第1章
第1章ー1
濁藍色の雲からもうこれ以上なにも落ちて来ないように、押し戻そうと腕を伸ばした。自分自身が浮き上がり、雲の彼方に吸い込まれてしまうのではないかとエイル・アシュナージは不安になりその手を下ろした。
自室の小さな窓からは、いつもの空と無機的な街の風景が見渡せた。
そこからエイルが毎日見ていたのは、空から尽きることなく降り注いでいるだろうスイード(有害花粉)と、環境の変化ですっかり組成を変えたと言われる大気と、外界から遮られた壁の中で細々と生きる人間たちであった。
眼下に広がる居住区の街並みは、広大に広がる透明なドーム(天蓋)で危険な外の世界から守られ、一日中街灯を灯し薄暗さを誤魔化していた。はるか上空をおおう分厚い雲は晴れることなく、エイルは太陽という名の恵みを生まれてこの方直接目にしたことはなかった。何世代もかけて建設された天蓋に閉じこもり、ドーム国家アルカナの住人は命を紡いできた。人々の暗く閉塞した感情がここからあふれ出し、あんな色になって星をおおっているのだろうか。
エイルは吐き出したため息の代わりに、鼻の筋を通すように気体を吸い込んだ。机とベッドと自分を納めて一杯になった部屋の空気は、ここにずっととどまっていたら全部吸い尽くしてしまえそうだった。
机の上に置いていたセルフェス(セルフインターフェース)と呼ばれるモバイル端末のディスプレイに手を触れると、システムがエイルの生体バイオリズムを感じ、飛び出した情報が立体的に投影表示された。ドーム内外の大気の状況、本日の配給の内容といった衆人が必要とするものから、エイルが最近こっていた本や雑貨店のお勧めまでが、同時に目の前に展開された。セルフェスの大きさはA4サイズの用紙より少し小さく、それを十枚くらい重ねた厚さだ。
今日の予定と浮かび上がった文字のところに手をかざすと、情報全てが消えドーム内の立体地図に行き先が表示される。時系列の行動予定も、視線を動かす必要のない場所に表示された。昨日手元に届いた新型ツールは、一般人が使っているそれとは性能とやらがまるで違っていた。ちいさなディスプレイに指先でふれ意識を送り込むだけで思い通りに動作した。
ドーム国家アルカナの住民には、十歳になると個人専用の携帯端末が支給された。それぞれが社会基幹システムとつながっており、息を吸うのにも必要かと感じるくらい皆が当たり前に使う生活ツールとなっていた。
「エイル! もう起きてるの?」
扉を突き抜けて来る母の声に、返事をするのが億劫になり、跳ね返すほどの勢いで扉を開いた。今日は出発の朝、もうしばらく母とは会えないだろう。
「スカート、変になっているわよ。せっかく入隊の晴れの日だって言うのに、ちゃんとしなさい。朝ごはんは?」
「いらない」
キベルの白い制服はめったに身に着けないスカートだった。膝の動きが邪魔にならないように、短くしようと内側で折り曲げたのが雑で、スカートのすそがいびつな段々になってしまっていた。年齢以上に老化が進行して身が縮んだ母は、エイルの言葉にかまうことなく丸いロールパンとコーヒーのマグを食卓の上に置いた。「パンくらい食べなさい。エイルは身体弱いのだから」と母が毎朝の小言を発した。
エイルの目の前に回り込むように、フローディスプレイが浮んだ。ドーム国家アルカナの国営放送が、中央府議会の様子や社会ニュースを流した。
「皆さんおはようございます。今日は都市国家セフィロトから移住が完了した、アルカナ建国三百周年の記念日です」
道理で今日はいつもより騒々しい。毎朝この時間は決まった内容が放送されているが、マネキンのような整った顔をした髪の長いアナウンサーの声も、幾分弾んでいるように聞こえた。
「過去の騒乱の影響による突然変異で、針葉樹たちはスイードを吐き出し続けるようになりました。それは星全体をおおい、いつ果てるともない降下物となって降り注ぎました」
そう。それによってエイルたちはこのドームに閉じこもって生きていた。
「中世代の末期、人類の活動に膨大なエネルギーが必要となりました。核燃料に使用する鉱物資源として採掘したモナザイトを加熱して、大量のヘリウムを生み出す技術が開発されました。もとは大気中にほとんど存在しなかったこの希少ガスは、盛んに行われていた大量窒化農法で減少していた大気中の窒素にとって変わり、私たちに新しいエネルギー源となったのです。しかし窒化農法で強制的に成長させられ、大量の恵みを与えてくれていた植物は、スイードを発生させることで人間に反旗を翻すようになりました……」
アナウンサーが紋切り型の説明を淡々と続けている。スイードが遺伝子構造を損傷させることが判明し、人類が屋外活動を放棄して人工の供給熱源を失うと、モナザイトからのヘリウムの発生量が減りその特有の軽さから成層圏近くに多く集まっていた。対流圏に残された酸素や降り注ぐスイードは有毒なほどその割合を高めた。それでもまだ採掘されて地表にあらわになったモナザイトは、周囲の地熱層による自然反応でヘリウムを生み続け、ドーム外の大気は約三十パーセントのヘリウムを含んでいた。大気中のヘリウムから同位体であるヘリウム3を分離し、それを効率的に循環活用できる新型核融合炉が完成していた。
「本日、従来のD―HE3炉を改良した、循環HE3型核融合炉が完成しました」
記念式典の様子が投影され、元老院代表やキベル総司令官のセレナらが並ぶひな壇を母は食い入るように見つめていた。ニュースの内容はドームの内の社会情勢に移った。
ホド地区とネツァク地区の一部の区域で、スイードの濃度が上がり住民に退去勧告が出た。人々を守るドームは、老朽化と様々な外部の障害から度々破損し、微細なスイードの侵入を許していた。ここ十年、ドーム内の各地区では住めなくなった地域が徐々に増えつつあった。幸いエイル親子が暮らすこのマルクト自治地区は未だ健全であった。
あぶれた住民はこのマルクト自治地区で受け入れることになるのだろうか。国家運営全ては、この国家と同名を冠した社会基幹オペレーションプログラムシステム・アルカナによって最終決定されていた。人々はその決定に異をとなえることはなく、互いにその領分内で争うだけだった。また暴動が起こって血が流れなければいいけれどと、エイルは指先に届かぬ願いを乗せながら、遠隔操作でフローディスプレイを消去した。
最近、母の小言と同じくらいよく耳にするこの手の話題は、エイルの耳を通り抜ける道中で耳障りな寄り道を繰り返し、不満や不安の足跡を胸の内に残していった。
食卓に置かれた配給品のパンは、表面が硬く乾き味わって食べられたものではない。片手でスカートのずれを直しつつ、立ったまま擬似カフェイン剤の入ったマグに口をつけた。リビングにはエイルが生活を共に過ごした家具達が母とともに歳を取っていた。必要最小限の調味料しか背に並べていない食卓、がたつき完全には閉まらなくなった食器棚、開いた洋服ダンスの中には半分ほどしか衣服が入っていない。型落ちのルシフェリン灯は、姿を見せない太陽と同じくらい頼りなく薄暗い。その一つ一つに目をこらして見ても、母以外は昔からその姿は変わらなかった。
台所に入った母は、異形を象った石像を祭る小さな祭壇に向ってさらに身を縮めていた。
「ああ……アイン・ソフ様……どうかエイルに……エイルにご加護を……これからは私一人で生きて行かなければなりません。どうか私にも……もう一度……」
エイルのキベル入隊が決まったという通知を受け取って、顔の皺がなくなるほど喜んだ母だったが、そういった嫌味を言う。「あなたを育てるのにどれだけ苦労したか、大きくなったら私を置いていくのね」と。それがやっと仕方ないと思えるようにくらいになるまでは大人になった。
「行ってきます」
「もう行くの? ちょっとエイル忘れ物!」
玄関で靴を履きかけていたエイルに、追いついた母が、咳き込みながら差し出した巾着は新しく裁縫されたものだった。
「大事なもの忘れてどうするの? 一週間分のお薬とインプランタ(注射器)と。送るから忘れずに飲むのよ! キベルに着いたらどこに送るか必ず連絡頂戴よ! エイルは身体が弱いんだから」
言葉を継げなくなった母が、泣いているのはわかった。そのゆがんだ顔を見ないように、うつむき無言で巾着を奪い取った。
――わたし、やっとここを出られる。
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