勾当台公園で公開処刑が行われる話(※流血表現あり)

 五月。梅雨もまだ訪れない仙台の空は青く晴れ渡って、瑞々しい緑を湛えた木々が爽やかな風に吹かれて揺れている。ケヤキの葉擦れが波のように打ち寄せる定禅寺通りはいつも以上の人出でごった返していた。一度流されてしまえば引き返すこともかなわないような人通りの多さ。市内で比べてもそこそこ広いはずの歩道は満員電車のごとく人々がすし詰めになり、押し合いへし合い流れている。この流れの中にあって人との衝突を避けようというのは愚行だ。正面から来る一人を避ければ他方三人にぶつかる。私はもともと大きくもない荷物を腹に抱え、せめて自分の体積を最小限に抑えようと試みる。確かジャズフェスティバルのときも似たような混雑具合だった。あのときはたまたま仕事で呼び出されて非道い目に遭ったのだ。私は素人の自己満足が透ける演奏になんて一切興味がないので、ジャズフェスティバル町を上げてのお遊戯会の時期は駅前にすら出ないことにしている。しかし今日は別だ。作家の端くれとして、生で見ないわけにはいかない。


 今日は勾当台公園で公開処刑がある。


 仙台にある裁判所は四つ。簡易裁判所、家庭裁判所、地方裁判所、高等裁判所。最高裁判所は首都東京にしか無いので、仙台市内で処刑が行われることは珍しい。処刑を宣告された男は先ごろアーケードで包丁を振り回して三人を殺害、八人に重軽傷を負わせた。包丁一本身一つでよくそこまで被害を広げたものだ。現行犯で逮捕されたため当人の犯行に疑いの余地はなく、だから高裁へも行けず地裁で処刑が決まった。

 仙台市内で処刑が行われるのは二十五年ぶりだそうだが、それでよくこうなったものだと辺りを見て思う。立ち並ぶ屋台は公園を出て定禅寺通りをもはみ出し、一番町の商店街まで伸びている。混雑が商機を呼び、商売がまた混雑を呼ぶお祭り騒ぎ。人が集まるとなれば明かりに寄ってくる蛾のごとく街宣車が集まるのも道理で、あっちで宗教がこっちで死刑廃止論者がそっちでヘイトスピーチが喚くというひどい有様だ。おかげで近隣の車道までほとんど機能していない。

 流されるだけ流されてどうにか公園前までたどり着いたが、混雑からは開放されそうになかった。公園内は人で溢れかえり、近くのビル、マンションやら雑居ビルやらの窓という窓には人が鈴なりにひしめいている。公園内といえば傾斜があるわけでもなく、大量の人間が地面にひしめき合っているのだからどうにも視界が悪い。広場の一番奥、ジャズフェスティバルの際にはメインステージとして使われる場所が今日の処刑台だ。既に堅牢な柵が立てられ、その内側にもうひとつ即席の台が作られている。ステージを取り囲む警備員の背後にはパイロンが並び、さながらコンサート会場だ。おそらくあの上で処刑が行われるのだろう。処刑台自体に高さがあるから見えなくはないだろうが、果たして通り一本向こうのビルで双眼鏡を覗いている彼らとどちらがマシなのか。

 処刑は午後五時。昼前に出れば十分だろうと思っていたのが甘かった。たいしていい場所も取れなかったくせにここで五時間も待つのかと思うと目眩がする。幸いにして暇つぶしには事欠かない時代だが、こうまで混雑してたんじゃ読書だってままならない。処刑台だなんだと観察して回りたい気分はおおいにあるが、下手に動き回って肝心の処刑を見逃すのもバカバカしい。動くも八卦、動かぬも八卦と少し考えたが、どうせそんなにいい場所でもないのだからと割り切って動いてみることにした。

 公園中心部はもちろん混雑しているが、処刑まで五時間ある現在、もっとも混んでいるのは公園端から道路にまで広がり立ち並んでいる屋台だ。祭に定番の焼きそばにたこ焼き、一本漬けとかいう要は切ってもいない胡瓜の漬物、チョコバナナにわたあめ、それからこのへんでは季節無関係にしょっちゅう見かける牛タン串と芋煮、ひょうたん揚げに玉こんにゃく。こんな混雑の中で酔っ払いが暴れたら目も当てられないからかアルコール類は許可が降りなかったと見えるが、どうせ近所のコンビニに行けば大抵は揃ってしまうもので、屋台裏の縁石に座り込んでビールを飲んでいる人間もちらほらいる。天気のいい五月の日曜の真っ昼間にビールはそりゃあ美味いだろうが、場合によっては強制退去させられかねないので真似はできない。

 号外ともチラシともわからないものを配り歩いている男がおり、男は人波をうまいこと縫って人の手に紙切れを渡していく。どうやら今日処刑される男の新聞記事だ。事件の詳細、捜査のあらまし、判決の様子などが事細かに記されている。見た目は号外に近いが、役割としてはフライヤーだろう。つまり、今日の処刑を盛り上げるための。

 死刑囚は処刑される前、教会で懺悔をさせられるのが通例だった。裁判所には教会――教会と呼ぶにはあまりに粗末な形だけのものだが――が併設されており、そこで額づいて自らの罪を読み上げるのだそうだ。国民の大半が自認的には無宗教で、それを除いても明らかに仏教徒が多いであろうこの地でなぜそのようなことが行われるかと言えば、それはたぶん仏教に懺悔という概念がないという、それだけのことだろう。人権意識も輸入品とはいえ、何もかもお粗末だ。

 第二次世界大戦敗戦後、連合国軍の助けもあり、かねてより導入が検討されていたギロチンが日本にも導入された。当時の世界の最先端を行く人道的機構だ。とはいえそれは七十年前の話で、世界的には薬殺だの電気椅子だのもっと先進的な死刑も導入されている。欧州では死刑廃止の風潮もあり、憲法に手を入れるのがどれだけ困難なのかは知らないが、平たく言って時代遅れの処刑方法だろう。

 リベラルの連中は口を揃えてグローバルグローバルと言っては死刑廃止を主張し、対する保守派の連中は「見せしめを無くしたら犯罪に走る人間が増える」と主張している。言っていることは理解しないでもないが、実際に処刑が行われるとあってこの有様では右も左も説得力に欠ける。処刑は所詮エンターテイメントだ。もちろん、だからこそ廃止すれば軋轢が大きいだろうことも想像に易い。中央値と言えそうな意見は「被害者の感情と刑務所費用のことを考えれば死刑廃止は不当」「どうせ殺すなら見せろ」くらいのところだろう。

 処刑に用いられるギロチンは札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、高松、広島、福岡の全国八箇所に存在している。要するに全国の高等裁判所で保管されており、ギロチンのない地域での処刑が決まった場合は最寄りの高等裁判所から借り受ける形になる。なんにせよ滅多に無いことだ。時折ギロチンのメンテナンス役が求人に出ており、だいたいはその賃金の安さからSNSで話題になっている。とはいえ賃金を上げたら上げたで「死刑に金を使うなんて」「そんなに仕事が多いわけでもないのに」みたいな連中がいるんだろうから難儀だ。

 ちなみに確かギロチンの刃はその都度、岐阜県のなんとかという町に発注していると聞いた。刃物で有名な町があり、必要になったら発注し一度使ってはそこに送り返して研ぎ直すのだそうだ。万が一にでも即死させられなくては人道に悖るというのが理由らしいが、刃のメンテナンスをできる人材が各地にいないというのが実情だろう。


 十六時半を回った頃、本日の主役に先駆けて死刑執行人が現れた。広場が歓声にどよめく。私は先程よりもいくらかいい位置に陣取ることができた。死刑執行人の表情すらよく見える。動き回って吉だ。

 死刑執行人というのは国内の侮蔑という侮蔑を恣に浴びる職業ではあるが、あれでどうして志願者が多いのだと聞く。職業の自由化がなされる前はさぞ苦悶にまみれたことだろうと思うが、今となってはただ呆れるばかりで同情もわかない。何しろ一張羅を着て死刑台に立った男はこの上もなく楽しげに浮足立っているからだ。これから人を殺すというのに。もちろん、それを見物に来ている私だって何か言えた質ではない。

 それから少しして、広場がまた一段と騒がしくなった。周囲の視線が一箇所に集まったのでおそらく死刑囚が来たのだろうとわかる。死刑台に対しての見通しが良くなった分、公園の入口は見えにくい。

 警察官に引き立てられて広場へ入ってきた男は、狼狽するでも暴れるでもなくただ項垂れていた。男は足を引きずっている。というよりも、両脇から抱えられて歩いているふりをさせられていると言った方が近い。おそらく両足が使い物にならなくなっているのだろう。処刑前の拷問で既に半死半生などというのはよくあることだ。

 三人殺せば拷問で三度死ぬほどの苦痛を与えられる。死というのがどれくらいの苦痛なのか、その定義は誰が作ったのか、果たして妥当なのかという疑問がないわけではないが、遺族の心情を鑑みれば仕方ないことだろうとも思う。処刑の目的は主に三つ。断罪、見せしめ、復讐。処刑が行われる前の拷問は、実際には断罪よりも復讐の側面が強い。エンターテイメントの側面はあくまで市民側が勝手に享受しているもので、政府としての目的ではない。

 広場に入ってきた男に対し、観衆から罵詈雑言が飛んだ。とはいえそれらに悲嘆や怒りの色はない。喜色と好奇、抑えきれぬ興奮から出た風情の、いわば大向うとでも言うべきものだった。下品だ。

 死刑囚が処刑台へ上る。両脇から抱えあげられる形でそこに立った男は後ろ手に縛られ、どうやら猿轡を噛まされているようだった。自害の防止か不要な発言の禁止か、おそらくはその両方だろう。

 死刑囚の後ろを歩いてきた裁判官が死刑台の前に立ち、判決を読み上げる。処刑前には通例の儀式だが、実際には聞くまでもない。裁判所で判決が降りた時点で新聞やらネットニュースやらでさんざん聞いた。第一、現代日本において斬首以外の処刑方法は存在しない。


 被告人██████。判決、上記の者に対する殺人、殺人未遂、傷害事件について、仙台地方裁判所は検察官甲および同乙並びに国選弁護人丙および丁各出席の上審理し、次の通り判決する。被告人を斬首刑とする。

 裁判官は続きを読み上げていたようだが、その声は広場の歓声に掻き消されて聞こえなかった。あとでデータベースを漁るしか無いだろう。

 死刑囚がギロチンの後ろに隠れ、少しして刃の下に顔を出した。頭にはおそらく麻であろう袋が被せられていて、私は臍を噛む。これでは末期の表情が見えない。

 死刑執行人がカウントダウンを始め、観衆がそれに合わせてはしゃぐ。警察官や警備員が色めき立っているところを見ると、おそらくあの男が勝手にやっていることなのだろう。バイトだか派遣だか知らないが、人選に大きな問題があったらしい。ぐったり項垂れていた死刑囚もカウントダウンを聞いて改めて恐ろしくなったのか、身を捩って何かを叫ぶ。何も聞こえない。舌を噛まないように猿轡を噛まされ、そのうえ頭に袋を被せられているのだから何も聞こえようはずがない。男の悪足掻きは観衆のテンションを上げることだけには寄与し、広場はますます熱気に包まれる。

 ゼロ。

 観客が叫ぶのと同時に刃が落ちる。木のフレームを刃が滑るさりさりという音、人の首が断ち切られる音。存外小さい。刃はフレームにつながる縄と男の首の下にあった板によって動きを止めた。頸動脈を斬ると血が吹き出ると聞くからその音もできれば聞きたかったのだが、それはかなわなかった。直後に破裂音がし、歓声がわいたからだ。破裂音の正体はどうやらクラッカーで、このためにそんなものまで用意したのかと思うと感心すべきか呆れるべきかわからない。

 ともあれこの瞬間、悪は打倒され正義が勝利した。歓声を上げたくなる気持ちはわからないでもない。どこからともなく拍手が上がり、執行人の男が四方八方に手を振る。まるでヒーローかアイドルだ。


 処刑が終わると人々は帰途につく。帰りにまであの混雑に巻き込まれたくはないので、私はその場に残った。まず死体が片付けられる。胴体は二人がかりで担ぎ出され、頭部は被せられていた袋ごと持ち出された。なるほど袋は口の側に紐が通してあり、巾着よろしく閉じて持ち運べるようだ。合理的というかしみったれている。

 やがて外に止まっていたらしい消防車が放水し、台やステージに残った血を洗い流した。赤黒い水は側溝に流れ、すぐに見えなくなる。一通り洗い終わると、専用の作業者なのだろう作業着の男が数人出てきてギロチンを解体していく。刃を取り外し、フレームをばらして二トントラックに積み込む。同じように処刑台も解体される。彼らの手際は極めて良く、一時間もかからずに作業は終わった。

 人気は概ね絶え、あとは屋台で飲み食いしている連中だけになった。これくらいになれば電車ですし詰めにも合わずに済むだろうと思い、私も帰途につく。


 ジャズフェスティバルは嫌いだが、今年はメインステージくらい見に来てもいい。あの血にまみれたステージで誰が何を歌うのか、少し興味が湧いた。

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