転がるペガサスとユニコーンパラダイス

蟹井克巳

廃棄されしエピローグ



 そこに人間がいた。


 大都会、真昼間のスクランブル交差点、その横断歩道の上に彼らは手を繋いで寝転んでいた。かつては数え切れない程の車や人が通っていたであろうその場所は今や驚くほど静まり返っている。そここそが二人の選んだ死に場所だった。


 それは何度も相談した結果だった。最初に「海がいいんじゃないか?」と提案したのは男の方。だが黙って女は首を横に振った。他の提案も次々に拒否され、彼が最後に冗談のつもりで言ったこの場所をなぜか彼女は選んだのだった。


「本当にこんな場所で良かったのかな?」


 男が突然そう呟いた。彼はまだ踏ん切りが付いていなかった。もっと二人の最期らしい雰囲気の良い場所があるんじゃないか、そんな気がしているのだ。


「ここは昔とっても賑やかだった場所なんでしょ? だからこそ私たちの最期に相応しい場所だと思うの。十分にロマンチックよ」


 彼女はそう答えた。再び黙り込んだ二人。暫くして次の言葉を発したのは女だった。


「静かね、ここも」


「そうだね」


 男は寝た状態のまま首だけを動かし周囲を見渡した。二人以外、何も動く者はいない。見慣れた光景とはいえ言い様の無い不安と寂しさに襲われた。自分の存在が過去も未来も全くの無意味である、そんな感覚だった。死に近づきつつある今でさえ、いや、今だからこそか、それは途轍もなく恐ろしいことだった。彼が密かに震えた、そんな時だった。


「愛してるよ」


 彼女が突然そう囁いた。小さいがはっきりした声。その言葉に包まれ恐怖が消えた。前にもそんなことがあった。ふと気が付けば彼女の「愛してる」にいつも彼は救われてきた。


「僕もだよ。愛してる」


 男がそう返すと彼女は優しく微笑んだ。


 ああ、なんて美しいんだろう……。


 彼は純粋に心の底からそう思った。この世のどんな自然や芸術よりも彼女の笑顔は美しい。それを独り占め出来る自分は長い人類の歴史の中で最も幸せな人間ではないか、大げさかもしれないがそう思えた。彼はその幸福感の中で彼女と初めて会った時のことを思い出していた。





 父が死に、続いて母が死んで一人ぼっちになった彼は旅に出た。それは母の遺言だった。


 旅に出て、あなたの大事な人を探しなさい。きっとどこかにいるはずだから。


 彼はそれを信じ、ひたすら世界を歩き回った。孤独な旅。年月だけが無情に過ぎ去り、いつしか彼は少年から大人になっていた。しかし母の言う「大事な人」は見つからなかった。


 生きる希望を失いかけた彼はもう故郷へ帰ろうかと思い始めていた。父と母が眠る山の中、あそこで自分も眠ろう。十数年という旅の末の結論だった。そんな矢先に奇跡は起きたのだ。


 何の期待もせず訪れた海岸。これまでも数え切れないほどの海岸に立ち寄ってきた彼は何の変哲も無いその小さな海岸に人影を見つけた時、我が目を疑い、相手を驚かすのも気にせずに駆け寄ってしまった。振り向いた彼女の驚く顔。二人は夕日に染まる海岸で暫く無言で見つめ合うことしか出来なかった。


 男は彼女も親の遺言で旅をしていたと後になり知った。それにより二人の出会いが偶然ではなく運命だと確信したのだ。だがそれと同時に神様の皮肉も感じた。本当に二人は出会うべきだったのだろうか? 会わない方が良かったのかもしれない。そうすればお互い相手を失う怖さなど考えずに済んだのだから。





 男は改めて美しい彼女の顔に意識を戻した。艶やかな光るような肌。美しい曲線。かわいらしい眼。どこをとっても男には縁の無いものだった。毛深い自分の姿に彼はずっと密かなコンプレックスを持っていた。なぜ自分はこんなに醜いのだろう、そう思っていた。ところが彼女はその顔をかっこいいと言ってくれた。お世辞に違いないと今でも思っているがそれでも嬉しかった。


 突然「ふうっ」と彼女の苦しそうな息が漏れた。男はハッとした。時間がない。いつ彼女の命が尽きてもおかしくはないのだ。本当に彼女はこんなところで最後を迎えてもいいのだろうか? 彼女は海が似合う人だ。こんな渇いた人工的なアスファルトの上は似つかわしくない。男は身を起こした。まだ間に合うかもしれない。すぐにでも彼女を海に連れて行こうと思った。そんな彼を彼女は優しく制止した。


「いいの、本当に、ここで。あなたが一緒なら」


 それを聞いた男は何も言えずただ頷いて再び彼女の隣に身を横たえた。結局二人はまた寝転んだまま黙ってお互いの顔を見つめ合った。


 彼は思った。やはり彼女は美しい。


 昔、旅の途中で立ち寄った本のたくさんある建物、そこで見た覚えがある。彼女の顔、というより頭部全ては、あの「クジラ」という生物の写真とそっくりだ。何もかもを悟ったような可愛らしい温和な眼。なめらかな肌。「ライオン」という獣の顔を持つ醜悪な自分とはまるで違う。本当に彼女は美しい。


 人にあらざる顔をした二人は肩から下は人間の体を持っていた。手がある。手を握れる。ただそれだけのことを今の二人は神に感謝していた。


 沈黙の中、他に何者も存在しない世界で見つめ合い続けた二人。時間が止まることは無い。やがてクジラの彼女が先に息を引き取り、間もなくライオンの彼も死んだ。時は無情にも彼らの体を腐らせ骨に変えていった。そして二人は自然の摂理に従い、土に還った。それでもその手は最後まで握られたままだった。


 人という雑音を失い静寂だけが世界に残った。




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