第4話
(七)大伯父、長次郎
私が影響を受けた親戚の中に、隣家にいた祖母の兄、明治十六年生まれのグルメ趣味人、綱島長次郎がいます。前述しましたが、親から足袋屋を継いだものの、商売が嫌で昭和初期、震災後の区画整理に補償金を受け取ると、店を祖母と母に譲り、営業資金も母達に貸してくれました。
長次郎は、近所で小間物屋さんを営んでいた元芸者で子連れ女性を内縁の妻とし、板橋の奥の畑の中に広い敷地を借りて、これまで好きだった植木栽培の仕事を始めました。
私は幼少時、多忙な年末などそこに預けられ、大叔母の世話になり、その娘で私より四歳上のまち子ちゃんとよく遊びました。
大伯は元芸者ですから世話が上手で、優しく面倒をみてくれるので好きでした。でも、母達は「情がないから」と嫌っていました。
長次郎大伯父は、「植木も体が疲れるから」と辞めた後、本郷の東大前に若干の衣料品も扱う小さいタバコ屋を開業しました。空襲が激しくなると房州の山奥に疎開し、戦後は大伯母と別れて大叔父の子の亀吉夫婦の世話になりました。
亀吉大叔父は、祖母・せいの弟で慶応大学の商工学校を卒業し、遊び上手で、器用さを買われて進信省に技術者として勤め、元芸者さんと結婚したモダンな人でした。
母は、独身で高齢になった長次郎大伯父を同居させて世話をしたと、いつも言っていました。が、私は戦後建てたバラックのような家に「これ以上家族が増えたら住めない」と大反対しました。
(八)実家の店と隣近所のこと
実家の洋品屋の店は、三十平方メートルに満たない土地に建てた自宅と一緒の二階建てで、「よく暮らすことができるなぁ」と思うほど狭い建物でした。
当時のすずらん通り商店街の端から四軒目にあり、開口二間奥行三間、その奥に台所があり、その板の間三畳にござを敷き、ちゃぶ台を広げて食事をしました。
寝るための座敷や針仕事をする場所は二階の六畳と四畳半です。私の記憶では、六畳に子供達が父母祖母と三組の布団で一緒に寝て、隣の四畳半に叔母二人、お手伝い一人、台所に男の住み込み店員二人が寝るという具合で計十一人が暮らしていました。
隣近所の商店も皆、我が家と同じような広さでした。
そして同年位の子供が沢山いて、道路と空き地でよく遊びました。区画整理で道幅が広くなり、八重州通りや市場通りが作られたものの、当時は自動車が少なかったので商店街や路地は格好の遊び場でした。
私は運動神経が鈍くて走るのが遅く、階段から落ちたり、道路で転んだり怪我が絶えません。
みんなの遊びに着いていけないので、仲間はずれにされ、見よう見まねでまりつきや縄跳びをしたり、紙芝居屋さんが来ると一生懸命は知って見に行ったりしました。
なぞなぞが大好きで、字を覚えてからは読書に浸りました。
私は、弟が二人もいるお姉ちゃんなのに面倒もみないと叱られたり、何でも人より遅いと周囲から怒鳴られたり、びくびくしながら暮らしていました。
家族にまで、「のろまな宏子ちゃん」と言われて恥ずかしいことでした。幼児期、年末やお盆で店の繁忙期には祖母の兄や弟の家に一時間くらい預けられましたが、その家のおばさんたちに私は一人っ子扱いをされて良く面倒を見てくれるので大好きでした。
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