第四章 Parents days (もしくは Poor dice)




 夢を見ていた。そう、これはユニが書いている物語だ。




 ペガサスは単身「プアダイス」にやってきた。父から貰ったカードに記されていた住所にあったのは小さな古本屋で、もちろんカジノの雰囲気など全く無く、店の中を覗くとそこにいるのは椅子に座ったまま目を閉じていて剥製のようにピクリとも動かない老人だけだった。「おいおい、ありゃ生きてんのか?」と思いながらペガサスは静かに店の中に入った。触れられる距離まで近づくと老人は見計らっていたかのようにすっと顔を上げた。寝ていたわけではないようだ。


「おお、お客か。本をお探しかな? 何がいい? 拷問事典、毒の科学、口の上手な割らせ方、偽造書類の作り方、夜逃げと高飛びはこうやれ、何でもそろっておるぞい」


 にこやかにすらすらと物騒なタイトルを上げた老人にペガサスは呆れた。


「爺さん、あんた、人を見た目で判断し過ぎじゃないか?」


「おや、じゃあ、何が欲しいんじゃ? 翼の手入れの仕方についての本なら確かどっかに……」


「本はいらねえよ。こいつを知ってるか、爺さん」


 ペガサスは例のカードを老人に手渡した。すると彼の表情がほんの一瞬だけ変わったことにペガサスは気が付いた。ほんの僅かな心の動き。普通の人間なら見逃していただろう。


「爺さん、やはりこれを知ってるな?」


「……ふん、若いのにこいつを持っとるとは大したもんだ。おまえ、やっぱり堅気じゃねえな? わしのさっきのお勧めもまんざら間違いじゃねえだろ?」


「否定はしねえよ。それで爺さん、こいつは何なんだ?」


「はあ? 何だ、知らんのか? おまえさんがどこでどうやってこれを手に入れたかは聞かねえ。わしはただの門番じゃからな。こいつを持って来たものは無条件で通す。それがわしの仕事じゃ」


「じゃあ、プアダイスって所に案内してくれるのか?」


「ああ。ただその前に少し話を聞いてもらう。ルール説明という奴だ。いいか?」


「ああ、いいぜ。どんなに崩れた世界でもその世界なりのルールはある。それくらい心掛けているさ。こう見えて危ない橋も多少は渡って来ているんでな」


「そうかい。では話そうか。これからお前さんが行くのは『カジノ・プアダイス』だ。まあ、プアダイスってのはパラダイスと掛けているわけだな。でもただの洒落じゃねえ、意味があるのさ。プアダイスは直訳すると『貧しいサイコロ』だ。言い換えれば『粗悪品のサイコロ』となる。これがここの名前の由来なのじゃ」


「とても儲けられそうな名前じゃねえよな。本当に客は来るのか?」


「そりゃあ、実名を上げたらまずい連中が引っ切り無しよ。ここで口を滑らせたら明日の今頃わしは海の底じゃな。……ところで話は変わるがおまえさん、サイコロを振ったことはあるか? 例えば一回目に一が出る確率はどうなる?」


「そんなの決まってる、六分の一だろ。いくら俺が馬鹿でもわかるさ」


「ぶっぶー、はずれじゃ。正解は『振ってみないとわからない』じゃよ。これは数学の問題じゃない。いいか、どんなに精巧に作られたサイコロでも全ての目が同じ確率では出ないんじゃよ。考えてみろ、サイコロは人が作っとる。そこにはどうしても誤差が生じるんじゃ。いわゆる重心のずれとか、微妙な凹凸とかな。すると出やすい目と出にくい目が微妙に分かれてくる。まあ、普通に使っているサイコロでそこまで気にする必要はないがな」


「粗悪品なら尚更ばらついちまうだろう?」


「おおよ。そこなんじゃ、ここの面白い所はな。ここではそういう出る目にばらつきがあるようなサイコロをわざと好んで使ってるんじゃ」


「はあ? そんなのインチキじゃねえか」


「それだけじゃないぞ。中で行われとるあらゆるギャンブルがいかさまだらけでまともな運勝負の掛け事などここには存在せん。インチキ、嘘付きばっかりじゃ」


「なんだよ、そりゃ。誰がそんなギャンブルしに来るんだよ。金を捨てるようなもんじゃないか」


「そうじゃよ。ここに来る人間は儲けようなんて気で来るんじゃない。いかさまを見抜けるか、騙されるか、その勝負を楽しみに来るんじゃよ。いかさまを見破れないうちはどんどん金が減っていく。だがいかさまを見破って指摘出来たら負けた金の数十倍が返ってくる、そういう仕組みじゃ。まあ、相手はプロ中のプロだからな、滅多に指摘出来る奴はいないがね」


「何が面白いんだ? そんなもん。やっぱり金を捨てているとしか思えない」


「お前さんは若いからな。理解できんじゃろう。ここに来る奴らは人生の勝利者たちなんじゃ。それこそインチキや非合法なことで自分の時代を作り上げたくせ者ばかり。そんな奴らが次の楽しみとして何を考えるか、お前さんにはわからんじゃろう。彼らにとって儲かるとか儲からないとかはもうどうでもいいことじゃ。ここでやっとることは人生そのもの、生きることの縮図なんじゃよ」


 わからない。わかりたくもない。確かにペガサスには理解出来ないことだった。


「そんなに難しい顔をするな。そんな奴もいるんだなってくらいに思えばいい。真面目に考えれば考えるほど頭がおかしくなっちまうぞ」


 人間はなんと滑稽な生き物だ。神という存在が何を考えたのか、ペガサスには少しわかった気がした。


「では参ろう。この店の奥、あの扉が極楽の入り口だ」


 老人に案内されペガサスは扉を開けた。そこにあるのは地下へと続く階段だった。全く底が見えない。本当に地獄まで続いているような気がした。


「ここから先はお前一人で行ってもらう。それもルールのうちじゃ」


「よし、わかった。ありがとな、爺さん」


 ペガサスは運命の階段を一歩ずつ降りて行った。





 目覚まし時計の音が容赦なく僕の眠りを揺さぶった。僕はイラッとして叩き壊すくらいの勢いでそれを止めた。自分で設定したものにさえ腹が立つのが人間というものだ。


(子育てと一緒だな。自分で設定したものに腹を立てるっていうのは。それにしても眠そうだな、君は)


(そりゃ誰かさんが頭の中で物語なんか作ってるからね)


(ああ、悪い悪い。そうか、続きが気になって起きてしまったんだね?)


 そういう意味で言ったんじゃないんだけど。自分の都合に合わせて勘違いしたユニは早口で捲し立てた。


(さて、プアダイスに入ったペガサスはそこの支配人に「このカジノが誇る三人のディーラーのいかさまを見破れば欲しい情報を教える」という勝負を挑まれるんだ。負ければ命が無いというその勝負に彼は見事に勝利する。支配人に案内され訪れたのはプアダイスのさらに地下にある研究所で……、って聞いとんのか、仁悟!)


 ユニは興奮していた。物語に関することはカタカナでもだいぶスラスラ発音できるらしい。僕は「はい、はい」と受け流しながら布団を出た。そうだ、今日は月曜日だ。脳がそれを思い出すと同時に体は自然と朝の支度をし始めた。頭はそんな気分じゃないというのに。呼吸の全てが溜息になっているかのようだった。


(お前、昨日から「はあ、はあ」うるさいぞ。変態か? 過呼吸になっちまうぜ)


(じゃあ、あんたは不安じゃないのか? 人から人へ自由に乗り移る化け物がいつ現れるかわからないっていうのに。怖くないのか? 何で呑気に物語なんて作れるんだ?)


(怖いさ。だがだからこそ人は不安の源である自分という存在を忘れるために虚構に意識を向けるんだ。だから物語に夢中になる。人とはそういうもんだろ?)


 僕はもう「あんたは人じゃないだろ?」と軽口は叩けなかった。どんな時でもどんな状態でも夢中になれるものがある。そんな彼が羨ましかった。


 彼がこの物語を完成したところで彼には何もないはずだ。彼はもうこの世のものでもあの世のものでもない。死んだ人間には歴史が残る。どんなに平凡でも生きたと言う事実はあるのだから。でも彼はかつて生きていた翔馬という少年でさえ無い。もちろん彼には翔馬のカケラという核はあったがユニという人格としての歴史は僕の頭の中だけのものだ。そして彼は自分でそのことを充分に認識している。それなのに彼は全く逃げていない。


 僕は彼に尊敬の念のようなものを抱き始めていた。





 重い体を引きずるように僕は学校へ向かった。休みたい気持ちは大きかったが行かなければならない理由があったのだ。教室に入ると彼はもう席に座っていた。


「おはよう、井山君」


 挨拶してから気付いた。わざわざ僕の方から彼に話し掛けたのは初めてのことかもしれない。


「ああ、おはよう。一昨日のことなら心配無いですよ。うまく誤魔化せました」


 僕が一番気になっていたことを彼は一言で片付けた。昨日のニュースでも三件目の通り魔は大きく報道されていた。中学生が一時人質になったという話も取り上げられたのだ。それなのに関係者のひとりとして事情聴取を受けてもおかしくないはずの僕の所には何の連絡もなかった。それが不思議だったのだ。


「でも大丈夫だったの? いろいろ問い詰められたんじゃない?」


「心配ないですよ。あいつの弱みは幾つか知っていますから」


 あいつ……、お父さんのことだ。まさか、父親を脅したのか?


「それよりあのペガサスって奴を捕まえる方法を考えなくては」


 そう言いながら彼は明らかに笑みを浮かべていた。間違いない、彼は楽しんでいるのだ。


(こいつ、なんか危ないな。悪い意味でふっきれちまったんじゃないか?)


 ユニがそんなことを言った時、家来ズたちが教室に入ってきた。僕の姿を見た三人はぎょっとしたようだ。そうだろう、座った井山賢一に僕の方が話し掛けている光景など前代未聞だ。カバが逆立ちするくらい珍しいことじゃないだろうか?


「お、おまえ、何やってんだ? 生意気だぞ、井山さんに」


 裏返った声で叫んだのは銀谷だった。


「井山さんもどうしたんすか? こんな奴と仲良さそうにして」


 越岡はそう言った。恋人の浮気でも見たかのような言い方だ。


「じゃ、じゃあ、今日のルールを発表してくださいよ。何にしますか? 井山さん」


 竹原がそう聞くと井山賢一は鼻で笑った。


「そんなものはもう止めにしますよ。いい加減飽きました」


 誰も何も言わなかった。それだけ驚いたのだろう。そこへチャイムが鳴ったので僕も三人も自分の席へと戻らざるを得なかった。


 そして授業が始まった。


(君は驚かなかったな)


 ユニが不思議そうにそう尋ねた。


(そうだね。なんでだろう? 「雨が上がった」くらいの感想しか今はないよ)


 カマキリが英語の訳文の問題を出した。当てられたのは越岡だ。英語も日本語も苦手な彼は案の定しどろもどろになっていった。


 思えばさっき家来ズたちが「ルール、ルール」と騒いだ時、僕には奇妙な感情が芽生えていた。それは彼らの子供っぽさに対する同情心だ。もちろん自分だってまだまだ子供であることはわかっている。それでもあの時、僕は不思議と少しだけ高い所から彼らを見下ろしているような気分だった。ついこの間までは土下座していた相手なのに。


(君は大人になったんだな、ちょっとだけ。色々あったからな)


 僕はなぜか全く嬉しくなかった。自分に起きたことは本当に成長と言えるのだろうか?


 時間は僕の答えが出なくてもお構いなしに進んでいった。あっという間に放課後はやってきて、あっという間に次の日もやって来て、その放課後もあっという間にやってきた。次に気が付いた時には白髪にでもなっているんじゃないか、そんな気さえしたが現実には数日が経っただけだ。


 僕と鈴歌さんはその間ずっと携帯でやり取りをしていた。その内容を僕が井山賢一に伝えるという間接的な作戦会議の毎日だったが、何もいいアイデアは出て来なかった。そう、僕たちはただの中学生だ。裏社会に精通している翼の生えた探偵には決してなれない。出来ることは限られているのだ。


 何の当てもないまま僕たちはあのショッピングモールの前で会うことだけを決め、土曜の朝を迎えていた。





 仕事に行く祖母を見送った後、僕は自転車で家を出た。最近の通り魔騒ぎのために祖母は口が酸っぱくなるほど「外に出ちゃ駄目よ」を繰り返していたがそうも言っていられなかった。


 なぜならこの前の件ではっきりしたことがあるからだ。それは「あの光は僕たち翔馬のカケラを持つ者にしか見えない」ということだった。警察は厳重な警備を行っているだろう。万が一通り魔が起きても犯人は捕まる。でもそれは抜け殻だ。あの光、「ペガサス」を何とかしない限り事件は永遠に続いてしまう。それを出来る可能性があるのは僕らだけなのだ。


 ところがいつものように県道の坂道を下り、橋を渡った時、僕は何かを感じた。思わず橋を渡り切った所で自転車を止め振り返ってみたが見慣れたいつもの風景だった。別に見た目にわかるような変化があったわけではない。それなのに橋の向こうとこちらの空気が明らかに違うような気がした。川を渡ると気象さえ違うことは今までもあった。それでもここまで空気感が違ったことは無かった。


(変な感じだよな、なんか)


 ユニも何かを感じ取ったようだ。


(うん。息苦しいような変な感じがするよ。どっかで感じたことがある感じなんだけど)


 そう言いながら僕は思い出した。これはあの暗闇に入った時の感じに近い。


(意識の世界か? でも暗闇になんかなってないだろ?)


 確かにそうだった。今見えているのは普通の風景だ。カバの姿も見えてはいない。


(ひょっとしたらこの前の奴が近くにいるってことかもしれないな。とにかく急いで鈴歌ちゃんたちと合流した方が良さそうだ)


 ユニの言葉に僕はどきりとした。あんな奴に一人で対処する自信は無い。僕は急いで自転車を再発進させた。必死に漕ぐが焦る心とは裏腹にスピードは上がらなかった。十数分という僅かな時間が途轍もなく長く感じられ、すれ違う人間が全て怪しく見えて仕方なかった。


 やがて眼の前には大きな交差点が見えた。交通量が多く車が引っ切り無しに通っている場所だ。あそこを右に曲がれば後は目的地まで真っ直ぐだ。距離も残り少し。ひょっとしたら嫌な雰囲気など取り越し苦労だったのかもしれない。


 僕は急に元気を得て、もうひと踏ん張りしようと自転車の速度を上げた。ところが青だった歩行者信号は僕の到着を待っていたかのように赤になってしまった。慌てて自転車を止めて跨ったまま立ち止まったが、その時、急に後ろから肩を叩かれ僕は悲鳴を上げた。


「うわっ!」


「や、やだ、どうしたの? 仁悟」


 後ろから聞こえたのは聞き慣れた声だった。僕は「あれっ?」っと思いながら振り返った。


「もう、悲鳴なんか上げて、恥ずかしいでしょ」


 そう言ったのはまさしく母だった。


「母さん? なんだ、脅かさないでよ!」


「勝手に驚いたのはそっちでしょ。あっ、ひょっとして通り魔か何かだと思ったの?」


「そりゃあ、そうだよ。でも母さん、なぜこんな所に?」


 ここは母のいるマンションからは離れた場所だった。美優の保育所だってこの辺じゃない。現に母は美優を連れてはいなかった。


「なんでって、それはね、……お前を食べるためだよ」


 母は両手を耳の横に構えて笑いながら「ガオー」と言った。最近美優がお気に入りの絵本に出てくる言葉だった。お婆ちゃんに化けた狼が赤ずきんちゃんに「何でお婆ちゃんの口はそんなに大きいの?」と聞かれた時に答える台詞だ。なぜか美優はこの台詞を何度聞いても笑い転げるのだ。そのためにこれは彼女の機嫌が悪い時の切り札となっていた。でも残念ながら僕には効かない。何しろ三歳児よりは少し大人なのだから。


「はいはい、わかりましたよ。それで本当はどうしたの?」


 少し冷めた感じで僕はそう聞いた。すると母は答えた。


「だあ、かあ、らあー、おまあええを、喰らううためえええ!」


 ……えっ?


「おまえはあいつのこどもだあああ! ぼおおりょおくううていしゅのこおおお!」


 僕は母から眼が離せなかった。彼女の口が何かおかしい。相変わらず僕に医学の知識など無いが、それでも人間の口の構造くらいなら知っているつもりだ。


 それはもう人間の顔ではなかった。


 母の顔は次第に変形していった。現れたのはまさに毛の無い狼のような顔だった。尖った口から鋭い牙が見えたのを切っ掛けに僕は今度こそ心の底から悲鳴を上げた。


「うわあああああ!」


「さけのむたびにぃなぐったあ。おまえにてるうう。おまえをみてるとむかつくうううううう!」


 母だった者は涎を垂らしながら絶叫した。僕は動けなかった。彼女の眼が再び僕を捉えた。獣のそれが光った気がした。


(何やってんだ! 逃げろ、仁悟! 青になってるぞ!)


 ユニが叫んでいた。はっとした僕は前を見た。いつの間にか信号は変わっていた。彼女が跳び掛かってきたのと僕が自転車を漕ぎ出したのは同時だった。


 僕は咄嗟に左足で母を蹴った。見た目の恐ろしさに反して意外と簡単に彼女は倒れた。その隙に懸命に自転車を発進させた。後ろなどとても振り返れない。必死に足を動かし続けた。気が付いた時には曲がるはずだった交差点からだいぶ進んだ場所に来ていた。そこで初めて後ろに何も気配がないことに気付き恐る恐る振り返ってみた。何もそこにはいなかった。自分の激しい息遣いだけが聞こえていた。


(い、今の何だったんだ、ユニ!?)


(俺が知るか。そうか、あれが仁悟の母さんか。変わったかくし芸を持ってるな)


(冗談じゃない。僕の母さんはあんな化け物じゃないよ。ユニの話に出てくる奴じゃないのか?)


 僕は遥か後方になった交差点の様子を窺った。しかし別に変った様子はないようだった。


(おかしいな。あんな化け物がいたら大騒ぎになってそうなものだけど)


(そういえば俺たち以外に騒いでいた奴はいないみたいだったな)


(他の人には見えてないってことなのか。じゃあ、あれも翔馬のカケラと関係が?)


(そうだろうな。やばい、やばいぞ、仁悟! 急げ!)


 言われるまでもない。遠回りになってしまったがそんなことも関係ない。僕は残されたありったけの力で自転車を漕いだ。おかげでショッピングモールはあっという間に見えてきた。化け物も追ってくる様子はなかった。ほっとした瞬間、なぜか急に先程の化け物の言葉が胸に刺さった。


 おまえは父親に似ているからむかつくんだよ。


 本物の母さんが僕に向かってあんなことを言ったことはもちろん無い。僕の前で父親を悪く言ったことすらないのだ。あいつは偽物だし、あの言葉は僕を動揺させるための罠だ。そんなことは判っている。判っているのに……。


 僕は考えてしまった。母が父の暴力に耐えかねて出て行った時なぜ自分を連れて行かなかったのか? 父が死に僕が祖母と住むと言った時、なぜ母は簡単に納得してくれたのか? それは……。


「おまえは本当にあいつに愛されているのか?」


 声がした。自転車に付いている目の前の籠からだった。僕は視線を下げた。そこにいたのは首だけになった父だった。走っているというのに酒の匂いが強烈に匂って来た。懐かしいはずのその顔に僕は悲鳴を上げた。急ブレーキ。よろけて危うく倒れそうになったが何とか堪えた。自転車に跨ったまま固まった僕に向かって父の首はヘラヘラと笑いながら話を続けた。


「久し振りだなあ、仁悟。おまえは俺に似てるからな。だから母さんに嫌われるんだ」


「ちっ、違う!」


 僕は唾を飛ばして叫んだ。


「違わないさ。おまえは嫌われ者なんだ。馬鹿の子だもんな。おまえも将来は酔っ払って人を殴るようになるんだ。そして死んで行く。誰からも痛まれずに。俺のように」


「僕はそんな人間じゃないし、父さんだって、そんな人じゃなかった!」


「そうかな? おまえはわかっていた。その変なカバが現れるまではわかっていたんだ。そいつがおまえに期待させた。自分は変われるんじゃないかってな」


「うるさい!」


 僕は籠の中の頭を掴んだ。自分では見えなかったがおそらく僕は鬼のような形相をしていただろう。大きく振り被った僕はそれを、父の頭を思いっきり両手でぶん投げた。


「おまえなんか父さんじゃない!」


 放物線を描いたそれは嫌な音と共に地面に落ちた。あの時に聞いた翔馬の音を僕は思い出した。ころころと転がった首は上下がさかさまの状態でようやく止まった。上目遣いに睨んだ眼。血だらけの父は最期に真面目な顔でこう言った。


「俺はなあ、仁悟。自分と似ているおまえが大嫌いだったんだよ」


 僕は自転車を出した。「漕げ!」と自分の中の何かが命令していた。ユニが何かを言った気がしたが、もうそんなことはどうでもよかった。漕ぎながら自分でもわけがわからないことを叫んでいた気がする。気が付いた時はもうショッピングモールの目の前だった。自転車を止めた僕はぼたぼたと汗を落とし、ぜいぜいと呼吸をしながら、ただ空になった籠を見つめ続けた。震えが止まらなかった。


(おい、仁悟! しっかりしろ! あんなのは偽物だぞ!)


 そんなことはわかっている。それでもあの声が耳から離れなかった。偽物だと確信出来ているはずなのに父と母の顔をした者たちの言葉が鎖のように繋がって僕の心を徐々に縛り始めていた。


(負けるな、仁悟! おまえの本当の父さんや母さんはどこにいる?)


(どこって? 父さんはあの世だし、母さんはあっちのマンションに……)


「猪倉君!」


 ユニとのやり取りの最中、突然自分を呼ぶ声を聞き、僕は驚き振り返った。また化け物かと思わず身構えたが、向こうからやって来たのは見覚えのあるピカピカの自転車だった。


 井山賢一はぜいぜいと息を切らし汗だくだった。顔面も蒼白で普段クールな彼の取り乱した姿に僕は全てを悟った。


「君にも何かあったんだね?」


「……君は本物ですか?」


「そういう君こそ」


 僕がそう返すと彼はふっと笑った。だがすぐに何かを思い出したかのようにきょろきょろと何かを探し始めた。


「菅崎さんはまだですか?」


「えっ……」


 僕も慌てて周りを見渡したが確かにどこにも彼女の姿は無かった。僕は携帯を取り出した。今日はまだ何の連絡も来ていなかった。慌てて電話を掛けてみたが全く繋がらなかった。


「出ないよ! どうしよう?」


 僕の声は震えた。


「落ち着きなさい。彼女の家はあの事件があった場所でしょう? 行ってみましょう」


 僕は頷き、携帯をしまった。僕が先導する形で自転車を漕ぎ中心街の方向に向かって二人で急いだ。だがすぐに信号に邪魔をされてしまった。急いでいる今となっては見慣れた信号すら三つ目の化け物に思えてしまう。赤く光るその眼は危険そのものだ。


 その時だった。


「賢一、また探偵ごっこか!」


 信号待ちをしていた僕たちに後ろから声が掛かった。聞き覚えのある声だ。僕らは同時に振り返った。そこにいたのは井山パパだった。


「もう危険なことは止めろって言っただろう? 馬鹿な模倣犯が収まるまでは大人しくしてろ!」


 彼は本物だろうか? 僕は井山賢一をちらっと見た。彼は無表情だったがぎゅっと力を込め拳を握っていた。殴る気だ。僕は慌てて彼を止めた。


「待って、まだ偽物かどうかわからな……」


 僕が言い終わらないうちに彼は全くの手加減なしで自分の父親の顔を殴り付けた。倒れた井山パパ。ところが「うっ……」と顔を顰めたのは井山賢一の方だ。たった今父親を殴ったその拳からは血が滴り落ちていた。ゆっくり起き上がった井山パパ。彼の顔は鰐のようなごつごつした皮膚に覆われていた。爬虫類となった眼が鈍く光った気がした。


「ご名答。よくわかったな」


 偽物は不気味に笑った。


「ちっ、偽物でしたか。本物のつもりで殴ったのに」


 本当に残念そうに井山賢一は吐き捨てた。


「ある意味、本物さ。俺はお前たちの心が生んでいるんだからな。おまえは気付いているんだろ? 俺はおまえの母親もおまえも全く愛していない」


 偽物は井山パパの声で挑発した。ところがそれを聞いた井山賢一はなぜか笑っていた。


「そんなことは生まれた時から知っていますよ。だからあいつの顔をした奴は本物であろうと偽物であろうと関係なくぶん殴るんです」


 井山賢一の眼は異様だった。あの時と同じだ。ピエロたちの存在に混乱し僕がルールを断ったことで追い打ちを掛けられた彼は叫びながらこんな眼をしていた。


(やばいぞ、仁悟! こいつを止めろ。ほっとくと危ないぞ)


 ユニはそう言うが一対一で止められる相手なら今まで苛められたりしない。躊躇してしまった僕の隙を突くように彼は飛び出した。相手は怪物だ。まずいと思った瞬間、思ってもみなかったことが起きた。怪物と彼の間に突然知らないおばちゃんが割って入ったのだ。そこにあった薬屋から出てきたところらしい。井山賢一は我に返り慌ててストップした。きょとんとした子供のような顔でおばちゃんは井山賢一を見つめた。


「びっくりした。なに、やだ、怪我してんじゃないの、あんた! 喧嘩なの?」


 すぐ側にいる鰐怪人には全く気付かずおばちゃんは井山賢一と僕の顔を交互に睨んだ。彼女にはあいつが見えていないらしい。やはりこいつも今までの奴も僕たち翔馬のカケラを持つ者にしか見えていないのだ。しかしこれはただの幻ではない。井山賢一は今も手から血を流しているし僕だってついさっき父親の酒臭い頭をこの手で掴んで投げ捨てたばかりだ。これは僕らだけが体験できる現実なのだ。


「もう、駄目じゃないの、喧嘩なんてしちゃ。ほら、丁度、ここ薬局だから手当てしてもらいなさいよ。もう、これだから男の子は駄目ねえ。ほら、そっちの子もごめんって言ったの?」


 おせっかいが顔から滲み出たようなおばちゃんのおしゃべりに僕たち二人は気を盗られた。そして目線を戻した次の瞬間にはもうワニ井山パパの姿は煙のように消えていた。


「……行きましょうか、猪倉君」


 冷静さを取り戻したのか、井山賢一は何事もなかったかのように自転車を出した。僕も慌てて後を追った。ごちゃごちゃと何かを叫ぶおばちゃんの声が次第に遠ざかっていった。しかし百メートル程進んだ所でまたもや赤信号が現れた。車が通っているので仕方なく僕たちは止まった。


 非現実な化け物に襲われているというのに信号という現実の「ルール」は守らなければならない。何か変な気がした。本当におかしいのは何だろう? 自分なのか、世界なのか、意識なのか、脳なのか。僕はだんだんわからなくなってきていた。


 やばい。混乱する。頭がおかしくなり……。


 その時なぜか横に並んだ井山賢一の右手にふと目が行った。血が滲んでいた。その生命の色が僕を不思議と落ち着かせた。僕は我に返り彼へ声を掛けた。


「まだ血が出てるよ。早く手当てしないと」


「擦り剥けただけですよ。別に大したことはありません」


 そう言いながら彼は自分のハンカチを取り出し右手に巻いた。


「そういえば聞きたいことがあったんです。街の方に来た時、変な感じがしませんでしたか? そう、眼に見えない境目を通過したような」


 そう言われて僕は橋を渡った時のあの感じを思い出した。あの時に感じた違和感。それを井山賢一に話して聞かせた。


「なるほど。あの暗闇の世界か。確かに似ていたかもしれないですね。もしかすると……」


 井山賢一は眼を瞑り何かを考え始めた。数秒後ぱっと眼を見開いた彼は言った。


「試したいことがあります。ちょっと手を貸してください」


 反射的に言われるがまま僕は手を差し出した。いじめられっ子の条件反射だ。すると彼は突然その手を握った。


「ま、待って! こんな所で意識の世界に入ったら怪物が来た時、危な……、えっ、あれっ?」


 何も起きなかった。何も起きないという普通のことに僕はひどく驚いた。


(なるほど。やっぱりそういうことなんだな)


 ユニが納得したように呟いた。どうも僕だけ理解できていないようだった。


「もう僕たちは意識の世界に入っているようですね。すでに入っている場所には入れない。当然のことだ」


「えっ、どういう意味?」


 僕の疑問に答えてくれたのはユニの方だった。


(そうだな、学校に行くことを登校っていうだろ? でももし学校に住んでいる奴がいたらどうなる? そいつが学校にいても登校したとは言わないだろう?)


「意識の世界では僕の中にいるピエロたちやあなたの中にいるユニという奴が実体化して見えていましたよね? 今それと同じことが起きているんですよ、たぶん」


(今、俺たちがいるのは意識と現実の入り混じった世界なのさ。翔馬のカケラを持つ者だけが影響されるってことは、つまり……)


「ちょ、ちょっと、全然わかんないよ?」


 井山賢一とユニが同時に話すため余計に僕は混乱した。


 するとその時、後ろから急に可愛らしい声が聞こえた。


「にいちゃ」


 信号の存在すら忘れて話に夢中になっていた僕は声の主を探した。僕のことをこんな風に呼ぶ人間は一人しか存在しない。目線をずっと足元まで下げるとそこにいたのはやはり美優だった。


 可愛らしい花柄のワンピースを着た彼女はニコニコと機嫌が良さそうに微笑んでいた。しかし本来付き添っていなければならないはずの母の姿はどこにも無かった。僕はすぐにピンと来た。


「この偽物め! 今度は美優の姿か! 騙されもんか。美優はまだ三歳だ。一人でこんなところをうろうろしているわけがない!」


 僕は「ぎっ!」という感じで美優を睨み付けた。それに対して彼女はきょとんと僕を見つめ返してきた。何も疑っていない純粋な眼差しに一瞬たじろいだが、もう騙されるものかと僕は気持ちを強く持った。


「この子は君の知り合いの姿をしているのか?」


「ああ、義理の妹なんだ。離れて暮らしてるんだけど家はもっと先だ」


 そう答えながら僕は臨戦態勢を取るため自転車を降り、井山賢一もそれに倣った。今度のこいつは一体どんな化け物の姿になるんだろう? 想像すると怖かったがその方がいいような気もした。偽物とわかっていても今のこの姿を攻撃なんて出来そうにない。


「にいちゃ、あそぼっ」


 いつもの笑顔。今にも転びそうなよちよちした足取りを見ていると抱きかかえてあげたくなってしまった。こいつは偽物だ。自分にそう言い聞かせる。でも体は動かなかった。


「猪倉君、震えているじゃないですか。こんな奴、僕が代わりに蹴っ飛ばしてあげましょうか?」


 そう言った井山賢一が僕の前に出た。ところが彼がサッカーボールを蹴るように脚を後ろに引き上げたその瞬間、僕の中の何かが緊急警報を鳴らした。


「ま、待って!」


 大声で止めた僕に驚いた彼は慌てて蹴るのを止めた。美優も不思議そうな顔で立ち止まっていた。


「どうしたんです? こいつは間違いなく偽物でしょう?」


 いらいらした様子でそう叫んだ井山賢一に僕は答えた。


「違う、何かが変なんだ、……あっ!」


 警報の正体に僕は気付いた。


「美優の頬っぺたにちっちゃい傷がある! この前、会った時は無かったんだ」


 僕は美優の頬に小さな傷があるのに気が付いたのだ。ぱっと見では見過ごしそうなくらい小さい傷だったがそれはもうかさぶたになっていた。


「こいつが偽物で僕の意識から生まれたというなら以前会った時の美優の姿をしているはずだ。見覚えの無い傷があるってことは本物の美優なんだよ」


 しかし僕がそう言うと美優はにやりと笑った。それはとても三歳児の微笑みとは思えなかった。


「こいつは驚いた。おみごと。中学生のガキだと思って馬鹿にしていたが意外と知恵が働くねえ」


 美優は美優の声で喋ったがそれは美優ではなかった。


「見なさい、こいつは君の妹なんかじゃないですよ!」


 そう言った井山賢一に対して美優は鼻でふっと笑った。


「いや、こいつの妹さ。幻じゃなくて正真正銘の本物だぜ。『体は』な」


 僕たちは絶句した。体は? じゃあ、こいつは?


「俺はおまえたちが『ペガサス』と呼んでいた奴さ」


「何だと!」


 なんてこった。通り魔から飛び出した光。あいつが美優の体に?


「大変だったんだぜ、この身体でここまで来るのは。まずはおめえの母親を眠らせないといけなかったしなあ」


「き、貴様! 母さんに何をしたんだ! まさか、薬……」


 母が軽い不眠症で薬をもらっていることを僕は知っていた。


「少し多めに飲ませてきただけだ。あのくらいなら死にはしねえさ」


 くすくす笑う美優。僕は初めてその可愛い顔に怒りを覚えた。


「美優の体を返せ、この化け物め!」


「化け物とはひどくねえか? 傷付くぜ。まあ、仕方ねえだろ? まだ先週は俺も意識がはっきりしてなかったからな。死んだショックという奴かね? 自分が何者か思い出せなくてイライラしていたから見境なく記憶の片隅にあるイメージの相手を襲っていたのさ。だがこの前のショッピングモールの騒ぎの時におまえらのおかげで正気を取り戻せた。同時に俺の目的もはっきり思い出したぜ。それは『鈴歌に復讐を』ってことだ」


「鈴歌ちゃんに復讐だって……。そんなの逆恨みだ!」


「事情を知らないお前たちに何がわかる!」


 美優の顔が三歳とは思えないほど醜く歪んだ。


「それで、鈴歌さんはどうしたんですか? 姿が見えないのはあなたの仕業でしょ?」


 井山賢一はこんな時でも冷静だった。


「ふふっ、いや、復讐とは言ったが、簡単にやっちまうのもつまらないと思ってね。今はちょっと迷路に入ってもらっているのさ。出口が無いからほっとくと死ぬまで彷徨うだろうな」


「ちっ、それも幻影ですか。今まで僕たちに小賢しい幻を見せていたのはやっぱりあなたなんですね?」


「ははっ、俺にそんな能力はねえよ。これは『ヘルメス』の力だ」


(ヘルメス? そいつもギリシャ神話だな。ゼウスの子であり父の命令をほかの神々に伝える伝令役。商売の神であり、その裏では泥棒、詐欺師の守護者でもある)


「仲間ですか? どこにいるんです、そいつは?」


「いるじゃねえか、おまえらにも見えてるだろ?」


 僕と井山賢一は辺りを見回した。しかし僕たち三人以外の人影は近くに無かった。


「どこ見てんだ? おまえらには見えねえのか? この『街』が、よぉ」


「街ですって? まさか、街全体に翔馬のカケラがとり憑いているとでも?」


「ああ、そのまさかなのさ。行く所がなかったカケラは街そのものになっちまったんだよ。面白いよなあ」


 ペガサスはケラケラ笑った。僕たちは唖然とするしかなかった。


「ヘルメスはよ、おまえらみたいに足りない部分を補ってくれる友達がいなかったから街に漂っていたいろんな人間のぐちゃぐちゃな思念みたいなもんに仕方なく張り付いたわけだ。時間は掛かったが、ようやく人格のようなものが芽生えてきて、その時やっと気付いたんだってよ、『自分は死ななければならない存在だ』ってな」


 それがヘルメスの未練……。そうだ、角田翔馬は自ら命を絶とうとしたんだ。肉体はもちろん死んだが彼の意識はバラバラになり形を変えて今も生きていることになる。ヘルメスにあるのは翔馬としての破滅願望であり、それはすなわち、かつて翔馬だったカケラたちに対する破壊願望。


(なるほど、ヘルメスって奴は俺たち翔馬のカケラをみんな消し去りたいってわけか)


「ただ、ヘルメスは肉体がないから不安定でよ。知能も最初は俺がいま入っているこのガキと同じくらいだったんじゃねえかな? おかげで最初はカタコトでなに言ってるのかわからなくて苦労したぜ。あのショッピングモールの騒ぎの後、漂っていた俺にヘルメスの方から話し掛けて来たんだ。『あなたは誰ですか? 自分は昔のことをよく覚えてない。でも自分は死ななくちゃいけない気がする。たぶん元の自分は砕けて散らばっているからその全てを消さなければならない。あなたは何か知らないか?』ってな。俺は笑ったぜ。『おめえ、体が無いじゃねえか、どうやってカケラを消すんだ?』ってよ。そしたらヘルメスは言ったんだ。『自分には自分と同じカケラたちを支配する能力がある。他のカケラたちの情報はもう掴んでいるが精神が未熟な自分ではどう動くべきか、わからない』ってな」


(そうか、元は同じ人間だからな。つまりヘルメスが街と同化しているということは、街に入っている俺たちはヘルメスの意識の中にいるってことになる。自分の意識という世界の中に自分の意識が入っているわけだ。もう現実と空想の区別なんて付くわけが無い。意識と言うものは他者の存在があるからこそ自分を認識出来る。自分の内にだけ見えているものを空想と呼び、他者の干渉があるものを現実と呼んでいるんだ。今の俺たちにはその境目が無くなっている。だから幻に触ることも出来るわけだ)


「それを聞いた時よ、こいつはおもしれえって思ってよ。普通に鈴歌をやってもつまらないと思ってたとこだったんでな。俺が協力してやるぜって申し出てやったのよ。ヘルメスの力を通じて鈴歌だけじゃなくおまえらのことも調べてやったぜ。二人とも俺がいつでも潜り込めそうなくらい心に隙のある問題児じゃねえか。ま、今は邪魔者がいて入れねえみたいだけどよ」


 ユニたちが邪魔で入れない? そうか、僕たちは自然といつの間にかカケラに守られていたのか。


「潜り込む、か。やはりあなたは僕たちの中にいるピエロやカバとは違うようですね。どうして自由に人間の体を移動し操ることが出来るんですか?」


 井山賢一の疑問は僕も知りたいところだった。しかし自分の秘密をホイホイと話す奴はいないだろう。そう思ったが美優の顔を借りた化け物はいやらしくニヤリと笑った。


「知りたいか? ではゲームと行こうじゃないか」


「ゲーム?」


「ああ。おめえは『ルール』というのに拘っているんだろ?」


「驚いた、そんなことまで知っているんですね。それが?」


「そっちの坊やも一生懸命それを守っていたみたいだな。いじめっ子といじめられっ子がこうして手を組んでいるとは皮肉なもんだねえ」


「お喋りな化け物ですね、あなたは。だから何がしたいんですか?」


「お前たちの得意な『ルール』だよ。俺が決めたルールをおめえらが守るんだ。んっ? 『ふざけるな、遊びじゃない』って顔してやがるな。言っとくが俺はふざけてなんかいないぜ? 人生はそもそも真剣な遊びなんだよ。何もかもな。自分では真面目にやっていることが人から見たらただの遊びにしか見えないなんてことは生きてりゃいくらでもあるんだぜ?」


「戯言を。それで? そのあなたの『ルール』とやらを守れたら鈴歌さんは解放するんですか?」


「ちょっと待って、罠に決まって……」


 僕は慌てて井山賢一を止めようとした。彼が相手の挑発に乗るなんて意外なことだった。


「ああ、いいぜ。なあに、簡単さ。これから俺はこのガキから出て行く。元々おまえらを試すために入っただけだからな。三歳児の女の子なんて動きづらくてしょうがないぜ。さて本番はそれからだ。俺は心に隙のある人間なら誰にでもとり憑くことが出来る。それを踏まえた上でのルールはただ一つ。ここから出た俺を今日中に見つけてみろ。かくれんぼ+鬼ごっこというわけだ。タイムリミットはそうだな、午後六時にしようか」


 そんなの無理に決まっているじゃないか。自由自在に人から人へ移れる奴をどうやって見つけろと言うんだ? 田舎とは言えこの街は一日で巡れるほど狭くは無い。


「まあ見た目じゃわからないだろうから合図でも決めとこうか。もし俺が入っている奴だと思う奴がいたら思いっきりぶん殴れ。それがおまえらの予想通り俺だったらお前らの勝ち。ただしそいつが何の関係もない本物の人間でも俺は責任は取れねえけどな」


「よし、受けて立ちましょう」


「井山君! 駄目だよ、こっちが不利過ぎるじゃないか、そんな馬鹿げたルール」


 僕がそう抗議すると彼は僕に耳打ちをしてきた。


「拒否しても始まりません。ここは受けてみましょう」


 自信のある声。彼には何か秘策があるようだった。仕方ない。迷ったが僕もそれを信じることに決めた。自分の立場が弱い時には相手のルール上で戦うしかないことを僕はよく知っていた。


「話がまとまったみてえだな。じゃあ行くぜ、六時までだ。……ああ、ひとつ言い忘れてた」


 ペガサスは美優の顔で再びにやりと笑った。


「ヘルメスの幻は終わったわけじゃねえぞ。また現れるかもしれないから気を付けな」


 そう言い残すとペガサスは眼を瞑った。次の瞬間、美優の中から突然光が飛び出し同時にその体は力なく崩れ落ちた。僕は慌てて駆け寄って美優を支えた。睨み付ける僕たちの頭上で光は暫く止まっていた。僕たちを挑発しているのだろう。やがてそれは僕たちの住んでいる地域の方角に向かって飛び去っていった。恐らくそれもまた挑発だろう。


 すぐに僕は美優の様子を確認した。すやすや眠っているが脈も呼吸も問題無さそうだった。一安心。ほっとしたところで次の問題が心配になった。僕は井山賢一に向き直った。


「何か考えがあるの? 僕たちはかなり不利だよ。ヘルメスの幻覚は続くって言うし相手がどこの誰にとり憑くかなんて予想出来ない。一番の問題は相手が約束をちゃんと守るのかってことだよ」


「……あいつは僕と同じですよ」


 井山賢一がぽつりと呟いた。僕は「えっ」と聞き返した。


「認めたくは無いですがあいつは僕に似たタイプです。おそらく自分の命が掛かったような場面でもゲームとかルールとか平然と言い出すでしょうね。そういう奴は自分で決めたルールは絶対に守るんですよ。例え自分が負けてもね」


 僕はユニの小説の「プアダイス」の章を思い出した。


「それに見つけてみろと言う限り絶対にあいつは向こうから姿を現します。僕もかくれんぼをする時は鬼が見つけられそうで見つけられない場所に隠れます。鬼が絶対に来ない場所に逃げるなんてつまらないですから」


(仁悟ならかくれんぼでも自転車で逃げそうだな)


 ユニがそう言って笑ったが僕は笑えなかった。頭がおかしすぎるとしか思えなかったのだ。


「さて、どうします? 君は美優ちゃんを連れて行かないといけないでしょう?」


「あっ、そうだね。母さんも大丈夫か確認したいし……」


「じゃあ取り合えず別行動を取りましょうか?」


「えっ、大丈夫かな?」


「僕なら大丈夫ですよ」


 いや、心配なのは僕の方なのだが。


「ではお互いに何かあったらすぐに連絡すること。何も起きなかったら、そうだな、いま十時だから、十二時頃、この前の店の前で会いましょう」


「わかった」


 僕は美優を抱き上げた。この格好では自転車はここに置いて行くしかない。道路脇に寄せて止め鍵を掛けた。その様子を見ながら井山賢一は自転車に跨っていた。ここから別行動だ。僕は彼に声を掛けた。


「じゃあ気を付けて」


「ええ、君もね」


 彼は僕が行く反対側に自転車を走らせた。あっという間にその姿は見えなくなった。それを見届けると僕は歩き出した。重い。いつも抱いているはずの美優がどっしり感じられた。僕はまたヘルメスの幻の仕業かと疑い、眠っている美優をちらりと見たが別段変ったところはなかった。やはり本物の彼女が重いのだ。ちょっと会わなかっただけなのに彼女はこんなに成長したのか。自分はどうなのだろう、そんなことを考え、僕は苦笑いを浮かべた。


 ずっと歩いているとすれ違う人々が僕の方を振り返っていた。少年が小さな子供を抱きかかえて歩く姿が不審に見えるのだろう。通報とかされると面倒だ。僕は出来るだけ急ぐことにした。


 一時間程掛かってようやく母のいるマンションが見えてきた。ちょうどその時、美優が眼を覚まし不思議そうに僕の顔を見つめた。


「んー、にいちゃ?」


「あっ、起きたかい? もう大丈夫だよ、美優」


 僕は彼女の頭を優しく撫でてあげた。安心したかのように彼女はにこっと笑った。そうだ、これが本当の美優の笑顔だ。僕は改めて彼女の温かさを感じながらゆっくりマンションまで向かった。美優を抱えたまま階段を駆け上がるわけにはいかないのでエレベーターに乗り、三階で降りた。そういえばあいつはこの三歳児の美優の体を使ってどうやって下まで降りたのだろう? 相当苦労したに違いない。想像してみるとちょっと笑えた。


(意外に間抜けな奴かもな、あいつ。付け込む隙はありそうだ)


(そうだといいんだけどね。鈴歌さんのことも心配だし)


 そんな会話をしているうちに美優の部屋の前に到着した。鍵はやはり開いていた。中に入るとリビングのソファに凭れかかり母が寝息を立てていた。その顔はもちろん狼でない。そんな当たり前のことにほっとして僕は少し大きめの声で母を呼んでみた。「ぴくっ」とその顔に反応があり、ゆっくり母の眼は開いた。


「えっ、あら、私、寝ちゃってた? 仁悟、いつ来たの? ……ん、痛てて」


 薬の影響か母は痛そうに頭を押さえた。まだ少しぼうっとしているようだ。


「母さん、大丈夫?」


「ん、うん、大丈夫よ。おかしいわね、風邪かな?」


 母には悪いが説明している時間はなかった。僕は美優を床にそっと降ろした。


「母さん、起きたばかりのところで悪いけど僕もう帰らないといけないんだ」


「えっ、なんで? 休みの日くらいゆっくりしていってもいいのよ。別に……」


 あの人に気を使うことないのよ、と母は言いたいのだろう。


「うん。でも今日は本当に用事があるからさ。もう行くよ」


「……わかったわ。じゃあ今度来た時はゆっくりしていってね」


「うん」


 僕は出来るだけ笑顔で返事をすると玄関の方に向かった。まだ本調子でない母の代わりにちょこちょこと美優が後を追い掛けてきてくれた。


「にいちゃ、にいちゃ」


 その愛くるしい笑顔になぜか僕は涙が出るような気持ちになった。それを誤魔化そうとつい変なことを言ってしまった。


「美優、僕は偉い哲学者なんかじゃないんだよ。ただの不安定な中学生さ」


 彼女はもちろんきょとんとしていた。


「だからさ、これからはちゃんと『おにいちゃん』って呼んでくれよ」


「お、にいちゃ、ん?」


 僕は驚いた。「おにいちゃん」と美優が言ってくれたのは初めてのことだった。やっぱり彼女はどんどん成長している。負けてはいられない。


 僕は彼女の手を軽く握った。パワーが貰えるような気がしたのだ。感じる温かさは十分に僕を励ました。母にさよならを言って僕は部屋を後にした。


 エレベーターで下まで向かいマンションの入り口に差し掛かった所で僕は向こうからやってくる「ある姿」を発見した。そう、「あの人」だった。


「おっ! やあ、仁悟君。来てたのかい? 僕も今日は仕事が早く終わってね」


 いつものように屈託のない笑顔だった。自分で小さな会社を興し成功しているというその秘訣はこの笑顔にあるのかもしれない。人を引き付けるのだろう。大人の男の人でこんなに自然な笑顔を見せられる人を僕は他に知らなかった。でも目の前の彼が本物かどうかはわからない。僕は警戒しながら彼を観察した。そして気付いた。この前、と言っても何カ月も前のことだが、会った時より明らかに髭が濃かった。伸ばしていると言うよりは無精髭っぽい。そんな所も含めて彼は本物の「あの人」だ。


「はい、でもちょっと用事を思い出しまして。もう帰らなくちゃならなくて」


「そうなのか、残念だな。久し振りに会ったって言うのに」


 彼は本当に残念そうな顔で言ってくれた。彼の優しさは言葉だけではない。


「……あの、ひとつ、お願いしてもいいですか?」


 僕の方からそんなことを言ったのは初めてだった。


「えっ! 何だい、改まって?」


 彼は一瞬驚いたふうだったが僕の真剣な眼を見たせいか彼の表情も一瞬で引き締まった。


「母さんを、母をよろしくお願いします!」


 彼は心の底から驚いたようだった。そうだろう、なぜ改まって今わざわざこんなことを言ったのか自分でもわからなかった。逆に戸惑った顔になった僕を見て彼は少し表情をゆるめた。


「あー、そうだね、もちろん僕は君のお母さんを幸せにしたい。そのために全力で努力することを君に約束するよ。でもね、僕の方からもお願いがあるんだよ」


「何ですか?」


「これからも彼女や美優、……ついでに僕にも遠慮せず会いに来てほしいんだ」


「えっ?」


「君のお母さんはとても苦労した人だ。でも僕はそれを聞いた話でしか知らない。支えてあげたくても支えられない部分がどうしてもある。だから君がそこを支えてあげてほしい。君にしか出来ないことだ。それに、僕ももっと君と話がしてみたい。君も僕の子供だと本気で思っているから」


 彼がそこまで思っていてくれたなんて。避けていた自分が恥ずかしい気がした。


「わかりました」


 僕は戸惑いのまま何とかそれだけ呟いた。彼はふっと笑顔を浮かべた。


「ありがとう。じゃあ今度来た時はみんなでうまいもんでも食べに行こうな」


「はい、楽しみにしてます」


 僕は自然と笑顔でそう答えた。その言葉に迷いも偽りも無かった。これからはちょっとだけ素直な気持ちで彼と会うことが出来そうだ。でもそのためにもこれからの数時間が大切になる。


 彼に別れを告げると僕は自転車を取りに戻った。


(これからどうしよう? まだ約束までは時間があるし……)


 僕は自転車に跨りながらユニに話し掛けた。


(井山賢一も言っていたがペガサスはきっと向こうから接触してくる。それを待つしかないだろうな。ヘルメスの幻が厄介だけど)


 ヘルメスか……。


 その時、僕はふとあることを閃いた。


(……ねえ、ヘルメスを説得出来ないかな?)


(はあ、何言ってんだ? さっきから何度も襲われてるじゃないか)


(でもペガサスが言ってただろ? ヘルメスは子供みたいなものだって。翔馬だった時の自己破壊願望に囚われているだけで悪い奴じゃないのかもしれない)


(でも説得ってどうやって?)


(とにかく呼んでみるよ)


「おい、ヘルメス!」


 僕は試しに空中へ呼びかけてみたが何も起きなかった。通り掛かった人が変な顔で振り返っていたが恥ずかしくても諦めるわけにはいかなかった。


「おい、ヘルメス! 聞こえているんだろう?」


 何も返事は聞こえなかった。それでも僕は叫ぶのを止めなかった。


「僕たちの話も聞いてくれよ、ヘルメス!」


 僅かな間が空き、諦めかけた瞬間、それは頭の中に聞こえてきた。


(翔馬のカケラはみんな消さなくちゃならないんだ)


 それはかわいらしい少年の声だった。


(翔馬という人間はカケラであろうとこの世に居ちゃいけないんだ)


「そんなの勝手じゃないか! これ以上、鈴歌さんを苦しめないでよ!」


 僕は思わず語気を強めていた。すると驚くべきことが起きた。


(鈴歌……)


 そう言ってふいにヘルメスは黙ったのだ。そこからは何か迷いが感じられた。これはチャンスなのかもしれない。ユニがすかさず話し掛けた。


(おい、ヘルメス! 一つだけ言っておくぜ? おまえの未練はともかくペガサスって奴は信用出来ないぞ。あいつの言うことを聞くのだけは止めておけ)


(でも記憶の無かった僕にいろんなことを教えてくれたのは彼なんだ)


(うまく言えないがあいつは俺たちと何かが違う。関わらない方がいい。いいか、ヘルメス、俺たちは確かに異質な存在だ。現実の世界に居ちゃいけないという気持ちもわかる。でも俺やぴえろやごんちゃんはいま生きている人間の体を借りているだけなんだ。それもろとも消すなんてあまりに乱暴で無責任だ。きっともっといい方法があるはずだ)


 暫く無言の時間が続いた。数分後ヘルメスの口はようやく開いた。


(……少しひとりで考えてみる。答えが出るまではどちらの味方もせず中立の立場になると約束しよう。どちらが運命を動かすか、ただ見守ることにする。おそらくは運命に導かれた方が正しい)


 そう言ったきり声は聞こえなくなった。それと同時に僕は体が軽くなったような気がした。街を覆っていた空気が変わっていた。ヘルメスは言葉通り警戒を解いてくれたらしい。取り合えずこれで余計な幻に惑わされることなくペガサス退治に専念出来る。


 幾分ほっとした僕の耳に携帯の着信音が飛び込んできた。慌てて携帯を見るとそれは鈴歌さんからだった。


「もしもし鈴歌さん? 大丈夫?」


「良かった! やっと繋がった。うん、私なら大丈夫よ」


 その声に僕は心底ほっとした。


「ごめんね、なんか変なんだ。約束の時間だいぶ過ぎちゃったよね?」


「それはしょうがないんだよ、鈴歌さん」


 僕は簡単に今までの経緯を彼女に説明した。


「ヘルメス!? そうか、私、幻を見せられてたのね。時計を見ても時間が進まないし自転車をどんなに漕いでも知ってる景色が現れないからおかしいとは思っていたんだけど……」


「もう大丈夫だよ。そうだ、十二時に三人で最初に会ったあの店の前で井山と会う約束になっているんだ」


「わかった、私もそこに行くね」


 電話を切ると僕は急いで自転車を漕ぎ出した。すると気持ちが高揚しているせいか嘘のようにスピードが上がっていった。おかげで思ったよりも早く駐輪場に到着できた。自転車を止めて外に出ると待ちわびた声を僕は聞いた。


「仁悟君!」


 鈴歌さんだ。怪我をしたような様子もなく、デニムパンツがよく似合っていておしゃれで可愛い、いつもの彼女だった。笑顔の彼女を見た瞬間、言い様のない安堵感が僕を包んだ。


「良かった、無事で」


「うん、仁悟君こそ大丈夫だった?」


「うん、まあ、狼とか鰐とか大変だったけどね」


 僕は歩きながらヘルメスやペガサスのことを話して聞かせた。鈴歌さんは文字通り眼を丸くしていた。


「じゃあ六時までにペガサスを見つけなくちゃならないの?」


「うん、きっと向こうから接触してくるっていうのが井山君やユニの予想なんだけど」


「でも見つけられなかったら?」


「いつものような罰ゲームじゃ済まないかな?」


 ……あ、やばい。


 言ってから「しまった!」と思った。鈴歌さんの怪訝な表情を見て僕はますます焦った。


「だ、大丈夫だよ、きっと見つけるから。それに僕は罰ゲームとか慣れてるし」


(あちゃー、まずいだろ、仁悟)


 ユニが慌てていた。僕はパニックになったせいで自分の発言の何が悪いのかまだピンと来ていなかった。


「それって、どういう意味?」 


 鈴歌さんにそう言われて初めて僕は自分の言ったことの意味に遅れて気付いた。人間はどうして言おうと思わないことをつい言ってしまう生き物なんだろう? 口籠った僕に鈴歌さんは遠慮気味に聞いてきた。


「仁悟君、ひょっとして、いじめられてるの?」


 できれば鈴歌さんには話したくないことだった。でもそれ以上に彼女には嘘を吐きたくなかった。


「……うん」


 そのたった一言から彼女は何を感じたのだろう? 次に鈴歌さんはこう聞いてきた。


「いじめているのは井山君、なのね?」


 僕は黙った。それが肯定になってしまうことは充分わかっていたが、うまい返事が浮かばなかったのだ。重苦しい雰囲気が流れた。


「やめるように言ってあげるよ」


 しばしの沈黙の後、鈴歌さんはそう言った。


「余計なお世話だろうし、正直どう言えばいいのかわからないけど、でも黙ってられないよ、私」


 僕はそれに対しても返事が出来なかった。無言のまま並んで歩いているといつの間にかあの店が見えてきた。まだ時間も早いせいか、井山賢一は来ていなかった。僕は少しほっとした。味方されることに慣れていない僕は鈴歌さんと井山賢一が言い争いになった場合、どんな反応をしたらいいかわからなかったのだ。それに気付いたのか彼女はにこっと笑顔を見せてくれた。


「大丈夫だよ。心配しないで。そこまで変なことは言わないから」


 その時ふいに気配を感じた僕と鈴歌さんは振り返った。そこには井山賢一が立っていた。つい数時間前に別れたばかりなのに彼には明らかに疲労の色が見てとれた。


「僕と別れた後で何かあったみたいだね?」


「大したことは無いですよ。ちょっと三人程ぶっ飛ばしてきただけです」


「えっ! じゃあペガサスらしい奴がいたの?」


「最初に現れたのは英語のカマキリでした。殴ってみたらそいつの手は本当の鎌になりました。次に声を掛けてきたのが福助です。陶器で出来ていたらしくて殴ったら割れました。二人ともヘルメスの幻ですよ。最後に銀谷君が現れましてね。また幻か、しつこいなと思って思いっきり殴ったら本物の彼でした。泣きながら逃げて行きましたよ。いや、悪いことをしました」


 どうやら彼は近づいてきた知り合いを全部殴って確かめたようだ。


 めちゃくちゃだ。やけになっているんじゃないか?


 内心そう思いながら僕は別れた後のヘルメスとの会話を彼に話した。


「へえ、ヘルメスと話を? じゃあ僕が福助を殴った後かな? もっと早く電話をくれれば銀谷君は殴らずに済んだんですけどね」


 全く悪びれる様子もなく彼はそう言った。そしてそれを見た鈴歌さんはついに我慢できなくなったようだった。


「ちょっと! 井山君!」


 今まで聞いたことが無いくらい大きな声で鈴歌さんは叫んだ。明らかに彼女は怒っていた。


「あれ、どうしたんですか? 鈴歌さん、何か怒ってます?」


「……君は仁悟君もそうやって殴ってるの?」


 彼はちょっとだけ驚いた顔をした。


「ほお……。いえ、僕は彼を殴ったことはありませんよ。他の奴に殴らせたことはありますけど」


「余計悪いわよ、そんなの! なんでそんなことするの?」


「……そうですね。それに答える前にとりあえず中に入りませんか? お腹も空いてきたことですし」


 そう言って井山賢一は店の中へと入ってしまった。僕と鈴歌さんは慌てて後を追った。前と同じ席に三人で座り、井山賢一が何事もなかったかのように三人分の注文をしに行った。戻った彼は笑顔で僕にこう問い掛けてきた。


「さっきの話ですけど、猪倉君本人はなぜだと思っていたんですか?」


「えっ!」


 僕は固まった。しかし次の瞬間、これまで抑えてきた思いがあふれてきた。言葉が止まらなかった。


「そんなの、そんなの君の思い付きだろう? 目の前に弱くてちょうど良い奴がいたから生贄にしただけなんだ、おまえは! 僕が君に弄ばれる正当な理由なんかあるわけないよ!」


「……君は覚えていないかもしれないですけどね」


「えっ、何を?」


「一年の時、クラスの何人かで雑談したことがありました。君も僕もそこにいたんです」


 まだ僕がいじめられていない頃か。


「取るに足りない馬鹿話をした後、ふと親の話になったんです。みんな自分の親を悪く言っていました。反抗期という奴ですからね。それが普通だった。そして君の番になった」


 僕は全く覚えていない話だった。


「猪倉君は父親の話をした。酒癖が悪くて酔っては暴力を振るい、そのせいで母親は出て行った、と。その後、お父上は病気になり呆気なく死んでいったって話してくれましたよね?」


 僕は本当にそんな話をしたんだろうか? たぶん何気ない会話のやり取りの中で大して気にもせずそんな告白をしたんだろう。


「そしてその後に君はこう言ったんです。『そんな父親でも好きだった』って」


 そう言われて思い出した。その台詞には確かに覚えがあった。


「信じられなかった。僕には微塵も理解出来ないことだった。だって僕は父親など消えてしまえばいいとずっと思って生きてきましたから」


 鈴歌さんは無言のまま悲しい眼差しを彼に送っていた。


「僕の父は刑事です。昔ある事件に巻き込まれた母を父が救い、それで二人は恋に落ちた。ドラマみたいな話でしょう? 僕の母は少女がそのまま大きくなったような人でね。王子様が現れたと本気で思ったらしい。でも実際の父は刑事という仕事に対して必要以上の誇りを持った融通の利かないただの頑固者でした。そんな父が母のおままごとに付いていけなくなったわけです。すぐに二人の間には溝が出来てしまった。でも二人は別れるわけにはいかなかった。母方の家は名家という奴で結婚に際しては警察のお偉いさんも関係したらしい。世間体を守るため二人は別れることを許されず形だけの夫婦を続けなくちゃならなかったんです。そして母の不満は全て幼い僕にぶつけられました。僕は父がどんなに愛情の無い人間かを子守歌代わりに聞かされて育ったんです。それがただの母のひがみだったらまだ良かったのですが、物心付いた頃に僕は気付いてしまった。母の言うことも間違いじゃないってね」


 彼の父親へ対する素っ気ない態度の原因がわかった気がした。


「ある時、偶然、父が他の女性といるところを目撃してしまったんですよ。密かに調べたらその愛人も父が捜査した事件の関係者だった。王子様どころか彼はただのそういう男だった。父親なんて所詮そんなもの、僕はそう思って生きてきました。それなのに君は……」


 僕は何も言うことが出来なかった。


「なぜ君は父親を好きなんて言えるのです? 君の父親だって君の母親を苦しめた悪人なんだろう? そんな奴を好きなんて頭がおかしいんじゃないか!」


「……確かにそうかもしれない。決して自慢の父親じゃなかったよ。でも僕に優しかった時もあるんだ。欠点の方が多い人だったけど良い所だってあったんだ。少なくとも……」


 僕はそこで先程のユニの言葉を思い出した。「おまえの本当の父さんと母さんはどこにいる?」というあの言葉。その答えが今わかった。


「少なくとも僕の思い出の中にいる父さんは不器用だけど本当に悪い人じゃなかった。だから僕は許せる。自分で自分にそう言い聞かせているだけかもしれないけど」


「わからない。僕には到底理解出来ないです」


 その時それまで黙って僕たちの話を聞いていた鈴歌さんが口を開いた。


「あなたの複雑な感情はわかったわ。でもそれが仁悟君をいじめてもいい理由にはならないよ」


「わかっていますよ。だからもう止めたんです。僕はただ猪倉君が羨ましかっただけかもしれない。憎いはずの父親を許せる、その悟ったような部分に嫉妬したんです」


 文武両道、完璧だと思っていた彼が僕みたいな奴に嫉妬だって? 信じられなかった。


「ピエロが住み着いてからの僕はさらにおかしくなってしまった。彼らが親の大切さを論じるたびに僕は動揺してしまう。無視してもいいはずなのになぜかイライラしてしまうんだ」


 それは彼が僕に初めて見せた弱気だった。そこにいるのはあの「ルール」を命じる王様の井山賢一ではなく、まるで保育園で親の迎えを待つ子供のようだった。


「ねえ、それが普通なんじゃないかな?」


 鈴歌さんがぽつりとそう呟いた。井山賢一がはっとしたように彼女を見つめた。


「やじろべえみたいに好きや嫌いに揺れながら生きるものじゃないの? 人間って」


「そういうものですか……、なるほど……」


 井山賢一は下を向き何かを考え始めた。


 好きや嫌いに揺れながら、か……。やはり僕なんかよりも鈴歌さんの方が大人だな。


 やがて僕たちはそれぞれが何かを思いながら三人で黙々とただただハンバーガーを消す作業に入った。気持ちを立て直す時間が欲しくても赤信号の存在しない時の流れは止まってはくれなかった。




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