第5話

(九)幼稚園から小学校へ

 昭和九年、公立小学校の付設されたばかりの幼稚園の二年保育に入園しました。

 前田宏子先生という若くて優しい先生が担任で、広壮なお宅まで伺ったことを覚えています。華族のお嬢様が社会勉強の為に幼稚園の教諭をしたのでしょう、一年勤めただけで退職されました。

 今考えると、私は父母に甘える暇も無く弟が二人も続いて生まれたため、いつも欲求不満で、大伯父宅や幼稚園が楽しかったのだと思います。

 小学校は昭和十一年に入学しました。震災後に新築された鉄筋三階建ての校舎で、教室にはスチーム暖房があり、狭いけれども千三百人の生徒の声が飛び交う賑やかな学校でした。

 私はよほどわがままだったのでしょうか、一年生の組み分けで二組に入ったのに、「三組の先生の声がきれいだからどうしても三組がいい」と泣いてわめき、母が頼んで変えてもらいました。

 しかし、二年生になると組変えで、今度は否も応もなく男女組の二組に入れられ、そのまま六年まで同じでした。三年の時、師範学校を卒業したばかりの十八歳の若い先生が担任となり、六年生まで一緒だったので級友とは仲良く、先生とは九十歳で亡くなるまでお付き合いしていました。

 当時は一クラス六十人以上で六年次には転入生もいて、六十八人、二人用の机が教室一杯でした。


(十)小学校から塾通い

 戦前でも八丁堀ではみな教育熱心で、特に母はエリート意識満々の教育ママで、子供達はお稽古と塾に毎日通いました。

 運動神経はクラスで最低、逆上がり、懸垂はできず、肋木では一番上にぶら下がったまま怖くて泣き出す始末です。跳び箱は越えることなど不可能で、上って飛び降りるような有様でした。

 体育のある日は一番嫌で、お腹が痛くなりました。遊び仲間に入れない辛さと体育で合否が決まる制度になっていたため、体育が苦手な私は公立を受験できず、叔母の卒業した私立の高等女学校に無理に頼んで入学させてもらったほどです。

 小学校三年生から通っていた個人が主宰する学習塾は体罰まで伴う厳しい指導で、参考書を使ってどんどん先に進み、強制的に詰め込まれます。

 私は授業中は先生を冷やかすような目つきで見ていましたから、先生はとても困っていました。今思えば、「嫌な子」の典型だったと思います。

 そういう体験から、親になってもわが子の成績は気にせず、塾も無理強いしませんでした。


(十一)大人から学んだこと

 このような肉親達の生き方を見ながら、私は自分自身の生き方について、二つのことを考えました。

 一つは「女も仕事を持って経済的に独立しなければいけない」という事です。親や夫に自身の生き方について養ってもらうと、自分のことは何も言えなくなる。

 親や夫が破綻したら巻き添えになる、だから自分で生きる方法を身につけなければいけない。結婚は自分で相手を探さなければならない。

 運命は自分で判断できるようにして、勉強をして世の中のことを知らなければいけないと思いました。

 二つ目は、長次郎大伯父の行き方を見て特に考えたことです。子の人は、とても合理的で先も見ながらものを考えるので学ぶところが多いのですが、楽に暮らしていたいけれどもこまめに動く人ではなく、腰が重いのです。

 動きの鈍いところは私も良く似ています。しかし、世の中はそう理屈通りになりません。結婚して一緒に暮らすには、我慢が必要、子供を生んで育てるのは喜びもあるけれど、これまた大変なことです。

 ですから、私はつまづき、諦めそうになると彼を反面教師にして反省してきました。そうして、仕事でも何でも一つのことを根気よく継続することができ、仕事も家庭も掴み取れたのではないかと思っています。


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