3 木戸の向こうがわ
なぜ、そんなことを思いついたのか。
塾の帰り、カンナたちはおっちゃん店の前にいた。今日は雨だ。もちろん店は閉まっている。
「その木戸、入り口だと思う?」
チハルちゃんの指差す先は、大人ひとりがやっと通れるほどの細い木戸だ。
「わからん。ガスの置き場かも」
この辺りの家は皆プロパンガスを使っているから、家と家の隙間にはガスボンベが二つ三つ置いてあるものだ。予想通り、カンナが開いた木戸の向こうにも背の高いボンベが壁際に並んでいた。が、以外だったのは、その脇に小道があり、ずっと奥に続いていたことだ。
「この奥、おっちゃんの家かなあ」
「そう、かも」
自分たちは悪いことをしているのではないだろうかと不安になりながらも、カンナは傘を畳み、小道を進んだ。軒先から落ちる雨の雫がカーテンを作る向こうに、ひっそりと玄関らしき戸が見える。
「何か用かね、あんたら」
不意に後ろから声を掛けられて、二人は飛び上がった。いつの間にか、おっちゃんが小道に立っていた。いつものような前掛け姿ではなく、背広を着込んでいる姿は、まるきり知らない大人のようによそよそしい。
「あっ、ご、ご、ごめんなさいえーと」
慌てふためいて言い訳を探し、カンナは手提げの中からノートを引っ張り出した。
「宿題。夏休みの宿題なんです。『身近な人にインタビューしてみよう』ていう」
とっさによく思いついたな、と我ながら感心する。けれど半分は嘘ではない。夏休みの自由研究のテーマに、確かそういう例題があったはずだ。うんうん、とチハルちゃんもうなずいて調子を合わせている。
おっちゃんはカンナの言葉を信じたのかどうか、いつもの難しい顔のままで玄関の鍵を開けた。
「まあ、入りなさい。そこで雨に濡れとったら、風邪をひく」
湿気た土間のにおいと、墨のにおいが鼻をついた。
六畳間と三畳間があるきりのおっちゃんの家は、生活の場というよりは物置のように見える。襖のような大きな木枠やキャンバスや和紙がいっぱい。絵筆が何本も文机の上に置かれている。
怪しげな噂は本当だったのかもしれない、と思うと、カンナはどきどきしてきた。真夏だというのに妙に寒いのは、雨に濡れたせいではないかもしれない。素足にサンダル履きで来たことが悔やまれたが、おっちゃんは畳が汚れることなんて気にもかけていないようだった。
「お茶をいれたげよう」
暗い台所でヤカンを火にかけるおっちゃんは、顔も声もひどく疲れているようだ。断るわけにもいかない。お茶だけごちそうになったら、ごめんなさいを言ってすぐに帰ろう、そうカンナは決めた。
チハルちゃんも黙っているから、家の中にはヤカンがふつふついう音しか聞こえない。居心地が悪くてもじもじしていると、おっちゃんのほうから問いかけてきた。
「で、何が聞きたいんぞい」
カンナはチハルちゃんと顔を見合わせ、覚悟を決めてごくんと唾を飲み、ノートと鉛筆を出した。
「えーと、最初の質問です。おっちゃんのお名前はなんていうんですか」
「名無しのごんべさんや」
大真面目な顔でおっちゃんは返してきた。
笑っていいのかどうかわからないでいると、チハルちゃんが、いつものぽわんとした口調で続けた。
「じゃ、ふたつめの質問。おっちゃん、絵を描いてるんですか。見せてもらってもいいですか」
こちらを向いたおっちゃんの目が、一瞬ぎょろりと光ったように見えた。けれど静かに首を振り、茶筒を開けながら答えが返ってきた。
「古い絵ばっかりや、見んほうがええ」
「なんで?」
「なんでもよ」
ヤカンを火から下ろすおっちゃんの声は不機嫌ではなかったが、もうこれ以上は言いつのらないほうがいい。カンナはハラハラしながらチハルちゃんを見た。だがチハルちゃんは、ふうんとつぶやいてからとんでもないことを言い出した。
「なら、次の質問。おっちゃんは本当の絵描きさんですか。嘘の絵描きさんですか」
なんてことを、と慌てて、カンナはチハルちゃんのTシャツを引っ張った。
おっちゃんはじっとチハルちゃんを見返してしたが、急に笑い出した。
「あははは、嘘の絵描きか。それはええ。はっはっは」
初めて聞く、おっちゃんの笑い声だった。
「そうそう、おっちゃんは嘘の絵描きよ。もう何年も絵筆すら持ってないわい」
欠けた湯呑みが三つ、盆の上で湯気を立てながら並んだ。
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