6 ヒマワリ
おっちゃん
あの建てつけの悪い引き戸も、小学生がたこ焼き買いに並んだ出窓も、すでに跡形なく壊されて、床のタイルだけが店の面影を残していた。黄色いブルドーザーの向こうから、作業員が黙々と水を撒いて埃を静めている。
「あああ」
コウタが頭を抱え、泣きそうな顔でうめいた。
「奥に誰か
チハルちゃんが指差す先は、おっちゃんの住居部分だ。まだ壊されていない。カンナは作業員が後ろを向いた隙に、素早くブルドーザーの脇を通って奥へ向かった。
「おっちゃ……」
声をかけようとして、カンナは言葉をのみこんだ。おっちゃんではない。背格好は似ているが、そこに立っていたのはサングラスをかけた四十代くらいの男だった。
「なんだお前」
男は煙草をくわえたまま、おっちゃんみたいな無愛想な声で問いかけてきた。カンナはいつでも逃げ出せるように距離を取りながら、勇気を出して聞いてみた。
「あの。たこ焼き屋のおっちゃん、いますか」
サングラスの上で眉が寄った。
「いや。もういないよ」
「どこ行ったん? おっちゃん、どっかに店ごと引っ越したん?」
いつのまに来たのか、後ろからコウタがしゃがれ声で言った。チハルちゃんも男を睨むように立っている。
「お前ら勝手にこんなとこまで入って……ああそうか。おやじの『お得意さん』か」
しょうがないな、と言って男は煙草を足で踏み消した。
「おっちゃんはもうどこにもいない。死んじまった」
この町ではあまり聞かない関東アクセントの、あまりにもあっさりとした言葉に、カンナはしばらく何を言われたのか理解できず、ぽかんとしてしまった。
「心臓やられてたんだな。あっけないもんだ」
ほいこんなもんで、というおっちゃんの声が頭の中によみがえる。カンナは思わずチハルちゃんと顔を見合わせた。
サングラスの男はひとり言みたいに呟き続ける。
「絵ばっかり描いて、酒ばっかり呑んで、娘の結婚式にも出ずに勝手気ままやって……事故で指が飛んでからは絵も描かなくなって。ヒマワリを探しに行くとか言ったままどこかに雲隠れして。最期はこんな田舎でたこ焼き屋だと……バカ親父め」
男は空を仰ぎ、サングラスを外して目をぬぐった。横顔がおっちゃんにそっくりだ。
「おっちゃんの悪口、言うなあ!」
コウタが男に突っかかった。子牛みたいな身体を揺らして、むちゃくちゃに腕を振り回す。男は驚いて二、三歩よろけたが、そのままコウタの肩を掴んで簡単に地面に転がしてしまった。
「なんだ、図体の割りに弱いな」
鼻で笑う男の顔を見上げて、コウタが悔しそうな顔を真っ赤にした。
「おいおい、そこで何しよる。作業中やのに関係者以外入ったらいかんやろが」
ヘルメットの作業員が瓦礫を踏みながら近づいてくる。
「この子らも関係者だ!」
サングラスの男は声を張り上げると、家の中にから何かを持ち出してきた。
「嬢ちゃんたち、どっかで見た顔だと思ったら。ほら、これをやるからもう帰れ。坊主にはこれ」
男は平べったい箱をカンナに、くしゃくしゃの布をコウタに押し付けて、
「もう、帰れ」
と繰り返した。
帰り道もまた、埃っぽかった。誰も口をきこうとはしなかった。
コウタの住む団地が見えてきたところで、やっと三人は立ち止まり、互いの手に渡された物を広げてみた。
平べったい箱の中身は、薄い額縁に入った水彩画だった。
女の子が二人、ぴったりと寄り添って座り、背景には黄色いヒマワリが一面に群れて咲いている。
「似てないね。それにあの時は家の中やったのに。ヒマワリなんか咲いてなかったのに」
チハルちゃんが鼻をすすりながら言って、絵をそっと撫でた。
「そりゃ、おっちゃんは嘘の絵描きさんやもん」
カンナもまた鼻をすすって、隣のコウタを見た。
くしゃくしゃになっていたのは、見覚えのある紺の暖簾だ。
「よかったねコウタ。『のれん分け』やん」
カンナは分厚いコウタの肩を叩きながら、わざと明るく言った。本当は『暖簾分け』ではなく『形見分け』と言うべきだが。コウタが下手なシャレの意味を理解したかどうかはしらないが、うん、とだけ答えた顔はいつになく神妙だった。
ツクツクボウシが頼りなく鳴いている。
あれから二年。
中学生になった今も、カンナはチハルちゃんと親友どうしだ。コウタがまだたこ焼き屋さんになりたがっているかどうかは知らない。最近では柔道部に入って、ますます牛に似てきた。
商店街沿いに新しい道路ができて、『おっちゃん
でもチハルちゃんちのパン屋さんの店頭には、おっちゃんの描いてくれた絵が飾られている。
「なんでヒマワリなんやろ」
二人は今でも絵を見るたびに首を傾げる。
おっちゃんの本当の名前は、とうとう分からずじまいだった。
(了)
ヒマワリ——おっちゃんがいた夏 いときね そろ(旧:まつか松果) @shou-ca2
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