第六章 ユニコーンパラダイス




 事件から二日後、僕は学校に復帰した。前の日に退院したばかりでまだ松葉杖姿だったが登校になんら問題はなかった。なぜなら祖母から僕の怪我のことを聞いた「あの人」が暫く車で送ってくれるということになったのだ。自分の怪我がきっかけで大人たちはこれまでにない譲歩をしたらしい。あまりに意外な展開だった。


 迎えに来てくれた彼は見送りに出た祖母にも丁寧に挨拶をし車を出した。ちょっとした沈黙の時間。やがて車が大通りに出ると彼は「喧嘩だって? 勇敢なのはいいけど、ほどほどにな」と言っていたずらっぽく笑った。僕を学校まで送ると彼のオフィスまでかなり遠回りになると言うのに彼は嫌な顔一つしなかった。やはり彼は良い人だ。こんな人にも心の隙はあるのだろうか?


(大人がみんなこの人みたいだったらあんな事件は起きなかったのかもな)


 ユニが溜息交じりにそう言った。彼はあの公園での事件以来少しおかしかった。時々溜息を吐き、僕にばれないように心の奥底で何かを考えているみたいだった。


 車が学校に着いた。「じゃあ、また帰りに寄るよ」と言ってあの人は去っていった。どこか楽しそうなのは気のせいだろうか? こっちは怪我で大変なのに。


 僕もユニに負けじと溜息を吐き、慣れない松葉杖に苦労しながら校舎へと向かった。手足の怪我が同じ側で無くて良かったと心の底から思った。

(図工中の采配だね、ってクレちゃんなら言いそうだな)


 僕がそう言ってもユニは乗って来なかった。「それを言うなら不幸中の幸いだ」という突っ込みを期待していたのに肩透かしだ。突っ込みの義務を忘れた彼はまた溜息を吐いた。まるで以前の僕のようだ。まさか、飼い主に似てしまったのだろうか。


 そんなことを考えているとようやく玄関に着いた。さらに苦労して階段を上り教室にたどり着くとすでに半分近い人数の級友たちがすでに揃っていた。僕が戸を開けた瞬間、その視線が一斉にこちらへ集まった。しかしそれも一瞬のことだった。みんなは見てはいけないものを見たようにぱっと眼を逸らしたのだ。


 僕は戸惑いながら自分の席に着いた。何か気まずい雰囲気の中、数分後、教室に銀谷が入って来た。僕の顔を見た彼はぎょっとした表情を見せた。


「お、おまえ、井山さんをやったんだってな?」


 その一声にクラス中がざわざわとし始めた。なるほど、そういうことか。


「いや、あの、僕も怪我してるし」


 どうしたらいいかわからず自分でもよくわからない言い訳をしてしまった。


「でもさ、あの井山さんと相討ちだったんだろ? すげえよ、おまえ!」


 どこか尊敬に近い眼差しで見つめる彼に僕は戸惑った。そう言えば彼ら三人は以前三対一で井山賢一に喧嘩を売って負けたんだった。その彼に僕は一人で立ち向かい重傷を負わせ病院送りにしたと言う話になっているわけだ。どうも話が大きくなり過ぎているようだ。


「俺さあ、ここだけの話、あいつ、あんまり好きじゃ無くてさあ。でもあいつクソ強いし無理やりお前を苛めさせられてたんだよ。いやあ、すかっとしたぜ」


 にやにやとそう言う彼に対して僕は憐れみしか覚えなかった。やがて越岡や竹原もやってきて口々に彼らの表現で僕を称え始めた。うんざりし始めた頃、ようやく福助がやって来て井山賢一の欠席を告げた。その時一瞬僕と福助は眼が合ったが彼は何も言わなかった。


 そして瞬く間に時間は過ぎた。


 全ての授業が終わり校門の前で「あの人」の迎えの車に乗り込んだ。視線が集まるのがわかったし、小さく「すげえ」という声も聞こえた。なるほど、そう言えばこれはなかなかのスポーツカーだ。決して安くは無いだろうとは思っていたが車に詳しい人間からすれば「すげえ」のだろう。


 すごく嫌な予感がした。猪倉仁悟は井山賢一に喧嘩で勝っただけじゃなく実は意外と金持ちらしい、そんな嘘八百のプロフィールが僕に付かないと良いのだが。


 そんな僕のくだらない心配をよそに「あの人」はまた気さくに話し掛けてきてくれた。家に寄って行かないかと言われて断る理由も見つからなかったのでそうすることにした。母からは喧嘩のことを遠回しに注意され、美優は「にいちゃ」に戻っていた。


 それは久し振りに感じた「日常」だった。


 楽しいひと時だったがご飯を食べて行けと言う誘いを僕はやんわり断った。婆ちゃんに一人で飯を食わせるわけにはいかない。また送ってもらい家の前で車を降り「あの人」に礼を言うと玄関の戸を開けた。そこには寂しそうな顔をした祖母が立っていた。


「お、お帰り、仁悟。怪我は痛んだりしなかったかい?」


「ただいま。大丈夫だよ、このくらい」


「そう、よかった。それにしても遅かったねえ、婆ちゃん、あんたが……」


 そこまで言ってから祖母はぐっと口をつぐみ「な、なんでもないよ」と笑ってみせた。でもその眼は確かに涙ぐんでいるように見えた。「もう帰って来ないかと思ったよ」という続きの言葉が聞こえた気がした。


「……お腹空いたな。今日は何かな? 夕ご飯」


 えっ、という顔で祖母は固まった。


「早く食べようよ。お腹ぺこぺこなんだ」


「あ、なんだ、食べてこなかったのかい? じゃあ、今日は焼き肉にしようかね?」


 少し笑顔になった祖母に僕はほっとした。


 張り切って台所に向かった祖母を見送るともう一人の心配な奴が気になってきた。自分の部屋に入るとすぐに僕は彼に強めの口調でこう話し掛けた。


(どうしたんだよ、ユニ? 昨日の朝からちょっと変だぞ?)


 ユニがこんなに無口になったのは昨日の朝からだった。前日、僕が寝る前に彼は「転がるペガサスとユニコーンパラダイス」の大詰の部分を考えると宣言したわけだが、夢の中で見た物語は中途半端なところで途絶えてしまった。いよいよ真の黒幕が登場し物語は佳境なはずだ。それなのにユニはあの夢以来口数が少なくなりあまり話さなくなってしまっていた。


(ユニ、聞いているのか。あんなに創りたがっていた物語の最終章はどうなるんだよ?)


 僕は少し苛々していた。ついこの間までは何の興味もなく手伝っていた物語。それが今は気になってしょうがないのだ。そんな自分に気が付き僕は驚いた。


(…………)


 いつものような皮肉を待っていたのにユニは何も答えなかった。ついに僕の苛々は頂点に達した。


(ユニ、どうしたんだよ! あんたらしくないじゃないか)


(……俺らしくか。俺らしくとは何だろう?)


 やっとユニが喋った。不覚にもそれだけのことが嬉しかった。


(君は小説を書きたいんだろう? 何で中途半端で止めたんだ?)


(理由は二つある)


(なんだよ?)


(物語が完成すれば俺は成仏してしまうかもしれない。そうなれば君とはお別れになるだろ?)


(えっ!)


 僕は驚いた。彼がそんなことを言ったことに。そして寂しさを感じている自分に。


(でも、まあ、それは大したことじゃない。俺のつまらない気の迷いだからな)


 僕は大袈裟に心の中でずっこけた。


(なんだよ、薄情だな。それじゃあ、もう一つは?)


(俺はあることに気付いてしまったんだ。物語を終えるにはまずそれを解決する必要がある)


(気付いた? 何に?)


(それはまだ言いたくない。言えるほど整理出来ていない)


(ふーん、じゃあ「ころユニ」の最終章は白紙なんだな? ちょっと残念だな)


(おいおい、「ころユニ」ってどっかのラノベみたいだな。勝手に略すなよ。いや、大まかなあらすじはもう出来ているんだ)


(おっ、そうなんだ。気になっているんだよ。ちょっとだけ教えてよ)


(じゃあ折角だから少し話そうか? えー、ペガサスはユニの正体がカウガールだと知りショックを受ける。彼女はペガサスがここまで辿り着くように正体を隠してずっと誘導していたんだ)


(ちょっと待った、質問。カウガールは女だろう? ユニはペガサスの双子の兄弟じゃなかったのか? 意外な黒幕もいいけど、いくらなんでも設定に無理があるんじゃない?)


(ユニはただ角の生えた種じゃないんだ。サンダー博士も知らなかったことだが、彼女、いや、彼は自在に性をチェンジ出来るという特殊な新種だったのさ。その能力と類まれなる美貌、そして天才的な頭脳があったからこそ世界中の財界人を動かし短期間であんな組織を作り上げることが出来たというわけさ)


(なんかご都合主義だなあ。それでそれからどうなるんだ?)


(カウガールことユニはペガサスに協力を求めてくる。ゆっくり絶滅を待つ腐りきった人間たちを一掃し新たな人類を我々の手で創り出そうと。余計な人間のいなくなった世界に自分が生み出した新しい世代のアダムとイブだけが残る。それがユニの思い描いた楽園だった。もちろんペガサスはそれを断る。地下世界でペガサスとユニの戦いが始まるんだが、二人の実力は拮抗し、お互いが傷付け合い、そして……)


(そして?)


(ラストはまだ決めてない)


(なんだ、やっぱりか。もったいぶったくせにまだ考えてないのか?)


(何となく決めているものはある。でも本当にそれでいいのか迷っているんだ)


(悩んでいることがあるなら言ってみてよ。僕には大した力なんてないけど話を聞くくらいなら出来るからさ。それで解決するかもしれないだろう?)


 ユニは黙ってしまった。どうすべきか考えているようだ。僕はじっと彼が答えを出すのを待っていた。返事がないまま時間だけが過ぎていった。


「仁悟、ご飯だよ!」


 ユニの答えの前に祖母の声が先に聞こえてきた。仕方なく僕は台所に向かった。焼き肉の良い匂いに包まれながら僕はテレビを点けた。ちょうどニュースの時間だったようで、ある地域で怪事件が連発しているという特集をやっていた。言うまでもなくこの辺のことだ。


「……何があったんだい? 仁悟」


 ニュースを見つめていた祖母が突然そう呟いた。


「喧嘩って言っていたけど、あんたらが救急車を呼んでもらったのもこの公園だったんだろう? この騒ぎに関係あったんじゃないのかい? あんた嘘吐くと頬がピクピクするからね」


 そうだったのか。今後気を付けなければならないな。


「……ごめん、婆ちゃん。今は何も話せないんだ。話せる時が来たらちゃんと話すから」


 祖母は溜息を吐いた。


「まったく、一丁前の口利いちゃって。あんたもそんなこと言える歳になったんだね。わかったよ、でもそれって婆ちゃんの生きているうちに間に合うのかい?」


「や、やだな、婆ちゃん。長生きしてもらわないと」


「冗談だよ。その日が来るのを楽しみにして生きることにするよ」


 冗談と言いながらどこか寂しそうな祖母に申し訳なく思った。後ろめたさを感じながらの夕食が終わると僕は部屋へと戻った。溜息混じりに椅子に座ると意を決したようにユニが話し掛けてきた。


(さて、仁悟、先程の話だがな)


(うん。話してくれる気になったのか?)


(君には覚悟があるか)


(えっ?)


(俺がこれから話すことは空想に過ぎない。それでもそれを受け止めるには強い覚悟が必要だと思う。それがなければ君は……)


(僕は?)


(君は壊れてしまうかもしれない)


 壊れる? ユニが言おうとしていることはそんなにも恐ろしいことなのか。


(そ、そんな、脅かすなよ。空想なんだろ? そんなの聞いたって……)


(覚悟出来るか、それだけだ。何を聞いても「ぱにっく」にならない自信があるか。冷静に考え、その後どうすればいいか決断出来るか。自分に問い掛けてみてくれ)


 ユニの真剣な口調から内容の深刻さが感じられた。自分はそれに耐えられるのだろうか? 不安からか、毎日毎日「ルール」という名のいじめを受け入れていたあの頃の自分が急に現れた。彼は得体の知れない恐ろしさに負け、うずくまって泣き出す所だった。


(無理はしなくていい。君を苦しめたいわけじゃないんだ)


 ユニの優しい声が聞こえた瞬間、ふっと重石が取れたような感じがした。そうか、今の僕にはユニがいるんだ。彼のおかげで僕は少しずつ変われたはずだ。助けられるばかりではなく、彼が悩むもの、それを分け合いたい。偽りなくそう思えた。僕はぎゅっと眼を瞑った。昔の自分は恐る恐るゆっくりとだが力強く立ち上がってくれた。


(決めたよ、覚悟)


(いいのか? 本当に?)


(うん、気が変わらないうちに頼むよ)


(わかった。じゃあ、始めるぞ。さっきも言ったがこれは単なる推測だ。君は気がついたことがあればどんどん反論してくれ。その方が俺も気が楽になる。では……)


 ユニは話し出した。


 彼はまず自分が導き出した答えについて話した。そしてなぜそう考えたのかを理論付けて説明した。


 話が終わると僕は呆然とした。自分に沸き上がった感情が怒りなのか悲しみなのかよくわからなかった。あれほど強く決心して望んだというのに聞かなければ良かったと激しく後悔した。それでも壊れるどころか、どこか冷静な自分に気付き、僕は自己嫌悪に陥った。


 どうしたらいいかわからず、また時間だけが過ぎていった。





 一ヶ月。


 この時間が短いのか長いのか、それは人それぞれ、その時々で変わるだろう。


 僕にとってどうだったのかと問われると正直よくわからなかった。松葉杖がいらなくなったということはやはりそれなりの時間ではあったのだろう。


 この一ヶ月間、僕は寝ても覚めても同じことを考え、何が正解なのかを探り続けていた。それが○×で解決出来る問題じゃないことはわかっていたが、自分を納得させられる答えを見つけなければおかしくなりそうだったのだ。唯一それを忘れられた時間は「ころユニ」を書いている時だけだった。皮肉なことにあんなに面倒だと思っていたことがいつの間にか自分の存在を支えていた。


 ようやく僕が決意出来たのは鈴歌さんのある「一言」がきっかけだった。実は公園で別れてから僕たちはまだ再会していなかった。もちろん怪我のせいではあったのだがお互いの複雑な感情のせいもあったのかもしれない。


 もっとも直接顔を合わすことがなくても彼女からの連絡自体は何度も来ていた。一度だけ引越し先のマンションについてのお知らせが来た他は、僕や井山賢一の怪我を心配する内容がほとんどだった。本当なら僕に相談したいこともあるはずなのに彼女はこれまで一切それを表に出さなかった。


 その彼女から「会いたい」というたった四文字の連絡が来たのは昨日のことだ。学校が夏休みに入った直後だった。これまでとは違う、シンプルで、それでいて切羽詰まったものを感じさせる言葉に、僕は何か途轍もない「思い」を感じた。


 鈴歌さんは追い詰められているんだ。


 どうすればいいか正直まだ答えは出ていなかったが、それでも会うしかなかった。





 その日、僕は祖母が仕事に行ったすぐ後に家を出た。自転車を漕ぎ出すとふと思いつき試しに左足にグッと力を入れてみた。まったく痛みは感じなかった。時間と共に体は回復するものだ。生物の持つ力に感心する一方で、なぜ心はそれに付いていけないのかと不思議に思った。


 県道の下り坂を自転車は風を切っていった。見えてきた橋。その遙か下には川が見えた。なぜか今日はそれが三途の川には見えなかった。それが果たして良いことなのか今の僕にはわからなかった。


(仁悟さん……)


 橋の丁度真ん中まで進んだ所で声が聞こえた。少年の声、そう、ヘルメスだ。


(久し振りだな、ヘルメス)


 僕の代わりにユニがそう返事をした。


(あなたたちは鈴歌さんにお会いになる気なんですね?)


(うん、そうだよ。……会わなくちゃならないんだ)


 僕がそう答えるとちょっと間があり、ヘルメスはこう言った。


(……気付いたのですね? 真実に)


 そうか、ヘルメスはケルベロスに真実を教えられているのだ。


(ああ、気付いたぜ。「神様は意地悪だ」ってことにな)


 ユニがそう言うとヘルメスはまた黙った。暫しの沈黙の後、その重い口が開いた。


(……待ち受けているものが残酷な現実だとわかっていても、そこに向かうというのですか?)


 返事に困った。正直に言うとそこまで揺るぎない決意が出来たわけではないのだ。今日こうして行動しているのはユニの言葉を借りるなら「出たとこ勝負」に過ぎなかった。


 それでも僕は……。


(鈴歌さんからSOSがあったんだ。だから行かなくちゃ)


(……そうですか。わかりました。ついにその「時」が来たのですね)


 そう言うとヘルメスは再び黙ってしまった。彼の沈黙が肯定なのか否定なのかはっきりしなかったが、僕は一息吐くと気持ちを入れ直し、再び自転車を漕ぎ出した。


 やがて見覚えのある交差点が見えてきた。ここはヘルメスの作り出した幻に最初に襲われた場所だった。そんなに昔のことではないのになぜかひどく懐かしい感じがした。あの時のように着いた瞬間信号は赤に変わった。


(仁悟さん)


 突然の聞き覚えがある声。後ろを振り向くとやはりそこには白い犬がいた。ケルベロスだ。


(おお、久し振りだな。ワン公)


 ユニは勝手に付けたあだ名でケルベロスを呼んだ。


(あの日以来ですね。お二人とも御元気でしたか?)


(まあ、こいつの骨にひびが入っていた以外は至って元気だったぜ)


(全く他人事みたいに言ってくれるな)


(だって他人事だよ。それよりワン公、おまえが現れたと言うことはヘルメスに聞いたんだろう? 俺たちが真相を知ったらしいって)


(ええ、彼に頼んでいたのです。何か動く者がいたら連絡するようにと)


(それで何しに来た? 説得か、それとも叩き潰しに来たのか? 地獄の番犬さん)


(……正直に言うと、そのつもりでした。あなたたちが地獄の意味に気が付いたと言うのならその門が開かないように守るのが私の役目ですから。最悪、戦うことになっても仕方ない、そう思っていた。……でも少し気が変わりました)


(ほお、どうしてだ?)


(仁悟さんのせいです)


 僕は「えっ!」と声を出して驚いた。


(私にはヘルメスを通じてあなたの心が見えています。ユニさんが辿り着いた真相をあなたが知ってからもう一ヶ月経っていますよね? あなたはずっと悩んできたようだ。もしあなたが悩むこともなく鈴歌さんの元に向かおうとしたなら私はあなたを噛み殺す可能性もあった。他の選択肢はなかったですから)


 噛み殺すと言われているのに僕は不思議と恐怖を感じなかった。


(でもあなたは今も鈴歌さんのために真剣に心を削って悩んでいる。そして悩みながらも強い思いを持っていますね? 今のあなたは昔と違う。私はそんなあなたに賭けてみたくなった)


「……君の買い被りかもしれないよ? 自分に何が出来るか、出来ることなんてあるのか、正直わからないよ。君の恐れている結末を止められる自信なんて僕には無いんだ」


(いえ、あなたならきっとやれるはずです。私が、いや、角田翔馬が出来なかったことを君ならやってくれると私は信じています)


 僕ははっとさせられた。最後の言葉はケルベロスではなく「翔馬」の言葉に聞こえたのだ。これまで全く得体の知れなかった角田翔馬に初めて会うことが出来たような気がした。


(私もお供しましょう、鈴歌さんの所に)


(キビダンゴは持ってないぜ?) 


(構いませんよ、ユニさん。私には地獄の結末を見る使命がある、それだけです)


「わかった。一緒に行こう」 


 僕はそう言いながら真っ直ぐに前を見た。


 信号はいつの間にか青になっていた。自転車を漕ぎ出すとケルベロスもその後を付いてきたので僕は走りながら彼に聞いた。


(それにしても犬に元々あった人格、じゃない、犬格はどうなっているんだい?)


(今は眠って頂いています。その方が都合が良かったものですから)


 そんな会話の最中もすれ違う人々が驚いた様子でこちらを振り返っていた。走る自転車を真っ白な犬がリードも付けずに追い掛けているのだ。確かに目立つ光景だろう。


 やがてメールに記されていたマンションが見えてきた。いよいよだ。僕はぐっと唇を噛み締めた。これから目の前で起きる出来事に僕は耐えられるのか。今更ながら自問した。耐えられなくてもやるしかない。自分が傷付くのを恐れていたら彼女のことを守れない。


 改めて覚悟を決めた、そんな時だった。


(おや、この匂いは?)


 最初に気付いたのはケルベロスだった。さすがは犬の鼻だ。


(仁悟さん、マンションの前に……)


 彼がそう言った頃には僕にもその姿が見え始めていた。立ち姿やきらきらした自転車で遠くからでもわかったのだ。


 井山賢一がそこに立っていた。


 なぜ彼がまだ教えていないはずのこのマンションに? 近づくにつれて彼の表情がはっきり見え始めた。じっとこちらを見つめる眼、それは今まで見たことが無いものだった。以前の見下したような眼でもピエロたちに心の傷を触られパニックになった時の恨みがこもったような眼でもなかった。彼の視線は上でも下でもなく僕の心を真っ直ぐ射抜こうとしているかのようだった。


(あいつのセリフが予想出来るぞ)


(何だよ? ユニ)


(きっと「いざ、尋常に勝負だ!」って言うに違いない。いや、その前に「遅いぞ、武蔵」かな? あの表情はやる気満々だぜ)


 確かに彼の雰囲気は決闘場所で相手を待つかのようだった。なぜ彼がこんな所にいるのか、何の用があるのか、皆目見当がつかなかった。


「遅かったですね、猪倉くん」


 ユニの予想とは裏腹に落ち着いた口調で彼は第一声を発した。しかしやはりどこかいつもと違っている気がした。口調はいつものように丁寧でも抑えられない感情が滲んでしまっている、そんな感じだった。


 そして、まさかとは思うが、それは「怒り」に近い感情のような気がした。


「なぜ、君がここに?」


 そう聞いた僕の声は掠れていた。


「鈴歌さんに近付く奴がいたら連絡して欲しいとヘルメスに頼んでいたのはケルベロスだけじゃないということですよ。いつか君が動く日が来ると思っていましたから」


 何だって? いつの間に? 何でそんなことを?


(井山さん、お元気でしたか?)


 ケルベロスは驚きもせず何事もなかったかのように先程と同じ挨拶をした。それに対して井山賢一は少し笑みを浮かべた。


「十日程入院しましたけどね。もう痛みはありません。それより聞きたいことがあります」


(何ですか?)


「ケルベロス、あなたはなぜ地獄の扉を開けることを承認したのかということです」


 僕は驚いた。彼は何を知っていると言うのだ?


(そうか、やはりあなたも気付いてしまったのですね。しかもあなたは仁悟さんとは正反対の考えのようだ。あなたは真実を封印することこそが正義だと思っている)


 そうか、井山賢一は自力で真実に辿り着いたのか。


(あなたの考えは翔馬に近い。もちろん生きていた頃の翔馬という意味ですが)


「翔馬という奴が何を考えていたかなんて僕には関係ありません。興味もない。ただ僕は鈴歌さんを傷付けようとする君たちが許せないだけです」


 公園で彼が言ったことを思い出した。鈴歌さんを好きになりそうだと言ったことは単なる気の迷いではなかったのか。彼の想像以上に真剣な眼に僕は衝撃を受けた。


「真実こそが正しいなんて考えはただの驕りです。傷付く者しかいない真実など嘘にも劣る。あなたたちがやろうとしていることは単なる自己満足に過ぎない」


 井山賢一の言うことはよくわかる。なぜならそれは僕がこの一ヶ月悩み続けたことだったからだ。実際未だに僕の心は揺れていた。


「あなたたちを通すわけには行きません。例え力づくでも止めてみせます」


 確かに井山賢一の力なら僕を止めることは簡単だろう。でもケルベロス相手にはそうはいかない。この前のように仲間を呼び、三つの首を持った彼を倒すことは井山賢一でも難しいはずだ。しかしここで僕らが争うことは絶対に間違っている。それをやってしまえばお互いに何が正しいかわからなくなってしまうだろう。


「僕も最初はそう思っていたよ。終わったことを蒸し返すのは正義なんかじゃないって。そんなことをしても誰も幸せになれないんじゃないかって」


「じゃあ、なぜです!」


「どんなに良い嘘でも嘘は続かないと思ったんだ。嘘が長く続けば続くほどバレた時のショックはひどいものになるはずだ。それを考えたら今しか無いんだ」


「嘘も方便、そうはならないと言うんですか?」


「……昨日鈴歌さんから連絡が来たんだ。『会いたい』って。その一言だけだった」


 井山賢一の表情が変わった。


「きっと鈴歌さんは見えない不安に押し潰されそうになっている。もう猶予はないかもしれない。僕たちが前に進むためのラストチャンスなんだ」


「あなたは受け止められると言うのですか? 真実を知った鈴歌さんを……」


 彼は真っ直ぐに僕を見つめた。それに触発されて僕の決意は固まった。


「うん。この後どんな結果が待ち受けていても僕はそれを受け入れる」


 僕は彼に答えるようにまっすぐ彼の眼を見た。すると彼はふうっと溜息を吐き、次にふっと笑った。


「まったく、いつから君はそんなに強くなったんですか? いや、違いますね、そうじゃない。君は以前から僕より強かった。僕が敵うわけないですね」


 強いとは何なのか僕にはわからない。それでも彼が僕を認めてくれたような気がして少し嬉しかった。


「わかりました。君に僕も賭けてみましょう」


 井山賢一がそう言った時だった。


「わあ、みんなで来てくれたんだ!」


 マンションの入り口にいつの間にか鈴歌さんが立っていた。チェック柄のミニスカートが似合う彼女はゆっくり僕らの方に近づいてきた。


 思っていたよりも表情は明るかったが、それが逆に痛々しさすら感じさせた。


「えへ、なんか嬉しくなっちゃった」


 近くで見る彼女の目の下には以前はなかった隈(くま)があった。僕はどう声を掛ければいいかわからなくなった。


「二人とも怪我はもう大丈夫なの?」


「ええ、僕は平気です。ひ弱な彼はどうか知りませんけど」


 井山賢一がそう言って僕をチラッと見た。


「ぼ、僕だって平気だよ。もうどこも痛くない」


 僕は密かに心の中で「心以外は」と付け加えていた。


「良かった。……じゃあ、行こうか?」


 行く? どこへ? そう思った瞬間、僕は言葉に詰まった。


 笑顔の鈴歌さんの頬をすうっと涙が流れた。


「みんな、私を助けに来てくれたんでしょ?」





 僕たち三人と一匹はあの公園に移動した。ペガサスと戦ったあの場所だ。自転車を駐輪場に置いているとようやく遅れたケルベロスが到着した。いつもながら賑やかな園内にみんな一緒に入っていった。


 僕たちは特に目的地も決めず公園の奥へと歩いていった。リードの付いていないケルベロスは目立たないように僕たちから離れて木々の間を歩き、鈴歌さんはというと僕たち二人より少し先を歩いていた。手を後ろに組みスキップ気味に歩いている様子は一見元気そうだったが、それが見せ掛けに過ぎないことはわかっていた。その証拠にマンションの前で喋った切り彼女はずっと黙ったままだった。やがて僕らの前にあの時に座ったベンチが現れた。


「よし、ここに座ろうよ」


 鈴歌さんがこちらを振り返りそう言ったので僕らはこの前と同じようにそこへ腰を下ろした。この前と唯一違うのは犬がいることだ。彼はベンチの横に座り僕らを見上げていた。


 しかしそれから五分程経っても誰も喋らなかった。僕はふと上を見上げた。葉っぱの間から漏れる光がちらちらと眩しかった。そう言えば確かあの時、桜の話をしたはずだ。鈴歌さんと桜を見る約束をした。僅か一ヶ月前のことなのに恐ろしく懐かしかった。戻りたくても過去には戻れない。それならこのまま僕たちを置いて時間だけが未来に進んで行けばいいのに、そう思っていると当然鈴歌さんが口を開いた。


「あれから何度も同じ夢を見るの」


「夢?」


 思わず僕は聞き返した。


「うん。小さい頃の私が出てきて泣いているの。私が『どうして泣いているの?』って聞くと彼女は私を指差して『あなたが騙されているからよ』って。『私は騙されてなんかいない!』って反論したら『あの女が騙しているんだ』ってすごく怖い顔をして言うの。そこで夢は終わるの」


「あの女?」


「たぶん、ごんちゃんのことだと思う」


 やっぱりそうなのか。ユニが予想していた通りらしい。


「その夢を見終わって目覚めると泣き出したいくらい不安になるの。私、本当のことが知りたい」


 するとそれを聞いたケルベロスがみんなの心に話し掛けてきた。


「それでは会議を開きましょうか?」


 全員が頷いた。僕たちは犬も含めて手を繋いだ。





 僕は「ハッ!」とした。見慣れた暗闇の世界。今までと違うのは白い犬がいることだった。ケルベロスは意識の世界でも犬の姿らしい。ピエロたちが「お手! お座り!」と茶化したが彼はそれを無視して話し出した。


「さて、何から話していけばいいのか……」


 すると迷いを見せるケルベロスに代わりにユニが鈴歌さんに話し掛けた。


「鈴歌ちゃんは真実を受け止める覚悟が出来ているのかい?」


 みんなの視線が彼女に集まった。彼女は一瞬の間の後、黙って頷いた。


「じゃあ、俺が話を進めてもいいかな?」


 ユニがそう言うとみんな頷いた。


「鈴歌ちゃん、ところでごんちゃんの本当の名前はわかったのかい?」


 彼女は首を横に振った。ユニは女神の方に向き直った。


「ごんちゃん、君の本当の名前は『ムネモシュネ』だね?」


 視線を集めたごんちゃんはふうっと溜息を吐いた。


「そうよ。よくわかったわね」


「ムネモシュネって?」


 鈴歌さんが聞いた。


「ムネモシュネは記憶を司る女神なんだ。なぜごんちゃんが自分の名を言うことを嫌がっていたのか、ずっと不思議だった。ギリシャ神話の登場人物たちをひとりひとり思い出しながらそのことを考えていたら閃いたんだ」


「記憶を……、司る……」


 鈴歌さんの顔が真っ青になった。彼女は女神を睨むように見つめた。


「ごん、いえ、ムネモシュネ。あなた、私に何をしたの?」


 女神は真っ直ぐ鈴歌さんを見つめ返した。


「何かをしたわけじゃないの。ただ私の存在そのものによって宿主であるあなたの記憶が封じられて変化しただけ。鈴歌の元の記憶が何であるかは私にすらわからない。ただ覚えているのは自分の能力によって鈴歌を守るという意思だけ」


「記憶が……、変化している……?」


 鈴歌さんの声は震えていた。


「ムネモシュネ、君は鈴歌の記憶が変化しているという事実を知られたくなかったんだろう? 君自身に過去の記憶がなくても、それを知られることがまずいことである、絶対に悟られてはいけないことだ、ということはわかっていたんだね?」


 女神はユニの言葉に黙って頷いた。


「何が……、何が違うの? 何が正しくて何が間違っているの? ねえ、誰か、答えて!」


 鈴歌さんは軽いパニックを起こし始めていた。


「待ってください! 鈴歌さん、落ち着いて」


 井山賢一が呼び掛けた。


「鈴歌さん、今、ここで真実を聞いても、あなたはそれが真実だと確信出来ないのではないですか?」


 確かにそうだ。自分の記憶が操作されていたなどと知ったら自分の見聞きしたことが全て信じられなくなるはずだ。ではどうすればいい? 


「……だったら私が鈴歌から出ていくわ。そうすれば鈴歌は自然と記憶を取り戻せる」


 ムネモシュネは当然のことのようにそう言った。しかし……。


「それは不可能だ。翔馬のカケラであるあなたは鈴歌さんと融合しているのですからペガサスのように宿主から外に出ることは出来ないはずです」


 井山賢一が僕の疑問を代弁してくれた。


「たぶん出来るのよ。全員が揃った今なら。そうじゃないの、ケルベロス?」


 今度はみんなの視線が犬に集まった。


「気付いていましたか。そう、翔馬のカケラが不足無しで全て集まっている今ならそれぞれの宿主と融合している部分を切り離して、元のひとりの人間に戻ることが出来るかも知れない」


 元の翔馬に戻る? でも、それって……。僕は焦った。


「ちょっと待って! それって君たちは消えるってことだよね?」


「そうなるでしょうね」


「そんな、急過ぎるよ……」


 いろんな思いが有り過ぎて僕は言葉を失ってしまった。それを見兼ねたのか、井山賢一がある提案をした。


「ではそれぞれの事情もあるでしょうし、一度現実の世界に戻って宿主とカケラで話し合いをしませんか? 体が無いとはいえ、今のあなたたちはすでに一人の人格です。自分が消えるかどうか自分で決める権利があるはずですから」


「いいこと言うな、賢ちゃん。やっぱり俺らがいないと寂しいんだろう? うるさいとか言ってたのも照れ隠しだったんだな。もう『なすお』じゃないんだから」


「それを言うなら『すなお』や。なんや『ナス男』って。どんな怪人じゃい?」


 ピエロたちの漫才にもいつものキレがなく、どこかカラ元気に見えた。みんな悩んでいると言うことだろう。


 僕たちは一旦会議を中断することに決めた。





 眩しい。でも暑くはなかった。現実の世界には風が吹いていた。


「ごめんね、みんな。私のせいで……」


 髪をなびかせながら鈴歌さんが頭を下げた。


「鈴歌さんのせいじゃないよ。これは僕たちの問題でもあるんだ」


 そう言いながら僕は自分の言葉にハッとさせられた。そうだ、これは自分の問題だ。今、頭の中にいるユニは翔馬のカケラが核になっているとはいえ自分自身でもあるのだ。これはある意味、自分との別れの決意なのかも知れない。


「そうですね、三十分後にまたここに集合と言うことにしましょう」


 井山賢一の提案に僕たちは頷いた。彼は立ち上がり公園の奥に向かって歩き出した。僕も立ち上がった。


「仁悟君、ユニちゃんと仲良いよね? 別れるの辛いんじゃない?」


「うん、まあね」


「ごめんなさい、こんなことになって」


「いや、いつかしなければならない話だったんだ。君のせいじゃないよ。じゃあ、また後で」


 僕はそう言うと入口の方に向かって道を戻っていった。


(君は何を躊躇っている? 鈴歌ちゃんを救うのが君の目的だろう? あんなに話し合ったじゃないか。どんな結末が待っていても鈴歌ちゃんを支えるって)


 ユニは怒っていた。自分が消えるというのに。


(でも、あんた消えちゃうんだぞ? どうするんだよ、「ころユニ」は)


(巻末に未完って入れてくれよ。作者は旅に出ました、とかな)


(そんなわけにはいかないじゃないか! あんたは小説家になりたかったっていう翔馬の未練を引き継いでいるんだろう? いいのか、それを諦めて!)


 僕は目の前にベンチを見つけ、それに座った。ユニは黙って何かを考えているようだった。あんなに拘っていた物語だ。彼だって完成させたいに決まっている。


(……だったら君が続きを書いてくれよ)


 思わぬことを彼は言った。


(僕が!? 無理だよ、そんなの。僕にそんな才能はない)


(生まれ付きの才能の違いなんてものは僅かなもんさ。それに今だって実際書いてくれていたのは君だ。気付いていたか? 最初の頃、君は俺が喋る一字一句をそのまま打っていた。でも最近は自分の表現や言い回しを盛り込みながら書いてくれるじゃないか)


(でも、それは君が物語を考えてくれるからだ。僕だけじゃ出来ない)


(甘えるな、仁悟!)


 ユニの声が胸に刺さった。自分でもわかっている。僕が何を言おうとそれは彼を引き止めるための口実に過ぎない。最初の頃なら考えられなかったことだが僕はユニにずっといて欲しいと思い始めている。彼もそれをわかっているのだ。でもお互い「なすお」じゃない僕たちはそれを言い出せなかった。沈黙が暫く続いた。


(……ペガサスとユニの対決のシーン、その後の物語を俺はこう考えていた)


 ユニが突然「ころユニ」の話をし出した。


(なんだ、ユニ、おまえ、ラストはもう決めているんじゃないか。だったら……)


(壮絶な戦いの末、傷付き合った二人に突然ケルベロスが襲い掛かる。彼は天才的なユニにずっと劣等感を抱いていたんだ。ペガサスは思わずユニを庇ってしまい大怪我を負う。怒り狂ったケルベロスが二人にもう一度襲い掛かろうとした時、突然爆発が起こり彼は死んでしまう。前もって仕掛けていた爆弾をユニが起動させたんだ。崩れ行く地下の研究所でペガサスとユニは寄り添い合い、最後の会話をする)


(どんな?)


(ユニは言う。「ペガサス、私が本当に欲しかったのは君だったのかも知れない。もう神とか人類とかはどうでもいい。君が隣にいてくれるなら」ってな)


(それが物語のラスト……)


(いや、この後に物語は「えぴろおぐ」に向かって続いていく。とても悲しい最後なんだ)


 僕はそれを聞きたくないと思った。これを聞いてしまったら本当に最後じゃないか。これまではユニこそが作者で僕は読者に過ぎなかった。作者と読者の関係は物語が終わった瞬間に解消されてしまう。わかっているはずなのに僕の好奇心はそれを問うた。


(どんな、最後なんだ?)


(研究所が爆発しペガサスたちもいなくなる。ユニの計画は失敗した。つまりテロは防がれたが人類の動物ミューテーション化による絶滅は解決されない。サンダー博士の研究も失敗し、やがて人類の子供たちが生まれなくなり、どんどん世界の人口が減って行く。そしてほとんどの人間が死に絶えた未来の地球。ここからエピローグに入る。誰もいなくなった世界、かつて繁栄していたある都市のスクランブル交差点。そこに横たわる男女が二人。彼らは言うまでもなく最後の人類だ。男は顔だけライオンで女は鯨のような頭部をしている。もちろん彼らはどんなに愛し合っても子どもが作れない。老いた彼らは死期を悟り、ここを自分たち、そして人類全ての歴史の終焉地に選んだというわけだ。二人の安らかな死により人類は終りを迎える。これが俺の考えていた「転がるペガサスとユニコーンパラダイス」の終わり方だ)


 僕は言葉が出なかった。物悲しく良いラストだとは思ったが素直にそう言い切れ無かった。悲し過ぎる。結局人類が滅んでしまうならペガサスとユニの存在は何だったと言うんだ? 生きることは虚しいことで所詮無駄なんだと言われているようで胸が詰まった。


 確かに人をそんな気持ちにさせるのも小説の良いところだろう。現実ではありえない様なストーリーにより読者が普段は考えないようなことを考えさせる。それも大事なことだ。でもこれを読んだ人間は明日から何を思って生きていけばいいんだ? 僕は疑問に思った。


(……納得出来ないって顔だな?)


(ああ、ごめん。いろいろ考えさせられるし良い最後だとは思うんだけど……)


(いいぜ、はっきり言ってくれ。俺だってこの最後には納得してないんだ)


(えっ、でも、あんなに苦労して考えていたラストだろう?)


(そんなことは読む方には関係ない。作者も書き終わってしまえば自分の作品とはいえ読者の一人になる。読み返してみたら自分の「あいであ」に納得出来ないこともあるさ)


(そういうものかな?)


(ああ、だからいま話した案は廃棄しようと思う。後は君に任せるから)


(ま、任せるって、そんな……。僕にはこれ以上の結末なんて考え付かないよ!)


(君なら出来るさ。君だから出来る。君じゃなきゃ出来ない)


(でも、ユニ、これは君の……)


(いや、これはもう『君』の物語だ。君が決めるんだ)


 僕の……、物語?


 そうか、それは「ころユニ」のことだけじゃない。これは僕と井山賢一と鈴歌さんの物語だ。僕はそれに決着を付ける必要がある。


 僕は覚悟を決めた。


(よし、わかったか。じゃあ、戻るぞ)


 ユニの声に僕は黙って頷いた。それだけで伝わった。





 ユニとの話し合いを終えて、元の場所に戻ると井山賢一はすでに帰ってきていた。座ったままの鈴歌さんが僕を見上げた。不安そうな表情。僕は努めて明るく切り出した。


「僕は問題ないよ。いつでも行ける」


 何も言わない鈴歌さんの代わりに井山がこう言った。


「僕たちも大丈夫です。では始めましょうか?」


 そして僕らは手を繋いだ。





 僕は「ハッ!」とした。ひょっとしたらこれで最後かもしれない意識の世界。


「みんな~、聞いてくれよ。賢ちゃん、一秒も迷わず、おまえたちは翔馬に戻れって言うんだぜ?」


「そうや、ひどい奴やで。普通は迷うやろ? こんなかわいいお子さんたちともう二度と会えないんやでえ? せめて五分くらいは考えた振りしろや!」


 この漫才がもう見られないと思うと確かに少し寂しかった。しかし彼は無視した。


「さて、ではどうすればいいのでしょう? 彼らを翔馬に戻すためには」


 それを聞いたムネモシュネが前に出た。


「まずヘルメスを呼ばないと。ヘルメス!」


 彼女が名前を呼んだ。すると突然暗闇に光が差した。初めてのことに僕らは驚いた。よく見ればその光は僕らの頭上に空いた穴から差し込んでいて、次の瞬間、そこから何かが飛び込んできた。それと同時に穴は塞がった。僕らの前に現れたのは小学生くらいの少年だった。


「初めまして。僕がヘルメスです」


 確かに聞き覚えのある声が少年の口から発せられた。これが街の化身の正体か。イメージよりずっと小さかった。


「ついにその『時』が来てしまったんですね? ケルベロス」


「ああ、そうだ、ヘルメス。でも心配ない。鈴歌さんはもう一人じゃない。私たちが無用な心配をする必要は無くなったんだ。これも何かの導きだろう」


「じゃあ始めましょう。言い残すことはない?」


 ムネモシュネがカケラたちを見回しながらそう確認をした。


「あっ、じゃあ、俺は駄洒落を百個ほど……」


「アホか、そんな場合ちゃうわ!」


 クレオビスとビドンはいつもどおりだった。


「鈴歌、大丈夫。自分を信じなさい」


 ムネモシュネが鈴歌さんを優しく抱きしめた。


「仁悟、世話になったな」


 カバの眼には涙が浮かんでいるような気がした。


「ユニ、僕、あんたを……」


「物語は任せたぜ。おまえと会えて楽しかった。お前の心の中は居心地が良かったよ。元気でな!」


 僕は何も言えなかった。


 カバはそのまま前に出た。他の翔馬のカケラたちも同じように前へ進み出た。彼らは輪になって手を繋いだ。どこかで見た光景。そうだ、僕が井山賢一や鈴歌さんと意識の世界に入る時に手を繋いだのと同じ儀式だ。つまり彼らはこの意識の世界からさらなる奥にある世界へ行こうとしているのか?


 僕がそう思った瞬間、彼らの体が光り出した。眩しさに僕は思わず眼を閉じた。そして意識が遠くなっていった。





 僕はぼんやりと目を開いた。風に揺れる葉っぱの影が体を撫でていた。


(あ、あれっ? どうなったんだ、ユニ?)


 返事がなかった。覚悟したことだったのに僕は狼狽えた。


(ユニ! おい、ユニ! もう……、消えちゃったのか……)


 ところがユニの声を待っていた僕は別の声を聞いた。すぐ側から聞こえてくる泣き声。右隣を振り返ると、そこには俯いたまま号泣している鈴歌さんの姿があった。


「わ、私、なんでこんな大変なことを忘れてたんだろう? 私……」


(君のせいじゃないよ)


 突然知らない声が聞こえた。驚いて前を見るとそこには光が浮かんでいた。鈴歌さんも驚いた様子で顔を上げて、それを見つめた。光に照らされているせいか見慣れたはずの彼女の横顔が全く違う人間に見えた。


「翔馬! わ、私っ!」


 そうか、これが、この光が翔馬なのか……。


 鈴歌さんが彼を親しげに呼び捨てにした、そんな些細なことに僕は衝撃を受けた。


(皆さん、ご迷惑を掛けました)


 声が僕たちに向かってそう呼び掛けてきた。なんて穏やかな声だろう。鈴歌さんから目を離し改めて光の方を向いてみた。それはよく見るとこれまで見た光とは全く違っていてギラギラした感じではなくふんわりとした暖かい光のような気がした。


 光に見とれていると突然「わん」という声が聞こえた。驚いて足元をみるとケルベロスが光の方を見て尻尾を振っていた。僕は声を掛けようとして気付いた。それはもはや、ただの犬だった。先程までのどこか人間臭い表情は明らかに消えていた。そうか、やはりケルベロスも消えたのだ。


(今までありがとう。仲間によろしくな)


 翔馬が優しく呼び掛けると、それに答えるかのように「わん!」と元気に吠えた犬は勢い良く向こうへ駆けて行ってしまった。あっという間にその姿は見えなくなった。


(……さて、皆さん)


 翔馬が改まった声を出した。


(仁悟さんも賢一さんもすでに真実に気付いているようですが、細かな部分でわからないこともあるでしょう。これからそれを説明したいと思います。幸いなことに僕にはヘルメスとしての力がまだ少し残っているようです。この力で過去の再現をします)


 そう言った翔馬の光は一瞬強く光った。僕は思わず眼を閉じた。次に眼を開けた瞬間、僕たちは空に浮かんでいた。「落ちる!」と思った時に気が付いた。


 僕の体が無い!


(言うまでもなく、これは幻です。現実のあなたたちの体はちゃんとベンチに座っていますからご安心を。これからお見せするのは過去の現実を再現したものです。……では始めます)


 僕の意識はすうっと下に降りていった。そして眼には見えないが隣に井山賢一や鈴歌さんがいるのがわかった。ここは今まで自分たちがいた公園のようだ。だがどこか違っていた。


 ……そうか、季節だ!


 アスファルトには枯れ葉が散乱していた。これは秋か? さらに下まで降りた所でべンチに誰かが座っているのに気が付いた。あれはいま僕たちが現実世界で座っているベンチだ。俯いていて顔は見えないがすぐに誰なのかわかった。


(誰か、助けて……)


 その声はベンチの人物から聞こえてきた。その声には聞き覚えがあった。僕は隣にいるはずの見えない彼女の方を振り向いた。見えなくても彼女が驚いているのがわかった。


 もう一度ベンチの彼女の方に視線を戻した。そう、これは過去の鈴歌さんの声だ。しかも口から出された声じゃない。僕らはいま過去の彼女の心の声を聞いているのだ。声だけではなくその押し潰されそうな思いまで伝わってくる。思わず目の前の彼女を慰めてあげたくなったがそれは出来なかった。あくまでこれは過去の記録の幻なのだ。


 切ない気持ちになっていると向こうから誰かがやって来るのがわかった。僕にはそれが誰なのかはっきりわかった。角田翔馬だ。


 そうか、これは彼らの出会いのシーンか。


 僕はそれを見守ることにした。





(誰か、助けて!)


 どんなに心の中で叫んでも誰にも届かない。そんなことは鈴歌もわかっていた。だが実際それを声に出したら大変なことになることもわかっていた。これは絶対に母にだけは聞かせられない声なのだ。シングルマザーで頑張ってきた母が信じている今の幸せ。それを壊してしまったら退院したばかりの母にどんな影響を与えるか、それは想像したくない。


(死にたくても死ぬことも出来ないんだ……)


 ぼんやりそんなことを思っている時だった。足音が聞こえ鈴歌は顔を上げた。何気ない行動だったが、足音の主とばっちり眼が合ってしまった。思わず彼女は挨拶をするように頭を下げた。


「……あの、失礼ですけど、どなたですか?」


 上下ジャージを着た少年はそう聞いてきた。


「あっ、ごめんなさい。知り合いじゃないんです。眼が合っちゃったから思わず……」


「ああ、条件反射か。さしずめ僕の顔は犬の餌ってことですね」


 鈴歌は意味がわからずぽかんとした。


「僕はよくある顔なんです。平均的って言うか、どこにでも居そうな日本人の代表です。だから僕の顔を見た人はどこかで会ったと勘違いをして挨拶しちゃうんでしょうね」


「は、はあ」


 よくわからないまま鈴歌は相槌を打った。おかしな人だ。おかげで少しだけ気が紛れた。久し振りに心が軽くなった気がした。


「……あの、初対面の人にこんなこと聞くのは失礼だと思うんだけど」


「えっ、な、何ですか?」


「君は何をそんなに悩んでいるんですか?」


 鈴歌は絶句した。なぜわかったのだろう? 目の前の少年は何者なのだ?


「僕も君のような、そんな眼をしていたことがあったから……」


 彼は角田翔馬と名乗った。鈴歌と同じ学年でクラスメイトから今でも酷いいじめを受けているのだという。一年の時にいじめられていた気の弱い同級生を助けたのがきっかけだったらしい。その彼は結局転校してしまい矛先が翔馬に向かったのだ。でも彼は全く悲観していなかった。


「……なんで、我慢出来るの? そんな辛いことを」


 悲惨な状況なのに目の前の少年は全く俯くことがない。それは今の鈴歌にとって信じられないことだった。


「夢を見つけたから。僕は物語が好きでね。小説家になるんだ」


 キラキラした眼でそう言う彼に鈴歌は惹かれた。「なりたい」ではなく「なる」とはっきり言った彼。今時こんなに純粋に夢を信じている人間がいるなんて……。


 それから鈴歌と翔馬はこの公園で会うようになった。他のどこへ行くわけでもなくこの公園のこのベンチで待ち合わせ、座り、ただ喋るのだ。ところが会話と言っても喋っているのは九割方、翔馬の方だった。


 彼は鈴歌が俯いていた理由を聞かなかった。自分が書こうとしている世界中の神話をごちゃ混ぜにした物語のアイデアやそれにまつわる薀蓄を熱っぽく語って聞かせるだけだった。そして鈴歌はそれに相槌をうつだけ、そんなやりとりが続いた。それでも彼女にとってこの時間はだんだんかけがえの無い時間になっていった。


 唯一安らげる穏やかな時間。 


 それが恋だと気付いたのは数カ月経ってからだった。

 



(やっぱり彼はストーカーなんかじゃなかった)


 仁悟はユニの予想の正しさを知った。





 その日もいつものように鈴歌は翔馬を待っていた。ふと見上げると桜の蕾がほんのり赤かった。春が近いことを感じ、鈴歌はじっとそれを見つめた。


 あとで考えればそれがいけなかったのだ。なぜか涙が止まらなくなってしまった。そこに翔馬がやってきた。驚いた彼は優しく理由を聞いた。それは彼にだけは知られたくないことだった。


「言えない」


「どうして? 一人で抱え込んでいたら君は壊れてしまうよ」


「あなたには、あなたにだけは嫌われたくないの!」


「……君が何を話そうと僕は君を嫌いになんかならないよ。僕も一緒に抱えるから」


 鈴歌は翔馬の強い眼を信じることにした。


「私の今の父は義理の父なの。シングルマザーでひとりで苦労してきたお母さんに出来たすごく優しい恋人で二人が結婚するって聞いた時は私も本気で嬉しかったわ。でも母が出掛けたある日あいつは私に迫ってきたの。豹変して本性を見せたあいつに私はすごく驚いた。体を触れられて私は必死に抵抗したけど、あいつが耳元で言ったの。『俺はお前の母親なんて愛していない。最初からおまえが目当てだったんだ』って。頭が真っ白になって何も考えられなくなって動けなくなった。そしたら、あいつ、『こんなことお母さんに知られてもいいのかな? ショックで倒れてしまうんじゃないか?』って……」


 涙が止まらなかった。このまま干涸らびてしまえばいい。そう思った鈴歌の肩を翔馬が優しく抱いた。何も言葉は無かったが、それが逆に嬉しかった。




 それからさらに数週間後、同じ公園で会っていた二人の前に突然、利秋が姿を現した。驚く鈴歌に彼はニヤニヤと笑い掛けた。


「なんだ、最近どうも様子が変だと思ったら男が出来やがったのか」


 怯えた鈴歌の前に翔馬が庇うように進み出た。


「あなたが鈴歌さんのお義父さんですね。なぜ、あなたは彼女を苦しめるんですか?」


「へえ、おまえ、こいつに俺との関係を話したのか。こいつは驚いた」


 腹を抱えて笑う利秋に翔馬は必死に怒りを押し殺し頭を下げた。


「彼女をこれ以上苦しめないでください。お願いします」


「ほお、惚れた女のために頭を下げるってか。偉いねえ。ま、今日は俺も忙しいんでな。今度、家でゆっくり話そうじゃねえか。今後のことって奴をよ」


「ま、待って! 家で、ってお母さんが……」


 鈴歌は慌てた。母親には絶対知られてはならない。


「心配するな、俺も馬鹿じゃない。あいつが医者に行った時にしよう。たまには友達に会って来いって言っとくからよ。その後に街で待ち合わせて食事しようって言っとけば帰ってくることはないさ。俺は会社を早退しておまえらとの話が終わったら何食わね顔でお前の母ちゃんを迎えに行く。それでいいだろ? じゃあな」


 一方的に言いたいことを言って立ち去ろうとする彼を翔馬は呼び止めた。


「待ってください! あなたは『ぴい』を解放する気はあるんですか?」


「はあ? 何だ、『ぴい』ってのは?」


 翔馬は「しまった」という表情をした。思わず二人の間での呼び方が出てしまったのだ。


「おまえ、こいつのことを『ぴい』って呼んでんのか? なんだそりゃ、どっから思い付いたんだ、そんな変なあだ名」


「あなたには関係ないでしょう」


「いや、関係あるね。教えろよ、言わねえと……」


「わ、わかりましたよ。鈴歌さんは鈴の歌って名前でしょ? それで鈴の音は『リン』だから、『りん』の元素記号の『P』って呼ぶことにしたんです」


 会うようになって一ヶ月経ったある日翔馬は急に彼女をこう呼び出した。最初は「すず」という名前から「Sn」という元素記号を連想したらしい。でも呼び難いから「ピー」にしたと言って彼は笑った。変な呼び名だとは思ったが鈴歌は嬉しかった。二人だけの呼び名がある。そんな些細なことが楽しかったのだ。


「ふうん、なるほど、じゃ俺もこれからは『ぴいちゃん』って呼ぼうかな?」


「やめて!」


 鈴歌は涙を浮かべながら叫んだ。本気で嫌がっている顔だった。


「ふふ、いい顔だ。じゃあな、ぼうず。今度、家で待ってるからよ、」


 そう言って利秋は帰っていった。鈴歌は翔馬の胸で泣いた。


「大丈夫。絶対あいつを説得してやるから。あいつだって社会的な立場とかあるんだろうし、それをうまく交渉の材料に使えば誰も傷付けないで解決できるはずだよ。僕に任せて」


 鈴歌は翔馬を信じることにした。


 そして運命の日は訪れた。





 学校から戻った鈴歌はすでに帰って来ていた利秋と翔馬を待っていた。利秋はベランダに出て煙草を吸っていたが苛々した様子で部屋に戻った。


「遅いな。愛しの彼はいつになったらお出でになるんだ?」


「……そろそろ来ると思う」


「そうか、じゃあ……」


 ドンと利秋は鈴歌をソファに押し倒した。


「な、何するの!」


「ちょっとあの正義感ぼうずに見せびらかしてやろうと思ってよ。大人ってのを」


「や、やめて」


「俺はおまえのその怯えた顔が好きなんだ。あいつにも見せてやれよ、ぴいちゃん」


 その呼び方がついに鈴歌の理性を壊した。彼女は隙を付いて起き上がると利秋の足の甲を思い切り踏み付けた。「うっ!」と叫び怯んだ彼の横をすり抜けた彼女の目に真っ先に入ったものは台所に置いてあった包丁だった。彼女は何も考えず反射的にそれを手に取った。振り向くと表情の一変した利秋が立っていた。


「お、おい、待てよ。そんなことをしたらお母さんが悲しむぞ。いいのか?」


 鈴歌の眼にはもはや包丁の切っ先しか見えていなかった。


「やめろよ、冗談だろ、なっ?」


 鈴歌は迷いなく思い切り突っ込んだ。我に返った時には包丁は手から離れていた。いつ倒れたのか、床には利秋が転がっていた。何秒か、何分か、鈴歌がじっと見つめる中、「う、うう……」という声を漏らしていた彼はやがて「利秋だったもの」になった。


 そこにチャイムが鳴った。鈴歌はゆっくり玄関へ向かった。ドアスコープの向こうには翔馬が立っていた。鍵を開けた彼女の顔を見た彼は眼を見開いた。


「ど、どうしたんだ、ぴい? おい、しっかりしろよ、……あっ!」


 語り掛けても無表情な彼女の向こうに翔馬は利秋の死体を発見した。駆け寄って脈を見てみたが無駄だった。鈴歌の元に戻った翔馬は彼女の頬を引っ叩いた。彼女の眼に光が戻った。


「はっ! はあ、しょ、翔馬! どうしよう、どうしよう?」


「落ち着くんだ。これは正当防衛だ。そうだろう?」


「でも警察に取調べされたらこいつの本性がお母さんにばれちゃう。お母さん、本当にこいつを愛してたのに……。こいつのやっていたことや私がそのせいでこいつを殺したことを退院したばかりのお母さんが知ったら身体が……」


 翔馬は様々な可能性について考えてみた。


 死体をどこかに運んで隠せないか? 中学生の自分たちでは難しい。強盗か何かの仕業に偽装出来ないか。第三者のせいにするには目撃者がいないという問題がある。


 そこで閃いた。ここに来る途中で会ったおばさん。マンションに入る自分を不審者でも見るような眼で見ていた。あれこそ目撃者だ。


「……こいつの携帯はないかな?」


「えっ、うん、背広に入ってると思うけど……」


 翔馬は恨めしそうに見上げる利秋の背広のポケットから携帯を取り出した。いろいろ確認してみると会社の同僚らしい人物から「娘さんのストーカーとはうまく話付きましたか」と連絡が入っていた。これは使える。都合の悪い情報が残っていないか心配だったがうまくいきそうだ。


「僕の方がストーカーか。ふざけた奴め。でも好都合だ」


 翔馬はハンカチで自分の指紋を拭き取ると利秋の指紋をスマホに付けてから死体のポケットに戻した。そして今度は素手で目の前の包丁の柄をぎゅっと握り締めた。そのまま、さらに深く突き刺してやりたい気持ちを必死に抑え、彼は鈴歌の元に戻った。


「いいかい、よく聞くんだ。僕は君のストーカーだった。母親に心配を掛けたくなかった君は彼に相談した。今日、君と彼は僕と会い、そのことについて話し合う予定になっていた。ところがその途中、彼と僕は口論になり逆上した僕が彼を刺したんだ」


「ちょ、ちょっと待って、なに言って……」


「僕が彼を殺したんだ。彼は義理の娘思いの立派な人物だった。妻に心配を掛けまいと彼女に内緒で娘のストーカーと話し合い、娘を庇って刺されたんだ。それがこの物語。誰も傷付く必要はない。君がそう証言すればいいんだ。それだけだ」


「だ、駄目だよ! そんなの、絶対駄目!」


 あとは「覚悟」だと翔馬は思った。警察に捕まった僕は嘘を吐き通せるだろうか? 鈴歌も母親のためにこの卑劣な男が英雄だったと嘘を付かなければならない。その覚悟を彼女にさせる方法をゆっくり考えている暇はない。彼女がこいつを殺した時間と僕が来てからの時間が開きすぎれば警察は疑問を持ってしまうだろう。


 やるしかない。


「ぴい、君と会ってから楽しかった。僕の夢を聞いてくれたのは君だけだったから」


「な、何? 言ってることがわからないよ、翔馬」


「君は覚悟しなくちゃいけないんだ。それを僕が与える。……お母さんを大切にね」


 幸いなことかどうかはわからなかったがベランダへのサッシは開いていた。覚悟を決めると逆に色々な思いが沸き上がってきた。それを押し込め翔馬は走り出した。


「あっ! ああ! いやあああ! やめてえええ!」


 彼が何を考えたか、ようやく理解した彼女が叫んだ。しかしその瞬間に彼は跳んでいた。物体が十数メートルの高さから地面に到着するまでの時間は短い。その刹那の間に翔馬は五つのことを考えた。


 親孝行出来なかったな。小説家になりたかった。でも僕は「ぴい」を守らなくちゃ。彼女の罪を封印してあげたい。そのためにも自分は罪をかぶって絶対死ななければ。


 地面がすぐそこに見えた。そしてその側に人の姿も見えた。五つの思いを抱えたまま彼は激突をした。一瞬の痛みと共に体ではない自分にひびが入ったのを感じた。それが完全に五つに割れた時、翔馬は自分が「翔馬としての自分」を保てなくなったのを感じた。


 カケラの一つはすぐに鈴歌の元に戻った。気を失った彼女を知らないおばさんが介抱しているところだった。カケラは自分が何者なのかすでに思い出せなかったが鈴歌を守らなければという強い思いだけ覚えていた。


 彼女を守る最大の方法、それは彼女の記憶を改竄してしまうことだ。


 そうすれば今後彼女が罪悪感に悩まされることもない。僅かに覚えているかつての自分の最後の思い付きを成功させられる。自分はそのために生まれてきた記憶の女神ムネモシュネ。


 カケラは彼女の中に入り込んだ。





(お帰りなさい。物語は終わりです。あとはあなたたちも知っている通りですから)


 ふと我に返ると僕たちは現実の世界に戻って来ていた。


 やはりそうだった。僕たちの推理は合っていた。ユニは翔馬としての記憶が戻ったわけではなかったが自力で気が付いたのだ。


 知らず知らず込めていた自分の物語の暗示に。


 夢判断が見た夢から本人も気付いていなかった無意識を暴くように、小説も作家本人が意識しない何かを映し出しているはず。そして「ころユニ」、その黒幕はカウガールだった。ならばシンクロする現実の事件の真犯人も女性なのではないか。そんな一見馬鹿げた考えをしてみた時、数々の違和感が全て説明されてしまったのだ。


 翔馬が話し掛けてきた。


(僕にとって誤算だったのは利秋さんの魂が成仏せず記憶を無くして暴れまわってしまったことです。彼は『ぴい』という言葉だけ覚えていたみたいですね。それで『ぴいが刺す』って喚いていたんです。それにもう一つの失敗は僕の「死ななければ」という思いを強く受け継いでしまったヘルメスの存在です。記憶のない彼が鈴歌さんまで襲おうとしたのは僕にとって本末転倒でした)


 鈴歌さんは泣き続けていた。それこそ干涸らびてしまおうとしているようだった。


「君の魂はなぜ分裂なんてしたんですか? それに利秋さんはなぜあんな能力を? 死んだ人間は皆あなたたちのようになる可能性があるのですか?」


 井山賢一が光に向かって矢継ぎ早に問い掛けた。


(いえ、二度とこんなことは起きないでしょう。僕や利秋さんが死んだ時に丁度あの場所で偶然システムトラブルがあったらしいのです)


「システム?」


(ええ。ヘルメスだった時に「彼女」が教えてくれたんです。あっちの世界のことを)


 あっち? 彼女?


 そう思った僕たちは同時にいつの間にか目の前に現れた女性に気付いた。


 誰だ? どこかで会ったことがある。


 そうだ! 井山賢一が鰐パパと対決していた時に薬局から出て来たおばちゃんじゃないか!


 そうか、僕たちは偶然助けられたわけじゃなかったのか。


 彼女は優しく翔馬に微笑み掛けた。


(はい、わかっています。さて、皆さん、僕はもう行かなければなりません。迎えを待たせてしまったので)


「ま、待って、翔馬! 私、いったいこれからどうしたら……」


 それまで泣いているだけだった鈴歌さんが叫んだ。するとそれを待っていたかのように笑顔のおばちゃんの姿が翔馬と同じ光の玉に変わった。そして二つの光は並んでゆっくり上へと上がっていった。


(利秋さんは僕が一緒に連れて行きますからご心配無く。……ぴい、君はもう一人じゃないだろう? 大丈夫、きっとみんなが助けてくれるよ)


「待って! ずるいよ、翔馬! 私も連れて行って!」


(駄目だよ。君を必要としている人がまだいるんだ。幸せになってね、ぴい……)


 光はやがて太陽が光る空へと消えてしまった。僕たちは暫くの間、呆然と空を見上げていた。





「……じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」


 井山賢一がそう切り出した。どのくらいのあいだ僕らはこうしていただろう?


「ピエロたちから聞いたんです。僕が眠っている間、両親は僕のことをすごく心配していたって。この子のためにもちゃんとやり直そうとか言っていたらしい。今更とは思いますけどね。……じゃあ、あとは君に任せますよ、猪倉君」


 翔馬のカケラに変えてもらったのは僕だけじゃなかったようだ。井山の背中を見ながら僕はそう思った。


 視線を鈴歌さんに戻すと彼女はまだ空を見上げながら泣いていた。


 僕は思った。自分は翔馬のように彼女のために命を懸けることが出来るのか。答えはすぐには出なかった。でも、偽りのない感情がここにあることだけは確かだった。それで充分だ。


「鈴歌さん、僕は」


 彼女は僕の方を見てくれた。


「君が空ばかり見ないようにしてみせる、いつかきっと」


 僕がそう言うと彼女はぽつりと呟いた。


「……わたし、人殺しなんだよ?」


 正直言えば一瞬「どきっ」とした。でも、ごんちゃん、いや、ムネモシュネのおかげで僕は本当の鈴歌さんを知っている。だから迷うことなど何も無かった。


「だったら罪滅しに二人の人間を救えばいいじゃないか。僕と、それから、君と」


 おそらく人生において最初で最後になるであろう臭いセリフを言いながら僕は鈴歌さんをそっと抱きしめた。


 ユニとの約束だったからではなく自分の意志で。





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