チャプター10 Strange Déjà Vu

 銃声が聞こえたかと思うと、それが合図だった。再び目を開けると、夢が始まる。


 空がケーキをカットしたかのようにパックリと割れていた。


 国府台にある市川市を見下ろせる高台の広場で、冬の高い雲の中から、黒く巨大なクレバスの割れ目のようなものが、わたしの頭上高く忽然と現れた。


 割れ目は、虹のような弧を描きながら、端から端へと、定規でピーッと引いたように、まっすぐ引かれていた。


 その割れ目が現れた衝撃なのか、空のあちこちに、ヒビのようなものが発生するが、よく見てみるとその虹色のヒビは、ウネウネと動いていた。まるで、微生物かタコの触手のように……。


「ハジメ」


 誰かがわたしを呼んだ気がした。


「ハ……ハッ……誰?」


 その呼び声に応えようと、名前を呼びそうになったが、どうしてもその名前を思い出せない。


 プウウウウウウウンッ!


 電車か船の汽笛だろうか、甲高いラッパのような音が響きわたると、虹色の割れ目の色がだんだんと、濃くなっていき、やがて真っ黒に染まっていく。


 やがて割れ目の中から、ニュっと全体がビスマスの模様を持つお椀型の船のような物体が顔を覗かせた。まるで……。


「あれって、虚舟?」


「この状況でその単語が出てくるのは大したものよねー」


 その虚舟から黒い……ドス黒い、インクのようなものが、滝のように溢れ出てきた。

 その黒い水は、あっという間にわたしの住む町を沈めていくが、不思議なことにその水は重さが無いらしい。眼下に見渡す車や人々が、何事もなかったように平然と黒い水に沈みながら、運転や歩行を続けていた。


「なによ……これ」


「ハーフ&ハーフよー……今、この瞬間、彼女のいる世界といない世界によって、二分されているのー」


 後藤先生……ゴマスと思しき声が囁きかけるが、その声の持ち主はどこにも存在しない。わたしは幽霊に囁かれているのだろうか。


「はあ……ハジメ……その姿にはさせないから!」


 ノブヨのエコーが、わたしに木霊する……どうして……ノブヨが。


 わたしは右手に何かを握っていた。手を開いてみると、そこには……巨大な一粒石の真珠が留められたリングがわたしの手の中にあった。

 黒い水が波となって、わたしを襲いかかってくる。わたしはそのリングを強く握りしめたまま、視界が真っ暗になり、やがて……。




「という夢を見たのよ」


「はあ……三大どうでもいい話っていわば、人間の三大欲求みたいなものだよね。食欲……今日食べた話、性欲……下ネタ、そんで睡眠欲……今日見た夢の話ってやつ」


 あれから二週間が経つ。


 というのは、あの忌々しい中間試験の事であり、美術大学志望のわたしにとって、あまり関係のない科目でもある数学を生まれて初めて赤点を叩き出してしまう。


 二回目の補試からやっと解放され、いつものように写真部の部室に入ってみると、ノブヨがいつものように、カツサンドを食べながら、通販か中野のジャンクカメラ屋で買った古いニッコールレンズを分解し、カビ取りをしていた。


「ノブヨにとって、どうでもいい話かもしれないけどさ、それがね、この話には続きがあるんだよ」


 わたしはノブヨの目の前に、夢の中で見た真珠のリングを置く。


「はあ……どうしたのコレ?」


「今朝ね、カメラを防湿庫から出そうとしたら、中に入っていたの」


「はあ……そんなバカな話が」


「ある訳ないよね……夢が現実に起こるのはオカルトでもよくある話だけどさ。ちなみにこれって本物?」


「少し貸して……詳しい人が知り合いにいるから」


「頼む」


「はあ……いえいえ」


 ノブヨはそのまま、何事もなかったように、レンズいじりを再開する。


 中島のぶ代……ノブヨは、わたしの数少ない友人だった。

 元々、カメラという女っ気のないわたしの趣味に付属中学の頃から付き合ってくれ、放課後フィルムの乳剤臭い部室で、こうして彼女に出会うのも、わたしの密かな楽しみだったりする。


「あ……今、ハジメがいない間に、後藤先生がやってきてねー、公募用に出す写真を月末までにー、提出するようにー……だってさ」


 ノブヨが、ゴマスの口癖を真似しながら、公募用のプリントをわたしに差し出す。


「うへぇー……もうその時期か」


「はあ……ハジメだったら、いつもバカスカ撮ってるから、選び放題じゃないの?」


「写真って、数撃ちゃ当たるもんじゃないからね」


「はあ……でも、経験がものをいうでしょ。現にハジメの撮った写真はわたしよりも上手だし」


 ノブヨは、部室の隅に置いてある伏姫祭で展示した写真パネルをジーッと眺めていた。


 互いの「日常」をポートレートとして撮影し合い、伏姫祭で展示したものだ。


「全校生徒の前でそんな恥ずかしいことができるか!」と、企画した顧問のゴマスに文句を言ったら、彼女は自分のバンドの写真を展示しやがった。


「それに……新しいカメラやレンズも欲しいし。ノブヨが治してくれたオールドレンズをだましだまし使うのも、悪くはないんだけどね」


「はあ……そう」


 ノブヨは少し残念そうな顔をする。わたしは、しまったと思った。


「で……でも、カメラやレンズを買う前に、お金がないからね」


「はあ……今のバイト代だけじゃ足りないの?」


「全然、足りないよ。大方、フィルムとプリント代だけで無くなっちゃう……第一、わたしは娯楽費だけで……あっ」


 スマホからオークションアプリから通知がきた。さっき言ったように、わたしにはお金が無いので、母親には、不要品の片づけもできるという口実で、古着や本、CD、ゲームなどをよく、ネットオークションを利用して売っていた。


 さっきの通知は、わたしが売った伏姫祭の衣装だ。が必要だと、ゴマスの知り合いから譲り受けたメイド服。


 別に写真部でメイド喫茶をやっていたという訳でもなく、展示する傍ら、会議室の奥の方で簡単なストロボと、ホリゾント幕を設置した「コスプレ撮影体験」という名で、ゴマスの言うのある催しをやっていたが、なんせ部員が、華とは遠い所にいそうな、わたしとノブヨである。


「えっ? そんな事をやっていたの? ただ嫌々、着せられていたのかと思いましたー!」という感じで、文化祭中、わたしとノブヨはかなり目つきの悪いメイドとなっていたらしく、わざわざ設置した撮影機材で、お互いを撮りまくる始末だった。


 そんな扱いをしていたメイド服が、オークションアプリで、最終的に一万円で落札されていた。安っぽい、薄い化学繊維で出来ている、シワクチャな千円くらいのメイド服が一万円である。


「はあ……英世が諭吉に化けたんですか……そんな都合のいい話がある訳……」


 ノブヨがわたしのスマホを覗くと、とっさにノブヨがわたしの頭をひっぱたく。


「ふぎゃあ!」


「はあっ? なんでわたしの写真を使っているの!」


「顔は隠しているからいいでしょ……」


 その写真はふざけてメイド服姿のノブヨを撮ったもので、突貫工事のような設定にしてはよく撮れたものだと思っていた……だから。


「だから、じゃない! 今すぐ消せ!」


「えー! もう売れちゃったんだし、いいでしょ? 山分けしてあげるからさ……」


「いらん! 消せ!」


 ノブヨがわたしのスマホを奪い取ろうとするが、小学生のような見た目のノブヨを止めるのに、身長が高いわたしにとって、造作でもない。


「はあ……やめろ! わたしの頭を片手で掴むんじゃない!」


 わたしに頭を掴まれたノブヨが、ブンブンと腕を振り回す。ほんとに、小学生みたいだった。


「小学生」


 わたしは、部室にある撮影備品をジーッと見つめ、ある事を閃いた。


「ノブヨ……お腹いっぱい焼肉を食べたくない?」


「うっ……なにを突然……いらない」


 ノブヨの顔が少し揺らぐ、チャンスだと思った。


「わたし知ってるんだよ……ノブヨが毎日、通販サイトで欲しいものリストに入れているプラモデルをいつも眺めているのを」


「ううっ……」


「ねえ、ノブヨ……お金欲しくない?」


「欲しいけど……パンツは売らないよ。犯罪だし」


「誰がわたしやあんたのパンツを欲しがる物好きがいるのよ……ノブヨ一万円を貸して……わたしも一万出すから」


「はあ……一万! そんな大金……」


「わたしに計画があるのよ! うまくいかなかったら、その一万円返すからさ」


「はあ……計画って」


「とりあえず今度の休日、一緒に買い物へ行くよ!」




 わたしとノブヨは、秋葉原駅で待ち合わせをすることにした。そういえば、彼女と一緒に買い物をするのは、いつ以来だろう……学校ではいつも一緒にいるけど、私服姿のノブヨを見るのは……。


「おー新鮮」


「はあ……開口一番、新鮮とはなんだ、新鮮とは……生野菜か」


 ノブヨは普段のだらしなさそうなヨレヨレの制服姿とは打って変わって、わたしが以前、ノブヨにあげたパンテラのTシャツの上に薄手のモッズコートを羽織い、細くて白いノブヨの足が目立つ、スキニーハーフパンツ姿だった。


 ノブヨを以前から、男なのか女なのか分からない、中性的な奴だと思ったが、久々に見たノブヨの私服姿にわたしは、少しだけドキッとした。


「へー……ふーん」


「はあ……そんなジロジロ見るな」


 F15のキャップを被ったノブヨが、モジモジと恥ずかしそうにしている。ノブヨからほのかに、シトラスレモンの香りがした。


「よく似合ってるねノブヨ」


「はあ……皮肉?」


「ううん……皮肉じゃないし、わたしがあげたTシャツ着てくれて嬉しいなーって思っただけ」


 ノブヨは恥ずかしそうに、キャップを更に深く被る。


「はあ……それで、わざわざアキバに来たのは、なんでなの?」


「決まってるでしょ。服を買いに来たのよ……特殊な服をね。Suicaをチャージしときなよ、色々と都内をグルーっと回るからね」


「はあ……はあっ?」


 わたしたちは、ノブヨの手を引っ張り、秋葉原、中野、池袋……所謂、オタクの街の中古のコスプレ衣装を扱う店を巡り巡って、予算二万円の中、千円以内で安く、なるべく状態のいい衣装を買い漁っていた。


「はあ……その、五百円のそれ……子供サイズの衣装なんだけど」


「別にノブヨの体格だったら、着れるでしょ」


「はあ……冗談言ってるんじゃねえよ」


 


「よっしゃ……これで計二十三着と……結構な数が買えて良かったよ」


「はあ……重いし、疲れた。ハジメ、コスプレ屋でも開くの?」


「まあ、そんな感じだよ。ただ、このコスプレ衣装は、すべてノブヨが着るんだけどね」


「……はあ……はっ?」と、ノブヨは目を丸くさせた。


「ノブヨ……今後、はあ禁止」


「はあっ! はあっ? はあっ! はあ?」


「禁止って言ってるのに……」


 秋葉原の万世橋近くにある有名なハンバーグ屋で、わたしはノブヨへ必死に頭を下げていた。


「はあ……話は大体、分かったよ。要は変態ロリコンどもに、わたしの着衣済のコスプレ衣装を売りつけるわけ。どんな安衣装でも、現役JK……つまりわたしが着ていたコスプレ衣装という事実だけで、値段が跳ね上がると……はあ」


 ノブヨは溜め息を吐きながら、200グラムのハンバーグステーキをもぐもぐ食べている。


「はあ……それにしても……ここのハンバーグは絶品だな。特製ソースの国産100パーセントビーフ……うまい、うますぎる」


 ノブヨはこれみよがしに、わたしの目の前でハンバーグを完食させる。


「おかわりは欲しいか、ノブヨ」


「はあ……そうだな、あとステーキハンバーグもいただこうか」


「ぐぬぬっ!」


「はあ……いいですよ」


 ノブヨはナポリタンをフォークでクルクル回しながら、小さい声で言う。


「えっ、本当に?」


「はあ……やってもいいよ。思ったより、マトモな事だと思うからね。貸した一万円も返して貰えるし……それに、こうやってハジメと買い物したり、奢ってもらうのも……悪くないし」


「あーそうですかー……皮肉はともかく……」


「はあ……別に皮肉じゃないけど」


「……」


「……」


 何か気まずい雰囲気が流れた。


「はあ……罰としてパンケーキも奢れ」


「なんの罰だよ!」


 秋葉原の、どちらかというと、御徒町に近い方面にあるパンケーキ屋で、ノブヨは巨大なベーコンパンケーキ(スイーツなのにやっぱり肉かよ)をムシャムシャ食っていた。


「うまい……」


「うますぎるじゃないよ……よくも、まあ、あんなに肉を食べていたのに……そんなに食って太らないのが不思議よ」


「はあ……ウップ……いや……さすがに、食べ過ぎたか……ちょっと、お花に肥料を」


「詰みにでしょ……消化速度が戦闘機並に早いのか、ノブヨ」


 ノブヨが、薦めてくれたここのパンケーキのお店は、わたしの大好きなローズヒップティーも美味しくて、チリ産の……。




「ここのローズヒップはね、チリ産の有機栽培のものを使っていて、すごく酸っぱいのよ」


 目の前に、砂糖を雪崩のように入れる、首もとのオリオン座のベルトのようなほくろが印象的な、見知らぬ女性が……見知らぬ女性だって? だって彼女の名前は繝上Νなのに……。


「わたしの好みに合わたお店にしてくれたのは、大変ありがたいんだけどさ……話を戻すけど、本気なの? 天然じゃなくて、合成ダイヤで売っていこうって?」


「そうよ。合成のほうが、天然のルースより安く仕入れられるし、最近の合成技術……CVDダイヤはかなり品質は良いのよ。色付きダイヤの合成も容易に出来てね、トリメチルボロンを水素で希釈したガスで、色の濃度も自由自在……」


 繝上Νはわたしの目の前に、濃いブルーダイヤの巨大なバゲットカットのルースを置く。


「うわっ……これ、一カラットぐらいあるでしょ……本物だったら数百万はしそう」


「本物ならね……ここ最近は、結婚してもダイヤの指輪を買う人も少なくなってきたからね……給料三ヶ月分……デビアス社が植え付けたダイヤの普遍的価値は、崩れつつあるのよ……だからこそ、合成ダイヤは売れると確信しているの。これを使ってデザインしてみないハジメ?」


「分かったよ。わたしは繝上Νを信じているからね……あとさ、わたしたちの指輪のデザインはこれでいい?」


 わたしは、忙しい合間を縫って、デザインした婚約指輪のスケッチを繝上Νに見せる。


「上出来よ! さすがハジメ!」


 繝上Νは嬉しそうに、わたしのスケッチを少女のような笑顔で抱きしめる。この反応を見たかったからこそ、わたしは……繝上Νと……結婚した甲斐が……。


 ブウンと虫の羽音がした。ティーカップの裏側から、テーブルの上に親指ぐらいの巨大な蜂がトコトコと歩いてきた。いつもだったら、驚くところなんだけど、どういう訳か、わたしはその蜂を凝視していた。


 宝飾品のような、というより宝飾品そのものな、緑柱石のクラスター原石結晶にそのまま羽が生えたような、濃く透き通ったエメラルド色の蜂だ。


「ねえ……見たことない蜂が」


 プウウウウウウウウン! というサイレン音が、窓の外から聞こえてくる。


 何か事故でもあったのかと、顔を上げると、バキバキと氷が割れるような音がして、何か違和感がした。


「なによ……これ」


 店内を見渡すと、店内の店員や客たちが、悪趣味な鉱物のオブジェに成り果てていた。


 あれ……以前にもこんな事があったような。奇妙なデジャブを覚えた。


「あー……いい所だったんだけな……クソッタレのインクルージョンのやつ」


 いつもながら、繝上Νが言っている意味が分からない。


「ハジメ忘れているのね。バカなわたしとインクルージョンのせいで、EIの同期化を無理矢理繋げようとした影響よ……おかげで、時間や空間が滅茶苦茶になってるじゃない」


 繝上Νが、エメラルドで出来たような鍵を取り出し、お腹にそれを突然突き刺す。


 ガチガチと氷が割れるような音がしたと思えば、一瞬で繝上Νがエメラルドで出来たような甲冑の姿となる。


「……コスプレ?」


「あー……ソレを言われるの何千回目だろうな」


 ポツポツと雨音かと思ったら、店内のガラスが轟音と共に一斉に割れ始める。見えない何かが、わたしの視界に入るテーブルやティーカップ、鉱物のオブジェがしっちゃかめっちゃかに粉砕される。


「伏せて!」と、繝上Νはわたしの目の前に立ち塞がり、エメラルドの盾でわたしを何かから守っていた。


 目の前で花火でもやっているのだろうか。ドンという爆発音と共に、盾にヒビが割れる。その割れ目から、外の様子を覗いてみたら、穴だらけになった、さっきまで砂糖を雪崩のように入れていた彼女の体内から、砂糖のような……緑色の粉末が雪崩のように溢れ出している。


「あー、酒が飲みてえ……ボウモアの15年をラッパ飲みしたい気分……なあ、わたし?」


 繝上Νは、焦げついた剣先にゴールデンバットを押し当て一服する。

 タバコの煙を目で追っていくと、瓦礫となった店の奥から、ぬらりと……何かが蠢いていた。


 繝上Νと丹沢へハイキングに行ったとき、ヒル溜まりを見たことがある。黒いナメクジのようなものが、木の幹に、ワシャワシャと茹でたソバのように蠢いていた。ヒルと違うのは、それが遊色効果を放つオパールのように、虹色に発光していたのだ。


 見た目は学生ぐらいだろうか……その姿はまるで、若い繝上Νと瓜二つだった……。


 ガチガチと氷が割れるような音がしたと思うと、虹色のヒルが整然と並びだし、その触手の先が、ウミユリのように無数に枝分かれする。その先から、無数の銃口や矢先のようなものが、繝上Νに向けられていた。


 これは現実なのだろうか。


 なんて禍々しく、邪悪なデザインのドレスだ……っていうか、こんな状況、以前にもあったような。


「ハジメ、その真珠を……わたしを手放さないでね」


 繝上Νはボソッとわたしに呟くと、吸っているタバコごと、瞬時に顔が吹き飛ばされる。


 吹き飛んだ繝上Νの残骸の中に、ヒルの触手に似た虹色に輝く、オパールのようなプリンセスカットのルースが飛び出し、わたしはその色を凝視した。




「ごめん! ハジメ!」


 ノブヨが水の入ったコップをひっくり返す。


「……え?」


「ハジメ、どうかしたの?」


「……変な白昼夢を見た」


「はあ……疲れてるの? 色々と買い物したからね」


 ノブヨが心配そうな顔をしながら、わたしの目の前に、例の真珠のリングをわたしの目の前に置く。


「これは……」


「はあ……知り合いの親の紹介で、すぐそこの御徒町にある鑑別機関で調べてもらったんだけど、この真珠……本物らしいよ。ルーペで見ると、地図の等高線のような縞模様があって、蛍光観察でも紛れもなく、本物の真珠だった……だけど」


「だけど?」


「はあ……妙なんだってさ、この真珠。肉眼じゃ分からないけど、拡大するとトライゴン模様のへコみがあるらしい。割れたり、欠けている訳でもなく」


「つまり?」


「無機物で天然のダイヤモンドしか持たないトライゴンの模様を、有機物である真珠にもあったという事……こんなの、中々ありえないモノだって」


「ありえない……」


 ボーッと、わたしは真珠のリングを眺める。さっきまで見ていた白昼夢を、もう思い出せないでいた。


「はあ……でも、本物のアコヤ真珠だから、高く買い取ってくれるそう」


「わたしを手放さないで……」


 今はもう、その言葉しか思い出せない。


「はあ?」


「ううん……なんでもないよ。ノブヨ」


 パンケーキ屋でお茶をした後、わたしは本物と思しき真珠のリングを御徒町のパーツ屋で買ったブロックチェーンを通し、それをノブヨに見せつけた。


「どう? 似合うかなノブヨ?」




「はあ……絶対、似合わない!」


 わたしとノブヨは次の日から、格安で買ったコスプレ衣装を汚れや、シミ取りをしながら洗濯、アイロンがけをし、ほつれや破けを裁縫で修繕した後、ノブヨにその衣装を着せ、部室から持ってきた簡易的なスタジオ機材を使って撮影を行った。


「そうでもないよ! 可愛いよー!」


 数年前のニチアサにやっていた魔法少女アニメの衣装を恥ずかしがりながら、ポーズを決めるノブヨ。


 顔にボカシをかけるとはいえ、メイクもウィッグも妥協せずにやったお陰か、本当にノブヨはその中性的なロリータフェイスと、レタッチいらずのビスクドールのような白い美肌をいかんなく発揮していた。


「はあ……ほんとに、これで金儲けできるの?」


 ピコンとわたしのスマホが鳴り出す。


「今、さっき撮ったヤツが、一万五千円で落札されたよ」


「はあ……クソッ! 変態って思った以上に多いんだな!」


 ヤケクソになったノブヨが、今着ている衣装を脱ぎ捨て、床に叩きつける。




「はあ……二万円が、総額十万円か。ちょっとした錬金術だな」


 二週間ぐらいで、撮影を終え、オークションサイトでの落札額はわたしたちの想定以上だった。


「やったよノブヨ! JKにしてはちょっとした小金持ちだよ!」


 わたしたちは、獲得した金額の大きさに小躍りする。


「はあ……どこの焼肉を食いに行こうかな。赤門から凱旋門へとランクアップしようかな……じゅるり」


 ノブヨは千葉県民なら誰でも知っている高級焼肉店をスマホで調べ始めた。


「何言ってるの? 奢るよ」


「えっ?」と、ノブヨはキョトンとした顔をする。


「だって、ノブヨには無理矢理付き合わせちゃったからね……お礼したいし……その……ありがとね」


「はあ……いえ、わたしも楽しかったから」


 ノブヨもモジモジしながら、ウィッグの毛先をくるくると回す。わたしまで、恥ずかしくなってきた。


「えっと……片づけようか。散らかしっぱなしだと、母親に怒られるから」


 わたしは、慌てながらスタジオを片づけようとする。


「はあ……ハジメ、この余った衣装はどうするの?」


「ああ、それは」


 それは、ノブヨにはサイズが大きすぎて、余ったコスプレ衣装だった。大正時代のヴァンパイアハンターのヒロインが、着用しているセーラー服で、古風なデザインやスカートの裾が長い所などが、わたしたちが通うサトジョの制服に何となく似ていた。


「でも、せっかく直したし、着ないままでオークションに出品しようかな」


 わたしは、衣装をノブヨから貰おうとする。しかし、ノブヨが衣装をギュッと掴み、手離さない。


「えっと……ノブヨ、なんで、手放さないの?」


「はあ……さっき、わたしにお礼したいって言ったよね? この衣装、ハジメにピッタリだと思うんだけどなぁー?」


 ノブヨの目が、いつも以上に虚ろだった。


「……えっと、前言撤回で」


「はあ……ふざけるな。とっとと服を脱げ。ハジメにやられた分、わたしが精一杯可愛く撮ってやるからな」


 ノブヨは、興奮したテンションで、わたしにメイクを施し、写真を撮り続ける。


「売れる訳ないのに……」


「はあ……わたし自身もそう思ってたよ。ハジメは背も高いし、スタイルもいいから、バトル系のヒロインのコスはよく似合うと思うよ」


 ノブヨに真顔で言われると、何かすごく恥ずかしかった。


「あ、ありがと」


「いえいえ、顎を少し引いて」


 わたしをモデルにして撮った写真を渋々、オークションアプリに登録させる。ノブヨは「よしよし」と言った顔をしながら、ずっと我慢していたのか、トイレへと駆け込む。


 ノブヨがトイレにいる間、わたしは、撮影機材の後片づけをしていたら、スマホがピコンと通知する。


「まさか」と、アプリを開いたら、さっきまでわたしが着た衣装が、言い値通りに即決で落札されていた。


「はあ……予報通りで、今日は寒いなあ……どうしたのハジメ?」


 わたしは、驚いた顔をしながら、トイレから戻ったノブヨに落札されたスマホの画面を見せる。


「ノブヨの言った通りだよ、世の中、変態って多いんだな。しかもコイツ、匿名配送にしてやがる。たぶん家が実家暮らしの童貞スケベ野郎だな」


「はあ……よかったじゃない。それより、わたしはどれを片付ければいい?」


 ノブヨの反応は思った以上に、薄かった。いや、いつも通りかもしれない。


 ゴトン、と何か重いものが落ちたような音がした。ノブヨが片付けている段ボールから、見たことのない銃のようなものがある。


 表面が貝で出来ているように、虹色の光沢を放ち、グリップ部分にアンモナイトの化石のような巻き貝が埋め込まれていた。それにも関わらず、現代のスライド式の銃のような、かなりヘンテコなデザインだけど、本物のような質感があった。


「ノブヨ……こんなのあったけ?」


「はあ……そこにあるのは、使えないものでまとめた奴だから、たぶんキャラ違いで、コスプレショップの店員が間違えたやつでしょ。小道具として売れそうなら、アプリに登録しとけば?」


 わたしは落ちている銃をそのまま写真に撮り、アプリに登録させる。登録した瞬間、ガタガタッ! と、窓が突風で揺れた。


 ビックリしたわたしとノブヨが、その窓を見ながら、束の間の沈黙が流れた。


「はあ……寒い」




 十二月になり、気温が一気に下がり始め、レンズの曇りが気になる季節になってきた。さっきまで中間試験をやっていたと思ったら、もう期末試験の心配をするようになっている。


 苦手な数学をどうやって克服すればいいのか、部室でノブヨに相談している最中に、ノブヨがノートに走らせているペンを止めて、わたしをジッと見つめた。


「はあ……ハジメは村雨祭はどうするの?」


「あのプロムまがいのダンスパーティ? 行くわけないでしょ」


 村雨祭とは、サトジョ近くにある神社に奉納されている里見八犬伝に登場する伝説の妖刀、村雨と思しき何かの抜身が、十二月末になると、里見八犬伝に書かれている通り、水を吹きだしたという言い伝えから(単なる結露なんじゃ……)、年末に行われる恒例祭である。


 ……が、それはあくまで建前で、本音は地元の自治体が、南船橋や本八幡にある大型ショッピング施設による客離れを懸念し、地域活性化の名目で、商店街だけではなく、行政や学校なども巻き込んだ一大町おこしイベントである。


 市川市は、学園都市と謡っている通り、学校が多い街で、こういう地域イベントに参加するのも珍しくもなく、プチ文化祭的なものがあちこちの学校でも執り行われていた。サトジョも例外ではなく、開催される時期がクリスマスに近い事もあって、他校と交えたダンスパーティが開催される。


 もはや、村雨とは関係ないというツッコミは置いておいて……他校と交えたダンスパーティという事態が重要なのである。その他校というのは、共学の生徒……つまり、男子がサトジョにやって来るのが一大事であり、あまり男っ気がない女子校であるせいか、普段はスッピンが多い輩らが、気合いの入ったメイクをしているのがこの時期に多く見られる、サトジョの風物詩みたいなものだった。


「村雨祭で結ばれたカップルで、末永く結婚したという、反吐が出そうな根も葉もない噂のせいで、血眼になっている奴も多くなるからね。せっかくの休みなんだから、陰キャは陰キャらしく、踊っている暇なんて、わたしにはない」


「……はあ、そう」


 珍しい……ノブヨが残念そうな顔をしていた。


「そ、それに……今回のパーティの生バンド演奏が、ゴマスのプログレバンドだよね。わたしは好きだけど、あんな気持ち悪い音楽を演奏している奴らが、ワルツを奏でるなんて想像も出来ないんだけど」


「そうかなー……わたしは、クラシックから今のダンス音楽とプログレやハードロックが無関係にあるとは思っていないけどなー」


 ゴマスが部室の隅の方で、PSPの「グランドセフトオート」(学校でそんなものやるなよ)をプレイしていた。


「……いつからそこにいたんですか?」


「鈴木さんが、微分積分について、中島さんに教わっているところから、わたしのバンドの音楽を気持ち悪いって言っているところまでよー」


 ゴマスはゲームの電源を切って、満面の笑みを浮かべる。


「えっと……ご存じかと思いますけど、プログレで気持ち悪いはむしろ褒め言葉ですよ」


「うんっ! 知ってるー! ありがとうっ!」と、ゴマスのゲンコツがわたしの頭に直撃する。


「ふぎゃあっ! この暴力教師!」


「別にわたしはー鈴木さんを殴りに来た訳じゃないのよー、月末に行われる村雨祭なんだけどー、我々写真部も参加する事になったからねー」


「えっ?」


「はあ……やった!」


 今日のノブヨはどうしたんだろう、ガッツポーズをしている。


「おー、中島はやる気満々だなー」


「おいちょっと待てゴマス。わたし踊れないぞ」


「誰が踊れって言ったー。写真を撮るのよー、最近妙に羽振りが良いらしいしねー、そのレンズだったら、さぞかし綺麗に撮ってくれるでしょー?」


 ゴマスは、衣装の儲けで買った新品のレンズを、チョンチョンと指さす。


「よく気付いた……っていうか、カメラの事そんなに詳しかったっけ?」


「わたしは一応、教師なのよー? 何でもお見通しなのー。ほどほどにしときなさいよー……」


「はあ……でも、一応ドレスコードがありましたよね? わたしたちドレス持ってないですよ」


「衣装に詳しい知人から、バンドで使わなくなった古いドレスを貰ってくるからねー」


「はあ……マジですか!」


 ノブヨはまたしても、ガッツポーズをする。


「……あとー、あげるドレス売るんじゃないわよー」


 ゴマスは二本の指を自分の眼に当てて、欧米映画でよく見る「お前を見てるぞ」のジェスチャーをし、部室のドアを思いっきり閉める。その衝撃でバサバサと、積まれたフィルムのファイルが落ちる。


「はあ……相変わらず、食えない人だな。何考えているんだか」


「なんで、わたしらが衣装を売ったことを知ってるんだろう……」


「はあ……地獄耳のゴマスだからな、知る由もない」


 ノブヨは、スマホで社交ダンスの動画を検索していた。


「……だから、ノブヨ。わたしは踊らないぞ」




「えーっ! どうして? 踊ろうよー!」


 生徒会室で、ハイテンションな上舘先輩がわたしの手をギューッと握る。


「ですが、それだと写真部の意味が……」


「そんなもん、時々撮ればいいのよ、時々で。それに、そこにいる小学生が全部、撮ればいいじゃん」


「はあ……あっ? 気のせいですかね、少しこの部屋酸っぱくないですか? 汗臭いっていうか」


「ああっ? 誰が臭いだってコラ? 嗅覚までお子様サイズなのかよ」


「はあ……誰が上舘先輩の事を臭いっていいました? どんだけ自意識過剰なんですかね」


 この二人に何があったかは知らないが、ノブヨと上舘先輩がいつも通りの、いがみ合いの喧嘩を始める。


 上舘芳美。二年生の先輩であり、生徒会の会長を務め、陸上部でインターハイに出るくらいの名スプリンターだった。学力も優秀、宝塚的なボーイッシュな美貌も兼ね備え、女子校でもあるサトジョ内で、百人以上の女子の告白を断ったという伝説を持つ、生きる少女漫画みたいな人物だった。


 本来だったら、根暗オタクでもあるわたしたちと、縁がない人間でもあるが、夏の大会でわたしが部活で撮った、上舘先輩の写真を本人がえらく気に入り、それ以来、彼女のほうからよく、わたしに会いに来るようになった……やけに、スキンシップが多い気がするけど。


「後藤先生から話は聞いているよ、生徒会の方からも、写真部の参加は歓迎します。一応、大人や専門の人が参加する、ちゃんとした社交ダンスだから、基礎的な踊りの練習を参加者はする決まりだからね、放課後ココヘ集合するように」


 参加者名簿に、わたしとノブヨの名前をサラサラと書く上舘先輩。


「先輩、いえ会長……だから、わたしは踊りませんよ」


 ドン! と、許可印を強く押す上舘先輩。風の噂で聞いたけど、中学の頃はヤンキーだったというのが、何となく納得するくらい、笑顔の裏の圧がもの凄く強かった。


「なにか、質問は?」




「あるよ! わたしは、リズム感が限りなくゼロなんだよ!」


 次の日の放課後、サトジョのすぐ近くにある公民館にあるダンススタジオを借し切り、村雨祭に参加を希望する生徒たちで、合同練習を行っている中、わたしはバランスを崩し尻餅をつく。


「はあ……意外だな。普段、ハードロックとか、小難しいメタルを聴いているくせに」


「その理屈だと、野球好きが、全員野球が得意なのと一緒でしょ」


 ジャージ姿のノブヨが、ワルツの基礎ステップ、ナチュラルターンを淡々と、そつなくこなす。


 普段からプラモ作りや、電子工作、衣装の修繕でもいえるけど、ノブヨはとても器用な奴だなと思い、わたしは思わず……。


「ズルいよノブヨは」


 ノブヨが、ピタッと静止する。しまったと、また思ったが、ノブヨはわたしへ駆け寄り、手を差し伸べる。


「はあ……ズルくないよ。わたしから見れば、ハジメの方がズルいよ、おいで」


 ノブヨがわたしの腕を引っ張る。


「わたしの動きを真似して、踊りというのは単なるイミテーションに過ぎないよ。ワン……ツー……スリー」


「でも……」


「わたしを信用して、ハジメ」


 ノブヨがわたしをリードをしながら、ステップを刻む。クローズドステップからナチュラルターンの流れを、ゆっくりとノブヨと踊り続ける。


「どうして、ズルいと思うの?」


「はあ……ハジメは身長が高いのがズルい。手が大きいのがズルい。写真の腕が良いのがズルい。わたしの知らないことを知っているのがズルい」


 リバースターンを繰り返す。わたしたちはグルグルと回る。


「……この気持ちを知らないハジメがズルい」


「それはどういう意味だよ」


 練習用の音楽が止まり、休憩時間に入る。ノブヨは飲み物を買いに行くと言い、パタパタと外へ出て行く。


 休憩時間にやる事もなかったので、わたしはブラブラと鞄から一眼レフを取り出し、公民館の外へ散歩にでも出掛けた。


 すぐ近くに大きい公園があったので、買ったばかりのマクロレンズの実力を試すため、花壇に植えられた草花でも撮ろうと被写体を探していたら、冬の花壇には不釣り合いな桃色の花が咲いていた。


 名前は知らない花だけど、気にしないでファインダーを覗いたら、花弁の上に、見慣れないルビーのように赤黒く光輝くテントウムシが……テントウムシだって? この真冬の時期に……冬?




 ……クマゼミがけたたましく、絶叫していた。


「冬って、暑いだろ……」


 パパから譲り受けた古いフィルム一眼レフを使って、わたしは公園に咲いている花や植物を撮り続けていた。見たことがない珍しいテントウムシを撮ろうと、ファインダーを覗いた瞬間だった。


「その花はね、キョウチクトウっていうんだよ」


 振り向くと、おかっぱ頭とちょっとボサボサした髪型が目立つ、たぶんわたしより上級生と思しき、女子二人組がわたしの不慣れな撮影風景をまじまじと観察していた。


「知ってる? キョウチクトウって、どんな劣悪な環境でも咲く事が出来る強い花なんだけど、その代わりに毒を持っていてね、オレアンドリンと呼ばれる中毒をもたらす強烈な毒素によって、口にしたら最後、死ぬまでゲロまみれだよ、花言葉が『危険』っていう意味も納得だよね……はじめまして、わたしの名前は蜥悟カ区イサ、四年生よ!」


「……はい?」


 テディベアを抱えたおかっぱの上級生が、何か早口でとんでもない事を言い放ち、わたしは思わず身構える。


「うわあ……繝上Νちゃん、はじめましての相手に、そのゲロ話はさすがにないでしょ」


「う、うるさいなあ! まず、花の知識を披露したら、相手の印象が良くなるって言ったのは、ミチのほうでしょ!」


「あー……はいはい。わたしが全部、悪いんですねー。賢い繝上Νと違ってわたしはバカだからねー。わたしの名前は大槻理、バカな四年生よ。この賢いお姉ちゃんなんか放っておいて、わたしと一緒に花の撮り方を教えてよ」


 ボサボサ髪の上級生がわたしの腕を引っ張る。


「あっ! ごめんなさい! ゴメンってばミチ! わたしが悪かったです!」


 蜥悟カ区イサと名乗る上級生が、大槻理にペコペコと頭を下げている。


「よろしい! それじゃこの子にも、ちゃんと謝りなさい」


 クルッとおっかぱ頭が、わたしに向かってカメラを指さす。


「さっきは変な事を言ってごめんね。わたしは、ただそのカメラが見慣れないものだったから何しているのかなって思って……その、教えて欲しいの」


 二人共、「フィルム」というものを知らないらしく(わたしもパパから譲り受けるまではよく知らなかったけど)、わたしはカメラの仕組みや、フィルムでの撮影方法について二人に説明しながら、公園にある花々を撮り続けた。


「サルスベリ、このアジサイっぽいのがアナベル、ラベンダー、ダリアにアガパンサス……アガパンサスの語源は、ギリシャ語の愛、アガぺーと花を意味するアントスを混ぜた意味でね、愛の花って意味なの。素敵でしょ?」


 まるで歩く図鑑みたいだ。わたしが花を撮ろうとすると、彼女がその花の名前やウンチクを次々と披露する。


「スゲエ、花を見ただけでそんな事が分かるの? すごいよ、蜥悟カちゃん……さん?」


「繝上Νでいいわよ」


「わたしもミチでいいよー。繝上Νがね、いっっっっつも、わたしばかりにウンチクばかり言っているから、学校に友達がいなくてね、今日ハジメちゃんに、こうして披露できるのも、本当はスゴく嬉しがっているんだからね」


「と、友達がいないのは余計よミチ!」


「それにしても、繝上Νもスゴいけど、ハジメちゃんもスゴいと思うよ。感度や絞りとシャッタースピードの話だって、わたしも繝上Νだって初めて知ったしね」


 それを聞いて、わたしの胸にキュッと何かが締め付けられた。


「……わたしも、このカメラの事を教えられてとても嬉しいよ。みんな、スマホのカメラで充分じゃんって必ず言うからね……だから、わたしも友達がいないから……ありがとう」


 何でわたしはこんな事を言ったのだろう。不思議なのが、わたしはこの二人と初めて会ったような気がしないからだ。妙に安心するというか、家族に会っているというか、今まで長くずっと一緒にいたというか……そんな安心感を二人から感じていた。


「なに言ってるの、もうわたしたちは友達でしょ」


「そんじゃ友達になったことだし、そこのデイリーヤマザキでアイスを奢ってね、繝上Νの奢りで」


「なんでだよ!」


 わたしたちが笑っていると、突然、プウウウウウウウンッ! という、ラッパの音がサイレンのように鳴り響いた。


「え、アポカリプティックサウンド?」


「さすが、ハジメお姉ちゃんだね。小三で、そのオカルトワードを知っているのは中々いないよ。未来のわたしが好きになる訳だよね」


 ハジメお姉ちゃん? 未来のわたし? 何を言っているのだろう。


「もう少し楽しみたかったんだけどな。本当だったら、わたしはもう死んでいて、繝上Νにアイスを奢ってもらう事もなかったのに……」


 ミチが鍵のようなものを繝上Νに渡し、それを脇腹に差し込み回す。


 ガチガチと、氷が割れたような音がすると、繝上Νの肉体がみるみる赤黒く光り輝く、まるで石のような身体に……。


 なんで?


 なんで、わたしは、前にもこれを見たことがあるのだろう。


「どうして?」


「どうしてだろうね? インクルージョン側の善意は大変有り難いけどさ。結局、ハジメお姉ちゃんの前でアイツが現れたら、全然意味ないじゃん」


 手に斧のようなものを持った繝上Νが、新体操のバトンのように振り回すと、格好が、真っ赤な着物の姿となり、着物の裾からゴトゴトと、物騒な銃のようなものが飛び出てくる。


「それじゃ繝上Ν。辛いと思うけど、忘れないで、あなたはもう孤独じゃない……頑張って」


「ミチもね。わざわざありがとう」


 ミチが繝上Νの頬にキスをすると、そのままミチが砂糖の粉のように消えていく。サラサラと、その粉を眼で追っていくと、公園の木陰から何か、巨大な何かがいた。


「あれは『クイーンズライク』とインクルージョンたちは呼んでいるよ。ベースとなる鉱物がダイヤと一○五そのもののフラクチャー……保守派共の最後の手段。裸の女王様よ」


「何を言っているのか……」


「訳が分からない? ううん、ハジメお姉ちゃんは忘れさせられているけど、全部忘れる訳が……わたしを忘れる訳なんてない」


「ハジメ」とわたしを呼ぶ囁き声がした。


「……誰?」


「ハジメ! ハジメハジメハジメハジメハジメハジジジジジメッ!」


 それは虹色に光り輝く無数の顔という顔が、木の枝のように広がり、無尽蔵の手と足が毛虫のように、ワシャワシャと動かしながら、わたしの名前を連呼していた。


「ハジメ! ハアああぁあぁ・・・愛してる! だだ大好き! だだだだ抱いて! わたしとずっととと! 一緒!」


 パンッという火薬音がした。すぐ横で猫の瞳を持つ繝上Νが、巨大な銃、銃、銃を着物の裾から伸びた数え切れない石の腕で構えていた。


「見苦しいものを見せちゃったねハジメお姉ちゃん。あれはわたしの……蜥悟カ区イサのクラスターみたいなものなの。もう、自分自身が何者かも忘れてしまった可哀想なわたし……耳を塞いで」


 ドドドドドド! という、地響きと爆裂音。目の前で、花火が爆発しているかのように、ハルが大砲のような銃を、得体の知れない何かに向かって撃ち続けていた。


「割れろ砕けろ爆ぜろ弾けろ……粉々に……今度こそ消えて無くなれよ! わたしっ!」


 足下に広がる空薬莢の山と、鼻にツーンとくる火薬の臭い。銃声に負けじと、繝上Νが夢中に叫び続ける。


 ヒュンという、なにかわたしの耳元をかすったような気がした。


 繝上Νの方を見ると、繝上Νの小さなお腹にポッカリと穴が開いていた。 穴の向こうから、悲鳴とサイレンと車のクラクションが鳴り響く。


「はっハハハ……無傷ってなんだよ」


 雷が落ちたかのような、爆発音がした。マンションの向こう側から巨大な黒煙がモクモクと立ち上る。


「何か」が、ハル同様、銃のようなものを構えていた。蠢く虹色の肉体の海から、本体と思しき紫色に発光する……繝上Νが……繝上Νだって?


「繝上Νゥ……繝上Νゥ……ハハハハハハ!」


 金属を擦らせたような金切り声で、紫色の人間が絶叫するかのように笑い続ける。


「黙れよ! 笑うなっ!」


 繝上Νが二つの手斧を持ち、斬りかかった。


 こういう光景ってなんて言うのかな。筆舌に尽くし難い……だっけ? タコの足のような、無数の手足が繝上Νに襲いかかるが、それをサーカスの曲芸のように避けながら、斧でそれを叩き割り、自身も無数のルビーのような触手を使って、銃を乱射した。


「ハハハハ……ハアアアアア」


 紫の女が笑うのを止め、長い溜息を吐く。

 パパンという二回の短い銃声と共に、繝上Νの両腕が斧ごと宙を舞う。


「クソ! この程度でっ!」


 繝上Νがルビーの腕を次々と再生させるが、斧や銃を握った瞬間、粉々に撃ち砕かれる。


 パンパンパパンと、リズミカルに銃声を放ちながら、繝上Νは踊るように宙を舞い、ルビーの粉末をパラパラと血の雨のように降らす。


 やがて何も出来なくなり、両手両足を失った繝上Νが、触手に捕まり、乱暴な人形遊びのように、両足を開きながら逆さに吊される。


「繝上Ν!」


「ハジメお姉ちゃん! こう見えても、大丈夫だから……大丈夫」


「ハードシェルからソフトシェルへ、痛覚フィルタリングを解除」


 紫の女から、機械のような声がしたと思うと、ドロリと、繝上Νのルビーの着物が溶け出し、両手足から、滝のような血が噴き出した。


「いっ……いっだああああああああああいっ!」


 繝上Νの絶叫が、わたしの耳に響く。止まらない流血が、さっきまでわたしに教えてくれた、キョウチクトウの花を赤く染めていた。


「ハアハア……ハ、ハジメお姉ちゃん! わたしをっ……見て!」


 充血し、真っ赤に染まった星の瞳を輝かせる繝上Νがわたしに向かって叫ぶ。


「これは罰なのよ! わたし自身への! だからまったく怖くない! わたしを……見届けて!」


 ギチギチッという、何かが裂ける鈍い音がした。繝上Νの股からお腹にかけて、血が溢れ出す。


「いいいいいっ! ああああっ! ミチいいっ! ハジメええっ! パパああっ! ママああっ! わたしは大丈ッ」


 バリッと新聞を破くように、真っ二つに裂かれた。ビチャビチャと、繝上Νの中身が花壇にぶちまけられ、その血に染まった紫色の女が、その亡骸に手を突っ込み、虹色に発光する石を取り出す。


 ペロペロと舌でそれを美味しそうに舐めながら、紫の女はそれをゴクリと飲み込んだ。


 これは現実なのか夢なのか。たまらなくなって、わたしはゲロを吐き、その場から倒れる。




「ハジメ!」


 聞き覚えのある声がした。目を覚ますと、わたしはノブヨの膝の上にいた。


「ノブヨ……」


 頬の辺りが濡れていた。わたしは、ノブヨの膝の上でゲロをしていたのに気が付く。


「ノブヨ! ご、ごめん……わたし」


「はあ……別にいいよ。それより、大丈夫? 練習に戻ってこなかったから、様子を見に来たら、こんな場所に倒れていて……」


 わたしはノブヨの顔をジーッと見つめる。気を失った時に、夢で見た女の子の顔にソックリだからだ。あれ……どんな、夢だったのか、またわたし……。


「はあ……それにしても、ハジメが無事そうで良かった。一応、病院にいきなよ。先生や会長にはわたしから説明しとくから」


 ノブヨからカメラを貰うときに気が付いたけど、彼女の眼が少しだけ、充血していた。



 

 病院では、風邪の初期症状、軽い貧血だと曖昧な診断をされ、学校を休むことになった。


 とはいえ元々、健康な状態で休んでいるせいか、寝るのにも飽き、ダラダラと試験勉強とゲームを繰り返していくうちに、以前ノブヨと撮ったオークションアプリを覗いていた。


 コスプレ衣装は、軒並み完売になっていて、次もまた、ノブヨと一緒に一儲けしたいなーと、画面をスクロールさせていると、まだ誰も入札していない例の謎だらけの貝の銃が現れる。


 元々、銃の趣味はないけど、宝飾品として綺麗だなと思って勉強机の上に飾り、その横には同じく謎の真珠のリングが置かれ、夕陽に赤く照らされていた。


 キラッと、一瞬だけ真珠が虹色に輝いたような気がした。虹色に発光する貝の銃と同じような、虹色に……。


 今の時刻は、午後四時半。ノブヨなら、とっくに自宅にいるだろう。試験勉強と、この銃について何か教えてもらうと、わたしは、何となくノブヨの元へと向かった。


 ノブヨが住むアパートは、わたしの実家から、歩いて五分ぐらいの場所にあり、輸入雑貨業を営むノブヨの両親が、度々海外へ行くせいか、ノブヨを一人で1DKのアパートに住ませているという、何とも羨ましい環境に住んでいた。


 中学の頃から、よく遊びに行ってるせいか、わたしにとって第二の家のようなもので、几帳面なノブヨには珍しく、よく家の鍵をかけ忘れる事が多い。


 いつものように、ポーカーフェイスのノブヨを驚かせようと、わたしは玄関の扉をソーッと音を立てずにお邪魔した。


 小さなダイニングを抜けると、すぐにノブヨの部屋があるが、寝ているのだろうか、扉をゆっくり開けると、ノブヨがベッドで横になっていた。


「はあ……ハジメ」


 わたしはドキリとしたが、どうやら、わたしに言っているのではないらしい。


「はあ、はあ……ハジメ、ハジメ」


 ノブヨがビクビクと、痙攣しながら、何かの衣服を抱きながら……わたしが着ていた同じコスプレ衣装を……いや、そんな筈は……。


「ハジメの匂い……ああ……ハジメ」


 衣装を落札したのはノブヨ自身だった事より、どうして、ノブヨがわたしの衣装でオナニーをしている方の驚きが大きかった。


 どうして?


「あっ、どうして……ああっ……ハジメ……わたし……あっあっあっあっ、気持ちいいよ! 気持ちいいよぉ! ハジメ!」


 動揺しながらも、わたしはノブヨに気付かれぬように、ゆっくりと玄関からアパートの外に出た。


 音を立てずに、玄関の扉を閉めて、足早にアパートから離れる。わたしは長い深呼吸をして、荒くなった鼓動を、無理に落ち着かせようとする……が、落ち着く訳もない。


 ノブヨが、わたしをオカズに、オナニーしていた?


 どうして? ノブヨがわたしを?


 嬉しい? イヤだ? キモい? 分からない。


 なんだろう、この気持ち……胸にネジを締め付けたような、この得体の知れない何か……おかしいな……わたし、以前にもこんな気持ちを感じた事があるような気が……。


「ハジメ」


 ノブヨに呼ばれたような気がして、驚いて振り返ってみるが、そこには、カーブミラーに写るわたしが、わたしを怪訝そうに覗いていただけだった。




 気が付けば期末試験も終わり、街や学校でもイルミネーションが瞬くクリスマスムード一色となっていた。


 あれ以来、わたしはノブヨと会うのが億劫になっていた。ノブヨと登校するとき、ノブヨに勉強を教わるとき、一緒に移動教室へ行くとき、昼ご飯を食べるとき、ノブヨと部室で二人きりでいるとき、二人きり……それも全部、ノブヨがわたしに対して、を抱いているのであれば、わたしはどういう風にノブヨと接すればいいのか、分からなくなっていた。


 同じように振る舞え? わたしは、そんなに器用じゃない。


「いいえ、器用だよ。ハジメさんは」


 体育館にある倉庫で、ダンスパーティーに使う照明機材の組立を手伝いながら、上舘先輩は絡んだコードと悪戦苦闘していた。


「生徒会の仕事じゃないですよね? コレ」


「ううん。こういうクソッタレな……失礼。雑用も生徒会の重要な仕事よ。だからこうして……もう! このクソコード!」


 わたしは上舘先輩が苦戦しているコードを解き、電源を順番に繋げる。


「やっぱり、器用じゃない」


「そういう器用さじゃないんですよ。もっと、人付き合い的な話で……」


「ふうん? それって……もしかして、恋バナ的なヤツ?」


「違……くはないのかな。それもよく分からないんですよ」


 上舘先輩は照明器具を固定させた。


「中島さんの事?」


「どうして、そう思うんですか?」


「だって……彼女……はあ、妬いちゃうな。ハジメさん、今あなたとわたし、ここで二人きりなのは、全然気にしないんだな?」


 いきなり、上舘先輩はわたしを体操用のマットに押し倒す。どうしたのだろう、別に驚きはしなかった。また、デジャブ? 以前にもこんな事があったような気がした。


「へえ? 随分と冷静なんだ」


 顔を近づける上舘先輩。柑橘系の制汗剤の香りが強くなる。


「自分でも驚いていますよ。どうして、上舘先輩はわたしの事を、わたしなんかをそんなに気にかけるんですか?」


「ハジメさんは、自分を過小評価しているけど違う。あなたは……他の子には無い何か……得体の知れない何かを持っている気がするのよ」


「買いかぶりすぎですよ」


 上舘先輩はおもむろに、ストッキングを脱ぎだし、スカートをめくり、ケロイドが浮き出た、傷だらけの太ももをわたしに見せる。


「わたしね……陸上もこの生徒会も、学校もクソみたいに嫌いだった。だからこうして、自分を傷つけてから安心を得ていたの」


 いきなり、重い話をわたしに告げる上舘先輩。


「けれど、ハジメさんが撮ったわたしの写真があったでしょ? 伏姫祭で展示していたあの写真を見たとき、ある意味救われたのよ。写真って、どうせ適当にカメラで連写して、画像を切り取って、補正してるだけのものだと思ってたけど、それは間違いだった。200メートルトラックで、コーナーを曲がりながら揺らいでいるわたしの有様を、その瞬間を、ハジメさんは切り取っていた。偶然とは思えない」


「いえ、偶然ですよ」


 上舘先輩は馬乗りになって、ギュッとわたしの腕を握り締める。


「偶然じゃねーよ! じゃあこの気持ちはなんだよ! どうしてわたしは……ハジメさんの写真に……どうして……ノブヨが」


 どうしてそこで、ノブヨの名前が出てくるんだろう。


「はあ……やっと見つけたよ。ハジメ……はあっ?」


 なんでこんな最悪のタイミングにノブヨが来るのだろう。


「あー丁度良かったわ」


 なにが、丁度いいのだろうかと、上舘先輩に聞こうとしたら、先輩はわたしの唇に唇を重ねた。長い……長いキスだ。舌を無理矢理かつ、執拗にわたしの舌に絡ませながら、上舘先輩の唾液が、わたしの唾液にへと溶けていく。我慢が出来なくなったわたしは、舌を噛むが……彼女は平然と「ふふふ」と笑いながら、わたしの制服の下をまさぐる。


 ポーカーフェイスのノブヨの瞳から、大粒の涙が流れ出し、そのまま倉庫から逃げ出した。


「いい……加減にしろ!」


 わたしは上舘先輩を蹴飛ばし、ノブヨを追いかけようとするが、だだっ広い体育館に、ノブヨの姿はいなくなり、わたしはポツンと残された。


 足下には、ゴマスから貰ったドレスを、ノブヨがわざわざ手直したのだろうか、新品で誂えたかのような、ピンク色のドレスが落ちていた。


「ハジメの為に健気だねー」


 ふざけた事を言っている上舘先輩に我慢できなくなり、わたしはそのヘラヘラした顔を思いっきり、ぶん殴ろうと思ったが、それでも彼女は喜びそうなので、掃除途中で溜まっていたバケツの汚水を思いっきり、彼女の顔面にぶちまけた。


「少しは頭を冷やせよ!」




「うわあ、今日は冷えるね」


 ポツポツと雨が降りしきる霊園で、母親が桶の水をかけながら、父親の墓石をゴシゴシとブラシで洗っていた。


 わたしが十歳の頃、こんな寒い日の中、父親はわたしのクリスマスプレゼントを買いに行く途中、スクーターの転倒事故であっさりと亡くなった。今日がその命日であり、毎年欠かさずに、わたしたち親子は墓参りに訪れていた。


 わたしが無意識に、クリスマスというイベントが嫌いなのも、何となく父親の死と関係が無い訳でもないと思っている。


「バカな男だよ。俺は死ぬために、写真を撮っている! って、豪語していた奴が、つまらない死に方しやがって。いっそのこと、ヘリか車ごとどっかに墜落か事故れば良かったのに……」


 母親は父が好きだったという日本酒を、墓前に置いたコップに注ぎ、乾杯をする。その姿をカメラで撮影した。


「おい……恥ずかしいな。こんなみっともない姿撮るんじゃないよ。でも、ありがとう。そのレンズ、こいつのもんだろ」


 わたしがニコンの一眼レフを使っているのも、古いニッコールレンズを使える事であって、父親の形見でもある古いレンズを使いながら、母親のポートレートを撮るのも日課になっていた。


「ハジメ……あんたの父親は好きなようにやって、好きなように死んだんだ。だから、あんたも好きなように生きなよ……」


 少し酔っているのだろうか、滅多に言わない事を母親が言う。


「……ただし、勉強もしっかりね! また数学で赤点でも取ったらっ……」


「カメラを取り上げるか、ゲーム機本体を売りに出すぞ!」という、馴染みの説教が始まりそうだったので、わたしは「あー、はいはい」と言い捨て、桶を戻しに行く。


 その途中、誰かの目線を感じた。


「いいお母さんねー。大事にしなさいよー?」


 小さな墓石……というより、ボロボロに割れている無縁仏の前に、ゴマスと誰だろうか……。


「げえっ! ゴマス……なんで、ここに? 墓参り?」


「げえっ! ってなによー! 先生が墓参りしちゃだめなのー? まあ、そんなところよー。それにこのバカの……」


「あっ! この子がハジメちゃんでしょ! 初めまして!」


 ゴマスの背後に、昔のリンゴ・スターのような髪型をしたゴマスと同じくらいの歳の小柄な女性がいた。声がやたらとデカい。


「リンゴ・スターとは失礼ね! せめて、ジョージでしょ!」


 心を読まれた? と、思いきやゴマスが、マッシュヘアを突然、ひっぱたく。


「ええっと、あなたは……」


「いてて……蜷咲┌縺よ。ゴマスのバンドでギターをやっているの」


 何故か名前の辺りだけ、うまく聞き取れなかったが、そんな事より、ゴマスのバンドメンバーということは……。


「あっ……この前のドレスありがとうございます」


「いえいえー……ゴマスのがハジメちゃんので、わたしのが中島さんだよね? で、ちゃんとサイズは合ってた?」


 ノブヨとはあの一件以来、まだ会っていない。


「多少、手を加えましたが、丁度良かったですよ」と、答えるしかなかった。


「それにしても、村雨祭かー……懐かしいねー」


「リズム感の悪い、踊りが下手なゴマスが、わたしのドレスを踏んで、二人で盛大に転んだ事?」


「違うわよー! それにリズム感が悪いのは余計よー! 村雨祭で踊ったカップルは、永遠に結ばれるってやつよー!」


「あー……それは間違いではないな。まさか、こんな形になるとは思わなかったけどね」


「まあねー、こんな……でねー」


 どうしたのだろう。村雨祭で二人の間に何があったのかは知らないが、妙に空気がピリピリしだす。


「そ、それじゃあ……村雨祭の時はよろしくお願いします」


 居心地が悪くなり、そそくさと、二人に挨拶をしてその場を立ち去ろうとした。


「またねー」と、マッシュヘアは手を振る。


 さっきの……名前を聞き取れなかったマッシュヘアに何か違和感があった。あれは何だろう。心霊写真と似たような違和感……。


 桶を洗いながら、考えているうちに、水が跳ねて、わたしの足下に水しぶきが当たる。それで、その違和感の正体に気付いた。


「あっそうか、あの人、足が無かったんだ」


 プウウウウウウウンッ! という、船の汽笛のような鋭い音が霊園に轟いた。驚いた鳥たちが騒ぎだし、一斉に群れとなって飛び立つ。


 わたしの船橋の実家からも、港からの汽笛は聞こえてくる事もあるが、ここは市川市のかなり北の方だぞ……それにこんな近くからだなんて。


「あー、遂にここまでやってきたかー」


「ご苦労なこって、やっぱりその場しのぎのEIじゃ、役不足なのかな」


「いずれ、鈴木さんも。彼女の存在に気が付くのはー……」


「時間の問題だよね、ハードシェルへの相転移を開始」


「フラクチャースーツ、ゴーストを起動」


 背後から、バキバキと聞き覚えのある氷が割れるような音と、訳の分からない会話をしているゴマスたち。


「え、ゴマス……えっ、なにその格好」


 振り返ると、ゴマスはいつもと見慣れないスーツ姿だった。黒が強い琥珀色の喪服のような格好で、鉱物のような固い光沢を放っていた。


「ハジメちゃんのお母さんも言っていたでしょ。わたしたちも、好きなように……気ままな因果の中で生きているのよ」


 多重露光をした写真のように、ゴマスの背後から、あのマッシュヘアの女性が、輪郭がぼやけながら、うっすらと浮かび上がる。まるで背後霊のようだ。


「わたしたちはねー、仮定された有機的かつ因果的な交流電燈の瞬きに過ぎないのよー。点滅する電燈のように、わたしや鈴木さんの物語は、一瞬の現象に過ぎないけれどー、この光を忘れる事など決してないのよー。特に光や音、因果律の物語で出来ているわたしたちにはねー!」


「おおっ! 春と修羅? 詩的だねゴマス。国語の先生っぽい事言ってるねー!」


 地面が揺れ、霊園の墓石が沈み込み、コンクリートに亀裂が生じる。母は無事だろうか。


「大丈夫よー。基本、奴らが現れた瞬間に、上書きが行われるからねー」


 わたしの心をまた読んだ? 何が起きているのだろうか、状況をうまく理解できない。


 噴火が起きたように、霊園の土が盛り上がり爆煙を放ちながら、巨大な……巨大な人の掌が現れた。


「えーっ……物量で攻めてくると思ったら、今度は巨大化? 戦隊モノとか見たことないのコイツら」


「はーっ、がしゃ髑髏かよー? 想像力が欠如してるよねー。それだから、いつまで経ってもコイツら、インクルージョンは進歩できないのよねー」


 ゴマスの両手から無数に分裂し、残像が残る金槌が現れ、それを器用にクルクルと回す。


 手の次に、顔のない胴体が現れ、足で起き上がった時には、十……百メートルは越すであろう、冗談みたいに巨大な水晶の巨人が、わたしの頭上に立ちはだかる。あまりにも、現実離れで、バカバカしい光景なのに……なのに、なんで……どうしてわたしは見慣れた光景のように……。


「これを知っているの?」


 ゴマスたちはニヤリと笑う。


「当然でしょー。これは鈴木さん、あなたが、彼女が選択した物語だからよ。我々がいくら、別のEIにあなたを留めておこうとも、決してあなたは、彼女を忘れる事なんて出来る訳がない」


「ハジメちゃん。あなたの因果律は限りなく彼女に近付いていくのよ。対等な高みにへとね。その時はもうすぐやって来る。その瞬間になったら、あなたは選択しなさい! 彼女を止められるのはあなたしかいないの! 見届ける義務を必ず成し遂げてね!」


「言ってる意味が……分からない!」


 空を突き抜けんばかりの、巨大な拳が、わたしたちに振り下ろされようとしている。


『(こんなに長く待たせてごめんね、私がいなかった間大変だったね)』


 キッスの十万年の彼方を突然、合唱する二人。


「(ずっと恐怖に耐えてきたんだね、十万年もの間)ごめんねー! 鈴木さん!」と、ゴマスがわたしの両肩を掴み、空高く投げ飛ばす。水晶の拳が地面に衝突する刹那、ゴマスとマッシュヘアが、わたしに対して、サムズアップしていた。




 ドンッ! という衝撃音と共に、わたしはバスの座席へとジャーキングした。

 ……夢? 辺りを見回すと、霊園から帰るバスの中だった。わたしの隣には、酔いつぶれた母がグーグーと寝ている。妙に壮大でバカバカしく、リアリティのある夢だった気がした。


 その夢を忘れないよう、スマホをのメモで書こうとしたが、もうその内容ほとんど忘れてしまったが、足下が何故か濡れていて、とっさにわたしは「幽霊」と入力していた。


「はあー幽霊ー?」


 村雨祭当日。ゴマスがわたしのドレスの着付けを終えて、わたしのカメラを使って、写真を撮り続けていた。


「ほんとに、凄い夢だったんですよ。妙にリアリティがあったというか……」


「その場にいたような感じー?」


 一瞬、ゴマス自身がピンボケを起こしたように、輪郭がボヤけた気がしたが、ドレスがキツすぎて、目眩でも起こしたのだろうか。


「おーい……ゴマス。こっちも終わったぞ」


 見知らぬマッシュヘアの小柄な女性が、ドレス姿のノブヨを連れてやってきた。どこかで見覚えがあるような気がする。


「おー! ノブヨ! よく似合ってんじゃんー! 学生時代のわたしらを思い出すわー!」


 ゴマスがカメラを連写させながら、恥ずかしそうにモジモジしているノブヨをグルグルと撮り続ける。「いい加減にしろ!」と、マッシュヘアの女性が、ゴマスの後頭部をひっぱたく。


「ごめんねー! この人、熱中すると周りが見えなくなるから……おい、ゴマス! わたしらもリハをやらなきゃいけないんだから、とっとと楽器持ってこい! 先生だろ、教え子に迷惑かけんなよ!」


「えーっ! ちょっとー! 少しは昔を懐かしがってもいいじゃないのー!」


 バンドメンバーだろうか、マッシュヘアがゴマスを引っ張りながら、残されたノブヨとわたしに、「頑張ってね!」と言い残し、部室の扉を閉める。何か気を使わせているようだ。


「えっと……」


 気まずい……ノブヨがジーッとわたしのドレス姿を見ていた。


「はあ……似合ってるよ。そのドレス」


 ノブヨはモジモジとさせながら、白蝶のような模様の袖をギュッと握り締めていた。


「ううん……ノブヨのも似合ってるよ。このピンクのイミテーションパールって、前に余った衣装のパーツだよね」


「はあ……そうだよ。まさか、このお洒落ドレスの一部分が、アニメコスプレのパーツとはゆめゆめ考えもしないだろう」


「よかった、いつものノブヨだ」と、わたしは思っていたことを、そのまま口に出した。


「はあ……いつものって何だ」


「ううん……何でもない。それより、わたし、ノブヨにちゃんと謝らなきゃいけない事があるから」


 ノブヨに、上館先輩の事情を説明しようとしたら、顔を横に振る。


「はあ……別にいいよ。それよりも、これを渡したかったから」


 ノブヨが、綺麗に包装された小包をわたしに渡す。


「……これを、わたしに?」


「はあ……気に入ってもらえたらいいけど」


 プレゼントの中身は、カメラストラップだった。わたしの好きなレモンの柄が入っている。


「ありがとうノブヨ。これを使って、今日は撮ってみるよ」


「ほんとに?」と、ノブヨが珍しく満面の笑みを浮かべ、わたしは思わずドキリとした。


「……ノブヨ」


「……なに?」


「ダンスパーティーが終わったら、色々と話そうな」


「はあ……そうだね。それに、クリスマスプレゼントをハジメから、まだ貰っていないし」


「デッカい牛肉か、好きなプラモでも何でも買ってやるよ」


「はあ……違うよ。わたしが本当に欲しいのは……」


ハジメ……あなたの魂が欲しいの!お揃いのカメラストラップが欲しいな


「えっ?」……何だ今の?


「はあ……駄目……かな?」


「えっ……いいよ。今度、一緒に買いに行こうよ」


「本当に?」


 違う。


「本当だよ」


 駄目だ、忘れるなわたし。忘れちゃ……。


「駄目だ」


「えっ……」


 しまった……何を言ってるんだ、わたし。


「だ、駄目だよ……カメラストラップだけじゃ! ノブヨの大好きな肉とか……ローストチキンも買ってさ、一緒にドーンと盛大に祝おうよ!」


 とっさにわたしは、らしくない事を言ってしまった。


「はあ……ハジメ、どうして……泣いているの?」


「どうして……わたし」


 泣いていたのだろう。


 吹奏楽部とゴマスのバンド「海馬」との伴奏で、往年のクリスマスソングに乗せて、サトジョの生徒たちが、煌びやかなドレスをまといながら、ぎこちなく踊っていた。


 その生徒たちをわたしは、止めどなくシャッターを切り続ける。


 体育館内は日も落ちて、舞台用照明の光源のせいか、絞りや、カメラ感度を上げて撮影をしなければいけないので、油断は出来ない。


 わたしと反対側にいるノブヨも真剣な顔で撮影をしていた。どちらかが、綺麗に写真が撮れているのか賭けているので、わたしも負けてられなかった。


「それじゃー、チークタイムに入ります。良かったら、見学の方も気軽に参加してくださいー」


 ゴマスがベースソロで、ジャコ・パストリアスのポートレート・オブ・トレイシーっぽい曲を静かに奏でていた。打ち合わせ通りなら、ここは自由にしてもいいので、せっかくだからノブヨを誘ってみようと、ノブヨにアイコンタクトを取り、ノブヨがニコッと笑いながら、わたしの元へと駆け寄ってくる。


「いたいたー!」と、突然、割り込むようにドレス姿の上舘先輩がわたしの腕を引っ張り、体育館の中心へと、無理矢理引きずり込む。


「はあ……懲りない人ですね」


「あら、ノブヨみたいな言い方だな」


 チークダンスだからか、上舘先輩が頬をわたしの顔に擦り寄せようとするが、キモいので、わたしは手で払いのける。


「わたしは諦めが悪いのよ。ノブヨを探しているんでしょ? いい加減あなたも彼女の気持ちに素直になればいいのに……」


「それは……」


 わたしは早く上舘先輩から離れたいが為に、ノブヨを探し続ける。ダンスを踊っている人間が多すぎて、ノブヨの姿を見つけられない。


「あなたがいつまで経っても行動起こさないなら、わたしが動くしかないじゃん。来年から受験だし、今しかないのよ」


 上舘先輩は耳元で囁く。それが嫌で、舞台の方へ目線を向けると、ゴマスと、あのマッシュヘアのギタリストが、わたしに向かってウィンクをしていた。


「選択しなさい」と、彼女を見ていたら、その言葉を突然、思い出す。……思い出すって何を?


「……まだ、聞いてなかったんですが、どうして先輩はわたしを選んだんですか?」


「へえ、面白い事を聞くのね。そうだな……あなたはわたしにとっての光みたいなものなの」


「光?」


「手が届きそうで、届かなくて。触れられそうで、触れなくて。見れそうで、見れない。なれそうで、なれない……そんな、存在……」


 上舘先輩は、どこか虚空を見つめていた。わたしではない、誰かを見つめている気が。

 そんな上舘先輩の髪に、サファイアで出来てるような、とても綺麗で高価そうなトンボの髪留めが目に入る。

 サファイアのような、濃い青の石で研磨されたトンボの羽に、ムーンストーンが埋め込まれているのか、猫の目のようなシラー効果が浮かび上がる……どうして、わたし、こんな事を知っているのだろうか。


 吹奏楽部の演奏が、ピタッと止み、ゴマスのベースと、マッシュヘアのギターのみのテンポが段々と、早くなる。おいおい……チークタイムじゃないのかよ。わたしはこんな激しいリズムだと踊れない。




「だいぶ踊れるじゃないかハジメ」


「……ううん、それでもだいぶ身体が言うことを聞かないよ。思っていたとおりに、身体が付いていけない……歳は取りたくないもんだな」


 無病息災……とまではいかないものの、何度目かの事故と病気を経て、繝上Νが七十、わたしも六十九まで一緒に生きてこれた。


 身体がなまるのは嫌だけど、チームプレイでやるスポーツはもっと嫌だという、わたしや繝上Νの無理なワガママから、主治医から社交ダンスを勧められて、冷めやすく飽きっぽいわたしたち夫婦も、それなりに大会まで出場できるくらいに上達していた。


「こうしてハジメと踊っていると、学生時代を思い出すよね」


 ゆらゆらと柔らかい暖色系の照明が、人がまばらなダンスホールを優しく照らす。


「村雨祭だっけ? あなたがわたしの足に引っかけて転んだこと?」


「はんっ! 違うわよ。ハジメがわたしの足に引っかかって転んだんでしょ」


「えー……わたし結構、記憶力良い方なんだけどなー」


 わたしがツイストシャッセ……チャチャチャのステップを踏む。


「よく、ゴミ捨ての日にちや、わたしのパンツを間違えるハジメがよく、記憶力が良いなんて言えるよ!」


 わたしのステップを追いかけながら、フライングチェックとシャッセ。彼女も同じようにステップを切り返す。


「家の鍵と自転車の鍵を間違えたり、婚約指輪をよく無くす癖に! このボケ老人!」


「ボケと記憶力は全然違う! このボケ!」


「やるか?」


「やるぞ!」


 どちらかのせいか分からないけど、歳に合わない、無理な動きをしすぎたせいで、わたしと繝上Νが一緒に転倒する。繝上Νを受け止めたとき、以前、彼女を抱きしめた時に比べて、少し軽くなっていたのがゾッとした。


「ご、ごめん! 大丈夫?」


 眼鏡が飛んで、ポカーンとしている繝上Νは、わたしを見るやギュッと抱きしめて。ケラケラと笑う。


「なにがそんなに可笑しいのよ」


「ううん……嬉しいの。ハジメがわたしを受け止めてくれた事に。それがとても……幸せなのよ」


 ホールの外から、プウウウウウウウンッ! という船の汽笛というか、歪んだギターのようなディストーション音がした。耳が悪いので、耳鳴りかもしれない。


 誰かが心配してか、落ちたの眼鏡を拾ってくれたようだ。顔を上げると、見知らぬ、小学一年生ぐらいのロングヘアの少女が、繝上Νの眼鏡を持って立っていた。変わったワンピースというか、雨合羽みたいな格好をしている。


 他のダンサーの子供だろうかと、辺りを見渡すと、さっきまで一緒に踊っていたダンサーたちが煙のように消えていた。


「一体……これは」


「そっちも楽しんだかい? 母さんや父さんは、優しくしてくれたかい? ナガツキ」


 繝上Νの知り合いの子なのだろうか、ナガツキと呼ばれる子はコクンと頷く。


「わたしらが幸福な時間を享受できる時のEIとは……粋な計らいというか、ある意味残酷な事をしてくれるよインクルージョンは。これは決して、天国でもなければ、地獄でもない。終わりのない煉獄だな……なあ? わたしよ」


 ダンスホールのステージ上……本来ならバンドが演奏をする場所に、誰かがいた。禍々しく紫色に発光し、螺鈿細工のような真珠層の虹色に反射する貝を散りばめた肉体を持つ……若い頃の、学生時代の繝上Νが裸の姿で立っていた。


「なんで繝上Νが……えっ?」


 ナガツキと呼ばれる子も、キャッツアイの瞳をパチパチさせながら青白く発光し、繝上Νに鍵のようなものを渡すとすぐに、それを自分のお腹に差し込み回すと、繝上Νの全身も青色に発光しながら、ガチガチと音を立てて、トンボの羽の柄のようなサファイアのコートがドレスを突き破り、飛び出してきた。


「その姿……」


「ハジメもいい加減、目を覚ましな。今更かもしれないけどさ、これはわたしだけの問題じゃない。お願いだよハジメ……どうか、わたしを救ってくれ」


 ナガツキが布が張られていない傘のようなものを広げ、スターサファイアの瞳を宿した繝上Νが巨大な、渦巻き模様にねじれた銛のようなものを手品のように、手から生やす。


 裸の繝上Νからキイインと、何かが高速で回転する音がした。


「とっとと抜けよ、タコ女。マズそうだが相手してやるよ」


 ヒュンと、風を切る音がした。裸の繝上Νが一瞬にして、背中から歪な銃身のようなものが飛び出したかと思うと、不思議そうに首を横にかしげた。


「恐ろしいね……今の瞬間、何千……何万も撃ったんだい? ナガツキがいなかったら、即死だったよ」


 ヒュンと、ホール内に再び風切り音が木霊する。


「聞こえるか? 今……たった今、あんたがわたしを撃ったという事実は変わらないんだ。分裂した他のEIでも、同じようにあんたは選択していただろう。迷わず、無慈悲に、残酷かつ愉悦に満ちながら、その引き金を引いたんだ」


 ヒュンヒュンヒュンという音が、段々と多く、大きくなる。


「これは、他のわたしへの弔いであり、罰だ。これまでわたしを撃った弾丸の弔花をあんたにそのままお見舞いしてやる。無限地獄に墜ちて、その選択を永遠に後悔しなクソッタレ」


 ハッとした裸の繝上Νが、こちらに飛びかかってくる。


「おい、服を着ろよ。風邪をひくぞ!」


 ザアアアアアッ! という、アナログテレビの砂嵐か、バケツをひっくり返したような大雨の音がした。


 空中に、無数の空間の裂け目が、裸の繝上Νを囲むように現れ、その裂け目から、見えない何かを浴び続けていた。


 無数の穴が空いたかと思うと、ドロッとした液体に溶けだし、菌の微速度撮影のように、一気に繝上Νの顔やら手足が、増殖したかと思えば、巨大な眼球のお化けに取り囲まれ、粉末のように粉々になるのをランダムに繰り返していた。


「自分の形を保てていない?」


「相転移を繰り返しているのさ。もうこいつは、自分が何者であるのかも忘れている」


 繝上Νが、手に持ったサファイアの銛を方解石を通して見たような、屈折した空間の裂け目に放り投げる。


「仕上げだよ! ナガツキ!」


 ナガツキのワンピースがまばやく光りだし、繝上Νがわたしを抱きながら、後方に走り出す。


 裂け目から針の山のように、無尽蔵の銛が飛び出し、形を留めない裸の繝上Νを取り囲む。


「アスタ・ラ・ビスタ」


「べいびー」


 繝上Νとナガツキが、映画の陳腐な決めセリフみたなことを吐き捨て、右手に持つ、ピーンと張った銛の糸を切断する。


 パンっと、風船が割れたような音がした。辺りが一瞬で真っ暗になり、前方から数え切れないくらいの銛の雨が、わたしたちをすり抜けて透過していく。


 暗いトンネルを抜けた先は、どこかの高層ビルの屋上だった。繝上Νが、わたしを優しく下ろす。


「これは夢なの?」


「ああ、本当に、悪夢だよハジメ」


 眼下に、今までわたしたちが住んでいた街がえぐられたように、丸ごと吹っ飛び、黒い……黒い真珠のような巨大な球が、フワフワと漂っていた。何だか、プログレッシブロックの表紙みたいな光景だ。


「あれは個人的なディラックの海みたいなもんだよ。パラレルに存在するEIを操る、わたしとナガツキのミネラルウェアを用いて、閉鎖された負のエネルギーに満ちた虚数空間に奴を閉じこめたんだ。合わせ鏡のように、奴は自分の弾丸を、わたしの銛を、永遠に受け続けているだろうな」


「何を言っているのか……」


「分からない? ……まったくだ、わたしもだよ」と言いながら、繝上Νはゴールデンバットをくわえ、サファイアのコートをまさぐる。


「……ごめん、ハジメ。ライター持っていないかい?」


「ソウギョク……」と、ナガツキが、ワンピースのポケットからライターを差し出す。


「おお悪いなナガツキ……そういえばハジメ、ソウギョクという名前なんだ……がっ」


 繝上Νのお腹から、銛の先が飛び出していた。さっき、裸の繝上Νに投げたサファイアの銛が。


「……カタツムリか」


 黒い真珠が、グニャリとねじ曲がり、模様が段々と渦巻になる。渦を巻き込みながら、球が縮小していき、やがてその上にチョコンと、裸の繝上Νが胡座をかいた姿で飛び出してきた。禍々しく虹色に輝く、巨大な羽を伸ばしながら、わたしたちを見下ろすその様はまるで……。


「まるで、ダリの『カタツムリと天使』だな。自転車に張り付いたカタツムリと、それに乗っている天使が無限の時間を自由に移動している存在として捉えたあのカタツムリ……無限の時間……奴はその時間の海を自由に泳げるのか。一○五の力は、因果や時間を超越する神の如き力……」


 空からキラッと、光るものがこちらに向かってくる。ソウギョクが星の瞳をパチパチさせた。


「おいおい……神の杖って、運動エネルギー爆撃かよ。オカルトかと思っていたのに」


「ああっ! ソウギョク!」


 串刺しになった繝上Νをナガツキは泣きじゃくりながら、抱きしめる。


「ハジメと一緒に逃げな、ナガツキ。怖い思いはもう嫌だろ?」


 ナガツキは首を横に振る。


「やだ! ソウギョクと一緒じゃないのがもっとイヤだ!」


「おいおい……泣かせるじゃないか? ハジメ聞いたか! なんだか、わたし子供欲しくなっちゃったよ! こんな婆さんになっても、生きてりゃいい事……」


 繝上Νとナガツキの首が宙を舞った。見えない空間の裂け目から、サファイア製の銛が、止めどなく、矢の雨のように降り注いだ。繝上Νかナガツキが、わたしにやったのだろうか、銛は相変わらずわたしを透過し、足場の地面を粉砕し、ビルごと崩落させる。


「因果は駆け巡るか……」


 首だけとなった繝上Νが、わたしに語りかける。


「ハジメ……覚えておきな、これはわたしだけじゃなく、あなたの物語でもあるのよ。因果律は、個人に作用するものじゃない。その個人に影響を受ける人間の因果によって成り立っている。だから見届けてくれ、わたしの最後を……その時になったら……その時なったら、また一緒に踊ろうね! ハジメ!」


 一瞬だけ、繝上Νの姿が学生の頃に若返った気がした。さっき、空に光っていたものの正体は、巨大なマーキスカットのダイヤモンドそのもののような形状の槍が、スローモーションで、わたしと繝上Νをそのまま……落ちて。嫌だ……。


「ハル」




「目を覚まして! 起きてよ! ……ねえ……!」


「ハル!」


 また気絶していたのだろうか……目覚めると、上舘先輩がわたしを抱き抱え、体育館の隅の床で、肩を揺さぶっていた。


「上舘先輩……今」


「良かった! ハジメさん……驚いたよ……いきなり、床に倒れていたから」


 わたしは、上舘先輩の腕を掴む。


「上舘先輩……今、の名前を叫びました?」


 上舘先輩は、キョトンとした顔をする。


「いたっ……ハ、ハジメさん?」


「おい! 誰の名前を叫んだか聞いてるんだよ!」


 わたしは、上舘先輩の腕をそのまま壁に叩きつける。わたしの叫びのせいで、場内がざわつき、わたしたちに注目が集まるが、別に構わない。


「えっ……わたし……そんな……どうして、わたし、ハルって」


「……ハル!」


 誰かがわたしを見ていた。ノブヨが涙目で、わたしたちから少し離れた場所で、何かを言っていた。


「やめて」と、長年付き合っていたから、何を言っているのかよく分かった。何かを隠しているのかもだ。


「ハル……ハル!」と、わたしがノブヨに言うと、ノブヨはドレス裾をたくし上げて、そのまま逃げ出す。うん、絶対なにかを知っている。


「あいつ!」


 わたしもドレスをたくし上げて、ノブヨを追いかける。


「ハジメさん! 待って!」


 上舘先輩がわたしを呼び止めているが、それを無視して体育館を飛び出す。ノブヨが逃げる先なんて、大抵、予想が付く。


「ノブヨ!」


 ノブヨは写真部の部室の隅で、子犬のような瞳をウルウルさせながら、わたしに怯えていた。


「ノブヨ……なんで、そんなに震えて……なんで、そんな目でわたしを見るの?」


「そ、それは」


「ハルって誰?」


「わたし隠してたの! わたしが、ハジメが着た衣装を買って、その……その、衣装でわたし!」


 ノブヨの頬に、大粒の涙が流れている。こんなに泣く奴だったんだな。


「……知ってるよ」と、わたしはノブヨに近付く。


「知ってるって……はあっ? 知ってるだって? じゃあ、ハジメ……あなた!」


 わたしは、ノブヨの吐息を感じられる距離まで近付く。


「そうだよ。ノブヨがわたしが着たコスプレ衣装で、アレをしていたのも知ってるし、ノブヨがわたしの事をどういう気持ちで、感情で見ているのも知っているよ」


「じゃあ……なんで、なんで……ハジメ」


 わたしは、ノブヨを抱きしめた。わたしの大好きな柑橘系の香水の匂いがした。


「ありがとうノブヨ。わたしはね、ただ嬉しいんだよ。他でもない誰かが、わたしの事を……こんなわたしの事をこんなにも思ってくれるなんて、初めてだからさ……そんなの、嫌いになる訳ないだろ、だから、泣くなよ」


「ああ……ハジメ……ハジメ! わたし……」


 ノブヨはギュッと、わたしを強く抱きしめる。


「でもさ、ノブヨ。これだけは、教えて……ハルって誰なんだよ」


 なんて強い力なんだろう。わたしがその名前を言った途端に、ノブヨが「イヤ……」と、わたしを突き飛ばし、部室の棚に叩きつけられる。


「ご、ごめん……ハジメ」


 構うもんかと……わたしは負けじと、ノブヨに詰め寄る。


「ハルって誰なの!」


「はあ……わたし……わたし……」


 ノブヨの様子が変だ。ノブヨが必死に、目を抑えている。


「いやだ……まだ、わたし……ここにいたいのにっ!」


 わたしがノブヨの手をどかすと、ノブヨの瞳が……なにか、ダイヤモンドの雪の結晶……ラウンドブリリアントの模様を浮かべながら、信号機のように点滅させていた。


「なに、その目……」


「はあ……ごめんなさい……ハル」


 カタカタと、棚のガラスが振動し、積まれたネガフィルムのファイルが崩れ落ちる。地震だと思ったら違った。窓の外から、学校の高さギリギリと思うほどの高度をジャンボ旅客機が、黒煙をまといながら、頭上をかすめる。


 ボンッという、爆発音が聞こえたかと思うと、エンジンと思しきものが、JR市川駅の近くにあるタワマンに……直撃した。


 ……その非現実的な光景を目の当たりにして、わたしは。


「ハジメ」


 わたしは、ノブヨへ振り返る。呆然とするノブヨ。違う……今のは……ノブヨが呼んだんじゃない。

 首にぶら下げた真珠のリングが、水の中に沈めたかのように、フワフワと宙を浮きながら、炎上するタワマンの方角へ引き寄せられているように見えた。


 ハル? ……ハルが……わたしを呼んでいる。


「……行かなきゃ」


 わたしは思わず、その場から駆けだした。ノブヨが、ギュッとわたしを後ろから、抱きしめる。


「……行かないで。ハジメ」


「ごめん、ノブヨ」


「いやだ。このまま、ハジメを行かせたら……わたし」


「分かってる……でも、さよならじゃないよ」


 ノブヨを突き放し、わたしはあのタワマンへ向かって走り出す。


 駅へ向かう大きな道路には、エンジンが激突したタワマンを、花火大会のように、呆然と眺めている野次馬でごった返していて、やむを得ずわたしは、江戸川の土手道を走り抜ける。


 自分にこんな体力があったのかと、不思議に思えた。ドレスをたくし上げながら、走りにくいパンプスを履いているにも関わらず、息も切らさずに、土手を走り続けていた。身体が妙に軽く感じる。まるで夢の中で、走っているようだ。……そう、夢の中のようにだ。


「プロポーショングリッド」


 体中が妙に冷たく感じた。全身から冷汗が出ている訳ではなく……むしろ、わたし自身が氷のようになったかのように感じる。

 ガチガチと氷が割れるような音がしたと思うと、わたしの足下が……堅く、光り輝くダイヤモンドのような鉱物のようなものにへと変化していた。


「ハル……ハル!」


 わたしはそれでも構わない。身体が軽い。宙を浮いているようだ。ドレス姿でも、本当の意味で、自由になった気がした。

 その名を忘れまいと、わたしはがむしゃらにその名を叫びながら、土手を飛ぶように走り抜ける。


 奇妙だ。タワマンに近付けば、近付くほど、視界がピントを外したレンズのようにボヤけながら、二重、四重にへと分裂してゆく。あまりにも、わたしの速度が早すぎて、野次馬に衝突すると思いきや、わたしの身体ごとすり抜けていく。

 野次馬や救急隊、警察の間をわたしは、訳も分からないまま通り抜け、マンションの非常階段にへと辿り着き、階段を駆け上がりながら、わたしは自分の目と耳を疑った。


「ハジメ、これはわたしだけじゃないの、あなたの物語でもあるのよ」


 十階。階段を上りながら、歯車模様エメラルドの瞳を宿した、二十七歳のハルが、わたしに囁く。


「インクルージョンたちは、わたし、和嶋治という存在をね……粉々に消そうと、しているのよ」


 二十階。紅い星の瞳ルビーを宿した十歳のハルが、わたしに呟く。


「わたしたちは一体、どこまでこんな茶番を、このEIという名の地獄で繰り返さないといいけないんだろうね、ハジメ」


 三十階。蒼い星の瞳サファイアを宿した七十歳のハルが、わたしに嘆く。


「ありがとう。ハジメお姉ちゃん」


 四十階。薄い猫の瞳ムーンストーンを宿した五歳のハルが、ハッキリとわたしに言った。


「ハル!」


 ハルの自宅は、何事もなかったようだが、外の様子が妙だった。市川市の眺望を望める夜景がそこには何も無く、ただただ、黒い空間に浮遊する巨大なジェット機のエンジンが浮遊していた。ここが、ハルのIR模造された部屋だと、わたしはすぐに理解した。


 わたしの目の前に、セミロングの美女がいた。わたしと付き合うには、高嶺の花のような存在が……二人いたのだ。わたしのような、ドレス姿のハルと裸のハルが二人いた。


「ハジメ……どうして……」


 間抜け面を浮かべたわたしに、ドレス姿のハルがポカーンとした顔をしていた。


「ただいま、ハル」


「どうして、ここにいるのよ!」


「へえ……あなたが、わたしの彼女って訳ね」


「はじめまして、ハル」

 

 わたしがそう言うと、裸のハルはケタケタと笑った。


「面白い事を言うんだねキミは。でも残念。この愚かなわたしは、あなたのものでは無くなるの……永遠に」


 エンジンが動き出す。巨大なジェット機のエンジンが、わたしのハル目掛けて突っ込んできた。すかさず、わたしはプロポーショングリッドを用いて、時間を更に停滞化させる。


「ハジメ……あなた、その瞳……」


「ハル……ごめんね」


 たぶん、ハルは理解したと思う。次の瞬間、わたしが何をするのかを。


「やめて……ハジメ……」


 首にぶら下げた、真珠。ハルのパールが相転移を開始した。リングの留め具から分離し放散虫のような、巨大な美しい弾丸にへと……。


「ハル……インクルージョン……そして、幻色……この様を見ているか?」


「やめてええええっハジメ!」


「これが、わたしの選択だよ」


 弾丸が、わたしの心臓を貫こうとした。ズブズブと泥の水に浸かるように、ハルの弾丸がわたしの中に、ゆっくりと侵食していく。

 ハルがわたしを止めようとするが、巨大なタービンがハルを粉砕しようとしていた。


「ハル……必ず、迎えに行くから! それまで、待っていて! 例えそれが、十万年先でも……五十六億七千万回愛してるから! だからまた、一緒に踊ろうよ!」


 ハルの指先が、わたしの指先に触れる。静電気を起こしたかのように、ビリっと感じた。わたしはその痛みを一生忘れない。忘れるもんか。


「待ってるよ……ハジメ! わたしもあなたを……あ」


 ハルがエンジンのタービンに粉砕され、一〇五が飛び出してくる。それを乱暴に捥ぎ取る裸のハル。こちらに向かってくるエンジンがどんどん遠ざかっていき、裸のハルが、一〇五を同期させた虹色のプリズムが発光し、星のように瞬いて、わたしを照らす。やがて、その光さえも見えなくなると、弾丸がわたしを完璧に貫き、やがて視界が完全に……黒。




「ハルを返して!」


 これが、わたしが自ら選択した刹那の物語だ。ハルの銃、ソリタリーシェルを使って、わたしはわたしの心臓を撃った瞬間の。

 十センチぐらいだろうか、工芸品のような美しい放散虫の弾丸が、わたしの心臓に到達するまで、インクルージョンは……ゴマスは、わたしを別のEI……恐らく、和嶋治という存在が消失しているEI、つまり、人工生命である中島のぶ代のEIへ強制的に上書きを行った。

 このまま、わたしはノブヨと一緒に過ごす事もできたが、ハルとわたしの因果律がそれを拒絶した。なぜなら、わたしは……鈴木一、わたしという現象はハルの光と音、今から貫かれる放散虫の弾丸だって、ハルの物語と因果律で出来ているからだ。


「まさか、強い因果律を持つハルのフラクチャーで、自分自身を撃つとはね。こんな事をしでかす存在は、あなたが初めてよ。おめでとう。これで、ハジメちゃんの因果律もハルと対等となったのよ」


 ノブヨ……いや、大槻理……ミチが、モノクロのローズヒップティーをわたしに差し出す。


「ここは? ミチ。状況の説明をしてくれ」


「よかった! わたしの名前も憶えてくれたのね! ここはわたしたち、NNのIRよ。わたしたちもハルによって出来ているからね」


 ポチャンと、紅茶の中に石のようなものが落ちる。天井にヒビが入り、部屋のあちこちが崩れ落ちていた。


「保守派のインクルージョンは愚かな事をしたわ。ハジメちゃんと出会った事のない事象のハルを無理矢理抽出し、一〇五とミネラルウェアを産み出した。ハジメちゃんの因果律によって出来ているハルとそうではないハルの一〇五が融合した時、何が起きるのか想像できなかったのかしらね」


 部屋の壁が崩れだし、露天掘りのダイヤモンド鉱山のような、途方もない広さの空間が現れる。崩れかけのジェンガのように、あちこちのキンバーライトの岩壁が止めどなく崩壊を続けていた。


「自我を持たないハルは暴走を始め、五十六億七千万あるEIのクラスターそのものを無作為に破壊し合成するマシンに成り果てたの。ハルの因果律で作られたわたしたちNNも、ここのIRも長くは持たないでしょうね。『クイーンズライク』それが、あのハルが持つフラクチャーネイキッドの名前よ。女王……ヤマトシロアリの女王は単為生殖によって、自らの遺伝情報をイミテーションしたクローンを産み続け、半ば永遠の命を手に入れているように、今のハルは全てのEIを永遠に自分だけの色に塗り替えたいのでしょうね」

 

「わたしはハルを止めたい。ハルを止められるのはわたしだけしかいないから」


 ミチはニコッと笑い「その言葉を待っていたのよ! ノブヨ!」と、振り返るとノブヨがわたしの後ろに立っていた。フラクチャーマントの姿で、蝶のような羽のマントを広げながら、ラウンドブリリアントの瞳をウルウルさせていた。


「はあ……ごめんなさい。わたし……ハジメの事を騙していたのに」


「ううん、ノブヨはわたしを守る為にやったことでしょ。だから、ありがとうノブヨ」


 わたしはノブヨに抱きつく。ノブヨの温もりが、匂いが、光や音を感じられる。


「ノブヨ……ここのIRが機能しなくなるという事は、バックアップが出来なくなる……NNにとって、本当の死を意味する事なんだよ。一度、ハジメちゃんと合成したら、最後……もう、戻れない。それでもいいの?」


 ノブヨも強くわたしを抱きしめる。


「はあ……わたしはそれでも構わない、覚悟はできてます……だって」


 ノブヨの顔が、唇が、瞳がわたしの瞳と重なる。


「だって、この瞬間をわたしはずっと望んでいたのだから」


 ノブヨは涙を流しながら、わたしの唇を思いっきり、強く重ねた。ノブヨのラウンドブリリアントの瞳に、わたしの意識ごと吸い込まれそうだ。


「シロアリの女王は基本的には不死ではあるけど、それはコロニーだけの狭い世界の話に過ぎない、有性生殖における王の存在がいなければ、そのコロニーは崩壊してしまう。ハジメちゃん、あなたはわたしたちの王になって欲しいのよ」


 ミチの台詞が子守唄のようだ。ノブヨの意識が、光が、音が、色が、わたしの中にへと入っていく。


「はあ……質問が多いな。わたしはお前じゃない。中島のぶ代という名前がある」「はあーっ……やってられないわね」「はあ……はあっ? ってか、ノブヨって、言い方止めてください! わたしはただ……」「はあ……一応、これでも気を使ってるんですよ。あなたたちの、恋路を邪魔するほど、野暮じゃないです」「はあ……鈴木さん……その名前で呼ぶのは止めてください」「ハジメ……必ず、た、助けるから……」


 ノブヨの記憶と優しさがエーテルのように逆流する。


「はあっ……い、いきなり、な、な、なにをするんですか? 下半身に脳味噌が移動でもしたんですか!」「はあ……攻めは得意なのに、受けはからきし駄目ですか……違いますよ。わたしの瞳を見て、ハル。わたしのIRへと入ったようにね」「はあ……鳥でもウザく感じるのかな、ジーッと眺めているのはわたしですかね」「はあ……か、可愛いって……わたしの精神はすり減ってますよ! カメラを寄越せ!」「やめて」「……わたしもハジメの本気が見てみたいです」「はあ……ハルには内緒ですよ?」「ここまできて、喧嘩別れなんてしたら、わたしはハルを許しませんよ」

「ハジメ!」


「ノブヨ」


 わたしとノブヨが、やがて一つになるのを感じた。


バイカラー二色ユニット、フラクチャーユニフォーム、キング・ダイアモンドへの相転移を完了」

 

 ノブヨのエコーがわたしの中で木霊した。全身がピンクダイヤモンドのような肉体ミネラルウェアとなり、ノブヨと撮影したコスプレ衣装のような制服姿だった。これが……これが、わたしが望む無意識的願望の姿。


「ありがとう……ハジメ。これも忘れていなかったんだね」


「……忘れる訳ないでしょ」


 ダイヤモンドの日本刀の柄の部分に、ノブヨから貰ったカメラストラップを巻き付けていた。


「王よ……いえ、鈴木一……あなたはその力を、その強大な因果律を用いて何を望む?」


 ミチがわたしの頭に、カブトムシの角ような大袈裟な王冠を載せる。望みだって?言われるまでもない。


「ハルを見届け、救う。その為にわたしは、わたしの……わたしだけのハルを救うために、他のハルを一人残らずぶっ潰してやる。EIに因果律、一〇五だの、インクルージョン同士の抗争、幻色がハルに何を求めているのかだなんて、わたしには知ったこっちゃない。わたしは……わたしとハルの日常を取り戻す。だから、わたしはなにもかも……潰す。跡形もなくフラクチャーしてやる」


 ミチがニコリと笑った。


「了解。これより、わたしたちNNもハジメちゃんに従います。これよりデグレードプロトコル、ハーフ&ハーフ/ハードロックを開始します……お茶のおかわりはいかがですか?」


「ああ、お願いミチ。これから、長い…長い日になりそうだから、目が覚めそうなくらいに、酸っぱいお茶を頼む」


 わたしにとって、本当に長い日になりそうだから。せめてこの瞬間だけは、美味しいお茶ぐらい飲ませて欲しかった。それくらいの時間はいいでしょ? 


 この物語を幻色さんよ?

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