第5話「理解」

 事実を理解することは、少しの頭と冷静になれる時間さえあれば誰にだって出来る。

 例えば、何か仕事を失敗した時、「何がダメ」で、「誰が悪くて」「これから何をしたらいいか」を考えれば済む。これが出来ないという人は少し疲れているか、時間に追われ切羽詰まっている人だけである。

 しかし、「感情」を理解するということはとてつもなく難しい。「自分が今どんな気持ちなのか」を明確に意識して生きている人間はほとんどいないだろう。

「今自分は怒っているのか」「疲れているのか」を意識して生きれば、少しは理知的に生きられるだろうが、世間の自身の感情に無自覚な人たちは、無自覚なままにとりたい行動をとり、周りを振り回す。

 周りの人々も身に覚えがあるのでそれを受け入れ、自分の感情の吐け口として当たることの口実に使う。一見感情の押し付け合いに見えるが、冷静に考えれば「感情の取引」のようなものに見える。


「事実」を理解するためには力はあまり必要ない。が、感情を理解するためには膨大な「冷静になる力」が必要になる。事実と違い、自分と向き合う力が必要になってくるのだ。

 人から説教をされ、不満を覚えた時に「正論だとわかっていても納得がいかないのは自分が今『説教をされたこと』に対して不満だからだ」と分かるのにはかなりの精神力が必要になってくる。

 普通、人間が不機嫌な時、そんな論理を構築するために使う精神力はほとんどない。脳内で反芻している悪態を口に出さないようにするのに精一杯だろう。


 だが私は、逆にこうして理詰めで考え、自分の感情のロジックを解さなければ落ち着けない性分だった。

 不機嫌な時に黙っているとストレスがたまる。しかし、私は黙って考え続けなければストレスがたまる。

 いつか私は「なぜ自分はこの思考回路でなければならないのか」と考えたことがあった。自分の行動パターンと思考を組み合わせ、結論を出した。


 私は「考え続けなければ不満だけが脳に残り、不満と回想の堂々巡りに陥る。それを回避するために考え続け、脳内に不満の出る余地をなくす」という中々に情けない、現実逃避に等しい習慣を続けているのだ。

 この小説もその一環である。現実逃避のために脳内で現状を文に書き起こし、自分を登場人物の一人にすることで、現実逃避を試みているに過ぎない。皆さんには、私の自己満足の結晶を読んでいただいているのだ。


 キンコンカンコン、と昼休みの開始を告げる鐘の音が鳴った。私は顔を上げ、現実逃避の一環であるこの小説を締めくくることにした。

 そういえば、私がこの小説を脳内で書いている時はどんな気持ちだったのだろうか。今度説教を受けた時にでも、ゆっくり考えてみるとしよう。

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