第9話「ハエ」

 季節はすっかり夏になり、私は連日の猛暑に喘いでいた。

 じっとりとした汗が背中を覆い、少しずつ雫となって腰の方へと滴り落ちる。その感覚一つ一つが鬱陶しいが、私はそれ以上にフラストレーションを感じるものがあった。


 ハエだ。

 2mmあるかという程度の小さなハエだ。近くにきても羽音はしないし、蚊なんかよりもずっと俊敏で、一度見失えば再び姿を捉えるのは至難の技だった。私はこいつが憎らしくてたまらなかった。


 もっとも、発端は私が風呂場の側溝の掃除を怠ったせいだろう。

 気持ちが悪くて中を確認したくもなかったし、次の休みにでも掃除すればいい。なんていうことを数週間も続けていた。結果的に私は一ヶ月も放置して風呂に入っていた。

 風呂場の壁に2、3匹のハエが止まっているのが日常茶飯事になった頃、私は腹を決め、マスクを装着し、ゴム手袋をはめて側溝の蓋を開いた。


 ひどい有様だった。引っ越した当時にはなかった青カビが生え、ヘドロがべっとりと貼り着き、排水溝からは5匹くらいのハエが飛び出してきた。

 私はその汚さとハエに驚いて、小さなユニットバス空間の中で尻餅をついた。

「これは私の怠慢が招いた惨事なのだ」と反省しつつ、掃除を始めた。


 結果、ハエの量は以前よりかは減った。しかし、まだ何匹か家の中で見かける。それがどうも鬱陶しい。

 私はインターネットでハエの駆除方法を探し、オススメされている駆除薬品を何品か購入し、ハエの徹底的な排除を試みた。


 努力の末、ハエの数は大幅に減り、風呂場でハエを見かけることは無くなった。

 しかし、一匹まだまだ元気なやつがいた。

 煙を炊いて虫を駆除する薬品を使って、用もないのに3時間も外を出歩かなくてはならない大変な努力をしたというのに、これだ。

 私は『奴』を見て、「自らの手で勝たねばならない」と固く拳を握った。


『奴』は私の視界にしょっちゅう現れた。

 目の前に現れては一瞬だけ格闘し、敗北して次の勝負の時を待つ。日々の暮らしの中、そんな習慣が出来つつあった。

 皿洗いの時なんかは胸の前でクルクルと飛び回り、私を挑発しているように見えた。泡だらけで手が塞がっていては対抗のしようがない。私が一番の敗北を感じる瞬間でもあった。


 ある日の夕方、私は読書にふけっていた。

 日が段々と翳り、「そろそろ電灯をつけようか」という頃だった。

 夢中になって読んでいると、本の端の方で、何かが動いているように見えた。

『奴』だ。

 今すぐにでもはたこうと思ったが、本が汚れるのは嫌だ。私は虫の死んだ痕が残っている本がどうも許せない。またしても私は抵抗出来ぬまま、『奴』の動向を監視するしかなかった。

 ついに『奴』が本から私の指へと乗り移った。好機。私は持てる能力全てを使い、『奴』を潰すことに全力を注いだ。時間にして約1秒ほど。まるで『奴』と決闘でもしているかのようだった。


 決闘の末、私の手の甲で動かなくなった『奴』は、コロリと私のズボンの上に転がった。

 私はついに、『奴』に勝利したのだ。清々しい気分でティッシュを一枚取り、『奴』の屍体を回収した。


 ティッシュをゴミ箱に放る直前、私は一瞬だけ『奴』のことを考えた。

 一人暮らしにしては広いこの部屋の中、『奴』と遭遇する確率は割りかし高かった。ちょろちょろと周りを飛び回り、殺したと思えばどこにもいない。

 私は常に『奴』のことを鬱陶しく思っていたが、もう『奴』を見ることはないのだ。

 なぜだか、私は急に「寂しさ」に似た何かを感じた。

 もしかして、『奴』は私と友のつもりでいたのだろうか。周りでちょろちょろと飛び回っていたアレは、単なる「友人同士の悪ふざけのつもり」でいたのではあるまいか。

 ハエと人間が友情を育むことなど想像もつかない。が、もし意思の疎通を図れたなら、可能性はあるかもしれない。少なくとも、殺すことは躊躇するだろう。

 もしも『奴』が私と友のつもりだったのなら、悪いことをしたなと思う。せめて、何か供養の一つでもしてやりたい。

 私は部屋を見回し、何か供養に使えそうなものはないか探した。


 私は「これがあった」と蚊取り線香を取り出し、先端に火をつけた。

 夕日も沈みかけ、外からオレンジ色の光が差し込む薄暗い部屋の中、『奴』と戦ってきたことを思い出しながら、煙を立てる蚊取り線香を見つめていた。


 3分ばかり蚊取り線香を眺め続けた。

 少し冷静になった私は、「いや、これはダメだろ」と呟いた。


 ジリジリと燃え続ける蚊取り線香の白い灰が、ポトリと皿の上に落ちた。

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