第9話

(二)人前結婚・間借りの新居

 私の両親は、きれいな花嫁衣裳で親戚などを招待する伝統的な結婚式を期待していましたが、私は白いレースのワンピースを新調し、進は背広、参加者は平服で全員に祝辞をもらう様式で、友人たちが司会・進行などを取り仕切ってくれました。

 双方の親達は式服や訪問着などを着て参加、叔母や兄弟、従兄弟など三千円の会費、不足分は二人の貯金で補い、親からの援助は一切してもらいませんでした。

 こうして一九五五年九月十一日に新しい自分の人生が始まりました。親から独立できてどんなに嬉しかったことか、「これからは全部自分で開拓する」との決意いっぱい、背水の陣を敷いた出発でした。

 当時は住宅難時代で、あるお宅の倉庫を改造した離れが新居でした。板の間の六畳一部屋に炊事場と汲み取りトイレ、風呂無しでしたが、京王線の明大前駅から徒歩七分の便のいいところでした。


 夫は前述したように総合雑誌「中央公論」の編集者で、政治や社会問題担当でしたので、そういう話は合うのですが、それまでの日常生活は全部、専業主婦の優しい母親が面倒をみていましたので、家事には無関心でびっくりしました。

 また、情勢に合った編集をするために突然編集会議が開かれたり、執筆者の都合で急に出かけなければならなくなったりで、新婚旅行で行った箱根も、翌年夏に夫を無理に引っ張って言った上高地も、編集会議が気になり、目的地まで行けずに還ってしまいました。

 その後の家族旅行も大抵夫はキャンセルすることになり、母子で行きました。夕食など「今晩は遅くなるけれど、自宅で食べる」というので待っていると、夜中の二時になることが常でした。

 休日は寝ているだけで休暇を取ったこともなく、結婚して一緒に暮らす楽しみは無残に打ち砕かれました。どこにいくのも何をするのも一人です。

 私は生後ずっと賑やかな大勢の家族に囲まれて暮らしてきたので、昼間一人でいると何も手につかず淋しくて困りました。


(三)仕事を探す

 換算名経済的自立は無理でした。せめて自分の生活費くらい稼ごう、と仕事探しを始めました。

 中学校の教員、公務員、新聞広告で見た主婦の友社など、手当たり次第に採用試験を受けましたが、みな第一次が書類審査で落ち、実力のないことを実感しました。

 新聞に求職広告を出したところ、中小企業経営者のお宅に小学生の家庭教師を頼まれて、東中野に一年くらい通いました。

 翌年(一九五八)年、世界経済研究所という、小さな民主的な研究所の事務員の職が見つかり、極少ない額でしたが、定期的に収入を得ることができるようになりました。

 一方、民科の研究会で女子労働研究の中心だった嶋津千利世先生が繊維女子労働者の調査研究を進めており、誘われてそのお手伝いをしたり、自宅で開かれる研究会に参加したりと、研究の方も続けました。

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