第二章 P[ペガサス]が刺す (もしくは、P[ピッグ]が刺す)
朝起きたら全部夢だった。
そんなオチは物語としては最低だ。それでも悪夢みたいな現実よりはいいかもしれない。
そう思っていたがそんなに甘くはなかった。朝起きるときっちりユニのおっさんが「おはよう」を言ってきたのだ。最悪の目覚めだった。
(おはよう、仁悟。今日は学校に行くのか?)
「おはよう、仁悟。今日はどうするんだい、学校?」
ユニの言葉に被せるように祖母がそう聞いてきた。思わぬハモリに思わずカチンときたが祖母に責任はない。
「大丈夫、行くよ」
僕は自分でもわかるほど引き攣った笑顔でそう答えた。祖母は少し眉をひそめたが頷いただけで特に何も言わなかった。
(そうか、感心だな。このわけのわからない状況で普通に学校に行くとは)
(あんたに言ったんじゃない! 誰のせいだと思っているんだ!)
僕は心の中で怒鳴っていた。こいつが現れてから頭の中が掻き回されっぱなしだ。ちくしょう、この調子で授業など受けられるんだろうか? いや、それよりも問題は別にある。報道されなかったとしても田舎の噂はあっという間に広まるものだ。それに井山賢一の父親の件。どちらにしろ僕が休んだ理由は知れ渡っているに違いない。あいつらにとっては僕をからかうための恰好の材料だろう。いったい何を言われるか、不安だった。
(ひょっとして「るうる」とかいう奴か?)
ユニのおっさんが言う「ルール」は相変わらず平仮名の言葉にしか聞こえなかった。
(そうだよ。毎日だからね。あいつ、飽きもせず考えるんだよ、次から次と)
(おまえも飽きもせず次から次に付き合うんだろ? 楽しいのか?)
皮肉な奴だ。僕の頭の中にいるということは僕が今までどれだけ「ルール」に苦しんできたか知っているということだ。面白いわけがない。怒りが込み上げてきた。
(あっ、そうそう、学校に行くなら「ますく」持って行けよ。風邪が流行っているらしいぞ)
こいつ、話を変えて誤魔化したな。そんな話は聞いたことが無かった。僕は溜息を吐くとのろのろと学校の支度を始めた。着替えている間にもユニがしつこく「ますく、ますく」と騒いだので、めんどくさくなった僕は渋々マスクを鞄に入れてやった。これで文句はないだろう。
朝食を食べ元気に行ってきますの挨拶した僕は家を出た。しかし角を曲がり祖母から見えなくなると自然とため息混じりに俯いてしまった。空元気では五分も持たなかった。
結局それからずっと自分の足元ばかり眺めながら学校に着いた。自分の席に座ると周りがひそひそとこちらを見ながら話しているのがわかった。顔を上げられず机を見つめていると聞きたくない声が耳に飛び込んできた。
「おい、イノジン。おまえもストーカーの仲間なんじゃないのか? 偶然あんなところにいたなんておかしいぜ」
井山賢一の家来の一人、竹原がニヤッと笑い立っていた。相変わらず人を不快にさせる才能に恵まれている奴だ。そういう大会があれば日本代表候補だったろうに。
「イノジン、気絶したんだって? 相変わらずビビりだな。へっ」
竹原の後ろから現れた銀谷が馬鹿にするようにこう言った。でも僕は知っているのだ。こいつは僕に負けず劣らず臆病だ。僕がいなかったら真っ先にいじめられ候補だったに違いない。
「あーあ、俺も見たかったな、飛び降り。すごかったんだろ?」
不謹慎なことを言ったのは越岡だった。こいつだって実際は銀谷と同じくらい気が弱いくせに。
三人に囲まれ辟易しているとようやくボスのご登場だった。
「やあ、おはよう。父がお世話になったそうだね」
いつものように丁寧な言葉遣いで井山賢一は近づいてきた。実に紳士的だ。これにみんなが騙されている。先生もクラスメイトもひょっとしたら井山賢一本人さえも。
「えっ、父が、ってなんですか? 賢一さん」
越岡が聞いた。
「彼が巻き込まれた事件の担当が父なんです。病院で会ったって言っていましたよ」
子分たち三人は「へえ」と驚いていた。どうやら僕があの事件に関わっていることを広めたのは彼じゃないらしい。意外な気がした。その時、学校に着いて初めてユニが呟いた。
(ほお、これが噂の井山賢一か。なるほど、悪そうな奴だ。丁寧過ぎて逆に気持ち悪いな)
気持ち悪いか。確かに彼の本性を知っている人間ならそう見える。だがほとんどの人間は彼のことを見本のような優等生と思っているだろう。人は結局見た目でしか判断出来ないからだ。
「じゃあ、今日の『ルール』を発表しましょうか?」
教室中が井山賢一に注目した。「待ってました」の声が掛かる。ちっ、僕は歌舞伎役者じゃない。
「では今日の『ルール』は『沈黙』にしましょう。誰に話し掛けられても喋らないこと。いいですね? 猪倉君。『ルール』を守れば罰はありませんから」
僕は力なく頷いた。またいつもの奴が始まる。あんなにとんでもなく非現実なことがあったというのに僕の嫌な現実は変わらない。この地獄はずっと続いて行くのだ、死なない限りは。
(おいおい、大げさだな。悲観的すぎるだろ。それに何のための「ますく」だ?)
マスク? 一瞬ユニが何を言っているのかわからなかった。そういえばユニがしつこくマスクを持って行けと言っていたことをようやく思い出した。出掛けに鞄に突っ込んできたあのマスク。
(それを掛けたら俺の言うとおりに行動してみな。「るうるう」は守れば文句ないんだろ?)
僕は授業が始まる直前、おっさんの言うとおりマスクを取り出し掛けてみた。やけくそな気分だった。最初の授業は数学だ。マスマスがいつものように元気よく入ってきた。この先生は口癖が「みんな元気か?」なのだ。「数学には体力も必要だ」が信念らしい。
「みんな元気か? よし、じゃあ、この前の宿題の答え合わせからしようか?」
そう言ったマスマスは教室を見渡した。当然みんな顔を伏せた。そんな中、僕とマスマスの眼は合ってしまった。まずい。
(今だ、咳き込め!)
頭の中でユニが叫んだ。咄嗟に僕はげほげほと咳をした。少々わざとらしかったが、それを見たマスマスは仕方ないという顔で視線を逸らした。
(よしよし、狙い通りだ。事件のこともあるし今日はこれで押し通せるだろう)
ユニの言うとおりその後も何度かあったピンチを僕は「先生まだショックで体調がすぐれないんです作戦」で乗り切った。しかし最後の授業が終わり、ほっとしていた僕を家来ズは取り囲んできた。
「おい、てめえ! 何だよ、そのマスク。ずるいだろうが!」
僕の失態を期待していた竹原はお楽しみを裏切られ機嫌が悪かった。今にも殴り掛かってきそうな勢いだ。ところがなんとそこに割って入ってきたのは井山賢一だった。
「待ちなさい、竹原君。『ルール』は『ルール』ですから。今日は彼の勝ちですよ」
そう言うと井山賢一は教室から出て行ってしまった。慌てて後を追う子分の三人を見ながら僕は喜ぶのも忘れ唖然とした。てっきりまた人目に付かない所に連れて行かれると思ったのに。
(ふーん、思っていた以上に潔いな。あいつは「るる」というものに異常なほどのこだわりがあるらしい)
こだわり? ただ、僕を困らせて楽しんでいるだけだろ?
(普通に苛めたいだけなら「るるるー」なんてめんどくさい「げーむ」にはしないと思うぜ? ただ命令して無理やりやらせればいいんだから。あいつはあいつなりの美学みたいなものがおそらくあるんだよ。いや、或いは「とらうま」と言った方がいいかもしれないな。「規則」というものに並々ならぬ執着でもあるんだろう。とにかく設定された「るんる」の中で工夫して上手くやればあいつは文句を付けられないんだよ)
考えたこともなかった。「ルール」にはちゃんと抜け道があるってことか。僕は今までただ嫌がり怯え、ルールは単純に守るか破るかしか出来ないと思い込んでいた。
(ふーん、考えたこともないか。じゃあ、あいつがなぜ君に目を付けたのかも気付いてないのか?)
何だって? そんなことに理由があるとは思えない。ユニには判るとでも言うのか?
(簡単さ。君とあいつが似ているからさ)
「はあ!? どこが似てるんだよ!」
僕は思わず大きな声を口から出していた。
教室に残っていた数人の女子が驚いた様子でこちらを振り返った。自分がいかに大きな声を出したのかそれでハッと気付かされた。恥ずかしくなった僕は鞄を取って慌てて教室を出た。
(感情を表に出せない所はそっくりだよ。ただそれを隠すための表現が違うだけさ。おまえは感情が顔に出ないように我慢して何も言わない。あいつは同じ理由で紳士的な口調を崩さない。やっていることは同じなんだ。自分の嫌な部分をおまえも見せるからむかつくんだろうな)
ごちゃごちゃとおっさんが説明してきたが僕は認めなかった。人を苦しめて楽しんでいるような奴と僕が似ているわけない。そんなことは絶対にありえない。全くこのおっさんはどうかしている。僕の一部を借りているなんて嘘っぱちだ。
(無意識におまえも心のどこかでは気付いていたんだ。だから怒っているんだろ?)
くっ……、本当にこいつにはイライラさせられる。そのせいか、ふと気付くといつもより早く家に着いていた。だいぶ早足になっていたらしい。次々と建て替えられていくご近所さんと比べ、だいぶ古臭くなった我が家の鍵を開けながら、僕は思わず愚痴をこぼした。
(ちぇっ、偶然マスクが役に立ったからって偉そうに)
(はあ? 偶然なわけないだろう)
(えっ? じゃあ……)
驚きで鍵を持つ僕の手は止まった。まさか、未来予知?
(あほか。そんな力がこの世の中にあるわけないだろう。漫画の読み過ぎだ)
(あんたは充分漫画っぽい存在だよ。じゃあなんで今日マスクが役に立つってわかったんだよ?)
(おめでたいな。俺はお前の記憶から推察したんだぜ。同じ情報を持っていても分析力でこうも活かし方が変わるものかね? いいか、井山賢一の「るうる」にはある程度の法則性がある)
(法則性? そんなの気が付かなかったぞ?)
(あいつは異常に几帳面だ。同じような「るるう」が続かないように観客、つまり他の「くらすめいと」にまで配慮してやがるのさ)
言われてみれば確かに同じ「ルール」が続いた記憶はなかった。
(それを分析すると今日は「何かを禁止」系のものが来そうだったんだ。なかでも「喋るな」は最近やってなかったから可能性が高いと思ってな)
次の「ルール」が予想出来るなんて思いもしないことだった。それが出来れば今日みたいに前もって準備をしてうまく切り抜けたりも出来るし心構えが変わってくる。「知は力なり」って奴か。
(おっさん、すごいな! 探偵みたいだ)
(そんなことはない。一生懸命生きているだけさ。生き残るためにはどうすればいいか、常に頭を使わなければならないからな。特に俺みたいな体を借りている記憶喪失の幽霊は)
結構良いことを言うな。目から鱗が落ちるとはこのことか。悔しいが僕はユニに一目置いてしまっていた。
(よし、じゃあ、今日も小説始めるか)
家に入り鞄を置くなりユニはそう言って急かしてきた。今日は学校で助けられた手前、言うとおりにしてやらなければならないだろう。僕はパソコンの電源を入れた。ワープロの画面を出してユニが話す通りに文字を打ち込んでいった。
「ただいま」
あれ? 婆ちゃん?
祖母の声がしたのでパソコンの表示時計を見るといつの間にか二時間半ほど時間が経っていた。どおりで腹が減ったわけだ。その割に物語はまだ導入部分しか書けていない。小説を書くのがこんなに大変だとは思わなかった。
(まあ、慣れだろうな。おまえの「わあぷろ」を打つ速度上がれば問題ない)
(僕のせいだけじゃないだろ。ユニだってちょっと言葉選びに迷ってたところがあったくせに)
ユニは黙った。都合の悪い所は黙るらしい。ちょうどそこに祖母が顔を出した。
「仁悟、ただいま。今日はお惣菜買ってきたからそれでもうご飯にしちゃおうか?」
「うん、わかった。すぐ行くよ」
祖母が部屋を出ていくと僕は文章を保存しパソコンの電源を切った。
台所に入るとテーブルの上にうまそうなコロッケが山盛りになっていた。とても二人分には見えなかった。またか。これは僕が気持ち的に弱くなっている時の祖母の癖なのだ。おかずが明らかに多くなる。僕は祖母を心配させないように隠しているつもりなのにいつもばれてしまうのだ。正直そんなに食欲があるわけじゃなかったが僕はその夕食のコロッケを四つも食べた。祖母が出したものは多くても残さず食べる。これは僕の癖だった。
食事が終わると僕は居間に行き、テレビを付けた。あの少年のことが気になったからだ。きっと何か続報が伝えられるはず。マスコミは暫くの間、徹底的にあの少年のことを調べるだろう。それが終わるのは次の事件でも起きてマスコミが飽きた時だ。
『最初は同世代の少女にストーカー行為を行っていた少年がその父親を殺害した事件です』
思った通り真っ先にあの事件が取り上げられた。僕は食い入るように画面を見つめた。
『亡くなった少年がどんな人物だったか、インタビューをご覧ください』
『気が弱そうな感じの子だったけど、ご両親とも仲良さそうで悪い子には見えなかったよ』
そう言ったのは近所のおばさんのようだ。良く聞くセリフだ。今の時代、見た目から悪い人間なんてそうそういない。みんな普通に見えるからこそ怖いのだ。
続いてインタビューに応じていたのは同級生とみられる女子だった。
『実はちょっと前までいじめられてたんです、彼。無口で何を考えているのかわからないところがあって。でも最近変わってきて、何か、ふっきれたって言うか、妙に明るくなって。でもやっぱ病んでたのかな? 人を殺しちゃうなんて……』
僕はドキッとした。自分と境遇が似ている気がしたのだ。僕も好きな人が出来てそこに救いを求めたのに拒否されたら同じようなことをしてしまうんだろうか?
(君にそんな度胸はないさ。安心しな)
また他人事のようにユニがそう言った。ちくしょう、誰のことを調べていると思っているんだ?
(うーん、どうもピンと来ないというか、記憶が戻る気配すら感じないな。記憶喪失ってのは脳にある記憶が引き出せない状態を言うんだろ? それは記憶自体が無くなっているわけじゃない。でも俺の場合は分裂したせいですっぽりそこが無くなっているようだ。物語を書きたいって言う強い思い以外全く思い出せん。その少年の「にゅうす」を見ていても他人事としか感じられないな)
参ったな。やはりこいつを消すにはワープロに慣れて、どんどん「ペガサスパラダイスとユニコーン転がれ」を書いて満足させて成仏してもらうしかないようだ。
(おい、こら! 「転がるペガサスとユニコーンパラダイス」だ。間違えるな!)
僕は(あー、はいはい、どっちでもいいだろ)と思いながらテレビに注意を戻した。今度は父親を殺された少女の友達という女の子が出てきたが何も聞いてないを繰り返していた。
『彼女、すごく他人に気を使うタイプなんですよぉ。だから誰にも相談してなかったのかも』
私にだけは相談してくれたら良かったのにぃ、と言う彼女は少し怒っているようにも見えた。もちろん顔は映っていないが口調でそうわかった。だが相談されていたら死んだのは彼女だったかもしれないのだ。自分に何もなかったからこそ言えることのような気がした。
相談されなくても気付くのが本物の親友だろうと親友のいない僕が思うのはおかしいことだろうか?
(俺が親友になってやろうか?)
(口の悪い中年オヤジの親友なんかいらない)
僕が即答した時、ニュースを読んでいたアナウンサーが突如慌ただしく動いた。
『番組の途中ですが、只今ニュースが入ってきました。つい先程通り魔事件が発生した模様です』
アナウンサーが挙げた地名はなんとこの近くだった。それを聞いた瞬間、祖母も身を乗り出してテレビに釘付けになった。
「通り魔だって! やだ、この近くじゃないの! カッターで突然刺したなんて、ひどいねえ。一昨日の事件があったばかりなのにさあ。……あ、ああ、良かった、犯人はすぐ捕まったって。襲われた女の子も大した怪我じゃないみたいだねえ。もう、全くこの辺りも物騒になったわねえ」
興奮した祖母がアナウンサーの言葉をいちいち通訳した。僕にもテレビの音は聞こえているのに。
(……うーむ、嫌な感じがするな)
急にユニがそう呟いた。不安そうな声だった。
(嫌な感じって?)
(俺に、いや、「あいつ」に関係ある気がするんだ、この通り魔事件)
(え、「あいつ」って、まさか、あの少年? なんで? あんたはここにいるんだから関係ないだろ? 記憶が無いと言ってもあんたがあいつじゃないか)
(お前の記憶見せてもらった時に気になったことがあるんだ。俺はあの少年から飛び出た光がおまえに入り込んで出来た存在だろう?)
(それがどうした?)
(お前の記憶を見る限りあの光は四方八方に散らばっていた。ということは)
僕は愕然とした。そうか、光は一つじゃなかったんだ。僕の頭の中にこいつがいるってことは同じことが他の人の身に起きていてもおかしくはない。
(俺はおそらくあの少年の「小説家になりたかったと」いう将来への夢の化身のようなものだ。もし他の光が少年の別な面を象徴しているものだったら? 人の中には色々な性質がある。あの少年は人を殺した。その性質を受け継いでしまった光を受け取った人間がいるとしたら)
(じゃあ、この通り魔は僕みたいに頭の中に別の人格を宿してしまった人だって言うのか? その声に唆されて人を刺したって)
僕は寒気がした。自分がそうなっていたのかもしれないのだ。
(全てはただの推測だ。証拠はない。捕まったって言うし、もう大丈夫だろうけどな……)
アナウンサーが容疑者として発表したのは無職の若い男性だった。ひょっとして彼もあのマンションの近くに偶然居合わせたのだろうか? そのせいでこんなことに……。僕は彼が気の毒になった。
(この人やっぱり重い罪に問われるのかな? 同情しちゃうな)
(でも声に踊らされたってことは心の弱さがあるんだろうよ。こいつにも責任はある)
(僕だってあんたじゃなく別の奴に入られていたらそうなっていたかもしれない)
(は? おまえは大丈夫だよ。意外と強いみたいだしな)
強い? 僕が? 皮肉にしか聞こえないが、その一方でなぜかちょっとだけ嬉しかった。
(ところで問題は光の数だ。幾つに分裂したのかね? うーん、君の記憶を探ってみても数までははっきりしないな。せいぜい五つか六つくらいだと思うが、残りの光がまともな奴であることを願うばかりだよ)
分裂してしまった少年の精神。そいつらも誰かの頭の中でこうやって話をしているんだろうか?
(ん? 自分と同じ経験をしている人に会ってみたいって思ったな。よせよせ、刺されちまうぞ)
ユニはそう言うがあの少年としての記憶を持つ光もいるかもしれないのだ。僕は彼のことをもっと知ってみたいと思っていた。
(そうすれば俺を成仏させるヒントが掴めるって思ってんだろ? 言っとくが記憶があるとかないとかたぶん関係ないぜ? 物語が完成するまで成仏しないぞ、俺は)
ユニは憮然とした感じでそう宣言した。
仕方ない。僕は自分の部屋に戻り、早くワープロに慣れようと懸命にキーを打ち続けた。
こうして夜は更けていった。
明くる日、学校に行き、席に着こうとした僕は少し驚いた。いつもは後から教室に入ってくる井山賢一がもうすでに自分の席へ座っていたのだ。しかもどこか虚ろな眼をしていて片手を額に当てていた。中学入学以来初めて見る彼の具合の悪そうな姿だった。
「井山さん、おはようございます。まだ痛むんですか? 頭」
遅れてやってきた越岡が心配そうに井山賢一に声を掛けた。井山賢一は「ええ」と一言答えただけだった。ぶっきらぼうな感じは明らかにいつもと違っていた。そこに今度は紙袋をぶら下げた竹原とその後から銀谷が一緒に入ってきた。
「井山さん、あれ、持ってきましたよ! ん、大丈夫っすか?」
竹原がそう聞いても井山賢一はまた「ええ」と力なく笑っただけだった。
「じゃあ、あの、そろそろ今日の『ルール』の発表してもらってもいいすかね?」
越岡が申し訳なさそうに井山に話し掛けた。「ああ、そうですね」と力なく笑った井山賢一は立ち上がりこっちを向いた。
「では今日の『ルール』ですけど、今日は一日中こいつを履いてもらいたいんです」
竹原から受け取った紙袋を井山賢一は僕に差し出した。恐る恐る僕は中を覗いた。まさかと思いながらも取り出してみるとそれは間違いなく女物の制服のスカートだった。教室中にどっと笑いが起き、「やだあ」と言った女子たちも言葉とは裏腹に面白がっているように見えた。
(そう来たか! 今までにない「ぱたあん」だな。予想外だ)
悔しそうにユニが叫んだ。もちろん僕の他の人間には聞こえない。
「もちろんズボンは脱いでくださいね。その方がさまになるでしょ。万が一、先生に見つかってもうまく自分で誤魔化してください。以上です」
そう言うと井山賢一は座った。スカートを持ったまま固まった僕。動けない。それを見た竹原が舌打ちをした。
「ちっ、姉ちゃんの奴を苦労して持ってきてやったんだぞ。早く履けよ!」
それでも戸惑う僕を見て越岡と銀谷が突然動いた。彼らは僕の腕を掴むと無理やり廊下に引っ張っていった。
「今回だけは特別にトイレで着替えさせてやるからよ。嫌なら教室だ。どうする?」
越岡にそう言われ僕は仕方なく抵抗することを止めた。二人がトイレの入り口で見張る中、ズボンを脱ぎスカートをはいた。上に着た制服とのミスマッチが実に情けない姿だった。
すーすーとして落ち着かない。初めての経験。もちろん二度とごめんだが。
このままトイレに籠ろうかとも思ったが後が怖かった。おずおずと出て行った僕を見て二人は大笑いした。そのまま手を引かれ教室に連れて行かれた。入った瞬間、大爆笑が起きた。笑い声のトンネルを潜り僕は席に着いた。するとそこでタイミングよくチャイムが鳴った。担任の先生が入ってきて起立の声が掛かり僕は仕方なくどきどきしながら立ち上がった。周りの視線を感じたがどうやら先生は気付かなかったようだ。何事もなく着席出来た。ため息の音こそしなかったがクラスメイト達の落胆の声が聞こえた気がした。
「おはよう。さっそくだが最近この辺りで物騒な事件が報告されていることは君たちもニュースなどで知っているだろう?」
福助は一瞬ちらりとこちらを見た。事件に巻き込まれたばかりの僕を意識したのだろう。福助とはもちろんあの人形そっくりの顔をした担任のあだ名だ。他の先生と違い本人公認のあだ名で生徒たちにもそう呼ばせている。学生時代からのあだ名で「かおる」という女っぽくて顔に合わない本名で呼ばれる方が恥ずかしいらしい。
「容疑者は逮捕されているようだがこんな田舎でも治安が悪くなってきているということに変わりはない。昨日の事件の被害者は別の中学の子だったわけだが対岸の火事というわけじゃないぞ。気を引き締めて油断しないようにしてほしい」
もう一度福助は僕の方をちらっと見た。心外だ、僕は別に油断していたわけじゃない。僕の顔に思わず不服な気持ちが出ていたのか、福助はしまったという顔で眼を逸らした。その後、彼は様々な細かい注意をし教室を出て行った。
「そんな格好してると変態に襲われちまうぜー」
銀谷がそう言うと再び教室は笑いに包まれた。僕は俯いた。
(「変態はおまえたちだろう!」って言ってやれよ)
ユニは怒っていたが僕にはもうそんな気力は無かった。戦意喪失だ。
抜け殻のような僕はそのまま一時間目、二時間目を乗り切った。とにかく「あてられまー」と唱え続けるしかない。ユニも今回は策がないようだ。先生たちが最後まで気付かないのを祈るしかなかった。
三時間目は国語だった。「ざます」というあだ名の女性教師が入ってくる。実際「ざます」と言ったところは見たことが無いがいかにも言いそうな顔なのだ。無事に起立、礼、着席が終わる。僕は油断していた。教科書を開いてすぐに彼女の金縁眼鏡が光った、ような気がした。
「じゃあ、今日から新しいところね。うん、じゃ、猪倉君、読んで」
心臓が止まった、ような気がした。いや、むしろ止まってしまえばよかったのに。慌てふためいた心を理性で何とか抑え付け、頭をフル回転させた僕は下半身に注目されないようにゆっくり立ち上がった。教科書を見ている「ざます」はまだ気が付いていないようだ。僕は天に祈りながら教科書を読み始めた。物語など頭には入って来なかった。ただひたすら字だけ追った。自分が何を読んでいるのかも分からなくなった。その時ふと我に帰り教科書から視線を外すと、そこには眼を丸くした「ざます」が立っていた。
「あ、あなた、それ……」
彼女の眼は明らかに僕の腰から下を見つめていた。「それ」の後の声が出て来ないがその続きはわかっている。「何でスカートなんてはいているざます?」と言いたいのだろう。僕は完全にパニックになった。教室中が笑いをこらえ息を呑んで僕の言い訳を待っていた。思考が止まり言葉が出ない。
その時、突然ユニが何かを囁いた。
え、えっ、マジで? それを言えってのか!?
それがベストな答えだとは思えなかったが仕方なく僕はそれを言った。
「すいません。趣味なんです」
大爆笑が起きた。しかし「ざます」だけが笑っていなかった。何を思ったのか、やがて彼女は引き攣った笑顔を見せた。どうも何か勘違いしたらしい。
「あっ、ああ、まあ、人それぞれですからね。おほほ」
取り合えず「ざます」はそれ以上突っ込まなかった。デリケートな問題だからだろう。面倒事はスルーという考えに至ったのかもしれない。僕もそれはそれで助かる。混乱した先生の隙に乗じて僕は何食わぬ顔で座った。教壇に戻った「ざます」は大きく溜息を吐くとその後は何事もなかったかのように授業を続けた。さすがはプロだ。こうしてこの時間を僕は乗り切った。
その後の他の授業は取り合えず何事もなく終了した。最後の授業の先生が出て行くのを確認してから僕は急いで井山賢一の席に向かった。
「あ、あの、ズボンは?」
「御苦労さま。今日の切り返しはなかなか面白かったですよ。ズボンは体育館にあるから急いで取ってきた方がいい。部活が始まったら大変だ。スカートは竹原君の机の上に置いて帰っていいですよ」
僕が何かを言う前に「じゃあ」と言って井山賢一と家来たちは教室を出て行ってしまった。
なんてこった! 体育館までこの格好で走って行けというのか?
でも迷っている暇はなかった。僕は教室を飛び出た。僕たちのいる三年教室は二階だ。飛び跳ねるように階段を下りた。ちくしょう、僕はバニーガールじゃないぞ。焦る脳裏にそんな言葉が浮かんだ。下級生らしい生徒と何人かすれ違ったが驚き振り返る彼らに言い訳している時間はなかった。
一気に渡り廊下を走り僕は体育館に入った。探すまでもなくど真ん中に何かが落ちていた。僕は走り抜けるようにそれをキャッチするとそのまま用具室に飛び込んだ。息が上がっていた。スカートをはき、ズボンを握りしめて「はあはあ」言っている姿はまさに変態そのものだ。「自分が変態の側なら襲われないかな?」と思わず変なことを考えてしまった。
ズボンに履き替えた僕は一日世話になったスカートをシャツの下に隠し教室に戻った。もう誰もいなかった。竹原の机に歩み寄り、怒りに任せてスカートを机に叩きつける、ことは出来ず、僕は結局丁寧に畳んでそれを置いた。
(誰も見ていないのに怒れないのか?)
不思議そうにユニがそう言った。
自分でもよくわからなかった。これは信念なのか、それとも、ただのトラウマなのか?
とにかく僕はただただ疲れ果てて学校を後にした。
スカート騒ぎで疲れ果てた僕はやっとのことで家まで帰り着いた。ところがそんな僕に対してユニは早くパソコンの前に座るように急かしてきた。なんでも第二章のアイデアが閃いたらしい。忘れないうちにあらすじを書いておきたいと言う。勝手な奴だ。
(ん、第二章って、いま書いてるのが一章だったのか? 聞いてないよ)
(あれ、言ってなかったっけ? 第一章「カウガール」だよ。それで第二章が「Pが刺す」というタイトルになるんだ。面白そうだろ?)
(ふーん。それでこれからどういう展開になるんだ? あんたの「転がるパラダイスとユニコーンペガサス」は)
(おまえ、わざと間違えてやがるな! ふん、まあいい。この熱いあらすじを聞けば興味も出るだろう)
そう言ってユニはパソコンの電源も入れていないうちに話し始めた。
カウガールたち警察と協力してアニプラリー失踪事件の捜査を始めたペガサス。なかなか手掛かりを得られず諦めかけた彼の前に突然謎の男たちが現れた。
彼らは問答無用で襲いかかってきたが、ペガサスは得意の蹴り技で文字通り一蹴。口が固く黒幕について全く語ろうとしない彼らを警察に引き渡した。
ところがその後警察に引き渡した彼らはあっさり口を割ったという。不審に思ったペガサスは報告に来たカウガールに詰め寄った。
「おい、どういうことだ? あいつら、命に賭けても話せないって態度だったんだぜ?」
「警察には警察の技術ってものがあるのよ。簡単にたとえるなら脳を無理やり覗けるような」
事件解決のために最新鋭ではあるが違法に近い技術を使っているという警察に憤るペガサス。綺麗事では何も解決しないと冷たく言い放つカウガール。言い争った二人の間には険悪な空気が流れてしまい、ついにペガサスは彼らと別行動を取ることにした。
一人で調査を始めたペガサスはやがて彼らのリーダーが「ピッグ」と呼ばれる男だと知った。豚鼻に豚耳のアニプラリーを施している大男で、数年前まで金持ち限定の闇賭博として行われていた格闘技大会で長くチャンピョンを守っていた男だった。それが突如謎の失踪をして噂では死んだことになっていたのだ。
情報を集め、その足取りを追ったペガサスの前についにピッグ本人は姿を現した。事件のことを問い詰めるペガサスに対しピッグは「愛する者のためだ」と呟いた。
戦い始めた二人。ピッグのパワーに対し得意の蹴り技とスピードで押し気味に戦うペガサス。しかしどんなに良い蹴りが入ってもピッグは倒れなかった。その執念にスタミナを奪われていったペガサスは転倒し窮地に追い込まれる。
ピッグの拳が振り下ろされる、まさにその時、銃声が聞こえピッグは倒れた。そこに現れたのはカウガールだった。彼女はその場で尋問を始めるが何も話さないピッグに苛立ち彼の頭に銃を向けた。するとそこに一人の女が飛び出してきた。犬耳のアニプラリーである彼女はピッグの妻だった。
「待って! 子供のためなんです! 彼は私たちの子供のためにこんなことを!」
「馬鹿野郎! 何も話すんじゃねえ!」
一喝したピッグに涙ぐみ黙り込んだ妻。そんな妻を見た彼は観念したかのように話を始めた。
「こいつの言うとおり俺はある目的があって悪いとわかっていながらアニプラリーたちを誘拐していた。自分の子供のためなんだ。だがそれ以上のことは言えねえ。あんたらも子を思う親の気持ちくらいわかるだろう? お願いだ、見逃してくれ!」
「そういうわけにはいかないわ。誘拐された人たちにだって家族はいるのよ。さあ、誘拐された人たちがどうなったのか。どこにいるのか、今すぐ話しなさい!」
今にも銃を撃ちそうなカウガールをペガサスは突然制した。
「待ってくれよ、嬢ちゃん。そうか、子をそこまで思っている親も居るのか。いや、考えてみれば当たり前なんだろうな、それが」
ペガサスの悲しげな声にカウガールは思わず銃を下した。
「俺の義父は良い人だったけどよ。実の親は俺を捨てやがったんだ。まだ赤ん坊の時にこんな翼を移植しやがって。あんたらみたいな、命懸けで子供を守ってくれる、そんな親が俺も欲しかったぜ」
「なんだと!? 赤ん坊の時から? その翼が?」
なぜかピッグとその妻の顔色が変わった。
「本当に赤ん坊の時からその翼が生えていると言うのか?」
「ああ、そうだが。それがどうしたんだ?」
顔を見合わせたピッグたち。その時、ピッグの妻がぼそりと呟いた。
「そんな、まさか、あなた、わたしたちの子と同じ……」
「待て、それ以上喋るな! 秘密を喋ればどうなるかわかって……」
「あなたにはコーンが必要よ」
放心状態のままそう呟いた彼女はその後の言葉を続けようとした。ところがその時驚くべきことが起きた。突然彼女が目を見開き倒れたのだ。横にいたピッグはすぐさま彼女に駆け寄りその体を抱き抱えた。
「病気? 今すぐ救急車を……」
そう言って携帯を取り出したカウガールに対して妻を抱いたままピッグは首を横に振った。
「無駄だ。俺たちの頭の中には小さな機械が埋め込まれている。そいつが秘密を喋ろうとしたこいつの脳の一部を破壊したんだ。もう妻は死んだ」
涙を流しながら妻を見つめる彼にペガサスとカウガールは何も言葉を掛けられなかった。
そして雨が降り始めた。
やがてピッグは涙を拭い妻を地面に横たえると意を決した表情で立ちあがった。
「おまえはおそらく辿り着くだろう、真実に。我が子と同じお前なら。いいか、負けるなよ、ペガサス。では、さらばだ!」
「おい、待て! おまえは何を……」
「コーンへ向かえ、ペガサス! そびえる塔状のコーンと呼ばれる建物へ! そこにおまえが求めるものが……」
ピッグが目を見開いた。次の瞬間、その巨体が妻の横に崩れ落ちた。
降り続く雨の中、ペガサスとカウガールは目を見合わせ暫く立ち尽くすことしか出来なかった。
(ここで終わり? 続きが気になるな。この後はどうなるんだ?)
僕がそう聞くとユニはニヤッと(もちろん姿は見えないが)笑った。
(そうか、そうか、気になるか。ふっふーん、やっと俺の話に興味を持ってくれたようだな)
(うう、まあ、ちょっと気になってきたよ。悔しいけど)
(聞きたい? どうしてもって言うなら教えてやるけど、それが人に物を頼む態度かなあ?)
(ちぇっ、偉そうに。でも、うー、わかったよ! 教えてください、ユニコーン様!)
(残念ながらまだ決まってないんだよ、乞うご期待)
(騙したな! このカバ!)
僕は今更パソコンに向かう気にもなれず、ふてくされてベッドに寝転がった。書け書けとうるさいユニを無視しているうちに僕はいつの間にか眠りの世界に落ちて行った。
祖母の「ただいま」の声に僕はハッと目を覚ました。いつの間にか部屋は薄暗くなっていた。だいぶ寝てしまったらしい。慌てて僕は飛び起き玄関に向かい「おかえり」を言って祖母を出迎えた。「今日はお刺身を買ってきたよ」と言った祖母の取り出したパックが適量だったので少しほっとした。刺身が昨日みたいな量だとさすがにきつい。
とりとめのない話をしながら祖母との食事を終えると僕は例の如くテレビを付けた。また少年のことが何かわかるかもしれないと期待したが、最初の二ユースは昨日の通り魔事件の続報だった。このまま新しい事件が起きる度に少年の事件のことは忘れ去られてしまうのだろうか? 僕がそんなことを考えてもユニは何も言わなかった。
「おや、こいつが昨日の通り魔かい! へえー、普通の人みたいだけどねえ」
身を乗り出した祖母が昨日のように解説を始めた。僕も見ていることはお構い無しだ。
「ふんふん、おや、二十代半ばで勤めていた会社が潰れて再就職が決まらず周りに愚痴を零してたって。なんだい、情けないねえ、男ならしっかりし……、え、本人は何も覚えてないって供述している? 人を襲っといて知らぬ存ぜぬとはなんて無責任な!」
テレビにかっかと怒りをぶつける祖母とは対照的に僕は寒気を覚えていた。
(覚えてないって……、まさか、記憶を消したり出来るのか、君たちは)
(少なくとも俺には出来ねえよ。そんなに心配するな。こいつだけ特殊なのかもしれない。ま、良かったじゃないか、その場で捕まって。この男は可哀そうだけどな)
(僕に出来ることはないかな? 警察に事情を話すとか)
(また病院に行きたいならどうぞ。「頭の中に殺人者の少年が」とか言えば百ぱあせんと医者に連れて行かれるぞ。それでもいいなら止めはしないが)
確かにそうなるだろうな。僕は一気に怖気づいた。
その時、祖母が気になることを言った。
「犯人の男は事件直後『ペガサス、ペガサス』って意味不明なことを呟いていたってさ。意味不明だねえ、気持ち悪い」
ユニとの会話に夢中でニュースを途中から聞いていなかった僕はぎょっと驚いた。
(なあ、ペガサスって……、おい、どういうことだ? あんたが書いてる小説と何か関係あるんじゃ?)
(まさか。でも俺の思い描いている小説が無くした記憶と無意識に関係している可能性はあるかもしれない。俺はその場の思い付きで「ユニコーン」と名乗ったけど、意外と当たらずも遠からずだったのかもしれん)
自分の頭の中にいる奴がユニコーン。通り魔事件を起こした奴がペガサスということなのか。それでは他の光たちはなんと名乗るのだろう?
(こいつ以外の奴らが少年の良心とかならいいんだけどな。とにかくしばらく街の方には行かない方がいい)
ユニは少し強い言い方でそう言った。記憶が無いという彼自身恐怖を覚えているのかもしれない。
そう思うと僕は居ても立ってもいられず自分の部屋へ向かいパソコンの電源を入れた。彼も同じ気持ちだったようだ。ユニが少し興奮気味に喋る物語を僕は遅くまで打ち続けた。
次の日、僕はあくびをしながら学校へと向かった。起きてから四度目のあくびをしながら席に着いた僕にユニが他人事のように話し掛けてきた。
(眠そうだな)
(そういうあんたはなんで眠くないんだ?)
(体が無いからだ。おっと「体」と「からだ」を掛けたわけじゃないぞ。拍手はいらん)
(頼まれてもしないよ。それにしてもずるいな、僕だけが生理現象に苦しめられるなんて)
(悔しかったら君も俺みたいになればいい)
(記憶喪失状態で人の頭の中に住むなんてごちゃごちゃした立場はごめんだね)
僕たちがそんな会話を頭の中でしていると井山賢一たちが揃って入ってきた。ところが彼の様子はやはり昨日と同様におかしかった。僕に負けないくらい眠そうな顔をしているのだ。常にきりっとした表情を崩さない学校一の優等生が今まで見せたことのない姿だった。
「井山さん、大丈夫っすか? 休んだ方が良かったんじゃ」
心配そうに越岡が声を掛けていた。驚いた。こいつに人を思いやる能力があることを僕は初めて知った。つまりこいつは僕のことを人だと思っていないということか。
「大丈夫ですよ。ただちょっと気分が悪いから『ルール』は君たちが適当に決めてください」
そう言うと井山賢一は椅子に凭れて眼を瞑ってしまった。越岡たち三人は困ったように顔を見合わせていた。こいつらは自分たちで考えて行動したことが無い。井山賢一の提案に乗っかっていつも面白がっている金魚のフンという奴なのだ。慣れない頭を使う役割に三人は苦戦していた。ああでもないこうでもないと数分間の話し合いの末、ようやく何かのアイデアが浮かんだらしく彼らは僕の机にやってきた。
「今日の『ルール』は女言葉にするぞ。先生に当てられたら女言葉で答えろよ、いいな」
得意満面に竹原がそう言った。僕は黙って頷いた。
(悩んだ割に工夫が無いな。言葉系は赤ちゃん言葉とか無言とかやったばかりなんだから他の奴にしろよ。井山賢一ならもっとうまい「るるる」を考え出しただろうに)
(他人事だと思って残念がるなよ。昨日のスカートからうまく繋げたつもりなんだろ、こいつら)
僕とユニの会話など知らない家来ズたちはいいアイデアだと互いに褒め合っていた。しかし今までの会話が聞こえているはずの井山賢一は僕にも家来たちにも何の関心も無いように眼を瞑ったままだった。
そして、越岡たちの期待とは裏腹に何事もなく一日が過ぎていった。
ちょっと危なかったのは「ざます」の時ぐらいだったか。主人公の心情を考えるというお題の時に彼女と僕は眼が合ってしまったのだ。だが「ざます」は僕の下半身に一瞬だけちらっと視線を移し、スカートじゃないことを確認するとほっとした表情を浮かべ、後は指名してくることはなかった。
結局その後どの教科の先生も僕の名前を呼ぶことはなかった。
家来ズたちの初の「ルール」はこうして不発に終わった。
いったい、何が起きたんだろう?
あの日以降、井山賢一はすっかり調子を崩してしまった。
学校には休まず来ているが今までのように自ら「ルール」を考えてきて発表することをやめてしまったのだ。そして「ルール」はすっかり家来任せとなってしまい僕だけでなく任された越岡たちも戸惑っているようだった。
何しろ井山賢一と彼らでは発想力が違いすぎた。困った子分たちが考える「ルール」はルールとはいえないほど理不尽でめちゃくちゃだった。「痛いと言うな」という「ルール」を捻り出した挙句に休み時間に蹴っ飛ばしてきたり、薄い頭を気にする社会科教師「窓」に向かって「禿げ」と言う、という「ルール」なんてもちろん出来るわけがなく、僕は結局放課後に罰と称してビンタされただけだった。だがそれにすら井山賢一は参加しなかった。
カリスマを失ったルールという遊びはただの暴力にすり替わろうとしていた。その結果、今までは面白がっていたクラスメイトたちも少しずつ引いているのがわかった。
(全く「せんす」がないよな、あの三人。誰も楽しめない「るっる」を考えて)
(僕は楽しめてないよ、ずっと)
ユニにそう言いながらも僕は不思議な寂しさを感じていることに気付き自分でも驚いた。そして井山賢一が「ルール」は発表しなくなって一週間後、ついに彼は学校を休んだ。そのただ休んだことにクラス中がざわざわと驚きの声を上げていた。彼とは小学校からの同級生である木下という奴が小学校時代も休んだのを見たことが無いと興奮気味に話していたくらいだったから、やはり事件なのだろう。
それに動揺したのだろうか、その日越岡たちは「ルール」の発表をなかなかしなかった。時間が過ぎるのを僕はどきどきしながら待った。福助が入ってきて井山賢一の欠席を正式に発表し出て行った後も越岡たちがいつ「ルール」を発表するか気が気でなかった。妙なプレッシャーに包み込まれ心がぺしゃんこになりそうだった。そのためか頭で考えるより先になぜか僕は立ち上がり越岡の元に向かった。「何をしているんだ?」という自分の心の叫び声が聞こえていたが僕の口は勝手に喋り出していた。
「あの、その、それで今日のルールは?」
なんて自分は馬鹿なのだろう。黙って時が過ぎるのを待っていれば平和な今日一日が送れたかもしれないというのに。僕はいつ来るかわからない災厄を黙って見過ごすプレッシャーに負け、自分から動いてしまったのだ。ところが話すと同時に後悔した僕に対して越岡は困ったような顔を見せた。彼はちらっと竹原、銀谷の二人に視線を送ったが二人も何も言わなかった。すると今度はなおさら困ったように周りを見渡した。そして彼はこう言った。
「あー、今日はいいや。ルールは無しだ」
クラスの誰も異議を唱えなかった。僕は驚きのあまり一瞬固まった。しかしすぐに事態を理解して黙って頷き自分の机に戻った。チャイムが鳴り、マスマスが入ってきて授業が始まった。だが僕は授業どころではなかった。
(……ひょっとして勝ったのか、僕は?)
僕が心の中でそう呟くと、それに対しユニは冷たく言い返してきた。
(せいぜい不戦勝ってとこだろ)
初めての勝利は嬉しくも何ともない複雑なものだった。僕はその日一日どこかぼうっとしたまま過ごした。どこか物足りないような自分でも不思議な感覚だった。家に帰った後も何もする気がせずただじっとしていた。
見かねたようにそれまで黙っていたユニが口を開いた。
(変な奴だな、君は。この腑抜けめ。しっかりしろよ。井山賢一が明日普通に学校へやってきたらまた素直に言うことを聞いちゃうのかい? 自分を変えるいい機会じゃないか?)
(明日は土曜日で休み)
僕はユニの上げ足を取るようにただそう答えて、後は黙った。自分でもよくわからない感情を持て余していたからだ。言葉で表現出来ないそいつは非常に厄介で僕の心に絡みついてなかなか取り除くことが出来なかった。そんなもがく僕を可哀そうに思ったのか、ユニはそれ以上深く問い質そうとはしなかった。結局祖母が帰ってくるまで僕はどこを見るでもなく決して眼には見えない一点をじっと見つめ続けただけだった。
祖母はその日いつもより早く帰ってきてカレーを作ってくれると言った。いつもなら小躍りするくらい喜ぶところだが、その時はわざとらしい笑顔を作ることしかできなかった。それでもだいぶ板に着いている僕の偽笑は祖母を何とか騙し通せた。ほっとした僕は早めにリビングに行きテレビを見ながら夕食待つことにした。テレビを点けるともうニュースをやっていた。
『それではつい先程起きた事件です。先日通り魔事件があった場所の近くでまた同じような事件が起きてしまいました!』
僕は驚きのあまり大きな声で「えっ!」と声を出していた。それは僕の中にいるユニも同じだった。画面に映し出されたのは僕もよく見知った場所だった。
『はい、現場です。今日の午後四時半頃、事件は起きました。友達数人と歩いていた女子中学生が突然包丁を持った男に切り付けられたのです。男は喚きながらその後も刃物を振り回したようですが、周りにいた数人の男性によって取り押さえられました。怪我をした女子生徒は腕に深い傷を負ったということですが命に別条はないとのことです』
この前の事件と良く似ていた。でもこの間の事件は犯人が捕まっているはずだ。
『みなさん御記憶されていることと思いますが、この地域では一週間ほど前に別の通り魔事件が起きたばかりです。その時の容疑者はすでに逮捕されていまして今日の事件とは関係ないのですが、立て続けに起きた無差別な事件に住民の皆さんは不安を訴えています』
その後は街の人々に対するインタビューの様子が流れた。みんなが口々に「怖い」とか「警察は何をしているんだ」ということをマイクにぶつけていた。画面がスタジオに戻るとキャスターは便乗犯という言葉を口にした。なぜならその三十代の男も「ペガサス」と叫んでいたというのだ。
(ユニ、どう思う? これってやっぱり……)
(間違いないな。恐れていたことが起きてしまったらしい。たぶん他のカケラだろう。ただ「ペガサス」っていうのが何を表した言葉なのか、そこが謎だな。カケラの名前じゃなかったのか)
(これで二人目か。まだいるのかな、同じようなことを仕出かすカケラが)
(ん? ひょっとして俺が恐いのか? 大丈夫、俺は絶対おまえを通り魔になんかしないから)
僕の不安を感じ取ったユニは力強くそう断言してくれた。そのしっかりした言葉になぜか僕は素面の時の父の面影を見た気がして少し気持ちが落ち着いた。
(僕も約束するよ。万が一ユニが変貌したら僕の力で止めてやる)
(ほお、君からそんな言葉が聞けるなんて長生きはするもんだ)
(君は生まれてまだ実質十日くらいだろ?)
「また通り魔だなんて! どうしちゃったんだい、この辺りは? 昔はみんなご近所同士助け合っていたし悪い人なんて一人もいなかったのに。ああ、昔は良かったねえ」
カレーを持ったままの祖母が悲しそうに肩を落とした。僕はカレーも落ちやしないか心配だったが、祖母は器用に落ちた肩のまま、それをテーブルまで運んでいた。
(昔は良かった、ねえ。そうかな? 実は昔でも凄惨な事件は起きているんだけどな。たぶん以前より技術が進んだおかげで手に入る情報量が増えただけだろう。ただの懐古主義者なんじゃないかな、君の婆ちゃんは?)
(昔の方が良かったって、みんな思いたいんだよ、今がおかしく感じる時は特に。そうじゃないと人間の歴史は始まってから今までずっとおかしいってことになっちゃうじゃないか)
(おかしいだろ、実際。人類ってのは生まれてからずっとおかしいんだよ。だからこそ未来を良くする努力を惜しんじゃいけないんだろうが)
正論だったが人間は正論だけじゃ生きていけない。特に僕のような弱虫はそうだ。
(また愚痴愚痴言い始めたな。黙って悩んでいた時の方がまだ可愛かったぞ。んー、よし、決めた! おまえはこれから「ひいろお」になれ。次の事件をおまえが止めるんだ!)
(はあ、ヒーロー? なに言ってるんだ?)
(二度あることは三度ある。また少年のカケラが事件を起こすかもしれない。それを君と俺とで未然に防ぐんだよ。表彰間違い無しだぞ。紙しかもらえないけどな)
どこかで聞いたセリフをユニは平然と言った。
(防ぐって言ったってどうするんだよ! 警察も今度は警戒してるだろうし首を突っ込まなくても大丈夫なんじゃないか? 万が一の時は素人の僕じゃ、ただの怪我で済まないよ)
(じゃあ、君はこのまま次の事件が起きるのをじっと見過ごすつもりか。事情を知っているのは俺たちだけなんだ。次は人が死ぬかも知れない。そうなればやった奴は殺人犯だ。でも君が動いてくれれば誰も傷付かないで済むかもしれない。君は人が傷付く痛みを知っているだろう? 君にしか出来ないことだよ、これは)
いつものおちゃらけたユニの声ではなかった。真剣な彼の様子に僕は心を打たれていた。彼も彼なりに責任を感じているに違いない。
元々は一人の少年だった心。分裂したそれらはきっと記憶を失い混乱しているんだろう。助けてやらなくちゃ。同じいじめられっ子であり、彼の一部を共有している僕が。そんな気になってきた。
(……わかったよ。やればいいんだろう。僕にやれることは出来るだけやってみるよ)
(おお、君ならそう言ってくれると思ったよ。ありがとう)
(改まって言われると照れるよ。それよりまずは何をすればいいかな?)
(取り合えずあの団地に行ってみるか。何かわかるかもしれない。現場百回と言うじゃないか)
(そうだね、じゃあ、明日行ってみよう)
僕たちが心の中でそう話していると祖母が急に口を挟んできた。
「仁悟、危ないから暫くは休みでも出歩いちゃ駄目だよ。おとなしく留守番していてちょうだい。婆ちゃん、明日も仕事だからね」
心を見透かしたようなその言葉に驚いたが僕は得意の笑顔で誤魔化し頷いた。
安心した様子の祖母に向かって心の中で「ごめん」と言い、僕は決意を新たにしていた。
次の日、僕たち(と言っても見た目は一人だが)は祖母がバスで出掛けたのを見届けるとすぐさま行動を開始した。警察が届けてくれた自転車に乗るのはあの事件のあった日以来だ。いつものように坂道を下り橋を渡ると、通り魔事件が起きているせいか、橋を越えた時の世界が変わるような感覚はいつも以上に強く感じられた。
思えば母も美優もこの異世界の側に住んでいるのだ。二人が事件に巻き込まれないという保証はどこにもない。僕は自分の役割が想像以上に重要な気がしてきていた。でも本当なら僕は学芸会でも「村人1」という役がお似合いな存在だ。目立たないことが信条の自分が刃物を振り回す悪役との格闘なんて荷が重すぎる。
(おいおい、君はまさか戦う気でいるのか? さすがにそれは無理に決まっているだろう。怪しい奴を見つけたら相手が刃物を抜く前に周りに助けを求めるんだよ、大声で。恥ずかしさは捨てな)
(そ、そうだよね。それならなんとかなりそうだ。タイミングの勝負ということだな)
(まずは情報収集だよ。例の現場の周りで様子のおかしい奴がいないか探してみようぜ)
僕はユニの言葉に頷いて自転車をさらに加速させた。すると気持ちの問題なのか、自分でも驚くほど早くその場所に到着した。見覚えのある路地に入り自転車を降りてゆっくりあのアパートの方へと近づいて行くにつれて、その場所があの時の場所であることを確信することができた。なぜなら花が見えたからだ。数は多くなかったがジュースや花が地面に供えてあった。
(……やっぱり死んだんだな。俺は、というか、俺の元になった少年は)
ユニが寂しそうにそう呟いた。僕は返す言葉が見つからず戸惑った。
(ああ、気を使わせてしまったな。いいんだ、自業自得だから仕方ないさ)
ユニがそう言うのを聞きながら僕はしゃがんで目を閉じ花に向かって手を合わせた。
(おいおい、供養の前に成仏させなくちゃいけないぜ。俺も他のカケラの奴もな)
(でも、おまえは死んだわけじゃない。こうして僕と話をして……)
「あの、ひょっとしてあなた……」
突然の女性の声に僕は驚いて眼を開けた。しかし最初に眼に飛び込んできたのは小首を傾げた小さい男の子の姿だった。そして彼の手はスカートを握っていた。それに沿って目線を上にあげると見覚えのある若い女性が会釈をしてきた。「誰だったっけ?」と思いながら僕は立ち上がった。
「あなた、この前、気を失った子よね? あの事件の時」
そう言われて僕はようやく思い出した。そうだ、あの時、少年が空から降ってくる直前に挨拶をした若いお母さんだ。思えば僕は彼女の悲鳴をBGMに意識を失ったのだ。
「あの後、大丈夫だった? あの時、呼びかけても全然眼を覚まさなかったから心配していたのよ」
そうか、僕を介抱してくれたのはこの人だったのか。
「そうだったんですか。お陰さまで助かりました。ありがとうございます」
「あなたも大変だったわね。あんなことがあってショックだったでしょう?」
「いえ、大丈夫です」
頭の中に妙なおじさんが住み着いた以外は、とはもちろん言わなかった。
「でもお参りに来てくれるなんて優しいのね、あなた。あの子のこと、ニュースで知っているんでしょ?」
彼女の言いたいことはわかる。彼は人を殺すという大罪を犯した人間だ。でもこうして花が飾られている所を見ると彼の死を痛ましく思ってくれる人間もいるということだろう。
「あの、突然こんなことを聞いて失礼でしょうが、あなたはこのアパートに住んで長いんですか?」
おばさんというには失礼だしお姉さんというのは照れ臭かったので、僕は「あなた」という呼び方をした。彼女は質問の意味が判らなかったようだ。
「えっ? ええ、五年くらいだけど、それが何か?」
「そうですか。えっと、あの少年について何かご存じじゃないですか? ニュースでは飛び降りた部屋に住んでいる女の子に対して付きまとっていたって聞きましたけど、彼の名前とか、どこのどういう人間かとか、何か知っていることはないですか?」
「そうねえ、悪いけど何も知らないわ。あそこに住んでる女の子のことなら何となく見掛けたことはあるから知っていたけど。今までも特にこの辺に怪しい人がいるような噂なんて聞かなかったし。本当に急にあんな事件が起きたのよ。このアパートのみんなが驚いたと思うわ」
「そうですか……」
どうもこれ以上情報は無さそうだ。僕は彼女に礼を言うとその場を後にした。
(思った以上に探偵は難しいな、ほおむず君)
団地の入り口まで戻り自転車に跨るとユニがそう言ってきた。
(ちょっと待て。僕がホームズなのかよ。ユニが言いだしたんだからそっちが探偵だろ。僕はワトソンだよ)
(さて、この後はどうしようか? 何か名案はないか?)
(ないよ。あんたに乗せられてのこのこ来ちゃったけど、よく考えてみれば中学生の僕に何が出来るんだ? あんな悲惨な事件に関係していることを誰も子供に教えたりしないよ)
(まあ、そうだな。こうなったら通り魔が起きそうな場所を地道に見張るしかないか)
そうなると自転車は邪魔だった。僕は街の中にある無料の駐輪場へと向かった。屋根付きで便利な場所だ。そこに自転車を置くと繁華街を少し歩いた。間もなく最初の通り魔事件が起きた辺りに到着した。
二度目の事件が起きた場所は交差点を挟んですぐ先だ。もしあの少年のカケラたちに何か執着があるならまた近い所で事件を起こすかもしれない。僕は交差点のそばにある靴屋の角で立ち止まり辺りを窺った。今のところ変わった様子はなかった。
(緊張しちゃうな。自分が今から何かを仕出かすみたいな気分になってくるよ)
(やるんじゃないぞ)
(やらないよ! ん、あれ? あれって……)
僕は向こうからやってくる人影に気付いた。存在感のある制服。警察だ。
(やっぱりお巡りさんがパトロールしてるよ)
(当然だな。連続で同じような事件が起きたんだ。万が一、三度目を許したら誰か責任取らされて首になるんじゃないか? そりゃ必死だよ)
(だったら警察も本気で見張ってくれるよ。やっぱり僕たちの出番はないんじゃないかな?)
(警察と俺たちは目的が違う。警察は次に事件が起きても単なる二度目の便乗犯として扱うだろう。俺たちは少年のカケラを持つ奴と接触して情報を得なきゃならない。残りのカケラが何人いるかとか、どうすればカケラたちは消えるのかとか)
ユニは実に落ち着いた声で自分の死について触れた。僕には真似出来そうにない。
(とにかく挙動不審な奴に注意しろ。そいつがカケラの持ち主だ)
そう言われた僕は目を皿のようにして行き交う人々を観察し続けた。警察に不信がられないようにたまに場所を変えたりしてみたが特に怪しい奴は見当たらなかった。結局、腹がグウグウ鳴るまで頑張っても全ては徒労に終わった。
(いないな、怪しい奴)
ユニが溜息を吐いた。
(いるよ、ユニ)
僕はぽつりと呟いた。
(なに、どこだ?)
(ほら、そこに)
僕は指をさした。指の先にあるのは僕の姿が映るショーウインドウだった。かなりくたびれた顔をしている。とても街に遊びに来たという感じの顔じゃなかった。
(確かに怪しいな。よく警察に捕まらなかった)
(なあ、今日はもういいだろう? なんか食って後は帰ろうよ)
(そうだな。今日は何事もないようだし、また今度にするか)
僕は一気に肩の荷が下りたような気がした。
特にめぼしい成果も得られず帰ることに決めた僕(とユニ)は自転車を取りに行くため、駐輪場のある方向にくるっと振り向いた。その際、緊張状態から解き放たれ気持ちが軽くなっていたため、思った以上に勢いが付いてしまい、そのせいで誰かと肩が強く当たってしまった。
普通ならそこでただ「すいません」と言って終わりのはずだった。ところがその瞬間予期しなかったことが起きた。まずは若い女の子の驚いた「きゃっ」という声。それは当然だ。しかし僕はそれと同時に信じられない「風景」を見た。自分は繁華街のど真ん中にいたはずなのに一瞬にして目の前に「暗闇」が現れたのだ。先程まで聞こえていた賑やかな街の喧騒は嘘のように一瞬で消え失せ、静寂を伴った闇の中に浮かび上がっていたのは自分を含めた四つの人影だった。真正面にいたのは若い女の子。その隣に美しい大人の女性。そして僕の隣に見えたもの、それが一番、僕を驚かせた。
そこにいたのは角の生えたカバだった。
「あ! えっ、あれっ?」
僕はそこで急に我に帰り、思わずきょろきょろと辺りを見渡した。ざわざわと騒がしい街並み。先程までと変わらない街並みが戻っていた。
何が起こったのかわからなかった。目の前には僕と同じように唖然とした顔でこちらを見つめる少女。長い髪をポニーテールにしていてデニムスカートが似合う可愛らしい女の子だった。たぶん自分と同じ中学生くらいだろう。間違いない、先程暗闇の中で見たあの少女だ。戸惑った表情から察するにどうやら彼女にも同じことが起きたらしい。全くわけがわからず歩道の真ん中で見つめ合った二人を他の通行人が怪訝な顔をして避けて行った。
「なに、今の? あなた、誰?」
声優のような可愛らしい声で彼女が不思議そうにそう呟いた。僕も同じことを聞きたいと思っていたのだから、その質問には当然答えられるわけが無い。すると彼女は急に表情を変えた。
「……えっ、駄目って何よ! 離れろって……、あなたに命令される筋合いはないわ!」
苛々した口調で突然そう叫んだ彼女に僕は驚いて思わず後退りしてしまった。彼女はそれを見て「しまった」という顔をした。
「あっ、ごめんなさい。あなたのことじゃないの。こっちの話で」
本当に申し訳なさそうに謝る彼女に恐縮した僕の頭の中でユニが突然話し出した。
(仁悟、俺は彼女と話がしたい。どこか落ち着ける場所に彼女を誘うんだ)
(話がしたいってあんたが? そ、そんな、だって、誘うって言われても……)
僕はかなり躊躇した。眼の前にいるのは明らかに僕とは不釣り合いな可愛い子だ。初ナンパに選ぶような対象じゃない。挑戦は大事だろうが無謀にも程がある。
(おいおい、ナンパしろって言っているんじゃないんだ。彼女にもさっきのが見えていたみたいだろう? その話をしたいんだよ。俺の予想が正しいならさっきのはきっと……、いや、落ち着いてから話そう。いいから早く誘えよ!)
僕は急かされるのが大の苦手だった。急かされるほどにパニックになってしまう。
「えーと、あ、あの、どこかでお食事でもしませんか?」
やばい! 言いたいことがまとまらず本当にナンパのようになってしまった。僕の顔は真っ赤になっていたことだろう。それを見た彼女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにクスっと笑ってくれた。
「いいよ。じゃあ、そこに入らない?」
彼女が指差したのはすぐ側にあったお馴染のマークだった。ひょっとして僕の顔色からその店を連想したのだろうか? でも助かった。ここのハンバーガーくらいなら僕のなけなしの小遣いでも何とかなりそうだ。
二人で店に入ると僕たちはキャンペーン中のセットメニューを注文し席に着いた。つい彼女の方が気になってしまう。大きな眼が印象的だ。やはりかわいい。見つめられるだけで何か照れてしまった。なかなか喋らない僕に彼女は痺れを切らしたようだった。
「あの、話があるのよね? さっきの奴のことでしょう?」
彼女はそう聞いてきた。だが話があるのはユニの方だ。僕はどこから話したらいいか、わからなかった。ユニの存在について話していいものか、一番迷うのはそこだった。
(食ってからにしようって言っとけ。俺に考えがあるから)
ユニがそう言うので僕はそうすることにした。
「ええっと、詳しい話は食べてからにしようよ。えーと、じゃあ取り合えず自己紹介だけ。僕は猪倉仁悟、中学三年だよ。君は?」
「私は菅崎鈴歌、同じよ、三年」
どこかで聞いたことがあるような名前だな、そう思った。僕は二人分のセットをテーブルまで運んだ。お腹がぺこぺこだ。僕は眼の前に彼女がいるのを一瞬忘れ、夢中でハンバーガーにかぶり付いた。そこでふと気が付くと彼女がニコニコしながらじっと僕を見つめていた。
「あっ、ごめん。話しなくちゃね」
「ううん、いいよ、食べて。見ているだけで気持ちいい食べっぷりだから」
微笑む彼女を見て僕はまた恥ずかしくなった。でも今更仕方ないので遠慮がちに、それでも全部平らげた。一方、彼女はあまり食が進まないようだった。齧り掛けのハンバーガーがテーブルの上で行き場を失い困ったようにじっと佇んでいた。
「私はもういいよ。落ち着いたら話始めてね」
「えっ、あー、えーとね……」
僕はユニに助けを求めた。
(おい、ユニ! どうすればいいんだよ?)
(まずはガバっと抱きしめちまえ)
はあ? 冗談を言っている場合じゃないだろ、こんな時に。僕はもちろん無視した。
(ふん、「しゃい」な奴だ。じゃあ、これでいいや。彼女の手を握るんだ。それが一番手っ取り早い。あっ、これは冗談じゃないからな。いいか、握ったら離すなよ)
意味がわからなかったが今度のユニは真剣だった。恥ずかしさはあったが仕方なく僕は真っ赤になりながら彼女にこう切り出した。
「えっと、あの、その、ちょっと手を握らせてもらえるかな?」
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、僕の真剣な様子に何かを感じとってくれたようだ。ゆっくり頷いて恐る恐るではあるが右手を差し出してくれた。
僕はユニに「行くよ」と声を掛け、その手をゆっくり握手するように握った。
そして僕は「ハッ!」とした。
違う世界に迷い込んだ、そうとしか言いようが無かった。周りにいたはずの他の客も食欲をそそる匂いも一瞬で消え失せ、再び闇の世界が周りに広がっていた。浮かび上がる四人も先程と一緒だ。
ただし違うことが一つだけあった。さっきは瞬間的に元の世界に戻ったのに対し、今度はそうはならなかったのだ。おかげで僕は彼女たちをまじまじと観察出来た。
眼の前にいるのは菅崎鈴歌と名乗った少女だ。彼女も僕同様に驚いてきょろきょろと暗闇を見回していた。その隣にいるのは美しい大人の女性。腰まである長い黒髪、すらりとした体に布を巻き付けただけの露出の多い格好は中学生の僕には刺激的過ぎてまともに見れなかった。神秘的な雰囲気は人間というよりまるで女神であり彼女は全く動じることなく冷静な様子で僕の方をじっと見ていた。
「よお、仁悟。初めまして、と言うべきかな?」
隣から突如聞こえた声に僕は反応し振り返った。そこで見たものは先程も見た角の生えたカバだった。聞き覚えのある声。そう、それはまさに想像したことのある姿。
まさか、これが?
「ああ、俺がユニだよ。君が変な想像するからこんな姿になったんだぜ? いったいどうしてくれる? 『ないすみどる』なはずの俺がこれじゃあ台無しじゃないか」
いつもなら頭の中で聞こえる声が隣から聞こえてくることは不思議な感覚だった。しかも喋っているのはカバだ。
「やっぱりユニなのか! どうなってるんだ、これは? ここは一体?」
僕がユニにそう尋ねていると鈴歌さんが近づいてきた。
「そのカバさんはユニさんっていうの? あっ、角があるってことはサイ?」
「お嬢さん、俺はユニコーンです……。ほら、見ろ、仁悟! お前の意識が彼女にまで影響を与えているじゃないか。このままだと俺はずっとカバ設定のままになっちまう! おまえのせいだからな!」
「意識が影響? どういうことだ?」
「君にも覚えがあるだろう? ここは君の、いや、正確に言えば、君と鈴歌ちゃんの『意識の世界』なんだ。実体がない『いめえじ』だけの世界。だから姿かたちは自由自在なんだ、本当なら。それなのに君の思い込みが激しいせいで俺の姿はこうなっているんだよ!」
「意識の世界って……、僕たちは何でそんなところにいるんだ?」
「もちろん普通の人間なら他人同士が一つの意識の世界に同居するなんてことはありえない。それなのに君と鈴歌ちゃんがこうしてここにいる理由はただ一つだ。それは俺やそいつの影響を受けたからさ。なあ、姉ちゃん?」
ユニは女神に声を掛けた。カバに馴れ馴れしく話し掛けられたと言うのに彼女は全く動じることもなく無言のままだった。しかしじっと見つめる僕たち三人に根負けしたのか、ようやく彼女は口を開いた。
「全く良く喋るカバね……。面倒なことになったわ。だから『彼らから離れろ』って言ったのに」
喋りはしたがその顔は無表情のままだった。
「カバじゃない、ユニコーンのユニだ! 君の名前は?」
「悪いけど名乗れないわ」
「なんで? あー、名前が無いのか」
「あるわ。でも名乗る気はない。理由なんかどうでもいいでしょ? どうしてもよ」
女神はなぜか頑なだった。それを聞いていた菅崎さんがふうっと溜息を吐いた。
「彼女、私にも名前を教えてくれないの。名前はあるって言うんだけど」
「名前くらい教えてくれてもいいだろ? 元は一人の同じ人間じゃないか、今は別々のカケラでも」
ユニがそう言ったのを聞いて僕はぎょっとした。
「カケラ!? まさか少年の? じゃ、じゃあ、この人もあの光の……」
「仁悟、相変わらず頭の回転がにぶいね。それしか考えられないだろう。だから君たちはこんな状況に置かれているんだ。あの少年のカケラと同居している人間同士が触れ合うとこうなるらしい。もちろん俺も今回初めて知ったけどね」
「じゃあ、すず、菅崎さんにもあの光が当たったの?」
僕は彼女に聞いてみた。
「名前でいいよ、みんなそう呼ぶから。私は覚えてないの、だって……」
彼女は何かを言い籠った。するとユニが呆れたように口を挟んできた。
「君はやっぱり頭が悪い。菅崎って名前、どこかで聞いたことあるだろう?」
そう言われて僕は自分の記憶を一生懸命辿った。あの光が当たったってことはあの事件が起きた場所の近くにいたということだ。
近く、少年が落ちた場所、飛び降りた場所、事件の加害者と被害者、菅崎……、えっ、ま、まさか。
「菅崎は義理の父の名字よ。私の父は菅崎利秋。あの事件で角田翔馬に殺された被害者よ」
そうか! どこか聞き覚えがあるような気がしていた彼女の声。あの時に聞いた叫び声を僕は思い出した。
「じゃあ、角田翔馬っていうのが……」
「そう、父を殺した奴の名前」
彼女はぐっと唇を噛んだ。つまりそれは、彼女は自分の父を殺した人間の一部を頭の中に住まわせていることになるじゃないか。それは一体どんなに辛いことなのか、僕には想像も出来なかった。そんな気持ちが僕の顔に出ていたのか、彼女は事件について説明を始めた。
「あの時のことは正直良く覚えてないの。気が付いたら父が倒れていて、あいつは飛び降りた。私は悲鳴を上げてそのまま気を失った。その悲鳴を聞いた近所の人が駆け付けてきてくれて救急車やら警察やらを呼んでくれたの。眼を覚ました時は病院でもう夜だった。変な夢を見たことだけは覚えていたけど最初は状況がよくわからなかった。お母さんが付き添っていてくれて父が死んだって泣いてて。そこに警察が入ってきた。丁寧だけど実際は何を考えてるかわからないような男の人。その人が事件のことを色々聞いてきた。私はどこかぼうっとしちゃって細かい所がなかなか思い出せなかった。その時よ、彼女の声が聞こえてきたのは」
鈴歌さんはちらっと隣の女性を見た。彼女の方は全く表情を変えなかった。
「無理に思い出すのは止めなさいって、突然、頭の中で女の人の声がしたからすごく驚いた。そして少しパニックになった私のせいで事情聴取は終わりになっちゃったの。でも落ち着いてくると私は気を取り直して冷静に彼女と会話を始めたわ。そして彼女があの角田翔馬の精神の一部が光となって私の頭に入り込んで出来た人格だと知った。それがわかった時は本当におかしくなりそうだった。一部とはいえ父を殺した奴が頭の中にいるなんて、自分の頭を割ってしまいたいくらいの気分だった。彼女に対して随分ひどいことを言い続けたわ。それこそ聞くに堪えないくらいの悪口を」
無理もない。自分でもそうするだろうと僕は思った。
「でも彼女は何も言い返さなかった。弁解も言い訳もしないの。喚きたいだけ喚いて疲れ果てた私はやがて気付いた。彼女は確かにあいつの一部かもしれないけど今は私の一部でもあるって。それは良い悪いじゃなくて認めなくちゃいけないことだった」
僕と同じだ。
「だから彼女とはちゃんと話をしていこうって決めたの。彼女、無口だからあんまり自分のことを話してくれないんだけどね」
「そうだったんだ。僕の方のこいつはお喋りだけどな。うるさいくらいだよ」
「うるさくて悪かったな、逆に君が陰気過ぎるんだよ」
妙に陽気な喋るカバに言われる筋合いはない。
「ええと、仁悟君だっけ? ひょっとしたらあなたがあいつが落ちた所に居合わせて気絶したっていう中学生なの?」
「そうなんだ。あれくらいの光、ひょいっと避ければ良かったのに。間抜けな奴さ」
僕の代わりにユニが答えた。おまえ、この野郎、誰のせいだと思っているんだ?
「あなたたちも通り魔事件が気になって街に来ていたの?」
「えっ、じゃあ、鈴歌さんも?」
「うん。最初の通り魔事件が起きた時から彼女があれは自分と同じ存在の仕業じゃないかって言っていたの。最初の事件が起きた時に犯人が捕まったから安心していたんだけど、また起こったでしょ? こんなことになったのは私にも責任があるし」
「そんな、君のせいじゃないと思うよ。悪いのは翔馬とかって奴だろう?」
僕の隣でユニが申し訳なさそうにぺこっと頭を下げた。
「もちろん最初はただただあいつが憎らしかった。でもだんだん自分にも何かが出来たんじゃないかって思い始めたの。それが何かは正直よくわからないんだけど、それが出来ていたら父もあいつも死ななくて済んだんじゃないかって。だからこれからは後悔しないように自分が出来ることをやりたいの。あの通り魔事件にあいつのカケラが関係しているなら、それを止められるのは自分なんじゃないかって」
真剣に話す彼女に僕はある種の感動を覚えていた。義理とはいえ仲の良かった父親が殺されたばかりでそんな心境になれるものだろうか。自分にはとても無理な気がする。見た目は華奢な彼女の中にある強さに僕は心を打たれた。それでも一つ疑問を感じた。
「でも、君のお母さんは大丈夫なの? こんな時に君が出掛けたりするの嫌がらない?」
「母は……、友達に会いに行きたいって言ったら許してくれた。こんな時だからこそ鬱ぎ込まないようにって思ってくれているみたい。騙しているみたいで心が痛むけど……」
彼女は今までで一番悲しそうな顔をした。その姿にまた心が打たれた。
「あの、良かったら僕にも協力させてくれない? どうせ僕たちもそうするつもりだったんだし」
「本当に? でも危険よ? あなたは元々関係ないんだから」
気を使ってくれたのだろうが「関係ない」の言葉に僕は少し傷付いた。
「もう関係あるよ。こんなカバが頭の中にいるんだからね。早く成仏させてやらないと」
「成仏? 事件が解決すると彼女たちっていなくなるの?」
彼女は本当に驚いていた様子だった。どうやら頭の中の奴を消すという発想はしなかったらしい。本当に心の優しい子なんだろう。
「事件を解決すれば、というよりは、カケラがあいつから引き継いだ未練を無くしてやれば、って感じだな。俺の場合はとにかく小説を書きたいんだ。だから仁悟に協力してもらっている」
確かにカバの手ではキーボードが打てないからな。
「小説? そうなんだ。じゃあ、あなたにも何か未練が?」
鈴歌さんがそう言うと隣の彼女は一瞬だが戸惑いの表情を浮かべた。会ってから初めて見る感情の動きだった。明らかに動揺したように見えた。
「ないわ、そんなもの」
「嘘吐け。俺たちがこうしてバラバラになっても死んでいないのは未練があるからだ。消えるわけにはいかないという強い気持ちがな」
いつにない迫力でユニが迫った。睨み合う翔馬のカケラたち。緊張が走った。
やがて彼女は根負けしたようにふうっとため息を吐いた。
「……いいわ。でもあなたと同じで私も記憶はないのよ。だからはっきりしたことは言えない。でもただ一つだけ感じるわ。私の中にある思い、それはね、『鈴歌を守りたい』なのよ」
鈴歌さんの「えっ!」と驚く声が暗闇に響いた。
「翔馬って奴はストーカーだったのかもしれない。人を殺したのかもしれない。でも鈴歌を好きだという気持ちだけは本物だったみたい。その思いが私を作っている」
鈴歌さんは困惑した様子で口を覆った。
「鈴歌、そんなに困らないで。だからといって私は何もしない。私はあの子そのものじゃないから。私はただ見守るだけ。あなたは何も気にしなくていい」
気まずいような沈黙が四人を包んだ。そんな時に最初に口を開いたのはやはりユニだった。彼は彼なりに自分の役割を考えているようだ。
「まあ、いい。とりあえず一度戻ろうか。こんな暗闇にいると心まで暗くなるからね。仁悟、彼女の手を離すことを「いめえじ」しろ。そうすれば現実の世界に帰れると思う」
僕は頷くと意識を手に集中させてみた。すると不思議なことが起きた。暗闇の中の鈴歌さんとは手を繋いでいないのに、それまで感じなかった彼女の手の感触を急に感じたのだ。これが現実なのか。彼女の手の柔らかさ、温もり、震え、そんなものを感じた僕は急に恥ずかしくなった。
「さあ、仁悟、現実の手を離せ。俺はこの恥ずかしい姿ともお別れだ。さあ!」
ユニの掛け声に合わせ僕は手を離した。途端に暗闇が消え、目の前には元の店内の景色が現れていた。
(どうだ、戻れただろう? これで俺はまた「ないすみどるう」だ)
頭の中でそう言うユニ。でもその声のイメージはやはりカバだ。姿が見えなくても変わらない。苦笑いを浮かべた僕に鈴歌さんが困ったように話し掛けてきた。
「今ね、彼女が言ったの。通り魔事件の探偵ごっこには反対だって」
(そうだろうな。彼女が翔馬から引き継いでいる思いが彼女を守りたいということだったら危険な所には行かせないのが最善の策だろう。特に自分と同じとはいえ得体の知れない翔馬のカケラたちには近づかせたくないんだろう。もちろん俺たちにもな)
「私、彼女がなんて言っても通り魔を阻止する。危険は承知の上よ」
鈴歌さんは真剣な表情でそう宣言した。そして続いてニコッと笑った。
「彼女、『勝手にしなさい』だって。言われなくても勝手にするけどね」
その後、僕たちは名の無い彼女を除く三人で作戦会議のようなものを開いた。まずは次に事件を起こすかもしれない翔馬のカケラを便宜上「ペガサス」と呼ぶことに決めた。それとついでに鈴歌さんの中にいる彼女を何と呼ぶかも話し合った。ユニが提案した「名無しのごん子」に当の彼女は当然嫌悪を示した。しかし僕たち三人は彼女を結局「ごんちゃん」と呼ぶことにした。何しろ彼女が名乗りたがらないのだからしょうがない。
再び黙り込んだごんちゃんは置いておき取り合えず今後のことを三人で話し合った。鈴歌さんは明日から少し忙しいらしい。詳しくは聞かなかったがお父さんが亡くなったばかりなのだから仕方ない。来週の土曜日にまたここで会う約束をしてメールアドレスを交換した。そこまでは順調だったがそこで会話がぷっつり切れてしまった。やはり自分には女の子と会話を続ける能力はないみたいだ。僕は彼女にそろそろ店を出ようと提案した。
「じゃあ、今日はここで。お互いに何か変わったことがあったら連絡しよう」
「うん、じゃあ、また来週ね。えっと、それで……」
そこまで言った彼女は言葉に詰まった。またごんちゃんが何か言っているのだろうか?
「……私ね、本当はすごく不安だったの」
彼女の顔が崩れて涙がぽたっと落ちた。僕はハッとした。
「父が死んでお母さんも落ち込んでるし、頭の中で声が聞こえるようになって、でも誰にもこんなこと相談出来なかった。自分はおかしくなっちゃったんじゃないかって不安で不安で仕方なかった。だから同じ立場の仁悟君に会えてすごく安心した。自分だけじゃないんだって。ありがとう」
こんな時に男はどんな声を掛ければいいんだろう? 経験値の少ない僕には全く分からなかった。僕はユニにそのことを相談した。
(そういうのはな、おじさんでもわからないんだよ。感情のままに動くしかない)
そんなことを言われても困ってしまう。僕がまごまごしていると彼女は無理やりまた笑顔を作って見せてくれた。照れ笑いを浮かべながら指で涙を拭く姿に僕の胸はきゅうっと締め付けられた。
「ご、ごめんね。泣くつもりなんかなかったのになあ。気にしないでね。じゃあ、バイバイ」
「あ、う、うん、また……」
手を振り去っていく鈴歌さんに対して僕は結局手を振る返すくらいのことしか出来なかった。
それからユニの「ぼうっとするな!」の声で我に帰った。周りの人たちが訝しそうにこちらを見ていた。僕は心の中で「いや、僕はそんなんじゃないんです!」と自分でも意味不明な言い訳をしてその場を立ち去った。やがて足早に駐輪場に向かう僕にユニが話し掛けてきた。
(君はどう思った? 彼女たち)
(どうって?)
(彼女たちは信用出来るのかってことだ)
(信用って、ユニは鈴歌さんたちを疑っているのか? いったい何を…・)
(つまり鈴歌ちゃんはともかく「ごんちゃん」は信用出来るのかってことだ。自分の名前がわかるのに名乗らないっていうのが気になるんだよ。人が自分の名前を名乗らないっていうのはどんな時だと思う?)
(えっ、そうだな、自分の名前が恥ずかしい時じゃないか?)
僕は担任の福助を思い出していた。彼は女っぽい自分の本名が恥ずかしいのだ。
(それだけじゃない、もう一つある。「いんたあねっと」なんかの匿名性の良し悪しを考える議論の時には必ず指摘されることだ)
(何だい?)
(悪いことをする時だ。誹謗中傷は自分の名を隠すからこそ出来る。人は自分の名を隠すことで自分じゃなくなる。自分が傷付かないからこそ他人が傷付くことをなんとも思わなくなるんだ)
(悪いこと? まさか、ごんちゃんも何か起こす気でいるっていうのか?)
(わからない。鈴歌を守りたいだけだって言うのも本当かどうか)
(僕には彼女が嘘を言っているようには見えなかったけどな。あんたが小説を書きたいっていう思いに囚われているように、彼女も生前の鈴歌さんへの思いに囚われているだけだと思う。どっちも翔馬っていう奴が元々持っていた思いなんだよ)
(だが翔馬はその思いがねじ曲がったから「すとおかあ」になったんだろう? 翔馬としての記憶が無いとはいえ「ごんちゃん」がそうならないとは言えない)
(その時は鈴歌さんが止めてくれると思う。彼女は強い人だよ)
(さっきの涙を見てもそう思うのか? 君の言う強い弱いは表面的なものだ。俺から見れば彼女や井山賢一よりも君の方が強いと思うぞ)
(はあ? そんなわけないだろう。じゃあ、なぜ僕は苛められているんだ?)
(それは自分で考えな)
ユニは冷たく言い放った。
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