯食べにいこーよ。食べるところ下にあるみたいだよ」

 時刻は夕刻を過ぎていた。セルフェスに触れるとエイルの空腹を感知して食堂の位置が表示され、親切にも沈んだ気分まで気遣ったメニューまでもが表示された。

 寄宿舎の一階にある食堂はカンティーネと呼ばれていた。木製を模したイーゼルが入り口に置かれており、掲げられた透明のプレートには、七色に変わるようこその文字が躍り、ただそれだけが歓迎の意を表明していた。奥行きのある長方形の部屋には、白を基調とした新しい清潔感のある長テーブルがいくつも配置されていた。

 キベル特別区に到着したばかりで、行動に選択肢の少ない同期生たちの多くが集まっており席はかなり埋まっていた。まだ制服のままの者と私服に着替えている者。服装は違えども、同じように見える並んだ頭を見渡して、それが欠けて二人ぐらいもぐりこめそうな場所はいくつかあったが、エイルは自分が入ってもいい場所を決めかねた。

「あ! エイルあそこ。サンディだぁ!」

 左端のテーブルで一人食事を取っていた、ブルネットのくせ毛が混じったショートボブを見つけて駆け寄るアン。同じマルクトのトーラーに通っていた顔馴染みは、アンの黄色い声に気づいて寂しそうな表情を無くさせた。

「良かった! 二人とも着いてたのね」

 エイルは前に、アンは隣にサンディを囲むように座った。アンは見知った顔を見つけて嬉しそうに聞いた。

「リニア一緒じゃなかったね?」

「うん。たぶん一つ前のやつだよぉ」

 アンはしきりに周囲を気にしていた。

「他の皆はぁ?」

「何人かあっちの方にいると思うんだけど」

 エイルが頭を振ると、人ごみの中確かに何人か見知った顔を確認することができた。言われないとわからないくらい、皆ここにうまく紛れてしまっていた。

 サンディはすでに食事を取り終えていた。スプーンを置き手元のセルフェスに触れると、トレーごと食器が机の内部が開いて沈むように取り込まれた。

「どんな人と一緒なのぉ?」

 アンは興味津々で、潜りこむようにアンディの表情を覗き上げた。

「一人マルクトの子がいるけど、ちょっと知らない子。あと二人はゲブラーの人だけどあんまりしゃべるような感じじゃないわ」

「やっぱぁ、そうなんだー。厳しそうなところだもんね。頭いいんだろうなぁ」

 アンは向けていた視線を机に落とした。サンディの視線も斜め下の同じ場所に落ち、表情に影が乗った。

 サンディもマルクトではトップクラスの成績を収めていた。ドーム内の地区全てにトーラーはあったが、交流はほとんどなかった。アンはただ沈黙を良しとせず、身体全体を机にあずけながら続けた。

「アンのところはもっと変わってるよぉ。全然しゃべんない子とすうっごく暴力的な子」

 アンは大げさな表現で、ミロとマァイを喩えた。あってもいて、間違ってもいる。

「やっぱりケテル出身者だわぁ」

 アンは十分ためを作って鼻から息を、口から言葉を吐き出した。

「あそこ独自の自治政策をとっていて、よそ者普通は入れなかったわね。ねえ? そんな人達と不安じゃない?」

 サンディは切れ長の目尻の方に瞳を動かせて、エイルに発言を求めた。ケテルはドーム内の地域に中で唯一鎖国的なまでの自治権を主張し、独立の都市国家のような権限を与えられていた。キベル入隊者が特別な訓練を受けているという噂もあった。エイルもそこ出身者と話したのはマァイが初めてだった。

「そうね。でも決まったからには一緒にやらないと」

 エイルは言い含めるようにサンディに微笑みかけ、だらしなく机と一体化していたアンの背中をポンと叩いた。

「去年入ったアリアさん達もここにいたのかなぁ?」

 身体的刺激で身体が伸び起き上がったアンが話題を変えると、サンディも身をかがめて内緒話をするように乗ってきた。

「聞いたんだけど……あっ! 私、紅茶飲むけど、二人とも食べなよ」

「そうね。どうやるのか教えて?」

 食べ物ではなく話題でおなか一杯になっていたアンとは違い、エイルは身体的空腹を強く感じていた。

「うふふ。私、知ってるのよ」と言うような笑みを浮かべたサンディが、自分のセルフェスに触れると、机が小さく開いてレモンが載ったティーカップがせり上がってきた。その動きをまねると、エイルの前には部屋で表示されたままの軽食が、アンの前にはピザトーストとサラダを乗せたトレーが出現した。

「美味しそう! てか、便利すぎるぅ。トーラーで使っていたのよりずっと賢いぃ」

 感嘆とともに瞳孔を大きく開かせたアンは、トーストにかじりついた。エイルは左手でロールパンを掴んだ。配給品と色も形も変わらないそれも、しっとりと吸い付くような手触りで、味は何倍もぎっしり込められたように濃厚だ。サンディはティーカップをスプーンでかき回しながら再び話し出した。

「小隊の人に聞いたんだけど、軍の任務は主に整備工作、行動探索、研究開発の三つに分かれているらしいの。だからアリアさん達も小隊でどれかの任務についているはずよ」

 トーストに集中しているアンに代わって、エイルは「どこにいるの?」と聞きつつスープをすすった。

「普段は別の寄宿舎にいるらしいけど、今は四つある駐屯地で任務についているはずよ」

「駐屯地って、このドームの外?」

「そう。でもどこだかはわからないって。休暇で帰ってきたアリアさん達も何も教えてくれなかったけど、言っちゃだめだって。そういうの軍隊じゃ緘口……指令? かんこうしれいって言うらしいけど」

 エイルはスープのカップを置き、腕組みをしてそれ以上は聞かなかった。

「他の地区の子は色々と知ってるんだねぇ。あたしらやっぱゆとり教育だったのかなぁ」

 やはり話題では腹は満たせなかったらしく、アンはあっという間に二枚のトーストを平らげ会話に戻ってきた。

「ついて行けるかどうか心配……」

 サンディは紅茶に口をつけず、スプーンでレモンを底に、不安な気持ちと一緒に押し付けるように潰していた。

「そんなぁ。サンディで無理だったたらアンはどうなるのよー」

「アンコは元気だから大丈夫だって。エイルも一緒だし」

「うん。まぁそだけどね」

 エイルは二人の意味の無い会話に入ることをためらった。それはスカスカの軽石のように中身がなく、叩き割っても大事なものなんてきっと何もでてこない。

 ――なんて、無駄なことしているのかしら。

 アンの前の空のトレーはいつの間にか机内に収納されて、変わりにストローがついたオレンジジュースのグラスが登場していた。エイルもちょうど食べ終えたところで、出てきたグラスには水が入っていた。

「そうだ、薬。インプランタ……ごめん」

 エイルは母から渡された巾着から、錠剤とインプランタキットを取り出した。スカートを少し下げて、柔らかいわき腹に目に見えないくらい細い針を突き刺した。

「大変ね……」

 サンディは無言で流すのを不自然に思ったのか、ありきたりの言葉で沈黙を埋めてきた。

「いつものことだから、それよりこんな場所でごめんね」

 触れないでいてくれれば良いのにと、エイルの心はささくれ立ったが、それが表情に出ないように気をつけながら針に集中した。

 サンディの哀れみを含んだ冷ややかな視線を頬に感じながら、身体には体温と違う温度の薬液が注入されて行った。それがなじむように段々と体中に広がる。普通に生きられない自分が、なぜキベルに徴用されたのかエイルは分からなかった。トーラーの高学年になり身体は成長したエイルだったが、同じころから母に服用と注射を命じられたこの薬の存在が、幼き日の心の傷跡の延長線上にコンプレックスを形成していた。抜針し顔を上げると、今度はサンディが視線を逸らせた。エイルは自分の身体を呪う気持ちと錠剤を、飲み水と一緒に体内に押し流した。

「あっ! 見て! ニトロがあるよぉ。自由に使っていいんだってぇ! 行ってみよ!」 

 アンの勢いのある声が、重い沈黙をかき消した。セルフェスから飛び出した建屋構造立体の一部が、赤く点滅してその場所を示した。サンディは部屋の人と話すからとアンの誘いを断って席を立った。

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