第五章 転がるペガサス
午後一時半。暗闇の世界。
僕たちは手を繋ぎ、意識の世界に来ていた。まだ現実世界の体はハンバーガーの匂いの中だ。
「ああ、何か久し振りだな、この会議」
ユニがそう呟いた。
「全く、ヘルメスって奴には参ったね。あんなリアルな『鰹節』見たこと無い」
「それを言うなら『幻』や! ま、ぼ、ろ、しっ! 『し』しか合ってないやろ! ボケが荒いわ!」
クレちゃんたちのつまらない漫才さえ今は懐かしい感じがして僕はちょっと緊張がほぐれた。
「それでこれからのことですけど、皆さんはどう思います?」
井山賢一の問いかけに最初に答えたのは意外なことに無口なごんちゃんだった。
「そいつは鈴歌に復讐するって言ったんでしょう? 退治するに決まってるわ」
長い髪を掻き上げながら彼女はそう言った。僕たちが通り魔探しをすることに反対していた彼女が真っ先にそう言い出したことに少なからず驚かされた。
「ペガサスが鈴歌を襲おうとしているなら彼は敵ということになる。私の願いは鈴歌を守ることよ。そのためなら先手必勝だわ」
なるほど、攻撃は最大の防御というわけか。
「では話を整理しますね。おそらくペガサスはヘルメスが中立の立場になったことにもう気付いたはずです。鈴歌さんも自由になったわけですし、かなり怒り狂っていると思われます。でも彼は僕と同じで『ルール』を守ることに縛られたタイプのようですから意地でも約束は守るはずです。つまり彼の潜んだ人間を見抜き、ぶん殴れば僕らの勝ち。逆に襲われたり、六時まで決着を付けられなかったらゲームオーバーです」
井山賢一はたんたんと状況を説明した。そこにユニが口を挟んだ。
「賢一、君はやっぱり近づいてきた人間を全部ぶっ飛ばす作戦なのかい?」
「ええ、もちろん。そうでもしなければこちらがやられます。これはそういうゲームでしょう?」
それに対して僕は異を唱えた。
「でも手当たり次第にそんなことやっていたらさ、ペガサスに会う前にこっちが警察に捕まっちゃうんじゃない?」
「その時は警察でも殴りますよ」
彼は冷たくそう言い放った。
「うわあ、段ボールもの!」
「そうそう、軽くて丈夫でね、ってそれを言うなら乱暴者や!」
相変わらずボケ続ける双子にユニは呆れた様子でこう言った。
「……ちょっと黙っててくれるかな、芸人兄弟」
「何や、その言い方! じゃあ、おまえは良い考えあるんか? 短角カバ」
「俺はユニコーンだよ! うむ、まあ、考えと言われても困ったな。出たとこ勝負だろ?」
「……私に考えがあるわ」
そう言ったのは鈴歌さんだった。
「あいつの狙いは結局、私でしょ? だったら私が囮になればいいのよ」
「駄目だよ、そんなの危ないよ!」
僕の声はつい大きくなっていた。みんなの視線が集まり僕はちょっと顔が赤くなった。
「ありがとう。でも私がやらないと……、いえ、やりたいの」
「で、でもさ……」
僕はみんなの顔を見渡した。他には誰も彼女を止めようとはしなかった。ごんちゃんさえも。
「危ないけど確かにチャンスはそこしかないですね。僕と仁悟君でしっかり鈴歌さんを守りながら近づいてくる不審な人物はぶっ飛ばす。シンプルだがそれで行こう。きっと向こうから動いてくるはずですから」
僕を除くみんなが頷いた。だが僕は言い様のない不安を感じていた。ペガサスのあの自信に満ちたゲームの提案。何か裏があるような気がしてならなかった。
「じゃあ、これからどうするんだ? 相手が動くまで街をうろうろするのか?」
「そう言うわけにはいかないでしょう、ユニさん。いざって時に街の中じゃ戦いにくい。それに人が多いと守りにも支障が出ます。人が近づいてくるのがわかりやすい場所……、そうだな、公園にでも移動した方がいいんじゃないでしょうか」
「公園……」
「何か気になるの? 鈴歌さん」
「うん、あのね、確か、初めて『彼』と会った公園がすぐそこにあるから」
「彼、翔馬か。そうか、でもあまり行きたい場所じゃないよね?」
「うん。……でも、なんか行かなくちゃいけないような気もするの。胸騒ぎって奴かな?」
それを聞いたユニが頷いた。
「そこが始まりの場所ならば何か関係あるのかもしれないな。始まりと終わりは実は同じもの。決戦には相応しい場所だ」
「よし、ではそこで奴を迎え撃ちましょう。見渡しやすい場所で鈴歌さんの周りを僕と猪倉君が守る。それでいいですね?」
僕は今度こそ大きく頷いた。みんな覚悟が出来ている。こうなったら僕もやるしかない。僕たち三人とカバ、ピエロ兄弟、名無しの女神は円陣を組んだ。
「では三三七拍子……」
「こういう時は『行くぞ、オー』やがな!」
またか。僕は苦笑した。でも、そうだ、この双子のチームワークを僕たちも見習わなければ。
「じゃあ、行くぞ! ペガサスなんてぶっ飛ばしてやろう!」
「オー!」
ユニの掛け声にみんなの心が一つになった気がした。円陣なんて陳腐な儀式もこういう時は悪くない。
僕たちは勇気を得て意識の世界から明るい店内へと戻った。
店を出た僕たちは自転車を取りに戻った。公園には公園の駐輪場があるのでそこまで向かうことにしたのだ。
井山賢一の高級自転車を先頭に鈴歌さんと僕が後に続き走って行くとやがて何事もなく公園が見えてきた。街の中心部にあるその場所は昔の城の跡地だった。敷地は広く自転車を乗ることも出来るが、僕たちは入り口近くの駐輪スペースに愛車を止めた。
土曜日ということもあり公園はそこそこ賑やかだった。学生はもちろんいろんな世代の人間が思い思いに休暇を楽しんでいた。そんな中、僕たちは警戒しながら取り合えず奥の方へと進んでいった。
特に何も起こらなかったが緊張状態が続いたせいか僕は少し疲れた。それは鈴歌さんたちも同じようでベンチが眼に入ると誰からともなく休もうと言う声が上がり、僕たちは並んでそこに腰を掛けた。しかし休んでいてもたまに目の前を通り過ぎる人間がいるとつい体が強張ってしまった。眼に映る全ての人間が敵に見えるからだ。
(おいおい、そんなに固くなっていたら、いざって時に動けないぞ?)
(そんなこと言われても相手は見た目じゃわからないんだし……)
僕はちらりと横の二人を確認した。やはり二人とも緊張はしているようだった。おそらく他人が見れば僕らは妙な三人組に見えただろう。穏やかな空気が広がるこんなのどかな公園で顔がこわばっているのは僕らだけだった。そしてそんな時間は一時間ほど続いた。
「……何も起きないね」
ぽかぽかした陽気。涼しげな風。普通なら歓迎すべきそれらに耐えかねた僕はぼそっとそう呟いた。穏やか過ぎて気持ちが悪かった。午前中との差が大き過ぎたのだ。
「これもペガサスの作戦ですよ。忘れた頃に襲ってくる気でしょう。油断は禁物です」
「べ、別に油断しているわけじゃないけど」
そう言ったものの緊張なんてそんなに長く続けられるものじゃない。僕はいつペガサスが襲ってくるかわからないというのにふと上を見上げた。生い茂った緑の葉っぱの間から日の光が漏れている。桜の木だった。この公園はその名所なのだ。
「そういえば今年の桜、いつ散ったのかな?」
僕は何気なくそんなことを呟いてしまった。
「桜? だいぶ前だよ?」
鈴歌さんが笑った。井山賢一は表情を崩していなかった。彼は僕の無駄口など完全に無視して真剣に辺りを気にしていた。
「そうだよね、もうすぐ夏だもんね」
「そうだよ」
「僕さ、下ばっかり見てたから桜なんて気にしたこと無くて……」
暖かさにやられたのか、僕はそんなことをつい口にした。
「……来年は一緒に来ようよ、お花見。お弁当とか持って。ねっ?」
なんでもない言葉からすうっと彼女の優しさが伝わってきた。こんな優しい人が逆恨みされて復讐の対象になるなんておかしすぎる。彼女をどうしても守りたい。僕はそんな決意を新たにし、心の中で「さあ、いつでも来い!」と気合を入れ直した。
(……今、おまえ、同時に「出来れば来るな」って思ったろう?)
ユニが言うとおりだった。でも鈴歌さんが守れるなら何でもいいのだ。大事なのは手段じゃなく結果だ。僕は自分の弱虫を認めたくなくてそう思うことにした。
そして怖気付いたせいではないと思うが、なぜか僕はその時急に尿意を感じた。全く、こんな時に……。でも仕方ない。生理現象だ。
僕は正直にそのことを申し出た。
「あっ、じゃあ、三人で行こうよ。その方が安全だし」
鈴歌さんがそう言ってくれた。すると井山賢一もそれに同調した。
「そうですね。短い時間でも一人になるのは危険です。そうしましょう」
こうして僕たち三人は一緒にトイレに向かった。とりあえず「二人が入り口に残り見張りを努め、一人が中に入る」ということにした。まずは僕が行かせてもらい、次に鈴歌さんが入れ替わりトイレに入った。井山賢一と二人きり。すると突然、彼がこんなことを呟いた。
「……彼女、素敵な方ですね」
その言葉に僕はどきっとさせられた。
「す、素敵って?」
「僕に対してあんなにはっきり怒ってきた女性は初めてです。同級生の女子たちはみんな僕の外見や言葉遣いに騙されていますから。僕が間違ったことをしていてもそれすら肯定してしまう。意外かもしれないけど僕にとってもそれは決して居心地の良いことではない」
こいつ、自分でそれを意識していたのか。でもそれが嫌みには聞こえなかった。男の僕が見ても彼は整った顔立ちだ。スポーツ万能、成績優秀がそこに加わる。そして実際には性格なんて眼に見えないものは人を評価する時の判断材料として低い優先順位にされがちだ。建前は置いといて。
「僕は彼女が気に入りました。好きになりそうですよ」
彼は真っ直ぐにこちらを見てはっきりそう言った。傍から見れば死刑宣告を受けたように僕は蒼ざめていたかも知れない。完璧な彼と競争になれば僕の勝ち目など無いに等しいからだ。
「君も好きなんでしょう? 鈴歌さんを」
今度はトマトのように顔が赤くなった気がした。ユニが頭の中で「完熟だねえ」と冷やかしてきた。
「いや、好きとか、そういうのじゃなくて……」
守りたいんだ。
そんな言葉が頭に浮かんだ。でもその時ちょうど鈴歌さんが出てきた。慌てて僕は言葉を止めた。
「二人共、どうかしたの?」
彼女は男二人の間に漂う空気の変化を敏感に感じ取ったようだ。二人で声を揃え「なんでもない」と言い訳をした。鈴歌さんは怪訝そうにしていたがそれ以上深くは聞いてこなかった。
井山賢一がトイレから戻ると何事もなかったようにベンチに戻った。周囲は何も先程と変わっていなかった。そしてその後は時間だけが過ぎていった。やがて少しずつ空の色にも変化が現れ、何も起こらないまま、ふと時計を見た時はもう五時だった。タイムリミットまで残り一時間だ。
「諦めたんじゃないかな、ひょっとして」
僕がそう言うとすぐさま井山賢一は否定した。
「それはないですよ。おにごっこって言うのは、おにの意思では止められないゲームです」
彼はそう言うが、では「おに」はそもそもどちらなんだろう?
「きっとぎりぎりで現れる気だ。気を引き締めた方がいいですよ」
「でもさ、ヘルメスが手を貸さなくなったからペガサスも諦めたんじゃないのかな?」
僕がそんな甘っちょろい希望論を述べていると突然ユニが話し掛けてきた。
(……仁悟、ちょっと気になることがあるんだ)
「えっ、何?」
僕は思わず声に出していた。
「どうしたんですか? 仁悟君」
「あっ、ごめん。ユニがなんか気になるっていうから」
(俺は君の眼を通してずっと周囲の状況を見ていた。それで気付いたことがある)
ユニの声はいつも以上に緊張の色を帯びていた。
(気付いたことって、なんだ、ユニ?)
(その前に俺の予想が正しいか、ちょっとやってもらいたいことがあるんだ)
そう言ったユニは僕にある指示を出してきた。しかしそれだけ聞くと彼が何がしたいのか正直わからなかった。
(どういうこと? それで何がわかるんだ?)
(いいからやってみてくれ)
彼はそれ以上を語ろうとしなかった。やればわかるということだろう。
「ユニちゃん、なんだって?」
鈴歌さんは心配そうだった。
「あっ、うん、ちょっとね。試してもらいたいことがあるって言うからやってみるよ」
僕は怪訝そうな二人を制し、ユニに言われた通り、通行人を待った。出来るだけさり気なく普通を装って。
そして一分ほどするとジャージを着た中年の男性が通り掛かった。この公園に来てから同じような感じの人間は何人も見ていたし、別に怪しい様子は無かった。彼は僕らの眼の前を普通に通り過ぎようとした。別段こちらに近づいてくるわけでもなく、距離は二メートルほど離れていたし、普通にただ歩いているだけだった。
その時、急にユニが「やれ!」と声を出した。僕はそれに合わせ言われていた通りに立ち上がった。別に特別な行動ではない、ただ静かに立ち上がっただけだ。当たり前だが別に何も起きなかった。おじさんは何事もなく目の前を通り過ぎ、どこかに去っていった。
「……ねえ、今の何?」
不思議そうに鈴歌さんが聞いてきた。
「いや、ユニに言われたとおりにやっただけなんだけど……」
僕はそう言いながらまたベンチに座った。
(おい、ユニ、いったい何がしたか……)
(待て! また来たぞ!)
彼の言うとおり、おじさんが去った方向から今度は子供連れの若い女性が歩いてきていた。するとユニはまた僕に妙な指示を出してきた。仕方なく僕は言われたとおりにその女性が目の前に来ると軽く手を上にあげた。何をしたいのか依然として理解できなかったが「頭を掻くような『いめえじ』で」とユニに言われたとおりにやってみせた。
一見すると彼女たちは普通に通り過ぎて行ったように見えた。しかしその時、僕は目の前で見たものにちょっとした違和感を感じた。僕は思わずそれを声に出した。
「今、あの親子連れ、僕が手を上げるのを横目で見て、ちょっと反応した……」
「えっ、それってどういう意味?」
「えっと、今、ユニが説明してる」
僕は心の中で話しているユニの言葉を二人に伝えた。
「ユニは僕の眼を通してずっと観察していたんだって。それで気が付いたらしいんだ。僕たちの前を今まで通り過ぎた、たくさんの通行人。彼らは一見ペガサスの気配を感じさせない普通の人々に見えた。ところが僕たち三人がトイレに行くために立ち上がったり、身振り手振りで話したりしていた時に僅かに反応した連中がいたらしいんだ。それは大げさな動きじゃなくて一瞬だけ半歩くらい僕たちから離れるとか、表情がほんの少し強張るとか、そんな微妙なものらしいんだけど」
「つまりペガサスは次々と人間を乗り換えてずっと僕らを観察していたってことですか?」
「ユニちゃん、どうして今まで言ってくれなかったの?」
僕は答えられなかった。なぜなら……。
(仁悟、もう君は気付いたようだね。俺も今ので確信したぜ。言わなかったんじゃなくて怖くて言えなかったんだ。俺の予想なんてどうせ外れていると思いたかったんだがな)
「……二人とも落ち着いて聞いてね」
そう言った僕の声の方が震えていた。
「今、僕はあの親子連れを見て気付いたことがある。僕が腕を上げた時、反応があったって言っただろ? それは『二人が』って意味なんだ。お母さんと子供が全く同時に」
「えっ、何、どういう意味なの?」
鈴歌さんはピンと来ていないようだった。一方で井山賢一は僅かではあるが表情を変えた。
「まさか、それは本当ですか? もし本当ならまずい……」
「本当だよ。つまり……」
僕がそう言い掛けた時、再び僕たちの方に向かって通行人がやってきた。大学生くらいの若い男性だった。
「ちょうどいい。あの人で試しますか」
そう言って井山賢一は突然立ち上がった。
「すいません、ちょっと」
そう言いながら彼は男を呼び止めて少しずつ近寄っていった。
「えっ、何?」
男は別に変った様子を見せなかった。間違いじゃないか、僕はそう思った。
「お聞きしたいことが……」
井山賢一がそう言いながら僅かに右手を上げた瞬間だった。男は一瞬にして表情を変え、バッと後ろに跳び退いた。確かに殴れる距離ではあったが井山の腕は握手するくらいに上がっただけだ。それに彼はずっと笑顔のままでいた。
「正体が出ましたね。僕は攻撃的な素振りは微塵も見せなかったんですよ」
男はにやりと笑った。
「ちっ、気付いたか。もう少しからかってからと思っていたんだけどな」
僕と鈴歌さんは急いで立ち上がり井山賢一の背後に付いた。鈴歌さんは震えた声でこう呟いた。
「あれが、あいつがペガサスなの?」
相手は自分に対してはっきり復讐を宣言している奴だ。恐怖を感じるのは無理もない。僕は自然と彼女の手を握っていた。はっとした様子で彼女は僕を見た。
「大丈夫、守るから」
自信なんてどこにもない。でもその言葉は迷いなく溢れたものだった。
「残念ながら『あれも』なんですよ、鈴歌さん」
こんな時なのに冷静に井山賢一は補足した。
「えっ、あれも、って?」
「鈴歌さん、ユニも最初はあいつが次々に体を乗り換えているんだと思ったんだって。でも僕が見た親子連れはお母さんも子供も全く同時に僕の動きに反応した。つまりなぜかはわからないけど二人ともペガサスってことになるんだよ」
「ペガサスが……、二人……?」
鈴歌さんが蒼褪めながらそう呟いた。するとそれまで僕たちの会話をにやにや聞いていた男が笑いながら拍手を始めた。
「ふはは、良く出来ました。自力で気付くとは大したもんだ。ああ、そうそう、それに君たちがヘルメスを誑かしたのには驚いたよ。俺が君たちの居場所を聞いても教えてくれなくなってね。おかげで君たちがいるこの場所を探すのに苦労した。街中の人間に片っぱしからとり憑いて探させたんだ」
「一度に複数の人間を……。一度でもとり憑けば何人でも操れるということですか?」
井山賢一がペガサスを睨み付けた。
「俺も自分がこんなことを出来るとは知らなかったさ。何人かの人間を渡り歩いている間に気が付いたんだ。入り込んだ人間の心の隙にちょっとした仕掛けをしてやれば抜け出た後でも自分のラジコンみたいに出来るってな。そうだな、もっとわかりやすく例えるなら親機と子機って感じかな? ちなみに今喋ってるのは子機だからよろしく~」
「つまりあなたの本体はこの人の中にはないってことですね?」
「そういうことだ。ルールは確か、俺をぶっ飛ばせればおまえらの勝ちだったな? だが俺はこの中にはいない。殴っても無効だ。さあ、どうする?」
「……いや、あなたは必ず僕たちの前に姿を現すはずです。あなたの性格からして遠くから見ているだけなんてつまらないゲームは我慢出来ないでしょう?」
「ほお、よくわかっている。ふふ、その通りだ」
そしてそう言ったのは目の前の男性ではなく、いつの間にか現れた杖を突いたお爺さんだった。
「さて、この中にいる」
そう言ったのは僕たちと同い年くらいの少年だ。
「本物の俺を」
制服を着た女子高生が現れた。
「見つけることが」
先程の親子連れが後ろからやってきた。
「出来るかな?」
見覚えのあるジャージ姿の中年が笑った。
今までどこに隠れていたのか、あれよあれよという間に人々が集まって来た。老若男女、公園に入った時に感じた、そのままの人々だ。十数人の人間たちがあっという間に僕たちを取り囲もうとしていた。そしてその全員が同じタイミングで同じ厭らしい顔でにやっと笑った。
「さあ、ゲーム開始と行こうか?」
全員が同じ台詞を言いながら拳を構えた。それは異様な光景だった。小さい子供から杖を持ったお年寄りまでが同じポーズを取っている。その彼らの中心にいるのが僕たち、袋の鼠だった。
「結局、最初の計画通りになりそうですね。全員ぶっ飛ばすしかないようです」
一瞬にして緊張感が僕らを包み込んだ。僕たちはすぐにフォーメーションを変え、打ち合わせ通り、鈴歌さんの前後を井山賢一と僕が守る形になった。自分の眼の前にいるのは老人と女子高生だ。
鈴歌さんを守るためには彼らを殴り倒さなければならない。僕に出来るのか? この期に及んでまだ僕は覚悟を決められずにいた。
「行くぜええ!」
背後から叫び声が聞こえた。僕は心臓を掴まれたような驚きと共に後ろを振り返った。
叫び声を上げながら突っ込んできたのはジャージ姿のおじさんだった。すると井山賢一は相手のパンチを左手で軽く払い同時に右手で見事なフックを顔面に叩き込んだ。くぐもった呻き声を出して片膝を着いた男は鼻血に濡れた顔をゆっくり上げ、自分を指さしながらにやりと笑った。
「こいつは浮気しているらしいぜ。おめえの親父と一緒だなあ」
ぴくりと井山賢一の眉が動いた。動揺したのだろう。その隙を突くように今度は大学生くらいの男が飛び出してきた。一瞬判断の遅れた井山賢一は慌てて体制を低くし相手の攻撃をかわしたが、そのせいで次の動きが取れなくなってしまい、男の腰にそのまましがみ付くしかなかった。
「こいつは彼女に振られたんだってよ。別の男に取られてな」
また挑発するように男が笑うと井山賢一は叫んだ。
「猪倉君! 鈴歌さんを連れて逃げろ!」
それを合図に男はあっという間に体勢を入れ替えた。隙を突かれ投げられた井山賢一は地面に転がってしまった。ナイフを突き付けられた時でさえ冷静だった彼に焦りの表情が浮かんだ。
「僕には構わず逃げ……」
その言葉が終わらないうちに井山賢一の脇腹へと男の蹴りが入った。たまらず彼は「うっ」と声を上げた。そして起き上がる間も与えられず次の蹴りが入れられた。それは僕が家来ズたちから受けたようなふざけ半分の暴力ではなかった。
助けないと。このままでは彼は死んでしまうかもしれない。
そう思った僕の中で別の自分が囁いた。でもこいつは僕を今まで散々苦しめてきた奴だ。そんな奴を助けるために鈴歌さんを危険に晒す道理はない。
握られた手からは彼女の震えが伝わってきていた。本人が良いって言っているんだ。言うとおり見捨てて彼女を連れて逃げればいい。こいつは僕を散々いじめてきた相手だ。迷うなんてことはあり得ないはずだった。それなのに……。
「……ごめん、鈴歌さん」
僕は震える彼女の手をゆっくり離した。そして彼女の眼をまっすぐに見つめた。震えてはいたが鈴歌さんはゆっくりしっかりと頷いてくれた。
僕の迷いは消えた。
「うおおおおおお!」
生まれて初めての雄叫びを上げながら僕は突っ込んだ。さすがに驚いたらしく一瞬であるが男の動きが止まった。僕は横から思いっ切り体当たりを喰らわした。単純だが効果的だったようだ。男は派手に転倒した。地面に激しく頭を打ち付け、そのまま彼は動かなくなった。僕は自分がやったことに青ざめ慌てて駆け寄った。
「ま、まさか、死んじゃったんじゃ……」
しかし男の顔を覗き込んでいた僕に向かって声を掛けてきたのは後ろにいた老人だった。
「死んじゃいねえよ。脳震盪だ。ちっ、俺のお気に入りだったんだけどな、そいつの体は。まさか、こんな弱そうな奴から倒されるとは思わなかったぜ」
やはり僕が倒した男も子機の方だったようだ。そうは言ってもこの老人が親機とも思えなかった。
「井山君、大丈夫? しっかりして!」
いつの間にか鈴歌さんが井山賢一の元に駆け寄ってきていた。彼は脂汗を流しながら痛そうに脇腹を押えていた。腕や脚にも血が滲み、もう立ち上がれる感じではなかったが、そんな状態でも彼は顔を顰めながら喋ろうとした。
「な、なぜ逃げなかったんです? 彼女を守るのが君の目的でしょう?」
「自分でもわからないよ、そんなの!」
目の前の老人はにやりと笑った。
「さて、そろそろ飽きてきたな。復讐などさっさと済ませて後は遊ばせてもらおう。この能力があれば世界の王になることだって出来そうだ。心に隙の無い人間なんていやしねえからな」
「そ、そんなことさせるか!」
僕は頭に血が上っていた。相手が老人だという油断もあったのかもしれない。そのため何も考えず真っ直ぐ突っ込んだのだ。さっきと同じ戦法だったが先程とは明らかに違うことがあるのを忘れていた。不意打ちではなく相手がこっちを注意していたということだ。彼は老人とは思えない軽やかなステップで軽く僕をかわすと、持っていた杖で僕の右足を思いっきり打ち付けた。激痛が走った。息が詰まり僕は悲鳴もあげられず無様に地面に倒れ込んだ。
「仁悟君!」
鈴歌さんの悲鳴が聞こえた。僕はすぐに立とうとしたが鋭い痛みが邪魔をして力が抜けてしまい全く起き上がれなかった。
「年寄りだと思って馬鹿にするなよ。人生の長さの分だけ生死の境を何度も通り抜けて来てんだよ」
動けない僕の脇を老人が通り抜けようとした。僕は慌てて彼を止めようと手を伸ばした。しかし「ドン!」という音が聞こえ、次の瞬間、僕は悲鳴を上げていた。老人の杖が僕の左手にめり込んだのだ。嫌な音が聞こえた。
「若い者は手癖が悪いな」
そう笑って自分から離れて行く老人を僕は必死に呼び止めた。
「ま、待て、ペガサス、やめろ」
老人はそれを無視すると座り込んでいた鈴歌さんの前で立ち止まった。すぐ横には井山賢一が寝転がっていたが彼も動けるような状態ではない。絶体絶命という奴だった。
「ふん、ガキ共がかっこつけるからこうなるんだ」
そう言いながら老人は杖で井山賢一を小突いた。「うっ」という声だけが聞こえた。
「やめてえ! 二人は関係ないの。私が憎いなら私だけを襲えばいいじゃない!」
ぽろぽろと涙を零した鈴歌さんに老人はこう吐き捨てた。
「だからこれから襲うんだよ」
(おい、仁悟、根性見せてみろ! いま見せないでいつ見せるんだ!)
心の中のユニがそう叫んでいた。僕は残された右手と左足にありったけの力を込めた。激痛で脂汗が止まらなかったが僕は何とか立ち上がった。そしてユニへの返事を声に出した。
「わかっているよ、ユニ!」
老人はこちらを振り返り驚いた様子で僕を見つめた。
「ちっ、しつこい。『寝てれば楽だったものを』なんて陳腐な台詞を俺に言わせるな!」
老人がこちらに一歩を踏み出した。
「やめて、ペガサス……、いえ、翔馬君!」
老人は鈴歌さんの方を振り向いた。チャンスなのに僕は動けなかった。
「あなた、翔馬君としての記憶があるんだよね? それなら憎いのは私だけのはずでしょ? 彼らは見逃して。私には何をやってもいいから。それで死んだあなたの気が済むなら」
老人はそれを聞くとなぜかふっと笑い、次の瞬間、我慢出来なくなったように声を上げて大笑いを始めた。鈴歌さんも僕もそれを呆気に取られて見つめるしかなかった。暫く笑い続けた彼は大きく深呼吸をするとこう言った。
「おめでたいもんだな、おまえは。まだわからないのか。ひとつ言っておくが俺はペガサスでも翔馬でもないんだぜ」
思いもしない言葉に思考が追い付かなかった。ペガサスでないという発言は確かに矛盾しない。あれは彼が事件を起こしていた時に発していた言葉から僕たちが勝手に名付けたあだ名だからだ。ごんちゃんが本当の名を言わないように彼にも別の名があるということなのか。しかし彼は記憶が戻ったと言っていた。それなら彼は翔馬のはず。自分は翔馬じゃないという言い方はおかしい。
(翔馬じゃない? どういう意味だ?)
ユニもそのフレーズが気になったようだった。彼の叫びを僕が代弁した。
「じゃあ、おまえは誰だって言うんだ!」
「面倒くさいなあ。それをおまえらが知る必要はねえんだよ。後で鈴歌にだけゆっくり話して聞かせるぜ」
老人はそう言いながら再びこちらに歩みを始めた。杖が頭上に大きく振り上げられた。老人の体を支えてきた杖。それが今は凶悪な武器にしか見えなかった。
「やめてええええええ!」
鈴歌さんの悲鳴をBGMに僕の人生は終わるはずだった。人生最後の感想が「ああ、そう言えば翔馬が飛び降りた時も女性の悲鳴を聞きながら意識を無くしたんだっけなあ」となるはずだったのだ。
ところがその時、振り下ろされた杖と僕との間に横から何かが飛び込んできた。それはそのままひらりと杖をかわし老人の体へ体当たりをぶちかました。倒れたのは僕ではなく老人の方だった。呆気に取られた僕はそれを見つめた。僕を助けてくれたもの、それは一匹の白い犬だった。
「仁悟君! しっかりして!」
鈴歌さんが僕の元に駆け寄って来てくれた。ほっとした瞬間倒れてしまいそうだったがすぐに彼女が支えてくれたので肩を貸してもらいながら倒れている井山賢一の所までなんとか辿り着くことが出来た。
「大丈夫かい?」
僕は倒れている井山賢一に声を掛けた。
「それはこっちの台詞ですよ。ボロボロじゃないですか」
彼はそう言って笑ったが息も荒く苦しそうだった。お互い救急車が必要な状態かもしれない、僕はそう思った。
「こ、この畜生め! いったい誰のペットだ!?」
今度は女子高生の口を借りたペガサスが忌々しそうにそう叫んだ。僕たち三人は顔を見合わせたが誰もこの犬に覚えがないようだった。
すると思ってもいないことが起きた。
(誰のペットでもありませんよ。私は野良犬です)
その場の全員が驚きの表情を浮かべていた。心に直接聞こえてきたのは聞き覚えの無い声だ。ユニの出すおっさんの声でもヘルメスの出す子供の声でもない、落ち着いた若い男性の声。その声の主は彼しか考えられない。目の前の白い犬だ。
(驚くことはありません。今のご時世『カバ』や『街』が話すくらいですからね。犬が人間の言葉を話すからといって珍しくはありませんよ。よくある設定でしょう)
目の前の犬はそう言いながら確かにニヤッと笑った。
(ということはおまえも翔馬のカケラなんだな?)
ユニの問いかけに犬が答えた。
(はい、そうです。犬の意識は人間のそれとちょっと違っていたのでカケラの状態からこうして人格を形成するのに時間が掛かってしまいました)
「ちっ、まだカケラがいたとはな。しかもおせっかいな獣野郎らしい」
顔と合わない汚い言葉。女子高生は怒りに満ちた顔付きで犬を睨み付けた。
(これはテレパシーという奴か? 君にはこんな能力が?)
(いえ、これはヘルメスの力を借りているだけです。あなたたちがここで争っている間に彼と話をつけさせて頂きました。彼は私に協力することを約束してくれたんです)
女子高生の顔色が変わった。
「な、なんだと! おい、ヘルメス! 聞こえるか? 貴様、どういうことだ? おまえは中立になると言ったじゃねえか! なぜ突然こんな犬畜生の味方をする気になりやがった?」
(彼の話に納得したからです)
突然、少年の声がそう答えた。
(納得だと?)
(彼は僕が持っていない記憶を持っていました。彼の説明を聞き自分の破滅願望の本当の意味に気付いたのです。もう鈴歌さんたちを襲うことは私が許しません)
(はあ? 許さないだと!)
(はい、あなたに鈴歌さんを襲う権利などありません)
「てめえ、何様だ、ヘルメス! カケラのくせに偉そうにしやがって。貴様に何が出来る? おまえの力は俺には通じない。それを忘れたのか!」
えっ、通じない? どういうことだ?
「ふん、俺にはこの力がある。いくらでも子機を増やしておまえらを始末出来るんだぜ。ヘルメスが寝返ろうと俺の優位に変わりはねえ。わかったか、ガキ共が!」
怒りに満ちた眼で女子高生が叫んだ。それに対して犬は静かに喋り出した。
(引いてはもらえませんか? 私はあなたを傷付けたくない。出来れば自分で成仏して頂きたいのです。さもなくば私はあなたを封じなければならなくなる)
「封じるだと? はんっ、そんなことが出来るわけねえ」
(出来ますよ。親機の場所ならヘルメスが教えてくれました)
「たとえそうでも犬一匹で何が出来る? これだけの人数とやろうっていうのか?」
そう言った女子高生の元に散らばっていた人間たちが集まって来た。全部で六人。女子高生、おじさん、おばさん、やせ形の若い男性、太めの若い男性、若い女性という布陣だった。確かに犬一匹で戦うには無理がある。それにいざとなればペガサスは体を捨ててどこにでも逃げられるのだ。こちらが圧倒的に不利な状況は変わらない。
(戦いの前に一つ言い忘れたことがあります)
「遺言か? 聞いてやるぜ」
(まだ私の名を言っていませんでした。我が名は地獄の番犬ケルベロス!)
「な、何!」
ペガサスが驚きの声を上げた。それは名前を聞いたからではない。ケルベロスが名乗るのと同時に二つの影が茂みから飛び出してきたのだ。それは犬だった。ケルベロスと名乗った彼もそんなに小さい犬ではなかったが二匹はそれよりさらに一回り大きい犬たちでどちらも近付くのが怖いくらいの雰囲気を発していた。そうだ、確か、シェパードと秋田犬という犬種ではないだろうか? 一方、肝心のケルベロスがどういう種類かというと、犬にあまり詳しくない僕にはよくわからなかった。或いは種類などもはやどうでもいいことなのかもしれない。目の前の単なる白い犬が僕の眼には今や神の使いにさえ見えていた。
(そうか、諸説あるが一般的にケルベロスは三つの首を持っているとされているからな)
驚きのあまり思考がついていかない僕を尻目にユニは冷静にそう分析した。
ペガサスと五人の仲間たちは急に現れた犬たちに一瞬気を取られたようだった。その隙を犬たちは見逃さなかった。三匹は同時に飛び出した。
シェパードと秋田犬は左右に跳んで素早く位置を取った。ペガサスたちは一瞬で分断されたのだ。左側ではシェパードの体当たりであっという間に女子高生とおばさんが倒された。右側では掴みかかろうとしたおじさんを秋田犬が突き飛ばし、すぐさま牙を見せて唸り声を上げながら太り気味の男性を威嚇して制した。最後にケルベロスは残った真ん中の二人の元に一気に駆け寄った。彼は女性の方には全く眼もくれず若い痩せた男に跳び掛かった。勢いに押されて男は後ろにひっくり返った。ケルベロスは一気に男を押さえ込み牙をむいて唸った。
「ま、待て、やめろ!」
ケルベロスは男の喉元に噛み付く仕草を見せた。そして牙が喉に当たる瞬間、見覚えのある光が男から飛び出した。するとケルベロスは(よし!)と叫んだ。彼は最初から噛み付く気などなかったようだ。恐怖に負けたペガサスが体を捨て飛び出る一瞬を待っていたのだろう。空中の光に向かってケルベロスは大きな口を開けて跳躍した。
次の瞬間、光は彼の口の中へと消えていた。
「や、やった、やったよ! ペガサスを食べた!」
僕は興奮し思わず叫んだ。ところがその時、突然頭の中に声が聞こえてきた。
(ま、待て! 俺は違う! 違うんだ!)
それは初めて耳にする大人の男性の声だった。それと同時にケルベロスの頬が激しくぼこぼこと動いていた。光が暴れているのだ。そうか、これが誰にもとり憑いていない時のペガサス本人の声なのだ。その声が断末魔の叫び声を上げた。
(やめろおおお! 俺は翔馬なんて関係ねえ! 俺はとし……)
ごくん。
ケルベロスの喉が動いた。それと共に声は途絶えた。ペガサスは今度こそ消えたようだ。しかし最後に彼が発した言葉に僕は喜び以上の衝撃を受けていた。僕は隣にいる鈴歌さんの表情を窺った。彼女は顔面蒼白な状態でぼそっと呟いた。
「お、お義父さん?」
そう、確かにペガサスは「俺はとし……」と言ったように聞こえた。「とし」、「利秋」、それは鈴歌さんの義理の父親の名前だ。まさか、翔馬に殺されたという彼がペガサスの正体だったというのか? ペガサスは鈴歌さんに復讐すると言った奴だ。現に僕らを襲ってきた。それが鈴歌さんの死んだ父親だったなんて信じられなかった。
いったい何が起きているというんだ?
僕はなぜか体の震えを止められなかった。
(……でもそれなら確かに説明が付く)
混乱する僕の中でユニがそう呟いた。
(どういうことだよ、ユニ?)
(俺たち翔馬のカケラはカケラであるために最初に入りこんだ人間の意識の一部を借りなくちゃならなかった。ところがペガサスは自由にとり憑く相手を変えることが出来た。それはなぜか? 彼が菅崎利秋という一個体の人間の人格だったと考えれば納得出来る。彼がカケラでないなら相手の一部に依存する必要がないからな。それに井山賢一が彼を触った時、意識の世界に入らなかったと言っていただろう? 彼が翔馬のカケラじゃないのなら当然のことだ。あれは同一の意識を持つ者が触れ合った時に起きる現象なのだから。それにあいつは「ヘルメスの力は俺には通じない」と言っていた。ヘルメスの力が翔馬のカケラを持つ者にしか影響を与えない力だとすればそれも当然の話になる)
ユニの説明は確かに理論的だった。
(ペガサスが特殊だった理由がこれでわかった。なぜペガサスは他の翔馬のカケラと違うのか? 答えは簡単だ。彼は翔馬のカケラじゃなかったからだ)
そこで僕は一つ疑問に思った。
(いや、待った。じゃあヘルメスはどうなるんだ? 彼だって特殊じゃないか)
(実は彼は特殊じゃないんだ。体が無くて街と言う無機物にくっ付いているという以外はね。彼が僕たちに幻影を見せることが出来たのは街という彼の体の中に僕たちが入り込んだからだ。君が意識の世界の中で俺を角のあるカバの姿に「いめえじ」したのと同じことさ。ヘルメスも街と融合していないと存在が保てないという意味ではなんら俺らと変わらないんだ)
僕は混乱し始めた。翔馬の殺意を受け継いでいる危険な存在として今まで追ってきたペガサス。ところが彼はペガサスという名ではなく、さらには翔馬のカケラですらなかった。その正体が鈴歌さんの義父? 彼は翔馬から鈴歌さんを守って死んでいった人だ。通り魔を繰り返した挙句、鈴歌さんに復讐を宣言したあいつとはイメージが違い過ぎる。捕まえたはずのペガサスがするりとその腕をすり抜け、これまで見落としていた坂道を一気に転がり落ちていく、そんな映像が僕の脳裏に浮かんだ。
(なんでだよ? 鈴歌さんのお義父さんが何であんな化け物になっちまったんだよ?)
(彼は鈴歌ちゃんを庇って死んだんだろ? 死にゆく時の恐怖や寂しさが彼の本来の人格を変えたのかもな。「鈴歌がいなければ翔馬に自分が襲われることもなかった」ってねじ曲がった考えに囚われてしまったのかもしれない)
僕は鈴歌さんの顔を見た。蒼褪めた彼女は見た目でわかるほどに震えていた。僕が見つめていることにようやく気が付いた彼女はゆっくりこちらを向いた。
「仁悟君……、お義父さんの声だった。間違いなくお義父さんの声だったの……」
彼女の両眼から涙が零れた。頬を伝うそれを僕は止めて上げることが出来なかった。彼女はその場凌ぎの嘘や慰めを喜ぶ人じゃない。掛ける言葉が見つからなかった。
(ごめんなさい。私が油断したせいです。飲み込む前に叫ばれるとは……)
僕たちの元に歩み寄って来たケルベロスは僕たちに向かってぺこりと頭を下げた。不思議だ。後ろにシェパードと秋田犬を従えているせいだろうか、彼にはまるで王のような雰囲気さえ感じた。僕の視線に気付いた彼は彼らを紹介した。
(彼らは私の部下です。野犬としては彼らの方が先輩ですけどね)
ケルベロスは後ろの犬たちに「わうわう」と何かを話し掛けた。それを聞いた二匹は「わん」と大きく一声返事すると突然駆け出し揃って茂みの中へと消えて行った。
(彼らを味方につけるのには苦労しました。プライドの高い猛者たちですから。……さて)
ケルベロスは優しい眼差しで鈴歌さんを見上げた。
(気にするなと言っても最早手遅れですね。鈴歌さん、あなたを傷付けてしまったことは全て私の責任です)
「どういう意味ですか?」
喘ぎながら井山賢一が聞いた。
(私はケルベロス、地獄の番犬です。私には地獄の門を守る役目があった。それが出来なかった、そういうことです)
「地獄の門……、地獄とは何のことです? あなたは何を知っている?」
井山賢一の追及にケルベロスは黙り込んだ。眼を瞑り言葉を選んでいるようだった。やがて意を決したように彼は口を開いた。
(私は全てを知っています。あなたたちが知りたいと思っていること全てを)
「あなたには翔馬としての記憶があると言うことですね?」
それを聞いた鈴歌さんがぴくっと反応した。明らかに恐怖を感じている表情だった。
(鈴歌さん、怖がらなくてもいいのです。記憶があろうが無かろうが角田翔馬という人物はもう死者なのですから。彼は単なる過去に過ぎない。あなたは未来さえ見ていればいい)
ケルベロスは優しい声で自分を否定した。自嘲気味という感じではなく悟りきった雰囲気に思えた。
(皆さんにお願いがあります)
「なんだい?」
僕がそう聞くと彼は真っ直ぐにこちらを見た。
(あなたたちがペガサスと呼んでいた彼は私が封じました。彼の正体が何であれ、もう通り魔が起きることもあなたたちが襲われることもありません。あなたたちが心配していた翔馬のカケラもここにいる者が全てです。今や皆さんも判っているでしょうがこの中に危害を加える者はいないはずです。危険は去りました。だからもう無駄な詮索は止めて頂きたいのです)
「つまり謎は謎のままにしておいて余計なことはもうするなということですか?」
(はっきり言えばそうです、賢一さん。後はそれぞれの翔馬のカケラが未練を払拭し成仏するために努力すればいい。過ぎ去った過去など振り返る必要はない。お願いします)
ケルベロスはそう言い残すとくるりと振り返りシェパードたちが消えた茂みに向かって歩き出した。僕たちはそれを無言で見送った。しかし彼が茂みに脚を入れ掛けた時、鈴歌さんが叫んだ。
「ねえ、ける……、いえ、翔馬君!」
後ろ姿のケルベロスは「翔馬」と呼ばれてわずかにぴくりと反応した。
「あなたはいったい何を知っているの? あなたが守っている『地獄』って?」
ケルベロスは結局それに答えなかった。振り返らず茂みに消えて行く彼の背中は堪らなく寂しそうに見えた。
彼が喧騒を連れて行ったかのように公園には元の静寂が戻った。
鳥の声だけが聞こえてくる、そんな中に取り残され呆然としていた僕たちは誰かの声を聞き、ハッと我に返った。
「う、うん、ん? あれ、俺、どうしたんだ?」
振り返った僕らの視線は痩せた男性に集まった。ペガサス、いや、利秋さんがとり憑いていた男だ。彼が起きたのを合図に倒れていた人々が次々と意識を取り戻し起き上がり始めた。みんな状況が飲み込めないようできょろきょろと周りを見回していた。
「あ! 君たち、どうしたんだい? 怪我しているじゃないか」
そう言って近づいてきたのは杖を突いたお爺さんだった。もう操られていないとわかっていてもその杖を見るだけで僕は逃げ出したい気分になってしまった。
「喧嘩か? 誰にやられたんじゃ?」
あなたです、と言うわけにもいかず僕は苦笑いを浮かべた。
「こりゃひどい。歩けそうにないのぉ。とにかく手当てしてもらわなきゃなあ」
そう言ってお爺さんはポケットから携帯を取り出し、必要以上に大きな声で電話をして救急車を呼んでくれた。周りでは操られていた人々が遠巻きにこちらを見てざわざわと話を続けていた。
「しかし、わしも年かな? 散歩していたのは覚えとるんだが、気が付いたらこんな所に」
首を傾げる老人を見ながら僕は素朴な疑問に襲われた。ペガサスは人の心の隙に入り込んで操ると言っていた。つまりこんな老人にも心の隙があるということだろうか? たくさんのものを手に入れ、たくさんのものを無くし、僕の何十倍も経験を積んでいるはずの人間にも付け込まれてしまう隙がある。そのことが僕にはショックだった。
(生きている限り、どんな人間でも心の隙は無くならないさ)
ユニにそう言われた瞬間、僕は気付いた。僕たちだって同じだったのだ。ペガサスが言っていた、「おまえらの中にいる翔馬のカケラが邪魔で入れない」と。つまり僕の心の隙間を埋めていてくれたものこそユニなのだ。最初は厄介者だと思っていた彼がずっと僕を守ってくれていたのか……。
その時、井山賢一が茂みを見つめたままじっと動かない彼女の名前を呼んだ。
「鈴歌さん」
「……えっ、ごめん、何?」
「あなたはここからすぐに立ち去った方がいい」
「なっ、なんで? 二人ともひどい怪我してるし、私……」
「騒ぎはどんどん大きくなっているし僕たちも病院で事情を聞かれるでしょう。あなたが病院まで付き添えば僕の父が黙っていない。この前の騒ぎの時もなぜ僕が鈴歌さんと一緒だったのか、しつこく聞かれたんです。クラスメイトである僕と猪倉君だけなら喧嘩したということにすれば何とか誤魔化せる。記憶がない人間たちがたくさんいるわけですから僕らもよく覚えていないということにすればいいんです。鈴歌さん、あなたはもう余計なことに巻き込まれるべきじゃない」
「でも、そんな、全部、私のせいなんだよ!」
「鈴歌さん、ごめん、僕も帰った方がいいと思うよ」
「仁悟君まで……」
「正直に事情を話しても誰も信じてくれないよ。だから騒ぎが落ち着くまで大人しく待つしかない。……こんな時に付いていてあげられなくてごめんね」
鈴歌さんは眼を瞑り俯いた。一生懸命、何かを考えている顔だった。やがて彼女は答えを出したのかゆっくり顔を上げた。
「わかった。みんな、ごめんなさい。仁悟君、井山君、ユニちゃん、クレちゃん、ビドンちゃん、みんな、本当にごめんなさい」
彼女の涙は頬を流れぽたぽたと下に落ちた。僕はただそれを見つめることしかできなかった。掛ける言葉を探しているとユニが何かを囁いた。僕はそれを伝えた。
「鈴歌さん、ユニがごんちゃんに言いたいことがあるって」
「ん、うん、何?」
「『ごんちゃん、鈴歌ちゃんを頼むよ』だって」
すうっと鈴歌さんの表情が変わった。涙は浮かべたままだったが少し微笑んでくれた。
「彼女、『もちろんよ。どんと任せなさい』だって。彼女がそんな言葉遣いしたの初めて」
その時、夕闇の中からサイレンの音が聞こえてきた。時間がもう無いようだ。
「落ち着いたらまた会おうね、必ず」
「うん」
鈴歌さんは僕たちに一礼するとくるりと背を向け、思いを振り切るように勢いよく走り去った。そんな彼女の後ろ姿を僕たちと一緒に見送ったお爺さんは口を開けてぽかんとしていた。
「おいおい、彼女、帰っちまったぞ? 怪我したお前さんたちを置いて。いいのか?」
「いいんですよ、お爺さん」
「……事情は知らんがお前さんたち騙されとるんじゃないか? 女という奴はなあ、怖いぞぉ」
今度は僕たちがきょとんとする番だった。顔を見合わせた僕らは「ぷっ」と吹いた。
「そうかもしれませんね」
倒れているというのに楽しそうに井山賢一は笑った。そしてそんな彼を見て僕も思わず笑った。すると急に力が抜けてしまい僕は尻もちを着いて座り込んでしまった。それまで忘れていた痛みに襲われて僕は顔を顰めた。お爺さんが心配そうに僕の顔を覗き込んだ、ちょうどその時、担架を持った救急隊員がやってきた。
お爺さんは大袈裟なくらい大きな声で彼らを僕たちの方へ誘導してくれた。まずは倒れたまま動けない井山賢一を運んでもらったが、すぐに入れ違うように別の担架がやってきた。お爺さんに礼を言いながら僕はそれに乗った。
こうして僕たちは病院へと運ばれた。
「仁悟、わかる? ばあちゃんだよ」
どこかで聞いたような台詞を言いながら祖母が病室に入って来た。この前と同じ病院、そしてまさかの同じ個室だった。これがデジャヴという奴か?
(使い方間違ってるぞ。既視感ってのは初めて体験したことを昔どこかで体験したかのように感じることだ。君のは一言で言えば「あちゃー、またか」だよ)
あっ、そうかと納得した。そもそも僕が勘違いしたのも祖母がせっかちなせいだ。「わかる?」も何も僕の意識はこの前と違ってちゃんとはっきりしているというのに。
「まあ! ぐるぐるじゃないか、可哀そうに。あんた、喧嘩なんて出来る子じゃないのに」
祖母は祖母らしい言い回しで僕の手足に巻かれた包帯を表現した。
「大丈夫だよ。どっちもひびが入っただけだって」
それを聞いた祖母の顔がみるみる真っ赤になった。嫌な予感がした。
「喧嘩だなんてあんたがそんなことするわけないんだ。あっちが一方的に仕掛けたに違いないよ。相手もここの病院なんだってね。ちょっと行ってくる!」
そう言った祖母はどすどすと音を立てて外に飛び出した。「ま、待って!」と言った僕の叫びは怒った祖母には届かなかったようだ。後を追い掛けることも出来ず僕はハラハラしながら祖母の帰りを待った。
やがてしょんぼりした様子の祖母が帰って来た。
「……恥かいたよ、仁悟。あっちは肋骨骨折、全身打撲であんたより重傷だってさ。もう少しで折れた骨が肺に刺さって大変なことになっていたって。ご両親はお互い様だからって言って下さったけどね。あんた、いつからそんなに乱暴者になっちゃったんだい?」
骨折か。それが僕のせいになるのかと思うと少し納得出来ない気もした。
「だいだい喧嘩の原因は何だい? お互いそんなになるまで」
急にそんなことを言われて僕は困った。痛い所を突かれた。
「まさか、女がらみじゃないよね?」
僕はその時ぴくっと反応してしまったようだ。勘違いした祖母が眉をひそめて溜息を吐いた。
「まったく、そんなところは父さんに似るんだねえ」
「えっ、どういう意味さ?」
「なんだ、父さんに聞いたこと無かったのかい? あんたの母親が酔っ払いに絡まれていたのをあんたのお父さんが助けてやったのが二人の馴れ初めなんだよ。まあ、あんたの父さんも酔ってたんだけどねえ。女の前ではいい格好するタイプだったから」
そんな話は初めて聞いた。なんか、井山賢一の両親の話に似ている気がした。
(やっぱり君たちは似た者同士だったな)
ユニが嬉しそうにそう言った。そう言えばそんなことを言われたことを思い出した。あの時は嫌悪感から激しく否定したっけ。でもなぜか今はそれほど嫌じゃなかった。
「失礼しますよ」
僕が感慨にふけっているとぶっきらぼうな声が聞こえた。入って来たのはあの老博士だった。
「やあ、また会ったね。今度は喧嘩だって?」
彼はわざとらしく溜息を吐いた。面倒事に巻き込むなと言いたいのだろう。
「もしかしたらあの事件の後に苛々してどうしようもないなんてことがあったりしないかね?」
彼の言いたいことがわかった。僕が翔馬の自殺を目撃して心に傷を負い、そのストレスから暴れたとでも思っているのだろう。
「いえ、そんなことはありません。今日のは、なんというか、たまたま、そうなって……」
「たまたまで二人ともこんな怪我を? それはそれで問題だな」
「い、いや、僕なら本当に大丈夫です。あの後ユニが……」
そこまで言ってから「しまった」と思った。ユニのことを話せば長期入院は間違いない。
「ゆに?」
「な、なんでもないです。喧嘩は反省しています。自棄になったわけじゃないですから」
僕は何とか笑って誤魔化した。老博士は怪訝な顔をしていたが取り合えず納得してくれたようだ。諭すように僕の目を見ながら「自分で解決出来ない問題を人に相談するのは恥ずかしいことじゃないんだよ」ともっともらしいことを言って彼は去っていった。
(もっともらしいことをいうのが専門家の仕事だろう? ありがたい助言じゃないか)
(わかっていることほどなぜか出来ないのが人間なんだ)
僕も真似をしてもっともらしいことを言ってみた。(君は専門家じゃないだろ?)と言うユニの突っ込みを聞きながら僕は鈴歌さんのことを考え始めていた。
(大丈夫かな? 鈴歌さん)
(ああ、心配だな)
(ペガサスが、あっ、ペガサスじゃなかったんだね、あの化け物が利秋さん、鈴歌さんのお義父さんだったなんて今でも信じられないよ。やっぱり殺されたことで人格が豹変しちゃったのかな? それもこれも翔馬って奴が悪い……、あっ、ごめん)
ユニが彼の一部であることを僕はすっかり忘れていた。
(いや、いいんだ。そうだよな、全て翔馬が悪いんだよな……)
ユニは何か言いたそうだった。
(何か気になることがあるのか?)
(ケルベロスは翔馬としての記憶を持っているようだったろう? つまり彼は俺やぴえろたちに比べて翔馬本人に最も近いということだ。まあ、体は犬だけど)
(それが?)
(短い時間ではあったがあいつと会話した。その時に感じた雰囲気と俺たちが思い描いていた翔馬という少年の「いめえじ」が合わないんだ)
(でもケルベロスだってカケラであって本人そのものじゃないし……)
(それはそうだけどな。でも腑に落ちないことが多すぎる。ペガサスと言う言葉もよくわからないままだし。俺たちは何かを根本的に間違っているんじゃないか、そんな気がしてならないんだよ)
間違っていることか。それは何だろう? なぜか僕は急に不安になった。
僕はこんがらがった思考を中断し、ふと祖母を見た。いつの間にか祖母は椅子に座ったままこっくりこっくりと居眠りをしていた。疲れた顔をしている。いつ滑り落ちてもおかしくない。僕は慌てて声を掛けた。
「ばあちゃん!」
「ん、ああ、ごめん、寝てたかい?」
考えてみれば最近の僕は祖母に心配させてばかりいる。それに窓の外はすでに真っ暗だった。もう遅い時間だ。僕は祖母に帰って休むように言った。もちろん心配性の祖母は泊ると言って聞かなかったが半分追い出すように帰らせた。
「失礼します」
祖母が帰って間もなく見慣れた顔が僕の病室に現れた。
井山パパだった。
僕が頭を下げ何かを言おうとする前に井山パパはそれを手で制した。
「いや、頭など下げなくていい。二人の怪我の原因がただの喧嘩じゃないってことには気付いているんだ。こう見えても刑事だからね」
僕は驚いた。
「うちの奴は肋骨が折れている。君は手足の骨にひびが入ったと聞いた。どちらも立っているだけで辛い程の怪我をしたわけだ。これが二人の喧嘩だとすると疑問が生じるんだ。先攻、後攻の問題だよ。どちらが先に手を出したかはわからないが、どちらにしても先に怪我をした方は激痛を我慢して相手にも怪我をさせるほどの反撃をしたことになる。そんなことが可能だろうか? 私はそう言う事件を結構扱っているからね、二人の怪我には第三者が関わっているとすぐピンときたよ」
子供の言い訳などお見通しだったわけか。
「……賢一君はなんて言ってるんですか?」
「あいつは私には何も言わないんだ。恥ずかしい話だが賢一は私を父親とは思っていないようだ。父親らしいことをしてこなかった私が悪いんだが」
僕はどう声を掛けたらいいのかわからなかった。彼は自分の父親に比べればずっと立派な人だと思う。それでも彼は井山賢一の父親なのだから二人の関係には誰も口が挟め無い気がする。二人が決めるべき問題なのだ。
「説明が難しい話なんです。真実を話しても信じてはもらえない、そんな話です」
「それは……、非科学的と言う意味かね?」
僕はどきりとした。
「最近この辺りではおかしな事件ばかり起きているからね。君たちがいたあの公園でも十数人の人間が一時的に記憶を無くした。ありえない話だ。断片的な情報を集めて真実に近い筋書きを組み立てるのが私たちの仕事だが、ここ最近の事件は異常過ぎる。いったい何が起きているんだ?」
「えーと、まだ僕たちも混乱しているんです。色々解決してちゃんと話せる時がいつか来ると思うので、それまで待っていてもらえませんか?」
「……信じろと言うんだね、君たちを?」
「はい」
僕は真っ直ぐに彼の目を見た。彼も真っ直ぐに見つめ返してくれた。
「わかった、待とう」
「ありがとうございます」
「いや、礼を言うのはこっちだ。警察としてじゃなく賢一の親として」
井山パパは子供の僕相手に深々と頭を下げてから病室を出て行った。
ほっとした僕は急に睡魔に襲われた。欠伸をした僕にユニが話し掛けてきた。
(こんな時だが物語を書きたいんだ。いいかい?)
(またか、とはもう言わないよ。ユニにとって小説を書くということが自分の存在を証明すること、つまり生きることと同じだということはもうわかっているから。でもここにはパソコンも原稿用紙もない。僕の手もこんな状態だし書けないよ)
(いや、思い付いたことがあるから整理したいだけなんだ。君は眠ってくれていい。初めて会った時のように君の夢の中で物語を進めるから)
(そうか、じゃあ、僕はもう眠いから寝させてもらうよ)
そう言って僕は眼を瞑った。疲れていたせいかすぐに意識がぼんやりしてきた。
あっという間に物語は始まった。
プアダイスのさらに地下にある空間。そこには巨大な研究所があった。
「おいおい、マジかよ。こんなものがあるとはな。マンガの見過ぎじゃねえのか?」
呆れたようにペガサスは呟いた。
「否定はしませんよ。昔からこういう胡散臭い設定のアニメが大好きでしたからね」
突然声を掛けられ驚きペガサスは振り向いた。そこにいたのは白衣を着たぼさぼさ頭のおっさんだった。彼はニヤッと笑った。
「ようこそユニコーンの研究所へ」
「お前がユニか、って、どう見ても違うな」
目の前の男はどう見ても自分と同じ年にも美青年にも見えなかった。
「私はユニさんの片腕でしてね。普段は私がここの責任者です」
「普段は? じゃあ、ユニはいねえのか?」
「はい、忙しい方ですから。世界中を飛び回っていますよ。いる時の方が珍しいのです。今日は代わりにあなたを案内するように仰せつかっていますのでご安心ください」
「別にここの施設に興味はねえんだよ。俺はユニと話がしたいんだ」
「まあ、そう仰らわず。どうぞ、見て頂ければわかりますから」
そう言った男は先に立って歩き出した。慌ててペガサスは後を追った。
「おい、待てよ。お前、名前は?」
「私ですか? 私はケルベロスと申します」
「地獄の番犬って奴か」
「吠えるのは苦手ですけどね。ユニの飼い犬ですよ」
そう言ってケルベロスは自嘲的に笑った。
やがて二人は巨大なビーカーのようなものが並んだ場所までやって来た。
「本当にアニメの世界じゃないか。なんだ、この胡散臭い装置の数々は?」
「ここまで辿り着いたということはサンダー博士のお話を聞かれたということでしょう? 我々も彼とやろうとしていることは同じなんですよ。ただ方法が違うだけでね」
「ろくでもないやり方らしいな」
「もう気付いていらっしゃるんでしょう? アニプラリーがなぜ誘拐されたか」
「人体実験って奴か。貴様らお得意の」
「普通の人間よりも動物組織が体に組み込まれたアニプラリーの方が我々に近いのでね。研究成果を試すためにはすぐに自分たちに使うより彼らに協力して頂いた方が効率がいいんですよ。安全かどうかを気にする必要がないのでね」
「我々だと? まさか、おまえも?」
ペガサスがそう言うとニヤッと笑ったケルベロスは着ていた白衣を脱ぎ始めた。インナー越しだったが彼の肩の辺りが妙に凸凹していることにペガサスはその時ようやく気づいた。上半身裸になったケロべロス。その両肩には犬の首のようなものがめり込んでいた。
「残念ながらどちらも飾りでしてね。吠えたり咬みついたりは出来ないんです。こんなものが生まれつき付いているから苦労しましたよ。あなたもそうなんでしょう?」
確かにペガサスも自分の翼に良い思い出は無かった。
「それを逆恨みしてこんな非人道的なことしてやがるのか」
「おやおや、あなたは視野が狭すぎるようだ。やり方は確かに荒っぽいが人類全体として考えれば我々は英雄ですよ。人類滅亡を救う方法を研究しているわけですから」
「ひとつ聞きたいが、お前は神がどうのこうのって話は知っているのか? もし相手が神だと言うのなら人間の研究なんて何の意味もない。神が人間の行動を見過ごすわけがない」
「知ってますよ。神……、そこについては私も半信半疑なのです。確かにサンダー博士もユニもそんなことを言っていますが、私自身は見えないものを気にしないタイプなので」
「ふん、それでお前らの自慢の研究とやらはうまくいってるのか?」
「まあ、それはこれからお見せしますよ」
そう言ってケルべロスは通路の先にあるエレベーターを指差した。彼は歩きながら器用に服を着直した。乗り込んだエレベーターには階数表示がなかった。ここからさらに地下にある場所に直通のようだった。
「それにしてもこんなでかい研究所どうやって造ったんだ? 相当金が掛かっているだろ?」
「あなたが通って来たプアダイス。あそこの常連から資金提供を受けているのです」
「カジノの客が?」
「あそこの常連たちは世界の経済を動かしている富豪ばかりなのです。彼らはユニに惹かれ、その意志に賛同して私財を提供しているのですよ。国家レベルで金を出してくれる所もあるほどです」
「お前らみたいな胡散臭い奴らにか? 何でそいつらはサンダー博士の研究に協力しないんだ? あの人がその研究の第一人者なんだろ?」
「彼は、あなたとユニの父上は生温いのです。表沙汰には出来ない研究をしていると言うのに肝心な所でくだらない倫理に囚われる。ユニにはそれがない。どちらが効率的かわかるでしょう?」
「ちっ、壊れているだけだろ? 博士がユニに恐怖心を抱いた理由がよくわかるぜ」
「感じ方は人それぞれ自由です。でもサンダー博士は今や負け犬ですよ」
「飼い犬に言われるとはな」
そんな話をしているとエレベーターの動きが止まった。
「さあ、どうぞ。ここが人類の命運を握る聖地です」
「聖地」、その言葉の真偽を確かめるため、ペガサスはケルベロスの後を付いて行った。やがて彼はある部屋の前で立ち止まり、ドアの横にある機械に顔を近付けた。そこには眼を写すレンズがあるようだった。虹彩認証という奴なのだろう。ドアが開くとペガサスはケルベロスに促されるまま中に入った。
「本当はもっと近い場所でご覧頂いた方がいいのでしょうが、色々と手続きが面倒なのでね。そこのガラス窓からということでお願いします」
そう言ってケルベロスは大きなガラス窓を指差した。そこに歩み寄ったペガサスは思わず「あっ」と声を上げた。窓からさらに下の方に広大な空間が広がっていたのだ。そこでは物々しい服装の研究者らしい人間が何人か作業をしていた。いわゆる防護服という奴だ。科学に疎いペガサスでさえ嫌な感じを受けた。
「……かなりやばいものを扱ってやがるな、ここは」
「ええ、ウイルスです」
何の躊躇もなくケルべロスはそう言った。
「なっ、ウイルスだと? そんな物騒なもの研究してどうするつもりだ?」
「えー、あなたはウイルス進化論というものを聞いたことがありますか?」
「ウイルス進化論? 進化論っていえばダーウィンだろ?」
「ではダーウィンの進化論はどういうものですか?」
「え、えーと、確か、『キリンの首が長いのはなぜか』みたいな話じゃなかったか? 同じキリンの仲間でも首が長い奴の方が短い奴に比べて餌を取り易い。だからより首の長いキリンが生き残り、それが長い年月何世代も繰り返すことにより今のキリンの首はあれだけ長くなった。そんな感じの話だろう?」
「その話をする時に反論としてよく言われるのが『じゃあ、なぜ中くらいの長さの首を持つキリンの化石が見つからないのか』ということなのです」
「たまたまだろ?」
ペガサスは即答した。
「科学にたまたまは許されませんよ。そこで考えられたのがウイルス進化論というものです。進化とは長期間の変異と淘汰により起きるものではなく、ある種のウイルス感染により遺伝子の変化が偶然引き起こされた個体が出現し、それが次世代に受け継がれた状態を進化と呼ぶのだという考え方です。つまりキリンの首が長くなったのは『そういう病気に罹ったから』というわけです」
「……それってまともな学説なのか?」
「感じ方は人それぞれでしょう。ご自由に」
「それでそのウイルス進化論とここにどんな関係が……」
ペガサスは自分で話しているうちに気が付いた。まさか、そんな……。
「おい、まさか人為的に作ったウイルスでその進化って奴を引き起こそうと……」
「そのまさかです」
「ば、馬鹿言え! 進化なんて人の手で出来るわけがない」
「出来ます。我々の計算によると全人類にこのウイルスを感染させればほとんどの人間は死に絶えるものの僅かに生き残れる者が出現するはずなのです。確率的に言えばそのたった二人の男女こそ神の介入を退け生殖能力を取り戻した進化した人類となるのです」
「ふ、二人!? その二人を生み出すため全人類を消すというのか? 狂っている!」
「ではあなたはこのまま人類の滅亡を黙って静かに見ていろと言うのですか? 何者かに遺伝子を弄られ子孫を残せなくなりつつある人類を見捨てろと。これは戦いなのです。決定された死を穏やかに迎えるか、血反吐を吐いても生きる治療をするか」
「子孫を残すことだけが人類の目的じゃねえだろ!」
「それは絶滅していない今だから言えることです」
ペガサスには反論したいことは山ほどあった。目の前の男が、いや、まだ会っていないユニという名の兄弟が悪魔に思えてきた。しかし彼らの対しているものが人類滅亡を決断した神であると思うと別の恐ろしさに襲われた。どこにも味方がいない、そんな絶望感がペガサスを包み込んだ。
自分はどうすべきなのか、ペガサスはゴールの見えない迷路に迷い込んだような気になった。でっかい神がその迷路を掴んで揺らしているのだ。自分は自分の意志で歩くことも出来ず無様にその中を転がされているだけだ。しかしふと思い付いたことがあった。
ゴールが見えないなら思い切ってスタートに戻ってみればいいのではないだろうか? では自分のスタートは何だったのか?
そう、ユニだ。
思いがけず再会した親父にユニの話を聞かされた時から思っていたこと。双子の兄弟が馬鹿げたことを企んでいるなら自分が止めなくてはならない。ユニを蹴り飛ばしてやる。最初に考えていたのはそれだけだった。
「……ごちゃごちゃうるせえな」
「な、何ですか、急に?」
「神とか、ウイルスとか、進化とかよくわかんねえよ。俺はユニと話がしたかっただけなんだ。ユニって奴に会わせてくれ」
「ユニは忙しい人なのです。会いたいと言われても……」
その時ケルべロスの言葉を遮るようにある声が聞こえた。
「待っていましたよ、ペガサス」
驚いた二人は振り返った。そしてペガサスは声を聞いた瞬間からその人物の顔を予想していた。予想通りの顔がそこにはあった。
「ユニ! 来ていらしたんですか?」
ケルベロスがそう呼んだ。やはりこいつがユニなのか。まさか、そんな……。
「驚きましたか? でも私が正真正銘本物のユニなのです。ほら」
そう言ってユニは前髪を上げて見せた。博士に聞いた通り、額には確かに一本の小さな角を切り落としたような痕があった。
「私の導き通り、よくここまで来てくれましたね。ありがとう、ペガサス」
そう言って微笑んだのはカウガールだった。
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