第三章 You need "can't" (もしくは You need "corn" )
月曜の朝、僕は溜息交じりに支度をして家を出た。どこというわけではないが全体的に体が痛かった。昨日は一日中、異様な緊張状態が続いていたからだろう。いつ通り魔事件が起きるかわからない。いつ鈴歌さんから連絡が来るかわからない。実際何か起きてしまったら何をしたらいいのかわからない。そんな不安でいっぱいの一日だった。
(そもそも君にわかることなんて何かあったっけ?)
ユニの皮肉にも答えられない程、僕は疲れていた。
(疲れている場合か。井山賢一が今日は来るかもしれないぞ)
僕はすっと蒼褪めた。勘弁してほしい。彼らの遊びに付き合える状態じゃないのだ。
(じゃあ、今まではやっぱりわざわざ付き合ってやってたんだ? 物好きだな、おまえ)
ユニは無視して憂鬱な気分のまま学校へ向かった。教室に入るとすでに家来たちの方は集合していた。何やらこそこそ相談している光景が不気味でしょうがなかった。僕は出来るだけ彼らと眼を合わせないように自分の席に座った。
福助がやってきて井山賢一が今日も欠席であることを告げるとクラスは少しざわついた。それでも驚くほど普通に授業が始まり、気が付けばいつの間にかもう放課後になっていた。なぜか物足りなさすら感じた自分に気付き、僕は無性にいらついた。
家に帰ると僕は早速携帯をチェックした。鈴歌さんからの連絡は来ていなかった。何もないということは彼女が無事な証拠だろう。少しほっとした。
(ほっとしたところで俺のことも気に掛けてくれるかな? 話を進めたいんだ)
こんな時に、とも思ったがユニはどうやら何があっても小説を書きたいようだ。翔馬っていう少年はそれだけ物語を書くことに熱意を持っていたということなのだろうか?
今度鈴歌さんに会った時はもっと翔馬という人間について詳しく聞かなければならないかもしれない。そのためには彼女を傷付ける覚悟が必要になる。憎むべき相手のことを根掘り葉掘り思い出させる、こんな残酷なことはないのだから。僕にそんな資格があるんだろうか?
(資格なんて誰にもないさ。でもやらなくちゃいけないんだ)
僕はそれに「うん」とは言えなかった。その代わりに「転がる、始めろよ」とユニに促した。鈴歌さんを傷付ける役目を自分が負うことに躊躇したのだ。
決断力のない僕にユニは一瞬黙ってしまったが、やがて諦めたように物語を語り始めた。
ピッグの死と引き換えに得た「コーン」というヒント。それを元にペガサスとカウガールが辿り着いた場所は奇妙な形をした高層マンションだった。
ぽかんとそれを見上げたペガサスに対してカウガールの講義が始まった。
「あなたもアニプラリーなら知っているかもしれないけど二十年前くらいに歴史に残る大変なブームが数年間続いたことがあったの。学者たちはその時期を『メリーメーキング(お祭り騒ぎ)』と呼んでいるわね。メリーメーキングはこれまでの人類が経験したことのない異常な興奮状態の期間だったとされているわ。いわばそれまでの常識と言う奴が砕け散った瞬間だったのよ。そしてそれには二つの大きな柱があった。その一つこそがご存じ『アニプラリー』よ。それまでは考えられなかった動物の体の一部分を移植手術すると言うファッションが若者たちに何の違和感もなく受け入れられた。今でも批判的な人はいるけどその当時はそれこそ世間を二分した大論争が起きたの。科学、倫理、宗教さえ巻き込んだ騒ぎは結局アニプラリー人口の急激な増加という事実によって有耶無耶にされたけどね。年寄りが今更駄目だと言っても遅かったってことよ。大昔にも男の長髪とか髪を染めるとかで揉めていた時代があったらしいから価値観っていうのは一気に変わっちゃうってことね。そしてもう一つが本題の方、いわゆる『ユーズレス』といわれる価値観よ。『役立たず主義』という奴ね。はっきり誰が始めたというのはわからないんだけど、ある種の芸術家がこれまでの価値観に異議を唱えたの。それは過去のダダイズムとかシュールレアリズムとかに似ていたけどより極端なものだったの。これまでは役に立つ物こそ重宝されてきたけどこれからは役に立たない物こそが美しいという考え方で機能美という言葉とは対極にある思想だったのよ。つまりは芸術作品を作るというより実用品から実用的な部分を取り去ってしまえばそれこそが芸術なのだという考えが広まったわけ。神が創った自然の物の形には意味がある。だから人間は逆に意味が無いものを作らなければならないんだ、誰かがそう言い始めた。その運動は広がりを見せ自称芸術家が次々と変なものを作り始めた。その一人こそ建築家『グレートカーペンター』、冗談みたいな名前だけどこのマンションをデザインした張本人よ。彼のデザインの特徴はただ一つ、見た目は面白いけどめちゃくちゃ住みにくい建物ということ。見ての通りだけどね」
そう言われたペガサスは改めてそのマンションをじっくり観察した。すると「コーン」の意味がすぐにわかった。そのマンションは巨大なトウモロコシの形をしていたのだ。玄関から入ってすぐの部分はフロントと吹き抜けのロビーになっていて、そこが芯から飛び出た茎の部分を表しているのだろう。その上にそびえる部分はかなり異様だ。芯より明らかに太いその部分はトウモロコシのように三百六十度粒々のデザインなのだ。もちろん粒と言っても一つ一つは大きくその全てに窓が付いている。おそらく粒の一つ一つが小さな部屋になっているのだろう。目線を上げていくと建物の最上階の辺りは先がすぼんだ形になっていた。そんなところまでトウモロコシ型だ。あまりにも不安定なその形。簡単に倒れてしまいそうだ。はっきり言って安心して住めそうな建造物ではなかった。これに今から入らなければならないのだろうかと嫌な顔をしたペガサスにカウガールが追い打ちを掛けた。
「本当はね、この建物、耐震基準から見ても相当やばいらしいのよ。でもカーペンターが世界的なデザイナーってこともあっていろいろ力が働いて許可が下りちゃったらしいのよね。私も仕事じゃなかったら絶対近づかないわ」
「何か、小部屋って感じの部屋しかないけど本当に人が住めるのか、ここ?」
「ここは一人暮らし専用っていう変なマンションなの。一部屋が狭いからね。それでいて家賃は結構高いのよ。それでも空きが無いくらい人気があるっていうから、今でも『お祭り騒ぎ』は続いているのね」
「それでここに何があるんだ? 警察は何か掴めたのか?」
「一つ気になることはあるわ。今回の事件はアニプラリーの失踪事件でしょ?」
「それがどうした?」
「ここの最上階にはそのアニプラリーの考案者であるサンダー博士が住んでいるの」
「サンダーだって? 勉強嫌いの俺でも知っているくらいの超有名人じゃないか」
「ええ、じゃあ、会いに行きましょうか? サインくらいなら貰えるかもよ」
二人はいよいよ最上階に向かうためにエレベーターに乗り込もうとした。ところがその時、急にカウガールの携帯が鳴った。急用が出来たらしい。慌てた様子で急遽帰ってしまった彼女に頼まれ、ペガサスは一人でサンダー博士を訪ねることとなった。
コーンの最上階尖った部分はフロア全体が博士の自宅兼研究室となっていた。白髪に眼鏡といういかにも博士といった風貌のサンダーはペガサスを見た瞬間、なぜか驚きの声を上げた。秘書を部屋の外に出した博士はペガサスに向かってこう問い掛けた。
「警察の人間が来ると聞いていたが、君がそうなのか?」
「いや、俺は探偵さ。警察のお使いみたいなもんだ」
「そうか……、では、知っていて、ここに来たわけではないのか……」
「知っていて? 何のことだ? 俺はアニプラリー失踪事件の調査をしているんだ」
ペガサスはピッグたちから聞き出した情報のことを話す。それを聞いた博士の顔色は見る見る変わっていった。
「そうか、ピッグか。不思議な縁というか、運命というものはやはり存在するのだな。おまえが何も気付いていないのならこのまま有耶無耶にして帰してしまおうと思っていたのだが、そうもいかないらしい。お前さんに話がある。長い話になるが聞いてくれるか?」
「何の話だ? 事件と関係ある話なんだろうな」
「ああ、事件にもお前自身にも関係ある。おまえのその翼、赤子の時からあるのだろう?」
「なぜそれを? まさか、そうか、こいつはあんたが手術したのか! 前に見てもらった医者が言っていた、こいつはその辺の普通の医者じゃとても手術出来ないと。あんたはアニプラリーの発明者、つまり権威中の権威だ。つまりあんただから出来たんだ。そうなんだな?」
「真実は私の話を聞けばわかる。しかしおまえは聞かなければ良かったとさえ思うだろう。どうする?」
ペガサスは感じたことのない不安に襲われた。それでも彼は頷いた。
それを見て頷いた博士はゆっくりと語り出した。
「私がやっとアニプラリーに関わる基礎的な技術を発見したばかりの頃の話だ。その時、妻は妊娠していた。初めての子供が双子ということもあり私たち夫婦はその誕生を心待ちにしていたんだ。そんな時、秘密裏に会いたいと言う政府の関係者からの連絡が私の元に入った。学会で注目されていたとはいえ一研究者にすぎない私に政府が何の用かと訝しく思ったよ。迎えの車が来てどこをどう走ったのか、私は見たことのない建物の地下の部屋に通された。そこにいたのは素性の分からない見覚えのない連中だった。それでも彼らが醸し出している言い様のない雰囲気で私は悟った。彼らはおそらく表舞台に出てこない影の実力者という奴らだとな。テレビなどに出ている政治家たちは表向きの看板で彼らこそが本当に社会を動かしている人間なのだなと直感的にわかったのだ。彼らのいる机の向こうには大きなスクリーンがあった。そこには外国人の顔が幾つも映し出されていた。それらもおそらくは各国の実力者たちなのだろう。私は内心とんでもない所に来てしまったと後悔を覚え始めていた」
興奮気味に話すサンダーの額には汗が浮き出ていた。あまりにスケールの大きな話にペガサスは圧倒され相槌さえ打てなかった。
「その時、彼らの中でも一番の長老が話し出したのだ。あなたは若手ながら遺伝子研究の世界で素晴らしい実績を残していると聞く。そんなあなたに頼みたい仕事がある、と。これから我々が見せるものは国家機密、いや、むしろ世界共通の秘密となるものだ。絶対に世間に洩れてはいけない情報だ。見てからはもう後戻りは許されない、と。私はそれを聞き、迷ったが研究者としての好奇心が上回ってしまったのだ。それだけ秘密にしなければならないこととは何なのか。それを自分だけが研究出来るかもしれない。その誘惑に負けたのだ。そして彼らから話を聞いた。そして激しく後悔したよ。後の祭りという奴だ。私は憔悴して家路に着いた。すると妻がいなかった。間もなく電話が鳴った。急に産気づいて病院に運ばれたのだという。まだ予定日にはだいぶ早かったのだがな。私は慌てて病院に急いだ。手術中だった。やがて医者が出てきた。私も医学を齧った人間だから彼とも顔見知りでね。彼の表情が明らかに異常なことにすぐ気付いた。どうしたと詰め寄った私に彼は見るのが一番早いだろうと中に入るよう促した。てっきり妻に何かあったのかと思っていたが彼女は麻酔こそまだ効いていたが安定した状態だった。医者が私を引っ張っていったのは子供たちの方へだった。そこで彼らを見た私は恐怖と共に知ったのだよ」
そう言った博士は急に小刻みに震え出した。ペガサスは恐る恐る聞いた。
「何を?」
「神は存在する、ということをだよ」
博士はそう言った。冗談でも比喩でもないらしい。その眼はあまりに真剣だった。
「私が対面した双子の男の子は二卵生だった。生まれてすぐだというのに一目でわかったのだ。なぜか。簡単なことだ。見た目が違い過ぎたのだからな。私から見て左側にいた子の顔を見た瞬間、私は凍りついた。なぜなら彼の額には小さな角が一本生えていたのだ。驚く私に医者が横から話し掛けた。左の子だけじゃない、右の子にも異常があるんだ、と。そう言って彼は右の子をそっと抱き上げた。その背中を見た私は思わず声を上げた。そこには小さいとはいえ白い翼が生えていたのだ……」
「な、なんだって!? あんた、今、なんて言った?」
「その翼は普通の医者の技術では移植出来ないと言われたのだろう? 神経やら血管やらがあまりにも複雑に繋がっているからだ。当然だよ、その翼は人の手によって移植されたものではなく、おまえが生まれ持ったものなのだからな。おまえのそれはアニプラリーじゃないんだ。……我が息子よ」
どことなく潤んだ博士の眼を見つめながらペガサスは混乱していた。こいつが俺の父親だって? この翼は生まれ付き? じゃあ、俺は、俺は何だと言うんだ?
「混乱するのも無理もない。だが話はまだ続くのだ。医者は茫然とする私に慰めの言葉を掛けてきた。お子さんがこんな姿で驚いたのは無理もないがとか何とかな。だが彼は勘違いしていたのだ。私が驚いていたのは自分の子供の姿が異常だったからではない。先程連れて行かれた場所で見せられたものとおまえたちが関係していたからなのだ」
「どういうことなんだ? あんたは何を見た!」
「私があそこで見たものは動物と人間が合体したような子供たちの映像だったのだよ。腹にサイの顔がある女の子、ワニの尻尾が生えた男の子、両肩が鳥の顔になっている男の子、そんな類のものだ。いわゆるミュータントという奴だ。驚く私に長老が説明を加えてくれた。数年ほど前から世界中でこんな子供たちが確認されるようになったのだという。まだ数は少ないが確実に増えつつあり、その原因を調べていた科学者たちがとんでもない研究結果を導き出してしまったのだと。そこまで言うと長老は震え出した。先程の私のようにな。そして彼は言った。『神は存在しているのだ』と」
「神?」
「ああ、そうだ。彼らの遺伝子を調べていた科学者たちが見つけたものは恐ろしいものだった。それはそうなるように何者かが組み込んだ遺伝子だった。自然に起こる変異などではなかったのだ。しかし彼らはみな自然分娩だった。人工授精などの治療も受けていなかった。あの子供たちは自然に受精し自然に生まれてきたのだ。それにも関わらず彼らの遺伝子は操作されていた。わかるか、この意味が! 人以外の超越者の手が彼らには、いや、おまえにも施されているのだ!」
「人以外って、それが神だっていうのか!」
「調べれば調べるほどそう思わざるを得なかった。そして他にも遺伝子解析から推測されたことがあった。そちらの方が大問題だったのだ。一つは彼らの遺伝子的な問題。彼らは遺伝子的に『人』ではなくなっていた。神の御業だ」
「人じゃない!? じゃあ、俺は、俺は何なんだ?」
「おまえは『おまえ』という固有の生物であると言うしかない。おまえという種は他にはいない。一緒に生まれてきたおまえの双子の片割れでさえ遺伝子的には違う生物だった。そして、それがどういうことか、わかるか? お前を含めた彼らは生きていく分には別に困らない。日常生活に多少の支障はあるだろうが生きることは出来る。だが子供は、おまえたちは絶対に子孫を作れないんだ」
ペガサスは眼の前がぼんやりと暗くなったような気がした。別に今までも結婚したいとか子供が欲しいなんて思ったことがあるわけではない。それでも子孫が作れないと宣告されることは自分でも意外なほどのショックなことだった。
「人と他の生き物の間に子供が生まれないのと一緒だよ。そしてその後の調査によりもう一つわかったことがあった。それは彼らというより彼らと他の普通の子供たちとの比較研究によりわかったことだったんだがな。実は我々の気付かない間に人類にとんでもない事態が起きつつあったのだ。それはな、人類全体、その全てが徐々におまえたちのようになりつつあるということだった」
「人類全体が? 俺のように? じゃ、じゃあ……」
「ああ、この先、人類全体が徐々に集団ミュータント化する。生まれてくる子たちは全てがひとつ残らず違う種となる。つまりは最悪の場合、子孫が全く産まれなくなってしまう。彼らの先はない。人類は絶滅する」
人類滅亡。出来の悪い小説のような話だ。非現実過ぎる。核でも環境破壊でもなくそんなことで歴史ある人間という存在はいなくなるというのか。ペガサスは信じられない、信じたくない気持ちでいっぱいだった。
「信じられないのだろう? わたしもそうだったさ。他言を禁じられ家に帰る車の中でも自分が下手な芝居でも観た帰りのような気分でいた。だがな、お前たちを見てしまい、ふわふわした恐れは確信に変わったのだ。偶然にしては出来過ぎている。こんなことが出来るのは神だけだと」
「それで、怖くなって捨てたのか、俺を? もう一人はどうしたんだ?」
「まあ、聞け。人類の絶滅を防ぐための研究を始めた私は同時におまえたちのような子供たちの存在を世間から隠すための方法を模索し始めた。影の実力者たちが最も恐れていたのはパニックだ。異常な姿の子供たちが増えていけばマスコミは注目し、人類は絶滅するかもしれないと言う情報がいつかは表に出てしまうだろう。そうなれば自棄になった人間たちが暴動を起こすことは十分予想された。下手をすればそのことの方が原因で人類が絶滅するかもしれないと心配する者もあった。そこで私が考え出したのが『アニプラリー』なのだ」
「そうか、生まれ付き動物の体を持つ人間を隠すなら、人工的に同じような人間を増やしてしまえばいいってことか。でもそんな非常識な計画が良くうまくいったな」
「おそらくはそれすら神の仕業じゃないかと私は今になって思い始めている」
「神とやらはそれすら計算に入れていたって言うのか?」
「神は計算さえしないだろう。そうしなくてもそうなる、それが神なのかもしれない」
「……哲学は苦手なんだ。育ての親が考えるより行動派でね」
「それは良い親を持ったな。実の親だというのに今思えば私は最低な人間だった。その頃の私は研究に熱中しすぎて妻も二人の子もほったらかしだった。ある日、妻はこう言った。『子供が可愛くないの』と。研究がうまくいかず苛々していた私はつい言ってしまったんだ。『こいつらは人間じゃないんだぞ』とな。すまない、私は怖かったんだ。おまえたちが神の使いみたいな気がしてずっと怖かったのだ。次の日、彼女は子供を連れ出て行った、私に黙ってな」
「それが俺の母さんか。それで?」
「何年か経ち、私はようやく彼女を見つけ出した。しかし彼女は病気でだいぶ弱ってしまっていた。元々体の強い女じゃなかったからな。病院の寝床で彼女はこう言った。あの日、あなたが子供たちを人間じゃないと言うのを聞いて、このままここにいたら子供たちを殺されると思った、と。それで子供を連れて飛び出したものの仕事も見つからず仕方なく一人を孤児院に預けた、と。その後もあちこちを放浪し、ついにもう一人もある場所に置いてきたってな。私が馬鹿だった、それが彼女の最期の言葉だったよ。おまえたちがどこに預けられたかは結局聞き出すことが出来なかった」
「そうだったのか。じゃあ、結局、今も俺の双子の兄弟っていうのはどこにいるか、わからないんだな?」
「そのことなんだが……、実はな、そう、あれは五年前のことだ。一人の青年が突然ここに訪ねてきた。絵のように整った顔をした美しい青年だった。私が何の用だと聞くと、彼は黙って両手で前髪をかき上げた。そこにある切断された一本の角の痕を見て私は全てを悟ったよ。私は息子との再会を素直に喜んだ。それが間違いだった。私が赤ん坊の時、おまえたちに、いや、今思えば、『あいつ』に感じていた恐怖は間違いじゃなかったのだよ」
「どういうことだ? 俺の片割れは何をしたんだ?」
「彼は、彼が自分でそう名乗ったからこう呼ぼう、『ユニ』は孤児院で育った自分の出生を独自に調べ、私の存在に辿り着いたらしかった。自分の父親が有名な研究者だと知り、弟子になりたいと希望して来たんだ。私は再会の喜びもありそれを快諾してしまった。彼も研究対象であるという事実、彼がそれを知った時の衝撃の大きさを軽視してしまったんだ。私の秘密の研究内容を知り彼は当然ショックを受けた。それでもすぐに立ち直り研究の手伝いに没頭するようになってくれた、いや、そう思っていた。実際、彼の学問を吸収するスピードは信じられないものだったよ。天才という奴だ。やはりおまえたちは神の使いなのかもしれん。たった三年でユニは私の研究の全てを任せられるほどの学者になっていた。そんな矢先だ、彼が行方をくらましたのは。どんなに研究しても人類滅亡を救うための方法が見つからないことに密かに絶望していたのだろう。私はショックだった。妻と同じように息子が再び出て行ったことが。私は裏の情報網を使って彼の行方を調べた。そしてとんでもないことがわかったのだ。あいつはある秘密結社に転がり込みそのカリスマ性で僅かの間にトップまで上り詰めたようなのだ」
「秘密結社か。それってつまり……」
「ああ。あいつが掌握した連中は元々もうけのためには人体実験も辞さないような奴らだ。おそらくアニプラリーの失踪というのにもそいつらが関わっているのだろう。証拠がある。実はおまえがさっき言っていたピッグ夫婦のお嬢さんも私の患者なのだ。ユニも当然知っていることだ。彼女は全身に鱗があるタイプでな。今は遺伝子の異常から来る体調不良で私が院長を務める秘密の病院施設に長期入院中なのだ。最近あまり父親が姿を見せんと思ってはいたが、ユニがそんなことに巻き込んでいたのだな」
「全部はユニの計画か」
「奴は本気で神に喧嘩を売る気でいる。私のように穏便なやり方に嫌気がさしたのだろう。奴が何を考えているのか、想像するだけで恐ろしい。奴を野放しにすればとんでもないことが起きるような気がするのだ。おまえがここに来たのもおそらく偶然ではない。昨日、こんなものが送られてきた。差出人は書かれていない。だがきっと意味がある」
そう言ってサンダーは封筒から一枚のカードを取り出しペガサスに見せた。黒地に金色の文字で「プアダイス」と書いてあった。
「何だ、こいつは?」
「おそらくは入場券のようなものだろう。調べてみたところ一般人は入れない裏社会の人間専用のカジノらしいとわかった。これはユニからの挑戦状だと私は思う」
「根拠は?」
「わからない。強いて言うなら親の勘だろう。神様の存在以上に信じられん話だろうがな」
「よし、わかった。行ってみる。それしか手掛かりがないっていうなら」
「こんなことを頼める義理は無いが、頼む、ユニを止めてくれ、ペガサス。おまえにしか止められん。あいつを、兄弟を助けてやってくれ」
「悪いが俺はそいつが兄弟とかあんたが親とかの実感はない。でもユニって奴が馬鹿げたことを考えているなら同じ人間として止めてやるさ」
こうしてペガサスは「コーン」を後にし「プアダイス」に向かったのだった。
(ユニって奴が美形とか天才とかいう設定、よく恥ずかしくないな、ユニ)
(事実を恥ずかしくなど思わないだろう? ほら、書け書け、遅れてるぞ)
ちぇっ、僕は速記者じゃない。そもそも今書いているのはまだ第一章だ。完全にユニは先走っていた。
急かすユニに根負けした僕は現実の不安を弾き飛ばすかのようにキーを叩き続けた。
その後の四日間、僕は同じような毎日を繰り返していた。
学校に行っても井山賢一は来ない。「ルール」も無い。学校から帰って来ては携帯をチェックする。何も受信がないことに半分ほっとし半分残念がり、後はユニが読み上げる小説を書き続けていた。
唯一あった変化と言えばユニの小説に少しずつ僕が口を挟むようになったということだろうか。もちろん最初は嫌々書いていたためユニが話す通りに書き写しているだけだった。僕は体を貸しているだけでそこには意思なんてなかったのだ。しかしだんだんそこに私情が混ざり始めた。微妙な構成、表現、適切な言葉選び、そんなことが気になり始め、我慢出来なくなった僕はついに小説のことで初めて意見したのだ。
ユニは僕がなぜそう考えたのか、理由を聞き、僕の意見に賛同してくれた。ユニだけのものだったこの小説はほんのわずかな一部分ではあるが僕の小説になった。そのことに喜びを感じている自分に気付き僕は驚きを覚えた。
金曜日の朝、僕は明日のことを考えながら学校に向かっていた。一週間振りに鈴歌さんに会う。そのことで頭がいっぱいだった。何を話したらいいんだろうと頭を悩ませていた。
(おいおい、「でえと」じゃないんだぞ。危険が伴う任務なんだからしゃきっとしろよ)
ユニの言葉も耳に入らず僕は自分の机に座るまでどこか浮かれていた。しかしそのささやかなメリーメーキングも長くは続かなかった。そう、ついにあの声が聞こえたのだ。
「やあ、猪倉君。久し振りだね。元気だったかい?」
一瞬にして凍りついた僕はそおっと振り返った。そこにはこれまで見たことの無い井山賢一が立っていた。あまりに目立つ眼の下のくま。頬がこけてさえ見える。健康的だった優等生の面影はなく病人にしか見えなかった。
「今日の『ルール』なんですけどね、色々考えたんですけど」
彼は自分が長く休んでいたことに全く触れもせずそう切り出した。濁ったような眼が不気味だった。それは以前のようなこちらを蔑んでいる眼ではなく何かの妬みさえ感じられる眼だった。初めて見たその視線が蛇のように絡んでくる気がした。
「誰かを殴ってください」
彼は微笑みさえ浮かべそう言った。表情と言葉のギャップに僕をぞっとした。
「誰でもいいですよ。あなたが殴りたいと思った人なら。放課後までにお願いしますね。出来ない場合はあなたが罰を受けてください。僕が休んでいた分、全部のね」
彼はそう言って自分の席に戻っていった。僕は茫然と彼を見つめるしかなかった。彼の元に集まった子分ズたちがじろっとこちらを睨んでくると僕は仕方なく眼を逸らした。
(井山賢一らしくないな。乱暴すぎて妙な「るる」だ。あいつ、明らかにおかしいぞ? どうするんだ、仁悟? まさか、言いなりになって誰か殴るのか?)
(……あんなに苦しんでた「ルール」のことを忘れるなんて。僕はやはり馬鹿だ)
(馬鹿? そんなことを聞いているんじゃない。どうす……)
途中からユニの声が聞こえなくなっていた。僕の頭の中は「馬鹿」でいっぱいだったのだ。
僕はあるトラウマを思い出していた。
確か、あれは父の一周忌のことだった。父方の親戚が法事に集まりお寺での念仏の後、お斎と呼ばれる会食がなされた。祖母と僕は酒をついで回り、一息つくと自分たちの食事を始めた。時間が過ぎると酒も進み大人たちは酔い始めていた。祖母がちょっとトイレに立ったその時だ。親戚のおじさんが手招きして僕を呼んだ。なんだろうと思って駆け付けた僕に赤い顔をした彼は単刀直入にこう言ったのだ。
「それにしてもおまえの父ちゃんは大馬鹿野郎だったな」
彼はその後、僕の父がいかに馬鹿であるかの証拠をとうとうと述べた。酒癖の悪かった父のことだ、庇おうにも言われてもしょうがないことばかりだったと思う。反論もせず黙ってしまった僕に父の愚かさを散々吹聴した彼は最後にこう付け加えた。
「なんだ、なんで黙っているんだ? お前も馬鹿か? ちっ、あいつの息子じゃあ、しょうがねえな」
あの時のあの人の言うことは当たっていた。僕は馬鹿なんだ。何も出来ないんだ。
(全く君は傷付きやすいな。酔っ払いの言うことをいちいち気にするなよ。馬鹿でもいいじゃないか。でもその馬鹿なりに考えるんだ。「どうすればいいのか」じゃなく「どうしたいのか」を)
どうしたいのか? 誰を殴りたいのかってことか? そんなのは決まっている。順位表を付ければ間違いなく井山賢一と家来ズが独占だ。
(じゃあ言ってみればいいんじゃないか? お前を殴りたいって。井山賢一って奴は異常に「るう」に拘ってるんだから承諾するんじゃないか? いや、むしろ快諾かもしれんな)
(そんなこと言ったらこっちが殴られるだろう、普通)
(今のあいつは普通じゃないよ。ひょっとしたらお前に殴って欲しいんじゃないか?)
殴って欲しい? 僕にはそんな精神状態はわからない。わかりたくもない。
(とにかく時間はある。放課後までに答えを出すんだな)
ユニはそう言ったきり完全に黙ってしまった。アドバイスも何もしてくれない。僕は久し振りに孤独になった。そう言えばユニが頭の中に来て以来一人だけで何かを真剣に考えたことは無かったかもしれない。無言の「ルール」にうまく対処してくれたユニ。あれ以来、僕は彼に心のどこかで頼ってしまっていたことに気付かされた。
僕は真剣にひとりで考え始めた。
一時間目の終わり、僕はやはり井山賢一を殴ろうと考えていた。
三時間目の終わり、僕は家来ズたちの誰かを殴ろうと考えた。
給食中、僕は周りでいつもへらへら笑っているクラスメイトの誰かを殴ろうと思った。
最後の授業中、僕は自分で自分を殴って誤魔化せないかと浅知恵を捻り出していた。
放課後がやってきた。教室を出ていくクラスメイトの中を井山賢一がやってきた。後ろには家来ズたちの三人。決断の時だ。
「さあ、決まりましたか? 君が殴りたいのは誰ですか?」
「誰も殴りたくないよ」
自分でも驚くほどはっきりした口調でその言葉は出た。震えも迷いもそこにはなかった。
「どういうことです?」
井山賢一のその声が逆に震えていた。
「色々悩んだんだけど結局そんな考えになっちゃったんだ」
僕は井山賢一にそう言いながらユニにも同じ言葉を掛けていた。ユニがにやっと笑って頷く姿が脳裏に浮かんだ。
(やっとわかったか。恐れず嫌だって言う勇気。それこそおまえに必要なものなんだ)
「わかっているんですか? 罰があるんですよ?」
井山賢一の震えはひどくなっていた。これではどちらがいじめているのかわからない。
「わかってるよ。でも僕には誰かを殴るなんて出来ない。それだけなんだ」
これから殴られると言うのに僕の心は平静だった。これまで見たことの無い落ち着いた僕の雰囲気が気に食わなかったのだろう、家来ズの越岡が声を荒げた。
「お、おまえ、生意気だぞ! よし、お望み通り、罰を与えてやるから来い!」
越岡が僕の腕を掴もうと手を伸ばした。ところがその時、急に井山賢一が叫んだ。
「やめろ!」
僕も家来ズたちも驚いて思わず息を呑んだ。信じられないものがそこにあった。あの冷静沈着な井山賢一が怒りを表している。見たことの無い光景だった。
「やめろ、黙れえ!」
頭を抱えた井山賢一が感情を露わに叫んでいた。僕も家来ズたちも動けなかった。
「おい! どうしたんだ?」
福助が慌てた様子で教室に掛け込んできた。これではまるで僕と家来ズが彼を苛めているようだ。
「おまえが、変なことを言ったから、頭のこいつらが……、うっ、黙れ!」
井山賢一は頭を上げきっと僕を睨みつけた。以前とも先程とも違う眼付き。鋭いその眼光には殺意さえ感じられた。
彼はこちらを睨みつけたまま言葉にならない奇声を上げ真っ直ぐこちらに突っ込んできた。ユニが「危ない!」と叫んだ。僕は咄嗟に手を前に突き出していた。ぐっと踏んばるとその手に衝撃が伝わった。
その瞬間だった。
僕は「ハッ!」とした。
目の前に見覚えのある暗闇が広がっていた。
そんな馬鹿な! ここは……。
「よおし、手を離すなよ、仁悟。こいつらとの話が終わるまでは」
隣のカバがそう言うのを僕は茫然と聞いていた。それがユニであることを認識するのにさえ時間が掛かった。彼の姿がこうして隣に見えるこの空間。間違いない、ここは鈴歌さんと体験した意識の世界だ。つまり井山賢一の中にも翔馬のカケラがいるということに他ならない。彼はあの時すでに事件現場からは随分遠ざかっていたはずなのに。距離は関係なかったということだろうか?
「それにしても良く掴んだな。あのまま突き飛ばされてもおかしくなかった」
「ああ、自分でもびっくりしているよ。それより……」
僕はユニと会話しながらも眼の前の人影に気を取られた。虚ろな眼で周りを見渡す井山賢一。問題はその両隣りにいるものだ。それはいわゆるピエロの格好をした二人の子供だった。幼稚園児くらいだろうか。瓜二つの小さなピエロがニコニコしながら井山賢一に寄り添っていて二人とも甘えるように彼のズボンを片手でぎゅっと握っていた。
「どこだ、ここは? カバ? こいつらは?」
井山賢一が放心状態のままそう呟いた。すると左隣のピエロがくすくす笑った。
「やだなあ、賢ちゃん。毎日、お新香を漬けた仲じゃないか」
「クレちゃん、それを言うなら親交を深めただよ。漬物じゃ臭い仲になりまんがな」
胡散臭い偽の関西弁で右隣のピエロが突っ込んだ。その瞬間、井山賢一はハッと何かに気付いたようだった。
「そうか、おまえたちがクレオビスとビトンか? 僕の頭の中でずっと騒いでいた」
そう呼ばれたピエロたちは「はあい」「ほおい」と元気よく手を上げた。井山賢一は信じられないといった感じで頭を振り、大きな溜息を吐くと、そこでようやく僕に気が付いたようだった。
「猪倉君! ここはどこです? 君は何か知っているのですか?」
どうやら彼は意識の世界に入ったのは初めての経験のようだ。僕は仕方なく自分の知っていることを全て話した。翔馬という少年から飛び出した光が自分に入ったこと。その後ユニと呼んでいる人格が自分の頭の中に出来たこと。今起きている通り魔事件は他のカケラたちが起こしているんじゃないかと疑っていること。そして鈴歌さんと偶然出会い、いま自分たちのいる意識の世界を体験したことなど。
改めて思い返せば自分でも混乱しそうな突拍子もない話だったのでなかなかうまく話せなかったが、井山賢一は真剣に聞いてくれたようだった。
「……なるほど。そうか、確かにあの日あの辺を歩いていた時から軽い頭痛が始まったんです。こいつらが言っていたのは嘘じゃなかったんですね、自分たちはあの少年の断片だって。そんな非科学的な話は信じられなかったから自分の頭がおかしくなっただけだろうと思っていたのですが……」
自分の頭がおかしいとさらりと話す井山賢一はやはりおかしい気がした。
「それにしても双子とは変わった成長の仕方をしたもんだ。君も大変だったろう。変な双子の相手をひとりでさせられて」
同情するようなユニの言葉に井山賢一は少し戸惑ったような表情を見せた。しかしそこへ隣のピエロがすかさず突っ込みを入れてきた。
「変な、とは何ですか! 変な、とは! もっとビブラートに包んだ言い方があるでしょうが!」
「クレちゃん、それを言うならオブラートやで。声、震わしてどないすんねん」
まるで漫才師のようだ。ピエロってもっと無口なイメージじゃなかったか。彼らの一部が井山賢一で出来ているというのが全く信じられなかった。一日中、頭の中でこれをやられたら確かに堪らないだろう。最近、彼がおかしかったことも納得出来るというものだ。僕は恐らく生まれて初めて彼に同情という感情を持った。
「猪倉君、では君はその鈴歌さんという娘と通り魔を探し出すつもりなんですね?」
「うん、これ以上野放しに出来ないからね」
「そうですか。……よし、では僕も行きましょう」
「えっ! な、なんで?」
正直思わぬ提案だった。決意の籠った彼の言葉に僕は動揺した。井山賢一が僕と行動を共にするだって?
「こうなっては僕も無関係ではありませんからね。一刻も早く事件を解決してこの元気なお子様たちに頭の中から出て行ってもらわなくては」
すると僕が何かを言う前にピエロたちがすかさず反応した。
「ビトン! 賢ちゃん、おれらを追い出す気だぞ。なんてはくしょんな奴だ」
「クレちゃん、それを言うなら薄情や。くしゃみしてもしゃあないやろ?」
うう、どうも彼らが間に入ると調子が狂ってしまう。
「そりゃ良いけど、事件の解決と俺たちの成仏はまた別の問題だと思うな。俺は小説をこの世に残したいって未練があるし、ごんちゃんは鈴歌ちゃんを守りたいだけらしい。じゃあ、そこのちびっ子ども、おまえらはどんな未練がある? おまえらが翔馬から引き継いでいる思いは何なんだ?」
ユニにそう聞かれたピエロたちはなぜか途端に悲しげな顔になった。
「よくぞ、聞いてくれました! おれらな、賢一に親孝行してほしいだけなんや。それなのにこの子ときたらへそ曲がりというか頑固でなあ。全然話に乗って来いへんのや。お母ちゃん悲しいわあ」
「おまえはお母さんじゃないだろ! でも本当に北上な奴だよな」
「だからクレちゃん、それ言うなら薄情やろ。おまえは前線か」
また漫才だ。薄情と言われた当の本人はちらっと二人を睨んだだけだった。
「クレオビスとビトン、聞いたことがあるな。確かギリシャ神話に出てくる話だ。女神ヘラのお祭りがあった時に巫女である彼らの母親は遠く離れた神殿まで行かなければならなかった。ところが牛車を引かせる予定だった牛がどこかに行ってしまい、彼ら兄弟はその代わりに自ら牛車を引いて母を神殿まで送り届けた。それを見た人々は彼らを世界一の親孝行者と称えたんだ。有頂天になった母親はヘラにお願いをした。自慢の息子たちに最高の幸せをお与えくださいと。すると次の日彼らは死んでしまったんだ」
「死んだ? なぜ?」
僕は尋ねた。
「人にとって辛い生ではなく死が一番の幸せだとか、栄光を掴んだのだからぼろが出ないうちに死ぬのが幸せなんだとか、人は死んで初めて自分が幸せだったかわかるんだとか、まあ、解釈はいろいろあるようだな」
ユニの話は僕の記憶には無いものだった。つまりそれは翔馬という少年の持っていた知識なのだろう。ひょっとしてユニに翔馬の記憶が戻りつつあるんじゃ? 僕の密かな心配を余所にユニは井山賢一と話を続けた。
「それにしても親孝行か。翔馬って奴は親思いな所もあったのかね? 代わりに井山に親孝行をしてほしいってことだろう? 簡単じゃないか、駄目なのか、賢一?」
「駄目です」
井山賢一はユニの質問に即答した。クレオビスたちが横でブーブーと叫んでいたが彼は無視した。やはり彼は見た目と違い、かなり捻くれている。ふいに親父さんの顔が浮かんだ。うまくいっていないのだろう。お互いに何を考えているかわからないような親子が普段有意義なコミニケーションを取っているとは考えづらい。
「とにかく僕も翔馬のカケラって奴に興味を持ちました。その鈴歌って娘に会って話を聞いてみたい。明日は僕もご一緒させてもらいますよ」
彼の言葉は提案ではなく強制に近かった。口調は丁寧でも異を言わさぬ雰囲気、いつもの彼だ。仕方なく僕は頷いた。ユニも味方は多い方がいいと喜んで賛成したが、あの井山賢一が味方だなんて僕には信じられない話だった。
「よし、話はまとまったな。じゃあ仁悟、手を離せ」
僕は頷くと相変わらず親孝行はどうしたと騒ぐピエロたちの声を聞きながらこの間のように現実世界での手を離すイメージを浮かべた。
ふと気が付くといつもの教室で僕は手を前に突き出したまま立ち尽くしていた。一方井山賢一は驚いたようにきょろきょろと周りを確認していた。人の位置は微塵も変わっていない。意識の世界では長々と話していたと言うのに現実の世界ではやはり一瞬の出来事らしい。ほっとした瞬間、そこに福助の怒号が響いた。
「おい、お前ら! 何やってるんだ! 喧嘩か?」
僕は反射的に固まった。怒鳴られると体も思考も止まってしまう。
「すみません、先生。驚かせてしまいましたか? これは喧嘩じゃなくて劇の稽古なんです」
「劇? 稽古?」
「ええ。僕たちは芝居と言うものに興味がありましてね。僕が考えた脚本を元に芝居の稽古をしていたんです。ちょっと熱が入りまして申し訳ありません」
「そうか、喧嘩じゃないんだな? そうだよな、井山、君がそんなことするわけないよな?」
福助の頭に上っていた血がすうっと引いて行くのが見ていてもわかった。あまり大きい声は出すなよと注意だけして彼は職員室に戻っていった。そしてそれを見届けた井山賢一は馬鹿にしたようにふっと鼻で笑った。さすがは学校一の優等生の言葉だ。ほっとした半面、すらすらと詩でも詠むように嘘を吐く彼を改めて恐ろしく思った。
「では明日会いましょう」
彼はそう言い残して教室を出て行った。慌てた子分ズたちが後を追い掛けていくと僕は教室に一人取り残された。不安のせいか体が重い気がしてしばらく動けなかった。
(妙な展開になってしまったな。井山に鈴歌ちゃん取られるかもしれないぞ)
(ぼ、僕はそんなことを心配してるんじゃないよ)
(これではっきりしたカケラの数は五つかな? いったい幾つに分裂したんだろう、翔馬は?)
ひょっとしたら人間はみんな分裂したいという欲求を心のどこかに持っているんじゃないか、ふとそんな考えが浮かんだ。自分の弱い部分を捨て去って別の自分を作り出したい、誰もが一度は考えることではないだろうか。あの井山賢一でさえその欲求があったということなのだろう。弱っちい僕も死んだら自分のことが思い出せないくらい細切れに分裂して他人の心に住み着いてしまうんじゃないか、そんなことを考えながら僕は家に帰った。
家に着いた僕はすぐに鈴歌さんに連絡を取った。こっちの事情を教えておかなければならない。クラスメイトの中に翔馬のカケラを持っている人間が見つかり明日は彼も連れて行くということを伝えると、彼女もかなりびっくりしたようだった。「どんな人?」という質問があった。
僕は返事に困った。正直に僕の印象を書けば書くほど彼女を不安にさせる気がする。それにそれは僕の問題だ。仕方なく当たり障りのない感じに彼のことを表現しておいた。頭がいいし頼りになりそうな奴だよ、と。まあ、嘘では無い。性格には触れないことにしよう。
それより心配なのは井山賢一が鈴歌さんの傷を広げないかということだ。彼の性格上、自分の問題を解決するためには人の問題などお構いなしだろう。
それにしてもなぜこんなに心配事が増えていくんだろう?
嘆く僕に対してユニが呑気にこう言った。
(心配事が増えたのは守りたいものが増えたからさ。君はこれまでつまらないことに縛られて視野を限定せざるを得なかったんだ。贅沢な悩みを持てるようになったってことだよ。喜んでいい)
そういうものかな?
結局、僕はその夜も心配という枕を抱きかかえて寝るしかなかった。
僕はあくびをしながら自転車を走らせていた。下りだからスピードは上がっていくがいつもの爽快さをまるで感じなかった。いつもの県道が全く知らない道のように思えるほど憂鬱な気分だったのだ。眼の前に現れた川も本当に三途の川のように見えてしまう。これを越えると地獄の始まりだ。
(心配性だな、君は。出たとこ勝負って言葉を知らないのか?)
(それはそれなりに実力のある人が使う言葉なんだよ)
ユニに文句を言ったら少し気が晴れた気がした。ユニなりに気を使ってくれたのだろう。もう覚悟を決めるしかなさそうだ。僕は自転車のギアと一緒に気持ちも入れ替えた。
駐輪場に到着するとそこから歩いてこの間の店の前に向かった。まだ約束の時間には早い。そう思っていたのに鈴歌さんの姿がそこにはあった。淡いグリーンのスカートが彼女の雰囲気にすごく似合っている。僕に気付いた彼女が手を振った。
「ごめんね、待たせちゃったかな?」
「ううん、私が早く来過ぎたの。なんか落ち着かなくて」
確かに彼女は僕以上に不安げな表情だった。何か安心させられるような一言を掛けなければ、僕がそう思った、その時だった。
「猪倉君」
僕は唐突に自分の名を呼ばれドキッとした。何食わぬ顔で井山賢一はすっと僕たちの横に現れた。どこかの物陰でタイミングを計っていたような登場の仕方だった。いったいどこに隠れていたんだろう? まるで尾行中の探偵だ。
「あなたが鈴歌さんですね。初めまして、井山賢一です」
「あなたが仁悟君のお友達ですか? 初めまして、菅崎鈴歌です」
互いに会釈をした二人が顔を上げ、お互いの顔を確認するかのように眼と眼を合わせた。そんな当たり前のことに動揺している自分に気付いて僕は驚いた。
(最近の君は自分に驚いてばかりだな。いい加減、己というものを知りたまえ。それより中に入って今後のことを話し合った方がいいんじゃないか?)
ユニにそう促され少し落ち着いた僕は二人に店の中に入ろうと提案した。一週間前に二人で座った場所に三人で座ったが、井山賢一と一緒にこの場にいることがまだ不思議な感じだった。
(呉越同舟という奴だね。今は嵐の時と言うわけだ)
確かにユニの言うとおりだ。それだけ緊急事態なのだと改めて実感した。
「まだ少し早いがお昼だね。今日は僕が出そう。好きなものを何でも頼んでいいよ」
井山賢一がさらっとそう言った。さすがは名家。僕がこの前言いたくても予算の関係で言えなかった台詞を何の気負いも感じさせずに軽々と言ってしまう。でも結局僕も鈴歌さんもこの前と同じセットを頼んでしまった。それが庶民というものだ。食事の間、井山賢一は澱みなく鈴歌さんと会話していた。いきなり翔馬のことを聞くんじゃないかと心配していたがお互いの簡単な自己紹介などで何の変哲もない内容だった。僕の心配し過ぎだったのか。
「さて、それでは本題に入りましょうか。彼らも一緒に」
食事が終わると井山賢一がそう切り出した。僕と鈴歌さんは黙って頷いた。「せえの」で三人が輪になるように手を繋ぐことにする。
「せえの」
いつものように僕は「ハッ!」とした。暗闇に浮かび上がる彼らの姿。うまくいったようだ。お互いの連れを知らなかった井山賢一と鈴歌さんは相手の隣にいるものを興味深く見つめていた。
「じゃあ司会進行は経験豊富なこのユニに任せてもらえるかな?」
「ユニさん、生まれたのはおれらと変わらへんくせに。おっさんなのは口調だけやろ?」
不服そうにビトンが口を尖らせた。
「翔馬って奴は本当に色々な面を持っていたんですね。どんな人間奴だったのか興味が湧いてきます」
井山賢一が呟いたのは独り言だったが、それは鈴歌さんへの質問のようにも聞こえた。
「とにかく今後どうするか意見を交換しよう。言いたいこと、聞きたいことをしっかり確認しておかなくちゃな。今後はみんな命懸けの行動を取らざるを得ないかもしれないんだから」
ユニの言葉に一人を除いたみんなが頷いた。みんなの視線を集めたのはごんちゃんだ。
「私は探偵ごっこ自体反対なの。前にも言ったけど私の望みは鈴歌を守ること。それ以上でもそれ以下でもない。危ないことはしてほしくない。例え翔馬が絡んでいることでも」
それだけ主張すると彼女は再び黙ってしまった。鈴歌さんは不服そうだった。
「私は自分だけ安全な所にいるなんて耐えられない。危なくても悩むくらいなら動いていたいの。えっと、井山君も協力してくれるんだよね? 私たちと一緒に行動してくれるの?」
それは僕もちゃんと確認しておきたかったところだった。
「もちろんです。ただ、協力するならそれなりの情報が欲しい。その角田翔馬という少年についてあなたが知っていることを出来るだけ詳しく教えて頂けますか?」
僕は鈴歌さんの表情をちらっと窺った。僅かな躊躇いも見られたが彼女は力強く頷いた。
「そうね、初めて会ったのは何カ月か前、公園で声を掛けられたの。学校も違うから見覚えの無い子だったんだけど、初対面なのにいきなり好きだとか付きあってと言われて、もちろん、私は断ったわ。そしたら後を付けられたり付きまとわれるようになって……。だからあの日、義理の父と彼と私の三人で話し合うことになっていた。そうしたらあんなことに……」
そこまで話した時、彼女は急に顔を顰めた。頭に痛みがある様子だった。
「鈴歌! 無理に嫌なことを思い出さなくてもいいわ」
隣にいるごんちゃんが優しく彼女に声を掛けた。僕も同感だったので「そうだよ」と続けた。僕だって意識が戻ったすぐ後は医者に「無理をするな」と念を押されたのだ。事件の当事者の彼女が拒否反応を示すのは無理もない。
「もういいですよ、鈴歌さん。だいだいわかりました。彼は典型的なストーカーですね。一方的な感情を相手に押し付けるのが愛だと思い込んでいるやっかいなタイプだ。さらに死んでからもこれだけ迷惑をかけているのだから、たちが悪い」
井山賢一の皮肉にユニたちは少し憮然としていたが何も反論はしなかった。
「では作戦会議に移りましょう。この中で誰かカケラの正確な数がわかる方はいますか? ここにいる三組、通り魔で捕まった二組、あと幾つのカケラがいるのでしょう?」
いつの間にかユニではなく井山賢一が司会進行を行っていた。だが誰も彼の問いには答えられない。それは当然のことだった。
「すぐ目の前で目撃した僕がわからないんだから誰もわからないと思うよ。それに君の所までカケラが飛んだってことは現場からの距離は関係ないってことだよね? やっぱり街をうろうろしながら根気強く様子がおかしい相手を見つけるしかないんじゃないかな?」
僕がそう言うと彼はやれやれといった感じで頭を横に振った。
「猪倉君、君は闇雲にこの辺りをほっつき歩く気かい? 君がそのつもりなら止めはしないけど」
「えっ、じゃあ、何か当てがあるとでも?」
「僕なりに昨日考えてみたんだ。まず通り魔事件はいま自分たちがいるこの繁華街で起きている。一度目は突発的だった。だが二回目は失態と言っていいだろう。誰のとは言わないが」
おそらく「警察の」ということだろう。彼の発言の向こうには父親が見え隠れした。
「同じ場所で二度起きたんだ、もう油断はないでしょう。実際この辺で警察の姿もよく見かけるようになっています。それに歩行者自体も警戒しているはずだ。もし翔馬のカケラがまだ潜んでいるとしても警備が強化されたこの辺で同じことをやろうとは思わないのではないでしょうか?」
「じゃあ、別の場所でやるって言うのかい?」
「その前に過去の二件を分析しよう。犯人は別々だ。彼らは偶然翔馬のカケラに入られて唆されただけだろうから次の犯人を推測する材料にはならない。では被害者はどうか。共通点がある。二人とも女子中学生だ。そう、鈴歌さんと同じくらいのね」
鈴歌さんは眼を見開いた。
「おそらく翔馬という奴の鈴歌さんへの執着がカケラたちにも残っているのだと思います。でもはっきりとした過去の記憶が無いものだから無差別に同年代の女性を襲ったんじゃないでしょうか?」
「やっぱり……、私のせいなんだ……」
鈴歌さんは涙を浮かべ下を向いた。僕はそれを見た瞬間居てもたってもいられなくなった。
「そんな、鈴歌さんのせいなんかじゃないよ!」
自分でも思わぬほど大きい声が出ていた。驚いた彼女が顔を上げ濡れた瞳でこちらを見た。僕は自分でもわかるくらい顔が赤くなっているのを感じた。
「猪倉君の言うとおりです。問題は次の事件をいかに防ぐか。襲われるのが中学生であると限定出来るなら監視すべき場所が自ずとわかるはずです。ここからそう遠くなく若い世代の女の子が集まるような場所」
その時「あっ!」と鈴歌さんが声を上げた。彼女はあるショッピングモールの名を上げた。まだ数年前に出来たばかりの施設だ。ちょっと郊外にあるが若者向けの新しい店が多く賑わっている場所だった。確かにあそこはいつも女の子が多い。
「よし、決まりですね。そこに行ってみましょう」
僕と鈴歌さんは頷いた。
「いいか、君たち。十分に気を付けるんだぞ」
心配そうにユニが念を押した。まるで僕たちの父親のようだ。
「そうそう、友人指定な」
クレオビスがボケた。
「それを言うなら『用心してな』や。友情は指定何か出来へんで」
ビトンが突っ込んだ。いつもの流れだ。
こうして他のカケラが騒ぐ中でもごんちゃんは結局なにも言わなかった。おそらく鈴歌さんの意志の固さを感じ取ったからだろう。
僕たちは話し合いを終え、また「せえの」で手を離すことにした。意識の世界ではなく現実の世界の手を離すイメージを行うわけだ。経験者である僕が先導し呼吸を合わせた。
「せえの」
音と光が戻ってきた。
見慣れた店内。僕は一応周りを確認したがこちらに関心を示している客はいないようだった。つまり僕たちが輪になっていたのはそれだけ一瞬の時間だったということだ。やはり意識の世界と現実の世界の時間の長さは全く違っているようだ。
僕たちは早速店を出てショッピングモールに向かうことにした。三人とも同じ駐輪場に自転車を止めていたので、まずはそこに立ち寄った。僕と鈴歌さんは偶然近い場所に止めていたが、井山賢一はかなり奥に止めていたようだ。おかげでちょっとだけ二人きりになれた。
「あのさ、あの井山君って……」
突然鈴歌さんがそう切り出した。
「えっ、何?」
「すごく頭いいよね。でも何か冷静すぎるって言うか、ちょっと怖いかも」
驚いた。彼のことをそう評したのは彼女が初めてだったからだ。ほとんどの女子は普通手放しで彼を誉め称えるのに。やはり彼女は違う。僕は少しほっとした。
「あっ、ごめんね、あなたのお友達なのに」
「いや、いいんだ。実は僕も似たようなことを思っていたんだよ。だから正直驚いた」
「えっ?」
「あ、えーと、その、なんでもないよ」
僕がそう言ってごまかすと彼女はそれ以上深く聞いてはこなかった。そのまま二人で駐輪場の入り口で待っていると噂の主が自転車を押して出てきた。僕たちのように籠の付いた自転車じゃない。何かピカピカしている。見るからに高そうだ。
「すごいね、これ。こんなの見たこと無い」
鈴歌さんが感嘆の声を上げた。
「外国製ですから」
さらりと言いやがった。彼にとってこれは自慢でも何でもないのだろう。「じゃあ、行きましょうか」と言い、彼がそれに飛び乗る様は本当に絵になった。彼を先頭に自転車を走らせながら眼の前の自転車は僕の家の何カ月分の生活費なんだろうと変なことを考えてしまった。
二十分ほど自転車を走らせると眼の前に大きな駐車場が見えてきた。土曜日と言うこともあり空きがほとんどないほど混雑していた。人もかなり多いのだろう。
(当たり前だ。車が人間を乗せずに一人で走るわけ無いだろう?)
ユニの突っ込みを無視して僕は自転車を止めるスペースに向かった。三人で同じ辺りにそれぞれの愛車を止めると井山賢一がこう提案してきた。
「じゃあ若い女性が集まりそうな店の前で様子を見ましょう。そうだ、鈴歌さん、どこか女の子に人気のある店を知りませんか?」
「あ、それなら……」
僕たちは鈴歌さんがたまに行くという店を中心に怪しい人物がいないか張り込んでみることにした。ショッピングモールの中に入るとやはり人がいっぱいだった。老若男女、世代を問わず活気があって、こういう場所にあまり来ない僕は人の多さを見ただけで気落ちしてしまった。
(通り魔騒ぎがあったっていうのにこの人の多さか。自分だけは大丈夫って思うんだよな)
(お祭りみたいだね。祭りは参加せず遠くから眺めている方が好きなのは僕だけかな?)
(それは君だけだよ。やる前から後の祭りなんて気にしてたら楽しくないだろ?)
人をかき分けるように進んでいくと鈴歌さんがある店を指差した。なるほど可愛らしい洋服が並んだ店だ。周りの店にも女の子が好きそうな雑貨や小物が並んでいた。
「じゃあ、ここを中心に見回りましょう。そうだな、男二人と女の子が三人で歩き回るのもちょっと変かもしれないですね。じゃあ僕は独りで少し離れた所を見ているので二人はこの辺を見回ってください。良いですか、きょろきょろしていると変ですから普通のデートっぽくしてくださいね。何かあったら深追いせずどちらかが呼びに来てください」
そう言うと井山賢一はさらに奥の方へと歩き出した。唐突すぎて何も意見を挟む余地が無かった。彼の言った「デート」という言葉が僕の顔を赤くしていった。
「行っちゃったね、大丈夫かな? 独りで」
鈴歌さんは心配そうだった。
「彼は冷静沈着だから無理なことはしないと思うけど」
「そうだね。深追いするなって言ってたしね。じゃあ、私たちもこの辺を歩こうか?」
僕たちは歩き出した。ちらっと鈴歌さんの横顔を見ると通り魔探しとは違うドキドキを感じた。女の子と二人で並んで歩くなんて初めてのことだ。
(おいおい目的を忘れるなよ。遊びに来たんじゃないぞ)
ユニが呆れたようにそう言った。
(わかってるよ!)
僕は当初の使命を思い出し辺りを窺った。あまり大っぴらにはきょろきょろ出来ないので眼だけ動かして怪しい奴がいないか注意を払った。しかし全員が怪しく見えてしまった。結局見た目ではぜんぜんわからないのだ。相手が刃物を取り出すぎりぎりを見つけなければならない。
「わあ!」
僕はびくっと跳び上がりそうになった。今のは鈴歌さんの声だ。まさか、通り魔が現れたのか! 僕は慌てて彼女の方を振り返った。
「かわいい! このウサギちゃん!」
彼女の目を奪っていたのは通り魔などではなく抱えられないほど大きな兎のぬいぐるみだった。僕は安堵感と共に心の中でずっこけた。
(あれは明らかに本物の兎より大きいぞ。それに「でふぉるめ」し過ぎで耳が長いということ以外は兎じゃ無い。あんな出来の悪い偽物がかわいいっていうのは人間の不思議な所だよな。本物だけに囲まれても生きていけないんだろうな、人間は)
カバが言うと説得力がある。僕はかわいいを連発している彼女の横に並び、ちらっと値段を確認した。僕の財布の中身ではまるで足りない。買ってあげると言う選択肢は瞬殺された。井山賢一なら余裕で買えるだろうなと思うとどこからか悔しさが込み上げた。
「あっ、ごめん。そんな場合じゃなかったね。行こう」
ようやく隣にいる僕に気付いた鈴歌さんはぬいぐるみをそっと戻して恥ずかしそうに歩き出した。
その時、後ろから僕たちを呼び止める声が聞こえた。井山賢一の声に間違いなかった。
僕たちは慌てて後ろを振り返った。
買い物客の間を縫うように早歩きしてきた彼は僕たちの眼の前まで来ると小声で囁いた。
「あっちに怪しい奴がいました。すれ違った時に何か独り言をぶつぶつ呟いていたんです。覚えがあるでしょう? 僕たちにも」
確かにそうだ。頭の中でユニと会話をしているとつい声に出してしまうことがあった。
すぐさま僕たちは井山賢一の後に付いていった。数十メートル歩いた所で彼は目立たないように素早く指をさした。そこにいたのは三十代くらいの男性だった。ソフトクリームを売る店の前で何をするわけでもなくぼうっと突っ立っていて待ち合わせという感じでもなかった。確かに注意して見れば様子がおかしい気がした。
僕たちは怪しまれないように少しずつ間合いを詰めていった。近づくにつれ、そいつの口が動いているのがはっきりしてきた。男はズボンの右ポケットに手を突っ込んでいた。そして店からソフトクリームを持った三人組の女の子が出てきた瞬間、彼がそこから取り出したものは紛れもなくカッターナイフだった。
「危ない! 離れて!」
僕たち三人はほぼ同時に叫んでいた。周りが「えっ」という顔で振り返ると男も同じように驚いたようで手にしていたカッターの動きが一瞬止まった。女の子たちもやっとそれに気付いたようだ。「きゃあ」と言う声が上がり彼女たちが持っていたソフトクリームが空中を飛んでいった。そして当たってもなんてことの無いものなのに男は反射的にそれを避けた。井山賢一はその隙を見逃さなかった。一気に相手へ突っ込んでいった彼はそのまま相手の持っているカッターを蹴り飛ばした。カタンと小さい音がしてそれは床に落ち、男は痛そうに右手を押さえて後退りした。
「誰か警察を呼んでください!」
井山賢一が叫んだ。金縛り状態にあった周りの店の人たちが慌ててバタバタと動き出した。
「もう逃げられないよ。じゃあ警察が来るまで話を聞かせてもらおうか。あなたの中には翔馬のカケラがいるんだね?」
「ぺ、ぴが、さすう」
男が答えたのはそれだけだった。
「ちっ、どうも正気じゃないですね。こちらの質問には答えてくれそ……」
井山賢一が僕たちの方に向いた僅かな一瞬の隙だった。男は左のポケットに手を突っ込んだ。そこからは床に落ちたものと全く同じカッターが取り出されたのだ。先程の井山賢一をも上回るスピードで男は動いた。誰も止める間もなく男の太い腕が井山賢一の首に巻かれ、同時にカッターは首筋に突き付けられていた。形勢はまさに一瞬で逆転した。井山賢一は怖がるような素振りこそ見せなかったものの「しまった……」という悔しそうな顔をした。
「おい、そんなことはやめろ。もう警察も呼んだし逃げられないぞ」
ソフトクリーム屋の向かいにあったたこ焼き屋のお兄さんが男に向かって呼びかけた。だがおそらく彼は話の通じる状態じゃないのだ。男はぶつぶつ何かを言いながら血走った眼で取り囲んだ群衆を見渡した。その時その視線がある一点で止まった。
まずい! 鈴歌さんだ!
「お、おお、おおおお、おまえのせいでええええ!」
男は捕まえていた井山賢一をいきなり突き飛ばし、その勢いのままこちらに向かい突っ込んできた。それを見た瞬間、僕の体は自然と彼女の前に動いていた。ユニの「危ない!」の声。僕は眼を瞑った。鈴歌さんの悲鳴。だが何も起きなかった。恐る恐る僕は眼を開けた。目の前に大人の男の背中があった。通り魔の突き出したはずの腕はすでに捩じり上げられカッターも床に落ちていた。
「危なかったな、君たち」
聞き覚えのある声。その人が振り向いた。井山パパだった。
「次はこの辺りじゃないかと警戒していてよかったよ。それにしても賢一と君たちが一緒にいるとは驚いた」
僕は力が抜けてしまい、がくっと座りこんだ。鈴歌さんが手を差し伸べ「大丈夫?」と声を掛けてくれた。
「もう大丈夫だ。それより……」
そういうとそれまでにこやかだった彼の顔がキリッと変わった。
「おい! 賢一! おまえはここで何をしているんだ? 危険な探偵ごっこか!」
僕たちに掛けたのとはまるで違う厳しい声で井山パパが井山賢一を叱責した。その時だ。井山パパが押さえつけていた通り魔が突然苦しそうに何かを叫び始めた。
「ぴい、さす、せいで、しにたくな、わるくな、おれ、まだ、しななあああああ!」
叫んだのと同時、それは光だった。そう、まさにあの時に見たものと同じだ。翔馬という少年が死んだ時に飛び出した光。それが通り魔の体から飛び出したのだ。空中に浮かんだ光の玉を僕は唖然として見つめた。横目で見ると鈴歌さんも井山賢一もそれに釘付けになっていた。ところがその光のすぐ下にいるはずの井山パパはまったく光に気付いていないようで叫んだ後ぐったりとした男性に必死に呼びかけていた。周りにいた野次馬たちもそうだ。誰一人、光に気付いた様子の者はいなかった。そう、こいつは僕たち三人にしか見えていないのだ。
すると僕たちが見守る中、光は突然急発進した。真っ直ぐロケットのように飛び上がったそいつは屋根をすり抜けると、どこかに消えてしまった。
やがてどこからかパトカーの音が聞こえてきた。井山パパの押さえている男はすでに気を失っているようだった。
「……もう行きましょうか」
茫然と座り込んでいた僕と鈴歌さんにいつの間にか立ち上がっていた井山賢一が声を掛けた。先程まで首元にカッターを突き付けられていたというのに涼しい顔だった。
「えっ、行こうって、いいのか? お父さんはどうするんだい?」
僕の質問には答えず彼は人込みをかき分けひとりで歩き出した。慌てて僕と鈴歌さんは彼の後を追い掛けた。井山パパの呼び止める声が聞こえていたが彼は振り返ろうとさえしなかった。
「まずいんじゃない? 残らないと。僕たちも事件に関わっちゃったんだし」
「今までの事情も話さなきゃならなくなるでしょう? そんな話を信じる奴じゃないんですよ」
彼は本当に忌々しそうにそう父親を表現した。それは井山賢一が初めて見せたはっきりとした負の表情だった。
「そんなことより気になることがあるんです」
自転車置き場のところまでやってくると彼はそう言った。
「会議がしたい。いいですか?」
僕と鈴歌さんは顔を見合わせ黙って頷いた。
そして僕たち三人はまた手を繋いだ。
暗闇の世界。早速、井山賢一は喋り出した。
「いいですか? 今、僕たちは意識の世界にいますよね。頭の中に翔馬のカケラを持っている僕たちが触れ合うとこうなってしまう。そうでしたね?」
「それがどうしたんだ? 今更だな」
ユニがそう言うと井山賢一は真剣な目付きでこちらを見返してきた。
「さっき、僕はあの通り魔に人質にされました。がっちり片腕を首に回されたわけです。当然この暗闇が現れるはずだった。ところが何も起こらなかったんです」
僕たちは「えっ!」と声を上げた。そう言えばあの時、確かに彼も通り魔も何の反応も示さなかった。現実の世界で一瞬とはいえ意識の世界に行ったなら僅かでも表情の変化があったはず。
「それにあの光。他の人間には見えていなかったようですよね」
「あれが翔馬のカケラなの? でもカケラが体から飛び出たり出来るなんて知らなかった」
鈴歌さんがそう言うとごんちゃんが首を横に振った。ピエロたちも同じ仕草だ。代表してユニが説明を始めた。
「鈴歌ちゃん、それは無理なんだよ。考えてもみてくれ、俺たちは元々ちゃんとした人格じゃなかったんだよ? バラバラの断片になっていたただの情報の集まりだったのを君たちから足りない部分を少し分けてもらって別の人格として再生したんだ。つまり俺たちは君たちの一部、意識の底の方では繋がっているんだ。つまり宿主から飛び出るなんて出来っこない」
「じゃあ、何なんだよ、あれは?」
僕は聞いた。
「……ひょっとすると俺たちは大きな思い違いをしていたのかもな。通り魔がある度にそれと同じ数の翔馬のカケラがいるんだと思い込んでいた。でも違うのかもしれない。あれはな、たぶん翔馬のカケラの突然変異だ」
「必然変態? そりゃ怖い」
クレオビスがボケたが誰も突っ込まなかった。
「恐らく奴は俺たちのように宿主と融合した「たいぷ」じゃないんだな。どうやったのか知らないけど一個の人格として完全に独立出来ているんだろう。だからああやって体から飛び出すことが出来るし、俺たちと同一の意識の世界を持たないから触れ合っても何も起こらないわけだ。奴はもう俺たちとは違う存在と言うしかないな。宿主を自在に乗り変えられる化け物だ」
「じゃあ、今までの通り魔って……」
鈴歌さんが震えた声を出した。
「ああ、あいつ一人の仕業だろうね。あいつは入り込んだ人間の意識を乗っ取って通り魔をやらせていたのかもしれない。捕まったら体を捨てて別の体に乗り移っていたんだ。こりゃあ厄介なことになってきたな。あんな奴、捕まえる方法があるのか?」
誰も何も答えなかった。そして重い沈黙を破ったのは鈴歌さんだった。
「……とにかく私が何とかする。方法なんてわからないけど」
彼女の眼には強い意志が感じられた。それを見たごんちゃんが溜息を吐いた。
「何を言っているの? あいつにはあなたの記憶がおぼろげながらもあったみたいじゃない。危険だわ」
「だからこそ余計に私がやらなくちゃ。次の事件が起きる前に」
彼女は責任を感じているようだった。自分のせいであの悪霊のような存在を生み出してしまったと思っているのだろう。
「まあ、落ち着いて。今回のことであちらも警戒してくるかもしれません。それに警察もそろそろ本腰を上げて厳重に警備してくれるはずです。焦らず考えましょう」
井山賢一がそうまとめると僕たちの話は終わった。
現実の世界に戻ることになった僕はその前に決意しておきたいことがあった。どうせ現実の世界に戻れば意識を共有するユニにも知れてしまうことだが、今このタイミングでユニと分離している一人の状態の時だからこそ決意しておきたいことだった。
もし鈴歌さんが危険を冒そうとした時は僕が身代わりになる!
ざわざわとした音が戻ってきた。僕の決意を知ったはずだが、ユニは何も言わなかった。
「じゃあ、僕はここで。今日のことはちゃんと父にうまく言っておきますから」
そう言った井山賢一は自転車を走らせ一人で帰っていった。僕と鈴歌さんはなぜかすぐに走る気になれず、自転車を引いて、暫く無言で並んで歩いた。僕は自転車という乗り物は気分に左右されやすいものだと改めて思った。
やがて最初の大きな交差点が見え始めた時、唐突に鈴歌さんが口を開いた。
「あの、さっきはありがとう」
「えっ、な、何が?」
「通り魔が襲ってきた時、私の前に出てくれたよね?」
僕は急に真っ赤になった。
「あ、えっと、夢中だったから」
僕は照れ笑いを浮かべた。
「すごく嬉しかった。でもね、あんな危ないこと、もう絶対にしないでね」
本当に悲しそうにそう言う彼女に胸が詰まった。ただ黙って僕は頷いた。
交差点まで来ると彼女は「じゃあ、ここで」と言った。僕は手を振り自転車に乗った彼女の姿が見えなくなるまでそこで見送った。
(なぜ言わなかったんだ? 「ちゃんす」だったのになあ)
呆れたようにユニがブツブツ言っていた。彼には僕の心の声が聞こえているのだ。
君のためなら僕はいつだってためらい無く飛び出してしまうよ。
ナイスミドルなカバでも陽気なピエロでも無い僕はそんなこと言えなかった。
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