第1章―2

 エイルが母と暮らしていたマルクト地区の高層集合公団は、半径約八十キロもある広大な円形ドーム国家アルカナの南端に位置していた。居住区は中央府から放射状に広がる都市をぐるりと囲むように林立していた。エイルが居住しているマルクト地区は、ドームの中でも比較的穏健な意思表示をする自治地区だった。

 ドーム国家アルカナは十の自治地区に分かれており、各地区代表の合議制で運営される元老院で国家運営の意思決定がされていた。とは言え、人間たちが正しい選択をしたかは最終的に社会基幹システム・アルカナに諮られる。このドームの建設が始まったときから、人間はアルカナに従って生きており、畢竟、いつしか形成された国家連合の名前もアルカナとなった。首長は形式上一年ごとの持ち回りで選出されており、アルカナと直接対話していた。それは決定の承認を得る形式的なものだった。

 自治体ごとにあるトーラーと呼ばれるロースクールを卒業し一定の優秀な成績を修めた者は、キベルと命名された国軍に推薦され徴用された。各自治地区の思惑が絡んだ中ドーム国家アルカナ初の協同組織は、人類滅亡の危機が肌に感じられる距離に迫ってやっとハイスクールを改編するかたちで創設された。

 それは今からちょうど一五年前のことで、蓋外性生物の襲撃――後の大襲撃という――で大打撃を受け、本来の任務を再び遂行できるようになったのはここ数年やっとというところだった。大襲撃後も蓋外性生物はドーム外壁に散発的にやってきては、キベルの隊員を襲撃し、ドームに外壁に損傷を与えた。ドームは蓋外性生物の襲撃にさらされ、耐用年数の限界が近づいていた。破損した箇所から有害なスイードは、徐々にドーム内に侵入をしていた。ドームを守備しつつ、その蓋外性生物を調査し、排除することがキベルの任務だった。

 キベル本部や議会のある中央府に向かうザインE駅のホームで、エイルは指定されたリニアカーを待ちながらぼんやりと風景を眺めていた。周囲にはマルクトと隣接するイェソドやホド地区から来た白い制服の同期入隊者達が、知り合い同士で固まりおしゃべりで不安な時間を埋めていた。

 頭上の透けた天蓋の向こうには、濃藍色から黄緑に不気味に変化する雲が気流に乗り動き出していた。あれはきっと轟々と音をたてているに違いない。目をつむって耳を澄ませても聞こえないそれは、エイルの胸の動悸に重なった。そこに少しでも近づこうと背伸びをしていたエイルは、不意に腰の肉をつねられ振り返った。

「エイル! ぼんやりなにしているの? リニアもう来るよ! それにしてもエイルは背ばっかり伸びるね」

「……ちょっと! アンコ! いいでしょ」

 見上げるように身をかがめて話しかけてきたのは、幼馴染のアン・コモリだった。成長期に入っても、大きくなるのは背ばかりで、中々膨らまない胸や熟れないお尻を撫でながら、エイルは、針で突いたら弾けそうなくらいのそれらを持ったアンたち同期生との違いを感じていた。ふっくら膨らんだ中はきっとあまぁいそれが詰まっているだろうな。おかっぱボブに包まれた丸顔を揺らせるアンは、親しい仲間たちにアンコと呼ばれていた。

「スカートもいいね。似合っている」

「歩きにくいだけよ」

 そう言ってエイルは指先で、スカートの裾をつまんで揺らせた。

「キベルに行っても、エイルの一番の友達はあたしだからね」

「……うん……」

 わかっている、と継ごうとした言葉が出てこなかった。そう思っていないわけじゃない。いちいち確認に応じ、安心させる行為にエイルは価値が見出せなかった。

 邪魔をされて目を放した隙に、黄色くにごった雲の塊はどこにもなくなっていた。流れる雲のスピードは、外の世界の風の流れ。外から見たら灰色の半球体のドームは、はるか上空から見下ろせばかびて悪くなりかけのお餅のように見えるのだろうか。

 リニアがホームに入って来た。エイルは一両編成の二人がけ席一番後ろの窓側に座った。アンは続々と乗り込んでくる同年代を、通路側の席から背を伸ばし興味深く見回していた。

 リニアは直ぐに出発し、エイルは高速で流れ過ぎて行く窓外の風景を、肘をつき見送っていた。出発してすぐに車窓には、斜めの線がいくつも刻みつけられた。アルカナのプログラムで、決まった日時にもたらされる人工降雨の中、人工植樹林で囲まれた国民公園を大きく迂回するようにリニアは高架上を走った。

 公園の中心では、母が祭壇で祈りを捧げていたアイン・ソフ神の巨大な彫像が、二本足で堂々とした姿を見せていた。幼い子供のころから母に連れられ見上げていたその姿は、上半身を着衣から露わにし、無駄なく隆々とした身体つきをしていた。それはこの世界の人々とは明らかに違う神秘性を持っていた。アイン・ソフ神はドーム国家アルカナの人間なら誰もがつながり縋る信仰の対象だった。

 エイルは雨に打たれる子犬のように小さく力なく、ありもしない存在に向って身を縮める母の姿をずっと見て育った。

「あの母子、毎日来るわね」

「片親なのかしら?」

「セーフネットで暮らしているくせにね」

 公園職員がわざと聞こえるように言った陰口が、幼いエイルの身体に雨以上の冷たさで突き刺さった。傘をさすことも忘れ、必死に彫像に向って何か願をかける母の横にエイルは立っていた。エイルは何も言わず陰口と雨を遮るように傘をさしていた。

 物心ついたころから母は独り身だった。マルクトでは、病気や不慮の事故で配偶者を亡くしたものは、すぐに別の相手を見つけて再婚するのが義務と言っても差し支えないくらい普通のことだった。独り身を続ける者はよっぽどの変わり者として白眼視された。あの雨の日に、なぜ再婚しないのか一度だけ母に聞いたことがあった。母は見たことのない満面の笑みをエイルに向けた後、またいつものようにアイン・ソフ神の彫像をただ見上げていた。

『片親チビのエイル』

 同じ公団の子供達からそうあだ名をつけられ、いじめられたエイルは、確かに他の子供より一回り以上身体が小さく成長が遅かった。その身体的特徴を生む要因を、一人親であることと根拠なく結びつけられた。子供特有の無垢の悪意に毎日さらされていたエイルの前に、

「私がエイルのもう一人の母親よ」

 と敢然と立ちはだかってくれたのがアンだった。

 トーラーに入学し、高学年を迎えたころからエイルの身体は、支えが取れたように大きくなり出した。今度はアンらをはるか追い越し、スラリと伸びたモデルのような長身はむしろ周囲の羨望を浴びた。子供じみたいじめはなくなり、手のひらを返したような好意を向けられるようになっても、幼き日々の原体験は重くエイルの心に傷跡を残していた。

 ――人間はその姿で対象を判断し差別をする。わたし、何もかわってないのに。

 子供でも大人でも、必死に不安や不満を汚い言葉にし、何かにぶつけて揶揄する人間ほど、吐き出した感情が抜け心にぽっかり大きな穴が開く。そうしないと、このドームに満ちた不安と不満に自分が押しつぶされてしまう。だがこのドームに押し込められて生きる人間たちにとって、開いた穴にはまた同じものが流れ込んでくるだけだ。だから何か絶対的なものに、繋がり頼ることでそこを希望で埋めなければ生きてはいけない。

 社会基幹システム・アルカナが国神として定めたアイン・ソフ神は、全ての不安や不満から人間たちをこの閉塞から救ってくれると教えた。振り上げた右手で空から降り注ぐ悪魔を止め、この天蓋をいつか取り除いてくれる。ただアルカナはそう 人間の未来を指し示していた。キベルで進められていた、

 『アイン・ソフ計画』

 いつしか人間たちはアイン・ソフ神に従いこの天蓋を出る。その国家プロジェクトに人々は望みを託していたのだった。

 だが、エイルが母とともに毎日見上げるこのそそり立つ巨大な偶像も、まだこの天蓋を超えることはない。このドームの中から出られない人間達も、この神もいかほどの違いがあるのだろうか。エイルは子供のころからずっとそう考えていた。

 ――みんな同じじゃない。

 ただ笑顔を見せた母は、エイルに聞かせるように神に向ってこう言った。

「あなたは、外にいるのね」

 彫像がビル群に遮られやっと見えなくなり、リニアはドーム中央市街に入った。エイル達キベル入隊者を乗せた専用車両は、駅に停車することなく中央府の建物に向かった。しゃべることがなくなったのか、緊張が充満したのか、二十人ほどの乗員は重力に押さえつけられるように座席に張り付いていた。アンもその雰囲気を敏感に感じたのか、エイルのほうに身体を密着させてきた。アンが「食べる?」と差し出してきた飴玉には「ごめん」と首を振った。

 キベルは各地域から能力に秀でた選抜者で組織され、ドーム内外での特殊任務に就いていた。一定の成績を修め体格が良いエイルが選ばれることを知って、アンも入隊を志願した。もともとマルクト地区のトーラーでは、キベル所定の基準を満たす者は定員割れしており、アンの申し出はあっさり了承され、トーラーの教官は喜んで推薦状を書いたらしかった。キベルではエイルとアン、それにもう二人、他地区の隊員二人あわせた合計四名で一小隊を形成し行動をともにする。事前に知らされたもう二人の情報は、名前と簡単な身体的特徴と出身地区くらいしかわからなかった。

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