第3話
(五)私の誕生、幼少の頃
私が生まれたのは昭和四年、その後二歳ずつ離れて弟が二人生まれました。さらに十年後、妹が生まれ、四人兄弟になりました。
名門女学校を卒業したというプライドを持っていた母は、高等小学校出の父を下に見て、商売などのことなどでよく文句を言うのものですから、父は時々爆発し、夫婦喧嘩が絶えませんでした。
私の小さいときの記憶は、父母の諍いと、母の文句、祖母の小言が印象的です。
また、母より二歳年下、十歳下の叔母二人も同居していました。
私がまだ幼かった頃の祖母・せいは、お店で働く母に代わって孫の面倒をよく見てくれました。せいはまだ四十歳代で働き盛り。当時は、江戸の時代からの延長で家は狭く、料理など作る場所もありませんでした。
朝二升釜でご飯を炊き、お櫃に移します。鰹を削って出汁を取り、大根と蕪、わかめなど一種類の具で作った味噌汁、夏はぬかみそ漬け、冬は白菜漬けをおかずに朝食、昼は干物、塩鮭などと清物、夜は安い大衆魚を煮るか焼くか、野菜の煮付けに清物という食事でした。
肉はまれに「ご馳走」としてすき焼きを食べる位、天ぷら、精進揚げ、カレーなどはお店が暇なときに母が作ってくれました。お刺身は来客時のご馳走でしたが、活きがよくて美味しかったことを覚えています。
当時は、電化製品などなく、家事は全て手作業ですから、住み込みのお手伝いさんがどうしても必要で、親戚が居る房州から若い娘さんが来ていました。
三人の使用人と合わせて十一人分の食事作りは大仕事でした。主食中心の簡単な食事で、贅沢などできません。祖母は私をお供に日本橋のデパートによく出掛け、帰途に必ず、「うなぎや」とか「仕出屋大増」、茅場町の中華料屋「満珍軒」で食事しました。
家で食べられないものを、孫をお供にそっと出かけて外食したのです。
江戸で「にぎりずし」「天ぷら」「幕の内弁当」など外食が普及したのは、町人達の家は狭く料理ができないこと、商家は使用人が居るので主人一家だけ特別料理など食べるわけにはいかないので、外へ食べに行ったのです。
また、農民や武士は現金が自由にならないけど派手な服装・目立つ贅沢は禁じられていたために歌舞伎を贔屓にし、豪華な衣装の舞台を見て発散したのだ、とも思いました。
江戸時代は武家と町人は身分制度のもと、住み分けもしていて、武家文化と町人文化が別々に存在したとのこと、明治以降はその延長で山の手文化と下町文化になった、と考えていました。
余談ですが、私の生まれ育ちは一番低い階層、親の話し方、笑い方まで下品に見えて恥ずかしく、ボロが出ないかいつも気にし、小さくなって小声で話し、こそこそと目立たないように通学しました。
山の手の文化、行儀作法を早く身に着けたいとどれだけ努力したか、このコンプレックスは最近まで続いています。
最近「江戸文化」について、図書館などで勉強し、やっと「町人文化」の由来がかわり、私の思考方式も江戸町人の流れなのだ、と誇らしく思い、「なーんだ、違っていてよかったのだ。」と自信がつきました。
(六)叔母 富美子
我が家には母の妹が二人一緒に居ました。上の富美子叔母は、母より二歳年下で小柄、三輪田高等女学校を大正十五年に卒業して、学校の推薦で日本銀行に勤めていました。
その富美子叔母が昭和十四年、突然お嫁に行くことになりました。がっかりしましたが、後妻なので、私より一歳上の女子と二歳下の男子の母親になり、急に姉妹ができたのはちょっとうれしいことでした。
後で母からこの結婚のいきさつを聞きました。ある日、富美子叔母は友人のお見合い写真を撮る付き添いで写真館に訪れたところ、その写真館の主人から後に求婚されたのです
何回も断ったのだけれども、熱烈なラブレターがひっきりなしに来て、すさまじい攻勢だったそうです。最後は小型のピストルを出してきて「断られたら無理心中する」とまで言われたので、「こんな求婚でも、されると一人でいるより心強いか。」と決意したそうです。
相手は再婚でもこちらは初婚だから、それなりの手続きを踏んでもらい、自前で豪勢な嫁入り道具を揃え、振袖の花嫁衣装を誂えて髪を文金高島田結い、赤坂・日枝神社で立派な結婚式を挙げました。
そのように大騒ぎして結婚したのに、夫は入籍させませんでした。その前に何度か後妻の家出を経験したので、富美子叔母も居つづけるかどうか信頼できなかったのでしょう。
それでも母や叔母たちは従姉弟ができてよかったと思っていましたが、富美子叔母は戸惑っていたのでしょう。
「同年の従姉弟揃って一緒に遊べて何でも話せてとてもいい。仲良くしなさいね」と喜んでその姉弟を紹介してくれました。そして千加子叔母も、さっそく履物屋さんのお世話で、浅草にある鼻緒御商の長男の嫁に決まりました。
婚約中はいつも小学校六年生の私がお供させられました。二十歳の徴兵検査で甲種合格、徴兵されて戦地に行き、伍長に昇格したのが自慢の人でした。
我が家は当時戦時経験統制化で、在庫品が飛ぶように売れて好景気だったので、嫁入り支度には最大の費用をかけて、高級な着物を誂えました。
極端に物資不足になったのは十六年頃からで、とくに全国的な空襲で被害を受けたあとの戦後復員して、空襲で飢餓的な苦しみだったとわかります。
嫁に行くと婚家先の人になり、実家との縁は切ったほうが人間関係が上手くいくということで、私たち一家との交際を嫌い避けていました。
そんな千加子叔母も私から見ると大変不幸でした。「千加子さんを引き取ってあげたら」と母に頼みましたが、それは無理なことでした。母を非情だと思いつつ「結婚すると別々に生きるのだ」と痛切に感じました。
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