第一章 クライングガール(もしくは、カウガール)



「今日の『ルール』は、そうだな、よし、『赤ちゃん言葉』にしましょう」


 朝、いつものように井山賢一が今日の『ルール』を発表すると教室に笑いが起きた。


「わかっていると思うけど相手が誰であろうと赤ちゃん言葉で話してください。いいですね? 猪倉君。『ルール』はしっかり守ること。そうすれば何もしませんから」


 僕は小さく頷いた。彼の口調はいつも丁寧で優しい。しかしその内容はいつも僕にとって凶器、或いは狂気でしかなかった。一見お願いのように放たれる言葉はいつも絶対服従の命令だった。


 絶望の中でふと考える。


 彼がこうして僕に眼を付けたのはなぜだろうか?


 はっきりとしたきっかけが思い当たらなかった。彼とは中一からこの中三の今まで三年間同じクラスだが、少なくとも一年生の時は特別深く関わったことはなかったと思う。井山賢一はスポーツ万能、成績優秀、顔も整っていて家は金持ちという学校中が憧れる完璧な優等生で、僕は何事にも目立たないクラスの隅にひっそりいるようなタイプの人間だ。二人は決して一生交わることの無い平行線だったはず。それがいつしか交わった。僕のような人間が自分から方向を変えたはずが無い。彼という線がなぜかわざわざ僕の方に折れ曲がってきたのだ。


 二年の夏のある日、彼は友達(という名の家来。一年の時に三対一の喧嘩にも関わらず圧勝し全員舎弟にしたらしい)に僕に対するいたずらを提案(つまりは命令)した。それは机の中に蛙を入れるというある意味古典的ないたずらだった。しかし次の教科の教科書を取り出そうとした僕は見事なくらい古典的に驚いた。


 女みたいな悲鳴を上げた僕の失態がよほど気に入ったのか、いたずらは三日後くらいにまた行なわれた。上履きのつま先の中に千切ったこんにゃくを入れられたのだ。もちろん僕は彼らの期待通り悲鳴を上げた。


 その後のいたずらについてはもう順番なんて覚えていない。内容を思い出したくもない。ミミズとか納豆などが登場した、とだけ言っておこう。そしてそのいたずらの続く間、僕は今日のようにただ困った顔をするだけで怒ったり反抗することが出来なかった。


 性格と言ってしまえばそれまでだが、僕は怒りという感情を表に出すのが下手な人間だ。父がいわゆる酒乱で母へ怒鳴り散らすのを見て育ったせいかもしれない。人を不幸にする怒りという感情そのものに嫌悪感を抱くようになってしまったのだ。中一の時、ばちが当たったように父は病気で早死にした。それで僕の恐れは妙なジンクスへと進化してしまったのだろう。だから僕は怒れないのだ。


 いたずらなんてそのうち飽きて止めるだろうなんて甘い考えもあった。でもいたずらは終わらなかった。さすが(何が?)の僕も辛くなってきて止めて欲しいと言ったこともあった。その時、家来の一人が僕を小突いた。少し押されただけだ。痛くなんてなかった。でもそれが始まりだった。いたずらは次第に暴力を含んだいじめへと変わっていった。


 やるのはもちろんいつも井山賢一直属の家来の三人だ。肝心の殿様は常に見ているだけだったが、僕が殴られたり蹴られたりするのをくすくす笑うその楽しそうな顔が、実は僕を一番傷付けた。


 チャイムが鳴った。一時間目の授業が始まる。英語の時間だ。ドアが開き、カマキリが入ってくる。もちろん「あの昆虫が」ではない。大きな眼鏡を掛けた顎の細い英語の教師のあだ名だ。みんながそう呼んでいる、と言っても、もちろん生徒同士の間だけではあるが。


 本人に面と向かって言えるわけがない。そんなことをしたらこの子供っぽさの残る大人げないおっさんは授業も忘れてぐちぐちといつまでも怒鳴り散らすだろう。彼はそういう性格なのだ。


 だからこそ僕は今日の「ルール」に頭を悩ませていた。こいつは高確率で僕に当ててくる。相性という奴だろう。僕は見せしめという役割が恐ろしく似合うタイプも人間だ。つまりこいつも井山賢一と大して変わらない。いや、教師と言う名称の権力を持つ大人だけにある意味彼よりもたちが悪かった。


 カマキリは授業を始めた。彼はまずいつものように教科書を開かせた。誰に読ませる気だろう? 僕の心臓が外からもわかりそうなくらいに音を立て出した。


 仕方なく僕はいつもの如く神様に祈った。当てられませんように、と必死に心の中で唱え続ける。速く繰り返しすぎた言葉はだんだん「あてられまー! あてられまー!」という呪文になっていった。


 その時カマキリが鎌を振り下ろしながら何かを言った。しまった。頭の中が「あてられまー」でいっぱいだった僕はその言葉を聞き逃した。まさか、「猪倉」って言ったんじゃないだろうな? 僕の心配をよそに斜め後ろの女子が立ち上がった。英語が得意だと普段から自称している彼女はすらすらと教科書を読んでいく。若干オーバーな彼女の発音を聞きながら僕はほっと胸を撫で下ろした。


 僕はこの時すっかり忘れていたのだ。ことわざにあるじゃないか、「一難去ってまた一難」と。


「よし、じゃあ、今の文を別の奴に訳してもらおうかな。じゃ、猪倉」


 あまりに驚いて僕は大きな音を立てて立ち上がってしまった。動揺したような僕の表情に気付き、勘違いしたカマキリがとたんに不機嫌そうな声を出す。


「なんだ、猪倉、ひょっとして予習してないのか?」


「い、いえ、大丈夫です」


 僕は小さく答えた。


 クラス中の視線を感じた。みんな笑いを堪えているのだ。事情がわかっていないのはカマキリだけだった。仕方なく僕は予習してきた通りに英文を訳し始めた。ノートに書いてきた日本語訳を読んでいく。見えないプレッシャーが少しずつ僕を包み始めるのを感じた。邪悪な期待。みんなが望んでいる。味方は誰もいない。何事もなくこのまま終えれば何をされるかわからない。僕は最後の文を読んだ。


「マイケルは涙ぐみながら僕にさよならを言いました、でちゅ」


 一瞬、教室の中が静まり返った。誰も喋らない。やがてどこからか、くすくすと笑う声が聞こえてきた。それを合図にカマキリの顔色が変わった。


「おい、またか! おまえは何でいつもそうやってふざけるんだ!」


 鋭い怒鳴り声に僕の体は硬直した。カマキリはごちゃごちゃ怒りをぶちまけた後、舌打ちして「もういい、座れ!」と吐き捨てた。僕は取り合えずほっとしたが同時に溜息を吐いた。何しろこれがまだ一時間目なのだから。


 この「ルール」といういじめを井山賢一が考え出したのは中二の秋だった。おそらく僕に対する暴力に勘づき始めたクラスメイトたちを巻き込むための方法だったのだろう。例えるなら野蛮な格闘技に興味を示さず眉を顰めた観客たちに参加型バラエティ番組を勧めたのだ。この巧みな作戦にクラス中が騙された。


 井山賢一が今日の「ルール」を発表し、僕がそれを一生懸命守る。みんなはそれを毎日の娯楽として楽しんでいる。僕の苦悩を気にする者などいない。まだ軽い暴力の方がましだった気さえする。ルールを守れなかった時は何かの罰を与えられるのだが、そもそも「ルール」自体が罰のようなものなのだから、罰に対して罰が与えられるというわけだ。なんたる理不尽。無茶苦茶だ。


 一日中「ござる」と言わなければならないという「ルール」の時は運悪く新撰組好きの「窓」に当てられ職員室に呼び出しを食らった。ちなみに「窓」とは授業中に股間のファスナーが全開だった社会の先生のあだ名だ。一日中左手しか使うなという「ルール」の時は数学のマスマス(本名は増田、数学は英語でマスと言うらしい)に当てられてしまい右利きの僕は結果として黒板にたくさんのミミズを書いた。真面目にやれと怒られたのは言うまでもない。


 このようにいろいろな「ルール」をやらされている僕は教師たちから間違った評価をされていた。職員室で「猪倉仁悟をどう思いますか?アンケート用紙」を配ってみれば間違いなくこう書かれてくる自信がある。


 空気の読めないいたずら好きの授業を乱す問題児。


 先生たちはその裏に絶対的な演出家がいることにおそらく気付いていない。目の前の派手な演劇に惑わされ裏方の存在を忘れてしまっている愚かな観客だ。少しは孤独なピエロの悲しみもわかってほしいが、恐らくライトの当たる目の前の舞台しか見ていない彼らは僕たちが卒業するまで、いや、卒業してからもそれに気付くことはないだろう。


 僕は結局その後の授業を何とか乗り切った。ロシアンルーレットが当たったのは最初の一発だけだったのだ。僕は放課後ため息混じりではあったが安堵に包まれていた。


 ところが帰り支度を始めた僕はいきなり教室に入ってきたカマキリに捕まった。そして職員室に連れて行かれ、ねちねちとお説教を頂くことになった。やはり弾が当たれば致命傷は免れないということか。両鎌で掴んだ蛾を貪るカマキリはいつもよりしつこかった。どうもこれは八つ当たりの臭いがする。かなり怖いと噂の奥さんと昨日なんかあったのだろうか?


 いっそのこと、本物のカマキリのように奥さんから喰われてしまえばいいのに。


 「何でいつもいつもおまえはふざけるんだ?」と聞く彼に僕は心の中でこう答えた。


 ルールだから。





 三十分ほど続いた説教からようやく逃げだした僕は家路を急いだ。帰り道には幸いなことに恐れていた井山賢一たちの姿はなかった。暇な時は校門当たりで待ち構えている時もあるのだが、どうやら今日は僕というおもちゃ以上の暇つぶしがあったらしい。


 無事に家へ帰り着いた僕はすぐに私服に着替えた。早くしないと帰りが暗くなってしまう。今日はどうしても街に出掛けなければならなかった。生活が懸かっている。


 路地を出て広い県道に出た僕は山を背にして自転車を走らせた。僕の住んでいる地区は山に近い。目指す街よりも高台にある。つまり走る道は緩やかな下り坂なのでぐんぐんスピードは上がるわけだ。初夏の風は気持ちいいが帰りの辛さを思えば±0だろう。行きよりも帰りが辛いなんて損をしている気がする。僕は本当なら好きなものを最後に残すタイプなのだ。逆の方が良かったなんて考えているといつものように目の前に橋が現れた。当たり前だ。橋は移動しない。


 自転車を降り、車に気を付けながら長いそれを渡り切った。前から思っていたことだが川を渡ると世界は変わる。気分の問題ではない。気象さえ違うのだ。街で降っていた雨が家まで来ると降っていなかったり、その逆もある。ここは雪国だが、橋を挟んで降り積もる雪の量にも違いが出る。無論圧倒的に山側が多い。目に見える狭い範囲の環境がこんなにも違うなんて何か不思議な感じだ。昔の人が考えていたこの世とあの世を分ける三途の川の概念も頷ける。あながちただの空想ではないのかもしれない。


 目指すマンションは橋を渡ってからさらに二十分ほど掛かる場所にあった。急に平らになった道が脚の回転を鈍らせていく。部活も何もしていない僕は慢性的な運動不足という病に罹っていた。もちろん特効薬は存在しない。はあはあ言いながらやっとのことで目的の建物に到着すると僕はそれを見上げた。


 一言で表すなら「まあまあ」と言ったレベルのマンションだろう。つまり特別豪華ではないが安っぽくもないということだ。この三階に僕の最終目的地があった。自転車を降り鍵を掛けると運動不足病を治すため階段で一気に上へ駆け上がった。ますます息が上がり、ドアの前で呼吸を整えた。


 落ち着いたところでさらに大きく深呼吸をする。それには息切れとは違う別の理由があった。


 あの人がいませんように。


 どきどきする胸を落ち着けようと、さらにもう一度深呼吸をした。覚悟が決まった。僕はチャイムを押した。すぐに返事がした。ちょっとほっとする。この声は「当たり」の方だ。チェーンを外す音がしてドアが開く。母さんが顔を出した。


「今日は少し遅かったのね。美優ちゃん、ずっと待ってたのよ」


 母の陰に隠れていた小さな体が飛び出してきた。彼女は僕の脚に抱き付いてきた。可愛い頭を撫でて上げるとまだ舌足らずな発音で彼女は「にいちゃ!」と笑った。「ん」が抜けるのはいつものことだ。まるで「ニーチェ」と呼ばれているみたいでくすぐったい。確か「神は死んだ」とか言った歴史的な哲学者だったっけ。そんな偉い学者と何でも神頼みの僕では人生の悩みのレベルが違いすぎるだろう。僕は美優を抱き上げると密かに部屋の奥を窺った。母はその視線に気付いたようだ。


「あの人ならいないわよ? 今日は遅くなるみたいだから、気にしなくても大丈夫よ」


 悲しげな苦笑いを浮かべる母に僕は少し罪悪感を持った。


 母が僕の住んでいる家から出て行ったのは僕が小六の時だった。酒を飲んでは暴力を振るう父から逃げ出したのだ。


 そう、僕を置いて。


 でも今それを恨む気持ちは全くない。逆によく十二年も我慢していたものだと感心するほどだ。それだけ父は母に対し非道い男だった。


 その後、僕は父と父方の祖母との生活を続けていた。すると父に早死という天罰が下ってしまった後で母から久し振りに連絡があった。まだ小さい連れ子がいる男性と再婚したいという話だった。義理の父に当たる人は絵に描いたような良い人で、おひとよし過ぎて美優の実の母親に別の男と逃げられたらしい。ちょっと情けない気もしたが会ってみると彼が誠実で良い人だということは伝わってきたし、再婚に反対する理由はなかった。


 しかしそれでも僕は彼を父とは認められなかった。


 あんな人間ではあったがあの父以外をお父さんとは呼べなかった。何だか悔しいがそれが本心だ。


 結局悩んだ挙句、僕は父方の祖母との二人暮らしを選んだ。しかしパートをしている祖母の給料だけでは生活が厳しく、仕方なく母親から援助を受けていた。「祖母が」ではなく、あくまで「僕が」ということだ。本当なら振り込みでもいいはずなのだが、僕は律義に月一でこのマンションを訪ねている。金をせびりに来ているようで少し気が引けるが義理の妹も懐いてくれているし悪い気はしなかった。ただいつも笑顔のあの人に会うのが苦手なだけだ。


 美優と遊んだ後、僕は母から封筒を受け取り部屋を出た。何か言いたそうな母の顔。いつものことだ。わかっている。今からでも一緒に住まないかと言いたいのだろう。僕は思わず「ごめん」と呟いた。きょとんとした後、母は笑い出した。


「なに謝ってるの? ほら、美優も不思議そうな顔してるじゃない」


 確かに美優はぽかんと僕を見上げていた。純粋そうなその顔がふと羨ましく思えた。居た堪れない気持ちになった僕は「なんでもないよ」と笑って誤魔化しその場を後にした。


 なぜか自転車を漕ぐ気になれず押して歩いた。五分ほど歩くとようやく気持ちが落ち着いてきた。そろそろ乗ろうかと思い立ったその時、僕は最悪のものを見つけてしまった。数十メートル前、後ろ姿でもわかる四人組。殿様&家来ズに間違いなかった。


 頭で考えるより先に僕の目は辺りを窺い始めた。隠れる場所を探しているのだ。まさにオートマチック。体が無意識にあいつらを嫌がっている。パブロフに見せたかったくらいの反応だ。隠れ場所探しは無意識の自分に任せ、僕の意識は井山賢一たちに集中していた。振り返るなと念じれば念じるほど振り返りそうで出来るだけ何も考えないようにした。ただ彼らの動きにだけ注意していればいいのだ。すると彼らの歩いている辺りに左に入る道が見えた。このまま進んでいけば彼らが振り返る前にあそこから脇道に入れるはずだ。


 僕は彼らとの間合いをしっかり取りながら慎重に歩いた。逃げたい気持ちと矛盾するように後を付けた。まるで尾行だが本当は彼らから視線を外すのが怖いだけだ。だから背中を向けて逃げられない。じりじりと前だけを見て歩く数十秒が異様に長く感じられた。


 やっとの思いで辿り着いた横道に飛び込むと急に寒気が襲ってきた。いつの間にかびっしょりと汗をかいていたようだ。疲れのせいか頭がぼうっとする。貰ったばかりのお金を落としたりしたら大変だ。どこかで休みたい。僕は何も考えず自転車を杖代わりにしてその道を奥へ向かって歩いて行った。


 進んでいった先には大きなマンションが建ち並んでいた。初めて来た場所だった。昔ながらの時代遅れな団地と言った感じで母の住んでいるマンションと比べると少し古臭いような気がした。そんなことを思っていると小さな子供を遊ばせている母親らしき女性と目が合ってしまい、僕は慌てて挨拶をした。「こんにちは」の声が震えた。我ながら不審者だ。もう何やってんだろ? もうあいつらなんかをびくびく気にするのは止めて家に帰らなければ、そう決意した時だった。


「いやあああ! やめてええ!」


 この世の終わりだったらあんな声を出すのだろうか、そんな叫び声だった。世界の存在全てを悲しみ泣き叫ぶ声、そんなイメージ。聞いた瞬間、頭の中に自分とそう変わらない年頃の女の子の姿が浮かび上がった。


 僕は驚いて反射的に声のした方向、つまりは頭上を見上げた。そして予想もしないものを見て思考が止まった。


 あれっ、人間が空を飛んでいる? 空飛ぶ少年?


 そう思ったのは一瞬だ。もちろん人は空など飛べない。つまり答えは一つしかないのだ。感じたことのない恐怖が刹那に僕の体を包んだ。眼を瞑らなきゃと思った瞬間、頭上から降ってきた人はあっという間に僕の目の前で地面に叩きつけられていた。金縛りにあったように眼を見開いていた僕は全てを見てしまった。


 嫌な音と共にわずかに弾んだ彼の体から何かが飛び出した。


 しかしそれは別にグロテスクな類いのものではなかった。例えるならそれは光に似ていた。それは狙ったかのように僕に向かって飛んできた。避ける間もなく殴られたような激しい頭痛が起きて掴んでいたはずの自転車が倒れた音がした。なすすべもなく僕の意識は薄れていった。


 だいぶ遅れてようやく子供連れのお母さんが悲鳴を上げた。


 僕はそれを聞きながら得体の知れぬ暗闇へとゆっくりゆっくり落ちて行った。





 夢を見ていた。妙にリアルで映画でも見ているかのような夢。それは物語だった。





 近未来の街を逃げる三人の少女たち。警察に追われている彼女たちはみんな頭に大きな兎の耳を付けていた。彼女たちは窃盗の常習犯だったが、怪しいという情報はあっても証拠が掴めず警察も今まで逮捕に踏み切れずにいたのだ。しかしいつもはうまく大人たちの目を盗む彼女たちもついにこの日へまをした。


 追われた彼女たちは文字通り兎のように俊敏に街を逃げ回った。細い路地裏などを知り尽くしている彼女たちにだんだん警察は付いていけなくなった。ほっとした彼女たち。しかしその前に一人の男が立ち塞がった。長身で白く染めた髪が目立つその男の背中には大きな白い翼が生えていた。少女の一人が叫んだ。


「ぺ、ペガサス!? 何でこんな所に!」


「へえ、俺のこと知っているのか。それは光栄だな、バニーガールちゃんたち」


 男は警察が使う通称で彼女たちを呼んだ。バニーたちはキッと彼を睨んだ。


「警察の犬め!」


「いや、犬じゃなく馬なんだけどな、ペガサスって」


 とぼけた様子のペガサス。


「う、うるさい! 女だからってなめんなよ。こっちは三人いるんだぜ!」


 少女たちは一斉にナイフを取り出した。怒りのためか眼が血走ってきていた。


「うわっ、怖い。本当に兎みたいだな、その真っ赤な目」


 馬鹿にしたようなペガサスの言葉に彼女たちはついにキレた。三方向から振り回されるナイフ。しかしペガサスはそれを華麗にかわしていく。疲れが見えてきた少女たちに対して今度はペガサスの反撃。彼の鋭い蹴りは的確にナイフだけを捉えた。一瞬で三本のナイフが地面に落ちる。力の差を見せつけられ座り込む少女たち。パトカーのサイレンを聞きながらペガサスは彼女たちにこう言った。


「俺がペガサスって呼ばれているのは蹴り技の使い手だからさ。ほら、蹄鉄のような鉄が付いているだろうこの靴。よく覚えとくんだな。ほら、お迎えが……、あっ、てめえ!」


 隙を見て逃げ出そうとしたリーダー格の少女の兎耳を慌ててペガサスは掴んだ。つい力が入る。「痛い!」という悲鳴が起きた。


「おっと、悪い。兎は耳を持っちゃいけないんだったな。つい握りやすかったからよ」


 少女は本気で痛がった。そう、少女たちの耳もペガサスの翼も血の通った本物の肉体なのだ。





 場面が変わった。





 ペガサスはテレビを見ていた。その日の特集は「アニプラリー」と言われるもののようだ。ナレーターが画面に合わせて説明を始めた。



 アニプラリーとは皆さんご存じのようにアニマルプラスティックサージャリーの略、日本語で言うなら動物部位移植型形成外科手術のことです。今ではその手術を受けて動物の体の一部を持ち合わせる人間自体をそう呼ぶようにもなっていますね。現在若者の間ではファッション感覚で行われているアニプラリー。決して珍しいものではなくなりました。しかしその歴史を知っていらっしゃる方は案外少ないのではないでしょうか。今日は短期間に皆さんの暮らしに浸透したアニプラリーの秘密に迫っていきたいと思います。


 アニプラリーの根幹に関わる発見がなされたのは、ほんの二十五年前、現在世界一有名な科学者であり実業家でもある、あのサンダー博士によってです。彼が発見したのは遺伝子と免疫に関する様々な関連性、つまり簡単に言うと他人の臓器などを移植した時にどうしても起こり得た免疫による拒絶を百パーセント無くすことに成功したのです。と言ってもそこまでは過去にもある程度の技術が存在していましたね。彼がすごいのはその先でした。彼は動物の体を培養し人間に移植出来ないかと考えたのです。


 最終的な目標は動物の優れた機能を人間が手に入れるというまるでSFのようなものでした。そしてこれが世に発表された数日後、ある少女が博士の元に訪ねてきたのです。小さい頃に頭部へのひどい火傷を負い、人の眼を気にして生きてきた彼女はアニメに出てくるような可愛らしい猫の耳が欲しいと訴えました。博士は迷いましたが移植を断行しました。当然モラルの問題から激しい非難が起きました。ところが彼女がマスコミに登場し涙ながらにいま自分がどんなに幸せかを訴えかけると世論が少しずつ変わり始めたのです。


 彼女の愛らしさは世界中で評判になりました。とうとう怪我をしたわけでもないのに彼女の真似をして動物の耳を頭に移植したいという者が大勢出てきたのです。何かを所望する人間がいればそこに商売が成り立つのはどんな時代も同じです。人工的に培養した動物の体の一部を体に移植することが普通の整形と変わらない美容行為になっていきました。サンダー博士の研究はその後も続けられ、より簡単に、より安全に、アニプラリーは行われるようになり、ついにそれはファッションの一文化として定着したのです。



 その後もテレビではアニプラリーの考察と問題点などが語られていた。年配の評論家が興奮気味に「アニメやマンガの悪影響による神への冒涜だ」などと叫び始めるとペガサスはカチンときてテレビのスイッチを切った。そしてついテレビに向かって怒鳴ってしまった。


「神への冒涜? 仕方ねえだろ! こっちは赤ん坊の頃からこの姿なんだぜ!」


 ペガサスは捨て子だった。探偵をしていた独り身の養父に拾われたのだ。探偵事務所の犬猫探しますの張り紙が貼ってあるドアの前にタオルで包んで置いてあったらしい。親父はいつも笑いながらこう言っていた。犬か猫かと思って抱き上げたら不細工な鳥だったぜ、と。まだ赤ん坊だというのに翼はすでに移植してあったのだ。おかげでペガサスの服は昔から特注品だった。


 いくらアニプラリーが一般的になっている今の時代でも普通は赤ん坊に手術を行うなんてことはしない。しかも翼という大きな器官の人間への結合というのはアニプラリーの中でもかなりの技術を必要とする手術なのだ。大人になったペガサスが切除を考えて相談した医者が「もうこれは切れない。血管や神経の繫がりが複雑で危険すぎる」と匙を投げたほどだった。こんな危険なアニプラリーを行う医者は表世界には存在しないとさえ言われた。どうやらやったのは闇医者と言われる類いのマッドサイエンティストらしかった。頼んだ親も手術した医者も狂っていたというわけだ。可愛いと思って無理に手術したものの我に返って手に負えなくなったというのが本当のところだろう。しかし今となってはどうでもいいことだった。


 突然のチャイムの音にペガサスは我に返った。ドアを開けるとそこには見知った三人の顔があった。


「なんだ、カウガール御一行様か。昨日の礼なら振り込みで良かったのによ」


「はあ? 礼なんてないわよ? 今回はうちが頼んだわけじゃないんだから。あんたの雇い主は被害に遭っていた店でしょ? まあ、表彰くらいしてあげてもいいけど、あげられるのは紙だけよ」


 ペガサスにそう言ったのはポニーテールの女性だった。なかなかの美人だがまだ幼さが残っていて、制服を着せれば十分高校生に見えると思われるほどだった。高校への潜入捜査があるなら大活躍間違い無しと密かにペガサスは思っていた。


 彼女の左隣にいるのは顔の長い男だ。見るからに屈強な肉体。不気味さすら感じる無表情が特徴的だった。右にいるのは対象的にマッチ棒のように細い男。かなり化粧が濃く、じっとすることが苦手なようで、常にくねくね動いていた。実は三人とも刑事であり、アニプラリーではないがペガサスの見知った顔であった。


「ちょっと頼みがあるんだけどなあ」


 真ん中の女性が警察の威厳なんて全く感じられない甘えた声でそう言った。。一方、後ろの男たちは黙ったままだった。意外なことに真ん中の女性が一番上役で後の二人は部下というより子分に近いのだ。ペガサスがカウガールと付けたあだ名もそこから来ていた。馬面の男と「ん、もう!」が口癖の牛男を束ねる女ボスというわけだ。実は三人の本名をペガサスは知らなかった。いつも「カウガール」「馬」「牛」と呼んでいるのだ。彼らも彼のことをペガサスと呼んでいたし、お互い様だった。


 ペガサスと彼らは数年前からの付き合いで、街で起こる事件を巡って時には協力し、時には対立する仲だった。養父が死に、探偵として後を継いだペガサスは自分の見た目も関係してか、アニプラリーをファッションとして取り入れている今時の若者たちの間で起こる争い事の仲介役のような仕事をするようになっていた。警察はその独特の若者文化に精通している彼に眼を付けたというわけだ。警察が捜査しにくい事案がある時はその面倒事がいつもペガサスに回ってくる。迷惑な話だった。


 案の定、カウガールは今回もペガサスにある仕事を依頼してきた。実はここ最近アニプラリーの人間ばかりが失踪するという事件が続いているという。男女問わず、自ら失踪する理由がない者ばかりらしく、唯一見つかった共通点がアニプラリーであり、対象者の多さから言って偶然とは考えられないとカウガールは断言した。


 こうしてペガサスはカウガールたちと協力し、アニプラリー失踪事件の調査を始めることになったのだが、そこに潜む闇の大きさに彼はまだ気が付いていなかった。





「どうだ、面白そうな話だろう?」


 どこかで声がした。暗闇の中、僕はハッとした。自分の存在を急に取り戻した、そんな感覚だった。自分が夢を見ていたことを思い出す。あまりにリアルな夢で自分がそこに登場人物として参加していたような気さえした。


 羽が生えた人間なんているわけないのに。でも妙に生々しい夢だったな……。


 そこまで考えた時、僕はあることに気が付いた。今、自分がいる場所。真っ暗闇で何も見えない。何一つだ。そこに自分はぽつんと一人立っている。現代、普通に生活していれば何も見えないほどの闇なんて考えられない。


 なんだ、まだ夢の中なのか。


「面白くなかったかな? 『あにぷらりい』はなかなかの『あいであ』だと思ったのに」


 僕はぎょっとした。またあの声だ。暗闇のどこかからというより暗闇自体が喋っているような感じだった。低いおっさんの声。英語が苦手なのか、「アニプラリー」や「アイデア」という部分がおかしな発音だった。それにしても面白いとか面白くないとか夢の中で夢の感想を求められるなんて面倒な話だ。僕の夢なら夢らしく楽しいことばかり起きるようにしてほしい。国語の授業は学校だけで十分だ。後は読みたい本を自由に自分で選んで読みたい。強制される筋合いなどない。


「どうもお気に召さなかったようだな。まあいい、こっちも事情がある。少しお邪魔するぜ」


「お邪魔? 勝手に人の夢でごちゃごちゃ喋るなよ!」


 僕は久し振りに怒りの感情を表に出した。自分の夢の中という安心感がそうさせたのかもしれない。


「だいたい僕は忙しいんだ。婆ちゃんにお金を持って帰らなくちゃ……」


 そこまで言ったところで思い出した。そうだ、僕はどうなったんだ? 確か、自分と同じくらいの少年が落ちてくるのを目撃してしまって、気が遠くなって、それから?


「悪いな。でもまだ俺は完全じゃない。まだ少し足りない。不足した部分はおまえから貰って補わなくちゃならないだろう。悪いけど、おまえさんだけが頼りだ」


 男の声が少しずつ小さくなっていった。まるでどこかに遠ざかっていくようだ。


「ちょっと待って! 一体どういう意味だ? 補うって? おい、答え……」


 そこまで叫んだ時、僕の頭上から突然光が射した。驚いて思わず見上げたが眩しくて光の先は全く見えなかった。眼が眩む。


 それと同時に僕の意識はまた遠くなっていった。





 仁悟!


 自分の名を呼ぶ声がして僕は我に返った。眩しい。ゆっくり開けた眼に祖母の姿が映った。涙ぐんでいる? 六十代でまだまだ若いはずの祖母の顔が今はずいぶん老けて見えた。どこだ、ここは? 何か独特な匂いを感じた。頭がぼうっとして状況がよくわからない。自分がベッドに寝ていることに気が付くまで結構時間が掛かった。


「仁悟、わかる? ばあちゃんだよ。気が付いたかい?」


 僕は黙って一つ頷いた。声を出そうとしたが喉がからからだった。


「良かった。ここは病院だよ。あんた倒れちゃったんだよ。覚えてるかい?」


 病院と聞いて納得をした。そうか、僕は失神したのだ。


「かわいそうによっぽどショックだったんだね? あんなものを見ちゃって」


 あんなもの、か……。


 あの時の映像は今も鮮明に頭に残っている。それにあの音。僕は医学の専門家ではない。しかしあの少年が生きているとは到底思えない。つまり僕が見たものは人の死の瞬間だ。自分と変わらない年頃の少年が一瞬で命を無くす衝撃。しかしそれは変な夢を見ていたせいか、どこか遠い昔の出来事のような感覚になっていた。


「よしよし、かわいそうに。先生は脳には異常がないって言ってたんだけどね。あんた、なかなか眼覚まさないし、ばあちゃん、心配で心配で。……そうだ、先生呼ばなくちゃね! 」


 祖母はちょっと慌てた様子でナースコールのボタンを押した。すぐに「どうしました?」と返事が来る。婆ちゃんの「孫の意識が戻ったんです! 早く先生を呼んでください!」という大きな声はナースコールなど無くてもナースステーションまで届きそうだった。


 やがて現れた老博士と言った趣の医師は僕に簡単なテストのようなものを受けさせた。別にどうってことのない、自分の名前がわかるかとかそんな質問の数々だった。そして彼を見ているうちに僕の頭にはふと「サンダー博士」という単語が浮かんだ。


 ん、あれ、サンダー博士って確か……。


「外傷もないですし、CT検査の結果にも異常は見られません。意識もはっきりしていますから問題はないと思います。ただ今日はもう遅いですし念のため泊っていかれた方がいいでしょう」


 祖母はほっとした様子で老博士に頭を下げて礼を言った。するとそこへ一人の女性看護師が部屋に入ってきた。僕の方をちらっと見た彼女は老博士の耳に口を寄せると何かを囁いた。一瞬で彼の表情が曇った。


「ああ、そうか、わかった。しかし彼はまだ意識が戻ったばかりだし無理をさせたくないんだが……」


 老博士はちらっと僕の顔色を窺った。それを見た祖母がまた不安そうな顔をした。


「あの、先生? 何かあったんですか?」


「あ、いえ、それがですね。お孫さんの目撃したものについて警察が話を聞きたいと」


 そういうことか。


「そんなっ! 孫はついさっき眼を覚ましたばかりなんですよ!」


 祖母の一オクターブ上がった声は明らかな批難を示していた。老博士が困った様子で僕にもう一度視線を送ってきた。


 はあ、仕方ないな。


「婆ちゃん、僕なら大丈夫だよ。警察の人も仕事だろうし」


 そう言うと祖母は「いや、でも」と何かを言い掛けた。しかし僕はそれを遮るようにもう一度「大丈夫だよ」と繰り返した。老博士も一瞬躊躇したようだったが、一言「無理はしないようにね」と言い、看護師に警察の方を呼ぶように指示を出した。それを聞いた看護師が部屋を出て行くと老博士は僕にさらに念を押した。


「いいかい? 君は自分でもまだよくわかっていないと思うが、とても大きなショックを受けたんだ。今はなんともなくても気を失うほどの衝撃を感じたのは紛れも無い事実だ。絶対に無理はしないこと。思い出したくないと思ったことは無理に思い出さないことだ」


「はい、わかりました」


 努めて明るく僕は返事をした。


 数分後、すっとドアが開いた。先程の看護師に続いて入ってきたのはスーツ姿の男性だった。警察と聞いて勝手に交番のお巡りさんの格好を思い浮かべていた僕は少し驚いた。ひょっとしてこの人は刑事なのか。あの少年の死はただの自殺じゃないのか?


「まだ眼が覚めたばかりだとか。こんな時に申し訳ございません」


 男は丁寧に深々とお辞儀をした。四十代くらいか。かなり強面の顔に比べ、その口調は異常に丁寧で優しかった。その違和感はどこかで感じたことのある感覚だった。


「私は県警の井山と言う者です」


 そう言って彼は警察手帳を見せてきた。


 えっ、イヤマ? ……井山!


 そうだ、思い出した。いつだったか、聞いたことがある。井山賢一の母親はこの辺の地区で代々続く有名な資産家の娘で、警察官をしているという父親は婿養子だったはずだ。


「あ、あの失礼ですが、賢一君のお父さんじゃ?」


 僕は恐る恐る質問をした。彼は驚いたようだった。


「えっ、息子を知っているのですか? ああ、そうか、ひょっとして君も?」


 彼は僕が通っている中学の名前を挙げた。間違いない。面倒なことになったなと思いながらも仕方なく僕は自分が井山賢一と同じクラスだと告白した。


「そうだったのか。いや、申し訳ない、恥ずかしいことだが、私は息子のことは妻に任せっ切りにしていてね。誰が友達かなんてよく知らないものだから」


 友達なんかじゃないという言葉をぐっと飲み、僕は愛想笑いを浮かべた。複雑な僕の心境とは裏腹に祖母は僕の同級生の親だと知って安心したようで孫がお世話になっていますと社交辞令を述べ始めた。「お世話」の意味が違うことを祖母は知らない。


「でも、君は一体どうしてあんなところに?」


 あんたの息子のせいだとも言えず、僕は必死に言い訳を考えた。


「あ、あの、街に出掛けて、ちょっと疲れて暑かったから、日陰を探してて」


 その説明で井山パパが納得したかどうかは判断出来なかった。彼は顔は笑っていても心の中では何を考えているかわからないタイプに見えた。間違いなく井山賢一にも遺伝している部分だ。メンデルが研究していたらなんて発表しただろう?


「そうか。じゃあ、少し詳しく話を聞かせてくれないかな?」


「あ、はい、わかりました。……あの、それで、一つお聞きしたいことがあるんですが」


「何だね?」


「あの少年はどうなったんですか?」


「……残念だが亡くなったよ。即死だったようだ」


 予想していたこととはいえ改めてその事実を知らされるとショックだった。


「……そうですか」


 僕はその次の言葉を探せなかった。


「眼の前で人が死んだというのはショックなことだろう。しかし君が見たものをそのまま話して欲しいんだ。憶測や想像でなく間違いなく君が見たものだけ教えてほしい」


 僕は大きく頷き、話を始めた。頭上から若い女性の悲鳴が聞こえたこと。見上げると人影が空中に見えたこと。あっという間にその少年が地面に叩きつけられてしまったこと。


「それから……」


「それから?」


「僕の頭に何かが……」


 そこまで言ってから僕は思わず口籠った。そう、僕は確かに見たのだ。少年の体から光のようなものが飛び散るのを。それは間違いなく僕目掛けて飛んできた。それが頭に当たり僕はその衝撃で気を失ったのだ。でも誰がそんな話を信じるのだろう? 医者も言っていた通り、僕に外傷は全くない。


「あんた、やっぱりまだ様子がおかしいよ。どこかぼうっとして。本当に大丈夫かねえ? 先生にもう一度よく診てもらおうか?」


 祖母がまた心配そうにそう言ったので僕は慌てて大げさな笑みを作って見せた。


「いや、痛い所もないし大丈夫だよ、ばあちゃん」


 そう言っても祖母はまだ心配そうだったが僕はすぐに井山パパの方に向き直った。


「僕が見たのは以上です。その後のことは気を失ってしまったので知りません」


「わかった。じゃあこちらから質問をするよ。いいかな?」


「はい」


「君が聞いた悲鳴だけど、それはどんな声だったかな?」


「ええっと、さっきも言ったように若い、たぶん僕と同じくらいの年代の女の子の声だと思います。『いやあ、やめて』ってすごく悲痛な感じの叫び声でした」


「女の子の声か。それは一人の声だね? 他の声が聞こえたということは?」


「いえ、あれは一人の声だったと思います。他には何も……」


「……そうか。うん、わかった。いや、ありがとう。とても参考になったよ。具合が悪いところ無理をさせて済まなかったね」


 そう言うと井山パパは祖母に対しても礼を述べ部屋を出て行こうとした。


「あ、あの、もう一つお聞きしたいことが……」


 僕は慌てて井山パパを呼び止めた。


「何だね?」


「あの少年は何かしたんですか? つまり、えーと、捜査されるようなことを」


 一瞬、井山パパは躊躇いの表情を浮かべた。秘密厳守なのは当然だろう。


「……まあ、どうせすぐにわかってしまうことだからね。実は彼が飛び降りたのは四階のある部屋からのようなんだが、そこで人が殺されていたんだ。悲鳴を上げたのはおそらくその被害者の娘さんでね。我々は死亡した少年が加害者だと思っている」


 殺人! その言葉にひどく驚いた。自分と変わらない世代の少年に人を殺して自らの命も絶たなければならない事情があったというのだろうか?


「じゃあ、お大事に。また何か話を聞くかもしれないけど、その時はよろしく」


 そう言って井山パパは部屋を出て行った。


「人殺しだって。怖いねえ」


 祖母は見てわかるほどに体を震わせ怖がっていた。


「あんたが巻き込まれなくて良かったよ」


 ほっとした表情の祖母に僕は気になっていたことを聞いた。


「……あのさ、婆ちゃん、このことは母さんには?」


「えっ、いや、まだ言ってないよ……」


 明らかに祖母は不機嫌な口調になった。


「あ、じゃあ、いいよ、別に。こうして無事だったし、わざわざ連絡しなくても」


 祖母は自分の息子である父から逃げた母をあからさまに嫌っていた。酒癖が悪かった自分の息子に離婚の責任があると判っていたとしても母親としての感情が許せないらしかった。仕方ないとはいえ援助を受けていることも育ての親としての誇りに傷を付けられる原因となっているようだ。


「あんたがそう言うならそうするよ。じゃ、今日はもう休みなさい。疲れただろ?」


 確かに祖母が言うとおり僕は疲労を感じ始めていた。あまりにも色々と有り過ぎた。起きたばかりだというのに睡魔が襲ってきていた。僕は自分でも何を喋っているのか判らないほどむにゃむにゃと祖母に返事をし、そのまま夢の世界へ降りて行った。





 明くる日の午前中、僕はもう一度老博士の診察を受け異常がなかったため退院を許可された。しかし家に帰れるとほっとした僕に老博士はこう言った。


「実は何人かマスコミの人間が病院の周りをうろついているようなんだ。おそらく目撃者である君の取材をしようという連中だろう。正面から出ると色々面倒なことになるかもしれない。うちの方で地下にタクシーを呼ぶからそれを使った方がいいだろう」


 マスコミという言葉に驚き、僕と祖母は顔を見合わせた。そうか、僕は事件に居合わせた目撃者なのだ。失神して病院に入院したということも知られているのだろう。マスコミからすれば格好のネタというわけだ。事情を知らない彼らは僕が気絶するほど恐ろしいものを目撃したと思っているに違いない。


 老博士に礼を言うと僕たちは案内の看護師の後に付いて行った。見舞客が使う一般のエレベーターを通り過ぎ、少し大きめのエレベーターに乗り込んだ。おそらくベッドに寝たまま乗れるものだろう。地下に着くと通路を先に進んだ。右側に大きな部屋があり、廊下の奥には外の光が見えた。どうやら地下から地上に車で出て行ける場所らしい。待っていたタクシーに乗り込むと看護師に礼を言い、僕たちは病院を後にした。祖母が自宅の住所を口にすると愛想のいい運転手は元気良く返事をし車を出した。


「いやあ、珍しい場所からお乗りになりましたね」


 僕は意味がわからなかった。祖母は苦笑いのような表情をしているだけだった。


「あそこは普通『霊柩車』が待つ場所ですからねえ」


 ああ、そういうことか。そう思った瞬間だった。


(へへ、俺にはぴったりだな)


 ぞくっと寒気がした。思わず悲鳴を上げそうになったが僕は何とか堪えた。確かに今、声がした。聞き覚えのある声。そうだ、夢の中で聞いた声だ。ちらっと祖母の様子を確認してみたが変わった様子はなかった。やはり今の声は僕にしか聞こえなかったようだ。


 いったい何だって言うんだ? 僕は頭の中の声の主に向かって恐る恐る問い掛けてみた。


(……誰だ?)


 さっきのは幻聴だと思いたかった。しかし返事ははっきりと聞こえてきた。


(帰ったら「にゅうす」でも見ろよ。俺も自分が何者か知りたいんだ)


 また自分は夢を見ているんじゃないか。そう思ってもタクシーの走る音は夢にしては現実的過ぎた。ここには翼の生えた主人公もバニーガールも居やしない。


(混乱するなよ。俺も実は良く分かっていないんだ。記憶が無いんでな)


(記憶が無いって、人の頭の中でなに言ってるんだ! 出てってくれよ!)


(おいおい、そんなに怒るなよ。普段は井山たちに何も言えない癖に)


 そう言われて僕はぎょっとした。井山賢一のことをこいつは何で知っているんだ?


(心の中ではちゃんと怒れるんだな、おまえ。俺はお前の頭の中にいるんだよ。お前のことは何でもわかっている)


 得体の知れない相手に頭の中を見られている。僕は言い様の無い不快さを感じた。


(いい加減にしろよ! お前、誰なんだ?)


(何度も言わすなよ。記憶が無いんだから説明出来ないんだって。推測出来ることは少しあるけどな。それを確かめたい。だからお前の家に帰ったら「てれび」見せてくれよ。その時に話すわ。じゃあな)


(じゃあな、って、おい! 黙るな! 返事しろよ!)


 おっさんの声は静かになり、その後、僕が何度心の中で呼び掛けても返事はなかった。


 記憶が無いという謎の声。あの時に当たった光を思い出す。無関係とは思えない。


 もしあれが魂とかいう類いのものだとしたら。


 そんなことを考えて僕は苦笑した。ありえない。ただの幻聴に違いない。やはり祖母の言うとおり僕はおかしいのかもしれない。もう一度病院に行かなければならないかも。僕が密かにそう決意しているとタクシーは家へと到着した。


「今日は休むって学校に言ってあるからね。先生も事情をご存じだから」


 祖母が鍵を開けながらそう説明してくれた。一晩いなかっただけで不思議と懐かしい感じがする我が家。この古くさい一軒家が自分の居場所だと再認識させられた。僕は帰ってくるといつもやるようにテレビを点けた。先程のおっさんの言葉を思い出したわけじゃない。無意識という奴だった。点けてから、しまったと思った。


(おっ、点けてくれたんだな。よしよし、意外と素直な奴だ)


 皮肉交じりな声に腹が立った。夢だと思いたかったのに。いつまでこの幻聴は続くのだろう。やはりすぐ病院へ逆戻りか。


(なんだよ、人のことを病気みたいに言いやがって。失礼だぞ)


 おまえは人じゃないだろうが、と言い掛けた僕の耳に気になる言葉が飛び込んできた。


『次のニュースは十五歳の少年が人を刺し自らも四階から飛び降りて死亡した事件についてです』


 僕はテレビに釘付けになった。間違いなく昨日の事件だ。アナウンサーがフリップを使って僕の知らなかった事件の詳細を説明していた。



 事件はこのマンションの四階で起こりました。この部屋に住んでいたのは亡くなった会社員の菅崎利秋さん、その奥様とお嬢さんの三人です。昨日の午後、この部屋を十五歳の少年が訪ねてきました。実はこのことについて利秋さんは昨日親しい同僚にこう話していたようです。


「娘が同世代の少年から付きまとわれていて困っているんだ。ストーカーって奴だよ。世間体もあるし、あまり騒ぎにしたくはないから、とりあえず今日の午後そいつと直接会って話し合おうと思っているんだ。いや、まいったよ」


 その言葉通り利秋さんは会社を午後から休んでいます。こうして利秋さんと娘さんは二人で少年と会ったようです。


(そこで男性キャスターが「奥さんはいなかったんですか?」と質問した)


 奥様はちょっと御病気があってこの日も病院に行かれたようです。それだけではなく近所の方に「ついでに友達に会う予定がある」とも言っていたようでまだ戻られていなかったみたいですね。おそらくお嬢さんは病気の母親に心配を掛けたくないということで母親には相談せずに父親に解決を頼んだということじゃないでしょうか。


 そこで事件が起きてしまったわけですが、ここからは唯一の目撃者である娘さんの証言と言うことになります。

 

 まず利秋さんと少年は激しい口論になりました。利秋さんはこれ以上娘に付きまとうなら君が未成年でも警察に通報すると宣言したそうです。すると少年は逆上しキッチンにあった包丁で利秋さんを刺してしまいました。その後、少年は急に走り出し、ベランダから外に向かって飛び降りてしまい自ら命を絶ってしまったのです。お嬢さんの悲鳴を聞いて駆け付けた近所の方により救急車が呼ばれましたが利秋さんは残念ながら死亡が確認されました。



 その後、お決まりの近所の評判みたいなインタビューが流れた。


 奥さんは再婚であり、連れ子である娘さんと義理の父である利秋さんの間には血の繋がりがないこと。それでも近所では仲の良い親子、良い家族として有名だったこと。


 そんな、今回の事件とはおよそ関係ない情報があたかも意味ありげに紹介されていた。視聴者の興味を引くために被害者のプライバシーにズケズケと踏み込んでいく手法はいつものことだ。見ていて気持ちのいいものではなかったが、なんでもいいから情報が欲しかった僕は食い入るように画面を見つめた。


 ところが最後までアナウンサーは僕のことに触れなかった。


 そうか、たぶん「気絶した少年は事件とは関係ない」ということが警察からマスコミに伝えられたのかもしれない。キャスターが「どうしてこういう事件は防げないんだろうね?」と子供のような疑問を口にするのを聞きながら、僕は自分の頭の中にいる声の主の出方を待った。


(なるほど、「すとうかあ」の挙句の果てに凶行に及んだわけか。こいつは凶悪犯だ)


 他人事のように軽い口調でそいつは言った。でももう僕には薄々わかっていた。あの少年から飛び出たものがこの声と関係あるならば答えは一つしかないのだ。


(おまえが、この少年なんだろ? 幽霊って奴なのか?)


 僕は心の中で問い掛けた。


(おまえやっぱり物覚えが悪いな? 俺には記憶が無いって何度も言っただろう?)


(嘘吐け! じゃあ、何でテレビ見ろって言えたんだ? 自分が起こした事件を覚えてるからだろ?)


(そうじゃねえよ。ああ、めんどくせえな。一回しか言わないから良く聞いてくれ。まず俺が自分の存在に気付いた時の話をしよう。自分の意識を自覚した時、俺は暗闇の中にいた。お前も経験しただろう?)


 そう言われて病院で見ていた夢を思い出した。あの何も見えない闇の中。


(あれっ、俺は誰だろう? そう思っているうちに気付いたんだ。俺は百ぱあせんとな意識じゃないってな。おまえのように現実世界で生きて生活をしている意識を百とするなら俺は三十ってところだった)


(なんだって? 意味がわからない。意識が三十って何だ?)


(まあ、とにかく不完全だったという感じで聞いていてくれ。そこで俺が思ったのは自分に足りない七十をどこかから補わなくちゃということだ)


 夢の中で聞いたセリフを思い出し、僕は嫌な予感に襲われた。


(まさか、……嘘だろ?)


(いや、悪い。すぐ眼の前に材料があったからな、つい盗っちまった。まあ、出来るだけ影響の無さそうなところを選んだから勘弁してくれよ。おまえも別に大丈夫だろう?)


 僕は目の前が真っ暗になった気がした。足りない部分を盗っただって? 僕の頭の中から? じゃあ、僕の意識は百引く七十で三十ってことじゃないか。世界一情けなかった男の精神がさらに三分の一。もう絶望的だ。


(おいおい、そんな単純な引き算じゃないよ。人間の意識は数字じゃ表せない。つまりこう思ってくれればいい。あの少年というのが俺の元であることには間違いない。あいつから出た光が君に当たったんだろう? たぶんその光が俺の核になっている部分だ。だがそれは俺と全く同じものじゃない)


(どう違うって言うんだ?)


(君が見た光は四方八方に散らばったんだろ? おそらくあの少年の意識は地面に叩きつけられた衝撃で幾つかに砕けてしまったんだと思う。その一つが俺と言うわけだ。一つの意識が砕けたんだから一つ一つのカケラはまともな人間の意識じゃないはずだ。だから少年としての記憶も無いんだろう。俺は運よく君の中に潜り込めたから君から頂いた部分で自分を補い、こうして一人前の人格になれたというわけだ。ありがとな)


(あ、ありがとな、って、そんな軽々しく! おまえみたいな犯罪者が頭の中にいる身にもなってくれ!)


(おい、それは言い過ぎじゃないか? 傷付くなあ。言っとくけどな、今の俺の一部はおまえでもあるんだ。軽々しいのはおまえの影響もあるのさ。おまえ、どこかで人生に現実味を感じていないところがあるだろう? 自分の人生なのに他人事みたいに逃げやがって)


 僕は言葉に詰まった。痛いところを突かれた気がしたのだ。自分の嫌な部分。


「仁悟? どうした、そんなに怖い顔して? そんなにその司会者が嫌いなのかい?」


 びっくりして僕は我に返った。テレビではさっきまで殺人事件のニュースを深刻な顔で伝えていたキャスターが違う人間のようにげらげら笑っていた。もう話題が変わったのだ。いつの間にか祖母が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。


「え、いや、そんなことないよ。ちょっと考え事してたんだ」


 僕は笑顔を作った。少し引き攣ったのが自分でも判った。


「まだ退院したばかりだから無理しちゃ駄目だよ。落ち着くまで学校休んでもいいんだし」


 祖母にそう言われると本当に休みたくなってしまう。でもそれ以上に休んではいけない気にもなった。だからこそ今までだって我慢して登校していたのだ。


(おっ、えらい、えらい。いじめになんか負けんなよ)


 得体の知れないおっさんに褒められても嬉しくない。さっき自分の一部は僕だと言ったばかりじゃないか。つまりただの自画自賛だ。ナルシストの趣味は僕にはないぞ?


 これ以上祖母の前でおっさんと話していると不審に思われそうだ。僕は祖母に「明日の予習でもするよ」と言って自室に行った。勉強するなという保護者はいない。便利な言い訳だ。部屋の襖を開けるなり、おっさんは話し掛けてきた。


(おっ、やっぱり本が並んでるな。感心、感心)


(それがどうしたんだよ?)


(そんなにカリカリするな。ゆっくり判り合っていこうや。別に困ることはないだろ?)


 自分が元々殺人者だということを忘れている。誰だってそんな奴が頭の中にいたら嫌だろう。そうでなくても幽霊の声がずっとするなんて耐えられない。


 ……待てよ?


(あんた、いわゆる幽霊なんだよな?)


(うーん、なんか嫌だな、死人みたいな言い方されると。精神のカケラって言ってくれ)


(同じことだろう? まあいいや。僕が言いたいのはカケラでも成仏するのかってこと)


(ジョーブツ? ああ、あの世に行くことか? どうだろう? あの世ってあるのか?)


(僕が知っているわけ無いだろう? ……あれ、そういやなんであんたはおっさんなんだ? 混乱してて、今、気が付いた。ニュースで言ってただろう? あの少年は十五歳なんだ。あんたの声はどう聞いても中年だぞ?)


(そうだな、これは俺の推測だけどよ。人間の意識ってのは複雑なもんだろ? よく言うじゃないか、最近の若い者は中性化しているとかって。男なのに女々しいとか、女性なのに男っぽいとか。つまり人間の意識ってのは元々いろんな性質を内包しているんだよ。分裂したことでその性質が強く具現したってところじゃないかな)


(そんなものなのかな? それで成仏は? いつしてくれるのさ?)


(子供の宿題みたいに言うなよ。そんなに簡単に出来るならもうしているさ)


(おっさん何か心残りがあるんじゃないか? そう、この世への未練みたいな)


(俺というより元々の少年に「ある思い」がある。それだけは何となく覚えているんだ)


(なんだよ、それ、早く叶えようよ。そうすれば成仏出来るかもしれないだろう?)


(もう始めているよ、君の頭の中で)


 頭の中で? そうだ、思い出した。おっさんの声がする前に見ていたリアルな夢。映画を見ているようなあの夢のことなのか?


(俺は物語が書きたい。それだけなんだ)


(あのペガサスっていうのが出てきた奴?)


(そうだ。あの物語を書きたいんだ。おそらく俺はあの少年の将来の夢への思いを強く引き継いでいるんだろう。あの少年は小説家かとか漫画家とかになりたかったに違いない)


 ストーカーにも人殺しにも自殺する奴にだって過去には何らかの夢があった。そんな実は当たり前のことに気が付き、僕の心はざわついた。そういえば自分には夢なんてあっただろうか?


(悩むのはいいことだ。諦めるよりはずっとな)


 さも人生の経験者のようにおっさんは語った。あんた十五歳だろ?


(なあ、「ぱそこん」あるんだろ? それでおまえが小説にして書いてくれよ)


(ぼ、僕が? あんたの夢なんだろ?)


(俺は喋るだけだ。体はお前のものなんだから。君はそこそこの読書家らしいし何とか書けるだろう? なあ、頼むよ、一生のお願いだ)


(一生の、ってどこからの一生だ? あんた自体はまだ生まれたばかりだろう?)


 小説か。ひどく面倒な気がしたが、それこそ一生こんなおっさんに話し掛けられる人生も嫌だった。未練が無くなれば幽霊は成仏するという定説を信じてやるしかないのだろうか?


 僕はPCの電源を入れた。元々は父が買ってきてそのままになっていたものだった。思えばあの時の父は珍しく上機嫌でこれさえあればあれも出来るこれも出来ると僕に自慢した。結局そのすぐ後に死んでしまった父はあれもこれもどころか何も出来なかった。今の持ち主は僕なわけだが普段はスマホを使うことが多く、それほど触っているわけではない。キーボードを打つのも苦手だ。そんな人間が本好きと言うだけで物語が書けるとは思えなかった。


(だから俺が物語を考えるから、おまえはそれをひたすら打ってくれればいい)


(ただの手の代わりか。でも、それで本当に成仏してくれるんなら……)


 久し振りにワープロソフトを立ち上げ僕は彼にこう聞いた。


(さあ、まずは何を書けばいいんだ? バニーガールが逃げるところからか?)


(最初は題名と作者名だろうな)


(あ、そうか。で、それはもう決まっているのか?)


(題名はすでに決まっているんだ。後は作者名だけど、さて、どうしよう?)


(じゃあ「おっさん」でいいんじゃない?)


(おまえ、完全に他人事だな。そんなんじゃかっこ悪くて成仏出来ないかも)


(じゃあ自分でかっこいい名前考えてくれよ)


 僕がそう言うとおっさんは黙り込んだ。眼には見えないが腕組みしてうんうん唸っているメタボ親父の姿が頭にちらついた。


(俺はそんな姿じゃない。勝手な想像で姿を決めるのは止めてくれ)


(それじゃ決まったのか、かっこいい名前は?)


(……ユニコーンだ)


(はあ?)


 思わず僕は心の中で首を傾げた。なぜか「ユニコーン」だけ発音が良かった。


(知らないのか。一角獣のことだよ)


 もちろんユニコーンというものは知っている。ただおっさんの話し方の雰囲気とあまりに違っていただけだ。僕のイメージするユニコーンは額に長く鋭い螺旋状の角を持つ気高き白馬だ。おっさんの声から想像出来たのはせいぜい角が生えたカバの姿だった。


(カバとは失礼な! とにかくこれからは俺のことをユニコーンと呼んでくれ)


 ペガサスが主人公の話を書く作家の名がユニコーンか。あまり捻りが無いような。


(言い難かったら「ユニ」でもいいぞ、仁悟)


 名前が付いたと思ったら早速馴れ馴れしい奴だ。


(じゃあ題名だ。ちょっと長いぞ。打てるか?)


 まだ慣れていないためあっちじゃないこっちじゃないと字を探しながら打つしかない。指の十分の八は無駄に空中に浮いている状態になるだろう。もどかしいが仕方がない。


(何とか打つよ。ゆっくり言ってくれ)


(じゃあ言うぞ。タイトルは「転がるペガサスとユニコーンパラダイス」だ)





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