第2話
(三)父・五郎三衛門
父は明治三十年、倉敷の十二代続いた古い家に六人姉弟の末っ子として生まれました。旧姓は山川、名前は「五郎三衛門」といいます。
このような旧式な名前は名家の跡取りぐらいしか聞いたことがなく、父親名を聞かれたときや保護者欄に書くとき、私はいつも恥ずかしい思いをしました。
父は「わが山川家は旧家で、三百年も前の初代の名前を貰ったのだ。」と言っていましたが、父は「親は気位ばかり高くて」、と批判的でした。
以前、倉敷に住む今の当主の元昭さんを訪ね、そのルーツを墓碑や過去帳で辿ってもらったことがあります。
山川家は父の代で12代目で、初代は慶長年間の四代目から山川五郎左衛門で、名刹といわれる市内の寺に広い墓所があり、その奥に名前の刻まれた墓碑があります。
讃岐屋山川家と称して郷宿や古着屋商をしていたようです。旧家を誇りにしていたらしく、父方の祖父楠之進は、その長男を三代前と同名の元蔵と名づけ、女子が四人生まれた後の末子が男子だったので、初代にあやかり、五郎三衛門としました。
家名を挙げてほしいとの願いで命名したのでしょう。
十二歳のとき、父親の楠之進が死亡し、願っていた進学は叶わず、高等小学校が最終学歴となりました。
あまり繁盛していない家業の手伝いを命ぜられ、それが嫌で十五歳の時に家を飛び出し、大阪の繊維問屋に丁稚奉公しました。
後に東京の衣料問屋に移り、そこで番頭を務めるまでになりました。父は、長い独身時代に肋膜炎など病になったこともあり、健康に留意し、読書好きで書道を習い、登山など趣味豊かに暮らしていました。
父は生家での節約・倹約・生涯現役を頑固に押し通し、過食せず、散歩など心がけ、八十七歳まで大病せず自律的に生きたので、そのことだけが子供心に残りました。
(四)父母の結婚
震災後始まった区画整理事業によって、借地は少なくなり、隣家にあった祖母の兄である実家の当主は、姪である母に家業の足袋屋を譲りました。
当主は独身だったので、店を母子家庭であった一家を援助するつもりで引き継がせたのです。自分は区画整理で受け取った一時金を持って、近所で小間物店をしていた子連れの女性を伴い、郊外に引っ越して植木屋を始めました。
母は家を立て直すために祖母と一緒に奮闘し、洋品屋を開店しました。祖母は、取引先の衣料品問屋の番頭をしていた父に眼を付けて婿養子になるよう口説き落とし、母を説得して結婚が決まりました。
昭和三年のことでした。十数年卸売り屋で働いて三十一歳で小売商になった父ですが、商売には向いていませんでした。
婿で養子に入ったこともあってか、静かな父は影の薄い存在でした。福島家は明治維新前後に房州から江戸に来て塩もの屋を始めた母方の先代と、明治以前から足袋を商ってきた祖母の実家の経験が家の生活習慣となっていました。
昭和十三年春、父母が結婚して十年目に初めて家族で倉敷に里帰りしましたが、その時岡山城・瀬戸内海を一望する鷲羽山、四国の金毘羅宮・高松の栗林公園・安芸の宮島など名所旧跡を訪ね、春休みを楽しく満喫しました。
宏子八歳、弟・輝夫六歳、次男の幹彬四歳、最初で最後の豪勢な家族旅行でした。倉敷の実家の兄姉は、姉の幼女でモダンなよね子さんとともに大歓迎でもてなしてくれました。
その翌年も法事かなにかで倉敷にお供したので、近所の子達と仲良くなり、鶴形公園を走りまわって遊びました。
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