プランタン・エンド

カシヤマミノル

序章

春は幻 君は陽炎

 ――――しゃなり、

     しゃなり、


 彼女が歩いたあとには、そんな音が響き渡る。

 幻聴なのかはわからない。風鈴やお遊戯会で使うベルとは違う、上品で、神秘的な鈴の音。静かな神社の境内て、下駄が石畳を踏む音の代わりに打ち鳴らされる不思議な音色。発信源である少女は、他の何よりも神秘的な雰囲気を纏っていて、人ならざるモノのようにも思えた。

 いや、もしかしたら、そうだったのかもしれない。

 今はもう、確かめることもできない。

「かぁごめ、かごめ」

 黒髪の少女が舞うたびに、橙の着物が踊り、ふわりと空気が揺れる。

 彼女の正体は、よくわかっていなかった。

 とても大人びていたので、きっと年上だったのだろう。そして、「ハル」と呼ぶと目を細めて笑っていた。おそらくそれが名前なのだ。彼女はそれ以上何も明かさずに、気まぐれに現れては舞踊の真似ごとをしていくので、彰人はすっかり見惚れてしまっていた。

「籠のなかのとーりぃは、いついつ出やる」

 唄が紡がれる。

 今は朝か、それとも夕暮れか。

 それすらも判別できなくなるくらい、世界は彼女に支配されていた。

「夜明けの晩に、つーるとかーめがすぅべった」

 ちりりりぃん、とひときわ大きな鈴の音。

 それが合図だった。

 彼女が――――ハルが太陽の陰で見せる、幻術のサイン。

「後ろの正面――――」


 しゃなり、

 しゃなり、


 不意に、ハルが彰人の背後に立った。

 静かだった木々がざわめいた。全身が総毛立って、暖かい陽気に満ちていたはずの世界の温度が下がり、首筋をぞくりとなぞる風が背中を押した。

 目の前には何もないはずなのに、まるでハルの白く細い手で目隠しをされているような、柔らかな感触がする。

 そして――――





?」


 ざわ、


 と風が吹き、彼女は消える。

 かすかな残り香。千万と舞い散る桜の花びらだけを、静かな黄昏に残して。

 誰もいない。

 誰も残っていない。

「……ハル」

 だから――、

 だから、名前を呼ぶ。


「――――ハル」

 あの日の風はもう吹いていない。

 彰人が立っているのも神社の石畳ではなく、見慣れた苗字が彫られた墓石の前だ。手には柄杓。墓石に水をかける。自分の服装は、はからずも大人びた喪服になってしまっていて、気づけば彼女の年齢を追い越していた。生い茂る草が揺れている。

「三上くん」

 呼ばれて振り向くと、眼鏡をかけた壮年の男性が彰人を見ていた。

 昔良く遊んでいた神社があって、その近くに住んでいる七薙さんだ。何度もお世話になったことがある。彰人は小さく会釈する。

「いつもありがとう。きっと、あの子も喜んでいるよ」

「ええ」

 かすかに、眉をひそめて。

「僕も、それを願います」


 七年。

 世界が彼女から肉体と、魂と、時間を奪ってから、もう七年になる。

 彼女――七薙ななぎハルは、七年前の二〇〇二年に姿を消した。

 遺体どころか、亡くなった時の所持品さえも見つかっていない。書き置きなどのたぐいも皆無で、二百八十七日に及ぶ捜索もむなしく、行方不明者の墓標に名が刻まれ、やがては死亡認定が出されることとなった。当時は地元で大きな話題になったが、今はもう誰も噂しない。人の噂も七十五日、七年も経った今では、七薙家の人間か俺ぐらいしか墓参りにも来なかった。

「親御さんは、今年も?」

「ああ、選挙だとかなんとか言ってました」

「そうか、そういえば、お役所仕事だって言っていたっけ。大変だね……」

「いえ……」

 ハルの父親、七薙俊彦。彼のことも、彰人はよく知らない

 知らなくていいと思った。名前を呼ぶときは「七薙さん」と呼ぶし、ハルのことはハルと呼ぶ。そして、七薙家の人間は、それだけしかいない。

 七薙家だけではなく、町全体の人口の減少も著しい。

 有間町は、集落の大部分が山と森によって閉じ込められた、分かりやすい田舎町だ。湾岸の漁業、山間部の林業が主な産業。ビルなんて建つ気配もなく、一番大きな建物は、きっと山あいにそびえ立っている電波塔。かろうじてコンビニは存在するが、都会で聞くようなものとは全然違う個人商店だ。町唯一の高校を卒業しても、行き先は家業を継ぐか、夢を携えて上京するかしかない。田舎という名前の型枠があるのだとしたら、有間はどれくらい符合するのだろうか。

「……それじゃあ、僕はここで」

「うん。本当にありがとう、三上くん」

 有間山の麓から住宅地がある地域まで下り、ハルの父親と別れる。


 選択肢は家業か上京しかないと言ったが、彰人の場合、道はひとつしかない。

 父はいつの日か蒸発して、母は役所仕事――有間の人間は「コウボク」と嫌っている、意味は知らない――で忙しなく働いている。役所仕事を継ぐなんて項目はなく、彰人自身もわざわざ忌み嫌われている役所で仕事をする気はなかった。

 だから彰人は、高校を卒業したら東京に行く。

 宛て先なんてない。

 でも、そこにしか道はないのだ。

 三上家の稼ぎ主がコウボクで働いているものだから、その家はコウボクたちの寮にある。電波塔の次に大きな建物だ。同じ大きさの部屋が均等に配置されていて、有間の人たちは「アリの巣を見ているようで気持ち悪い」と蔑んでいた。彰人自身もアリの巣みたいだなと思うことはあった。働きアリの帰る場所なのだから、間違ってはいない。アリの巣が、本当にこんな構造をしているのかは、知らないが。

「……ん?」

 集合ポストを無視しようとして、一瞬足を止める。

 二〇三号室。三上家のポスト――盆と正月以外ほとんどその機能を成していないポストに、何かが刺さっていた。掴んで引き抜いてみると、それは手紙のようだった。

 きっと母親の仕事関係だろう。

 そう思って手にとったが、予想は大きく裏切られた。


『拝啓 親愛なる三上彰人様へ』


「これ、僕宛てじゃないか」

 表面に書かれていたのは、母ではなく彰人の名前。

 手紙なんて人生で一度も受け取ったことがないので、彰人は目を丸くした。学校や研究会の連中から手紙を送るなんて話を聞いていなければ、遠くの都会で文通をしている想い人だっていない。今時誰が、こんな古風なことをするのだろうか。彰人は何気なく、手紙をひっくり返して裏面を見た。

 そして――――少しの間、言葉を失うことになる。




『あなたの記憶で眠るハルより』




 かつての友人の命日に届いた手紙は、

 かつての友人を名乗る者から送られたものだった。




 あの日に似た風が、髪を撫ぜる。

 振り向いた先では、先刻までどこにもなかったはずの桜の花びらが、幾千万の塊となって、優雅に空を舞っていた。

 ひらひらと、濃い朱に染まった花びらは力強く宙で踊り、世界を遮るカーテンとなって顕現していた。足元は瞬く間に花びらの絨毯と化して、青い空、白い雲、生い茂る緑、アスファルトの地面で形成されていた彰人の視界が、みるみるうちに桜色で侵食されてゆく。手紙を持つ手が震える。口は薄く開いたままで、大声で叫ぶことも、息を押し殺すこともできず、ひゅこう、ひゅこうとかすかな呼吸だけが漏れている。視界が潰れる。風に吹かれているわけでもないおびただしい数の花びらは、この空間に存在するただ一人の人間、三上彰人を取り囲むようにして、そして、燦然と降り積もり続ける。


 彰人は、この感覚を知っていた。

 在りし日に、同じような経験をしたことがあった。

 だから呼ぶ。

 声にならない声で、口にする。

 かつて彰人の前に現れた――――少女の名前を。


「ハル」


 ふわりと、強く甘い匂い。

 世界が刹那的に、白い閃光で覆われる。

 次の瞬間――――何もかもがなくなっていた。

 ハルの気配を感じさせる柔らかい風も、幾重にも折り重なった花びらのカーテンも、すべてがたちどころに消失してしまっていた。

 目蓋をこすっても目の前の風景は何も変わらない。区画分けの線が消えてしまった狭い駐車場を、すずめがてんてんと歩いているだけだった。前後左右、どこを確認しても花びらなんて残っていない。遙か上空で、トンビの鳴き声が甲高く響いている。

 本当に、それだけだった。

 桜の花びらなど、ただの一枚も降ってこなかった。


 それでも、彰人は視た。

 世界を塗り替えてしまうような、刹那的な花びらの群生を。

 人一人を隠してしまうような、猛烈な桜吹雪を。

 彰人は思い出す。

 記憶のなかに息づいている、幻覚。

 

 それを見せる少女が、彰人の記憶には今も生きている。

 春の陽気が立ち込める空を見上げて、彰人はぼそりと、しかし確かな声で呟いた。




「ハル、なのか?」




 ――――しゃなり、

     しゃなり、


 静かに鳴り響く鈴の音が、春の始まりを告げていた。

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