チェーホフの銃、あるいは燻製ニシン

「ここに実弾が装填された銃がある」

 僕が銃を指さして言うと、彼女は「チェーホフの銃ね」と顎に手を当てて答えた。彼女は聡明で、なんでも知っている。

「撃たれるのはわたしかしら、それともあなた?」

「ふたりともって可能性もある」

「弾は何発入っているの?」

 僕は中折式の銃の弾倉を確認し、「ふたつ」と答える。水平二連式散弾銃だ。

 僕と彼女がたどり着いた小さな小屋は、山と湖に挟まるようにして建っている、猟師とかマタギとか言われる人が使っていたようなところだった。銃、ロープ、粗末なベッド、薪で沸かすレトロなお風呂。温度調整の難しさも含めて、とてもノスタルジックだった。

「じゃあひとつ取り除いておきましょうか。そうしたらどちらかは生き残れるわ」

「物騒だな」彼女の提案に、僕は顔をしかめる。「僕らが二人の闖入者を殺して二人とも生き延びる話だったらどうするんだ」

「じゃあこうしましょう。弾を二つとも抜いて、一人ひとつずつ持っておく」

「おや、舞台から『実弾が装填された銃』が消えた」

「あら。じゃあ二人とも生き延びられるわ」

 彼女はそう言って微笑んだ。僕も微笑み返した。

 まあ実際、そんなことはない。現実は物語ではないので、ヒントが先に出されることはないし、伏線に見えるものもわざわざ回収されるわけではない。車の故障、山奥の小さな小屋、猟銃、そのあたりまでロケーションとしてはばっちりだったんだけど、猟銃は結果として何の役にも立たなかったし、彼女が死んだのは銃ではなく斧で頭をかち割られたからだし、つまるところ、この会話に何ら意味はなかった。


 彼女が斧で頭をかち割られる、そのほんの少しから物語を始めよう。


 僕と彼女は逃げていた。何から? 闖入者から。

 闖入というか、まあ、僕らは外に逃げ延びたのでもはや全然「入」ではないのだけど、まあそういうのだ。彼らの存在に先に気がついたのは僕で、だから僕は彼女にそれを知らせて小屋の外へと逃げた。彼らはすぐに気がついて、後ろを追いかけてくる。ガサガサと荒っぽい足音が近づいたり遠ざかったりして、僕らはそれを振り返ったり振り返らなかったりしながら逃げた。

 某有名なアクションホラーてきロケーションは早々に失われ、僕らは手に手を取って雑木林の中を駆ける。「銃を持ってくればよかった」と彼女が言い、「どうせ使い方も知らないし当たるとも思えない」と僕が答える。実際のところ、素人が使える武器なんて鈍器がせいぜいだ。

「何のために追ってくるのかしら」彼女が言う。

「心当たりは無いの?」僕が訊く。彼女は頭を振って「わからない」と答える。

「彼らに見覚えは?」僕が訊く。

「暗くて顔もよく見えなかったし、わからない」彼女が答える。それは残念。まあ、正体がわかったらどうにかなったかっていうと別にそんなこともないけど。

 実のところ、彼らの目的は彼女のーーその段階ではまだ彼女の父親のーー財産だった。彼女に母親はいなかった。兄弟もいなかった。父親の兄弟やその子どもたちの中には、父親の膨大な財産の大部分を受け取るはずの彼女を憎むものたちがいた。そういうのの更に一部が、実際に彼女を殺してしまおうと思い立ったわけだ。実に短絡だ。斧のリーチも大概だけど、彼らはあんなちゃちなナイフでどうするつもりだったんだろうか。お金のために人を殺すという判断もまあまあひどいものだけど、せめて計画くらいはもうちょっと練るべきだったんじゃないだろうか。現場の下見とか、武器を用意しておくとか、死体を処理する場所を考えておくとか、そういうのだ。

 彼女の背後からぱっと光が差した。やつらの懐中電灯の光だ。彼女が反射的に光の方を振り返る。


 あとはまあ、簡単だった。彼女の頭はトマトみたいに潰れて、彼らはそれを確認したら帰っていった。

 僕の目的はつつがなく達成されたし、まあちょっと予定は狂ったけど首から上にはあんまり興味もなかったし、しばらくは温かかったし、総合すれば全然オッケーの範疇で、ついでにお金までちょっともらえた。予定外はお互い様だけれど、彼らも僕も、実に、ラッキィだった。

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