第6話
第二章
(一)民科・婦人問題部会で出会った人
一九四九(昭和二十四)年秋、東大婦人問題研究会の会員だった石田玲子さんから、発足したばかりの「民主主義科学者協会・婦人問題研究会」に誘われ、行ってみました。
その頃は三井禮子さんが中心になって「資本論」の第二巻の本源的蓄積の小を政治学者の信夫清三郎先生の解説を受けながら読書会をしていました。
大学でのゼミでは得られなかったアカデミックな勉強の雰囲気に感動し、毎週のように通いました。永原和子さんや井手文子さんは熱心な会員で、そのユニークな生き方に刺激を受けました。
次に、女性史研究者の帯刀貞代さんがチューターになり、参加はそれぞれ研究テーマを与えられ、私は「新婦人協会」を調べることになりました。
資料は帯刀さんのお宅に昔の「婦人公論」合本があるから、それを読んで報告せよということで、お宅に伺いました。その帯刀さんは、当時四十歳で和服を着た、びっくりするほど美しい方で、声は透き通るようで、その優しさにすっかり魅了されてしまいました。
ちょうどその頃、帯刀さんは「婦人公論」に「昭和婦人解放史」を三回にわたって連載されていました。内容は帯刀さんご自身の生きてきた道についてで、東洋モスリン工場の近所で「女工」さんに裁縫を教えながら、「資料と労働」の話をした「労働女塾」のこと、結婚した夫の暴力、思想犯で警察に捕まり、ひどい拷問を受けたことなどが書かれていました。
それを読んで、すっかり感激して「私も後に続かなければ。」と決意したほどでした。
「新婦人協会のこと」は「婦人公論」に平塚らいてうが連載で書いた内容をまとめてみました。何度も帯刀宅に通う中で、拷問による後遺症で痛む身体で執筆などしながら生きる大変さを伺い、応援すべくカンパ活動を始めてしまいました。
二十歳の私のロールモデルであり、以降ずっと私淑してきました。
同研究会はのちに部会となるのですが、そこで、女性史と女性労働グループに分かれ、前者は帯刀さん、後者には労時三十代の島津千利世先生が責任者になりました。
私は後者に入り、黒川俊雄先生による男女同一労働同一賃金の講義を受け、パンフにまとめました。
当時、生理休暇が労働法から除外される動きが出ていたので、その勉強や討論をして、原田二郎さんがパンフにまとめて、労働組合婦人部と一緒に「生理休暇を守ろう」という集会を開き、運動を広げました。
工場で働く女性も参加してその実情を話したり、近江絹糸の争議の応援をしてその状況を報告したり、現場に寄り添って「働きやすくするには何をしたらよいか」と学び、話し合いました。
働く条件を良くする為の研究会として、それに関連した文献を読んだりしました。また有志は、島津先生を中心に自宅で毎日研究会を開きました。これから後の女性労働問題研究会に発展していったのです。
民科の婦人問題部会はその後、三井禮子さんを中心に「労働問題懇話会」となり、毎日お茶の水の雑誌記念会館の会議室を会場にして開かれ、四ページのニュースも発行しました。
その中で、平塚らいてうさんにもお話を聞く機会を持ちました。
三井禮子さんを中心としたこの会を出発点に「近代日本女性史のあゆみ」「現代婦人運動史年表」づくりに参加した女性の中から助成し研究者が生まれたのです。
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