9-2
「ユーリアン、ご苦労であった。『野犬退治』は終わったのか?」
笑いを含んだ表情で、ソロフが眉を上げた。この部屋から一歩も出ていないと言いながら、カニスの件を知っているような口ぶりだ。
「ええ、大人しいもんですよ。『吠えつく犬は噛みつかぬ』ってね」
ユーリアンはトーニャと目配せし合った。
「奴と知事の奥方はパーティーの直前に
「ついでにソースも添えてやりゃ良かったんだ」
苦々しい顔で呟くオーリに顔を近づけて、ユーリアンが小声で言った。
「馬鹿やろ、証拠を残さないように鼻の骨を修復するのが大変だったんだぞ。だいたい顔の真ん中を殴る奴があるか、アゴいけアゴ。
「どちらも変わらん。暴言に対して拳で返すとは、弟子を指導する立場の者として軽率だと思わんか!」
ソロフの厳しい言葉に、オーリもユーリアンも反射的に『気をつけ』の姿勢をとった。叱られた小僧っ子のような2人を見て、トーニャが肩を揺らし、必死に笑いをこらえている。ステファンひとりだけが、何のことだかわからず目を見開いて大人達の顔を見比べた。
「お前は何のために絵の道を選んだ、オーレグ。いや、オーリローリ・ガルバイヤン」
大きな皺だらけの手が、オーリの肩を捉えた。
「画家ならば画家らしい勝負の仕方があろう。それにお前はまだ若い。一時の感情に負けて、みすみす将来に傷を残すな。前にも言ったはずだ」
ハッと顔を上げて、オーリはソロフの目を見た。
ほんの1、2秒。そして老師匠が微笑むのを見ると、再び銀髪を垂れた。
「先生、申し訳ありません。深く心に留めます」
「まあ説教はそのくらいにしておけ、ソロフ。わしも長くは起きておられんでの、まずは小さい坊主の話を聞いてやろうぞ」
ステファンは慌てて辞書の紐を解き、内ポケットに大事にしまっておいたオスカーの手紙を取り出した。
「この手紙のこと聞きたいんです。えっと、ぼくのお父さんは2年前から行方がわからなくて。あ、そうだ。大叔父様はぼくのお父さんのことを知ってるんですか? なぜ? それからあの」
「少し落ち着かねばの、オスカーの息子よ。言葉は整理してから言うものだ。その水晶は?」
テーブルの上で水晶のペンダントが光っている。オスカーを探すために集めた全ての情報を、トーニャがこの中に込めてくれたはずだ。オーリが手を伸ばし、水晶から鎖を外してイーゴリの顔に近づけた。
「ふむ、記録の石か。悪いがオスカーのことは、この石から直接聞くことにするぞ。そのほうが坊主も話しやすかろうて。オーレグ、額に乗せよ」
茶色いイーゴリの額とおぼしき場所に水晶が置かれた。ほどなく石は青白く光り始め、イーゴリは半眼になった。ソロフも石の上に手を置く。おそらく、一緒に水晶の記録を読んでいるのだろう。以前ステファンが眠っている間にオーリが額に手を触れていた時も、こんな風だったのだろうか。
「ふむ……ふむ。なるほどのう、よく調べたものよ……ふむ」
モゴモゴと言っていた茶色い口は、やがて水晶の光が消えると同時にふーっと息をついた。
「ときに、この辞書を分解したのは誰かの?」
「ユーリアンですわ、大叔父様」
トーニャが誇らしげに答えた。
「すみません、貴重な本だとはわかっているのですが。もう魔法は消えていますし、どうしても裏側を調べる必要がありましたので……」
すまなさそうに言うユーリアンを制するようにイーゴリは声をあげた。
「見事だ! 炎使いのユーリアン、ようやった。わしは以前分解を試みて、あまりの難しさに断念したことがある。お前はこういった方面に詳しいのか?」
「いえ、詳しいというわけでは……ただ、魔法書の装丁は特殊ですから、修行時代から興味がありまして。僕の専門は建築ですが、古い屋敷の設計図を調べていると、資料に紛れて時々呪わしい力を持った本に出会うことがあります。その場合一般の目に触れないうちに魔力を封じておく必要がありますので、作業をするうちに分解術も自然と身に付いたようです」
「ますます気に入った。これでオスカーの帰る道も開かれるやも知れんぞ」
「帰る道、って。大叔父様! お父さんがどこに居るか、知ってるんですか?」
ステファンの心臓がドキンと鳴った。初めて、オスカーの居場所に関する言葉を聞けるかも知れないのだ。
「知っているとも言えるがの。全く知らぬとも……」
「はっきり言ってください!」
苛立たしげに詰め寄ったのは、ステファンではなくオーリだった。
「大叔父様、あなたはいつもそうだ。謎かけのような言葉に逃げて断言することをしない。
「オーリ、言いすぎ。失礼よ」
トーニャにたしなめられてオーリは一度言葉を切ったが、ステファンの顔を見て再び口を開いた。
「ある日突然父親の存在が消える、それが子供にとってどんなにショックな事か、わかりますか? 死別ならまだ諦めもつく。だが生死も分からない、行方も分からない、そもそもなぜ居なくなったのかという疑問にすら、誰も答えてくれない。毎日どれだけ不安な状態と戦わねばならないか、わかりますか? それでもほんの少しでも手掛かりが見つかるならと、この子は懸命に大叔父様を頼って来たんです。それを――」
「ふむ、オスカーの話をしておるのか、それともオーレグよ、お前の父親の話かの?」
ピシ、と音を立ててオーリの青い火花が散ったように見えた。だがそれはステファンの錯覚に過ぎず、実際は刺すような眼差しがイーゴリ大叔父に向けられただけだった。ソロフが両手を肩の位置で開いておどけるように言う。
「そう苛めるな、イーゴリ。わが弟子は忠告を早速聞き入れて大人しくしている。素直なもんじゃないか」
「ではその素直さに免じて先程の非礼は許そうぞ。ソロフ、手短に説明してやってくれぬか」
まだ鋭い目を向けたままのオーリには構わず、イーゴリは目も口も閉じてだんまりを決め込んでしまった。
「よろしい、では久々の講義といくか」
ソロフ師匠は銀色の目で一同をぐるりと見渡した。手にはいつの間にか古い黒檀の杖が握られている。
「さて、弟子たちよ。事を成すには時の試練というものが必要な場合がある。オスカーの手紙を見るがいい、文字の外に何が見える?」
皆の視線が一斉にテーブルの上に注がれた。もう何度読み返したかしれない、薄黄色の紙片をじっと見つめながらステファンが答えた。
「焦げ跡、です。メルセイの熱針で焼き切ったところ」
「それもあるな。ではその熱針の材料となるものは?」
「電気石の一種です。普通は圧力や熱を加えることによって電気を発生しますが、ごく稀に落雷を受けさせることによって高熱を発する結晶があり、この性質を利用して鉱物針を研ぎだすことができます」
よどみ無く答えたのはユーリアンだった。
「その通り。では訊く、その電気石を抱く鉱物とは?」
「花崗岩……あ!」
言いかけたオーリが目を見開いた。
「そうだオーレグ、お前の住むリル・アレイでかつて切り出していた花崗岩から熱針の材料は採られた。あの村は強い磁場を持つ断層の上に有るゆえに、古くから魔法使いや魔女が好んで住み着いた場所であった。そして竜人たちには悲劇の場でもあったな」
ステファンの脳裏に、岩の中に封じられた竜人たちの顔がよぎる。
「オスカーは魔法道具の小さな針1本から材料の採石地を調べ出し、竜人たちの悲劇を知り、そして私やイーゴリの元へ辿り着いた。まるで絡まった糸を手繰るようにしてな。ふふふ、面白い奴だ。そしてもうひとつ、重要なことがある。わかる者?」
黒い杖が手紙を指し示す。
「待って……そう『罫線』よ。これには最初から違和感があったの。これってただの罫線じゃなくて、特別な意味が有るのではないかしら」
「よく気付いた、魔女アントニーナよ」
満足そうにうなずいて、ソロフは紙片を手に取った。
「この12本の罫線、これはおそらく『時』を象徴するものだ。オスカーが巡らねばならない時間の長さなのか、それとも――」
「時間の? じゃあ」
ステファンは懸命に考えを巡らせた。
「お父さんが居なくなってからもうすぐ2年だから、12時間でも、12ヶ月でもないよね……まさか、12年も帰って来られないって意味ですか?」
「そうとは言ってない。そんな絶望的な顔をするな」
ソロフが目を向けて微笑んだ。
「この紙を辞書の両端に使うことによって、辞書の本体に書かれた言葉は守られていた。だがその片方が切り取られ、守りが失われたとなると、辞書に書かれた言葉の魔力はバランスを失って暴走し、最悪の場合、術者を飲み込むことになろう。オスカーはそれを覚悟した上で、帰る道しるべとして12本の線を書き残したとも考えられる。その代わり、切り取られた紙片に書かれた言葉は強力な守りと拘束力を得たはずだ。そうだな、オーレグ」
「手紙に拘束力など無くても、わたしはオスカーの願いを叶えるつもりでした。現に、そこに書かれた2年という期限を待たずにステファンを迎えに行ったんだ。ではオスカーは、やはり辞書の中に?」
沈痛な表情のオーリの隣で、突然ステファンが悲鳴を上げた。
「どうしよう! ぼくとお母さん、魔法を解いて辞書の文字を消しちゃったんだ。お父さんも一緒に消えちゃったかも!」
「慌てるな、どうもお前さんは早とちりすぎるな」
苦笑いをしながら、ソロフは椅子の上のイーゴリに向き直った。
「どうだイーゴリ、まだ起きていられそうか?」
「むろん。お前の力を見届けねば、な」
大叔父イーゴリは、茶色い目らしき場所を片方だけ開いて、ニィと気味悪く笑った。
「さて、では」
ソロフは部屋の中央に立つと、足元に辞書と手紙を置き、杖でトン、と床を突いた。床に金色の紋様が浮かび上がる。一同はさっと飛びのいて、その様子を固唾を呑んで見守った。
「オスカーが今どこに居るかは判らぬ。罫線の12という数がどういう単位の時間を示すのか、または別の意図があるのかもな。だが辞書の守りが解かれた今なら、彼の意識にまで辿り着けるかも知れぬ。やってみよう」
足元の紋様は眩いほどに強い光を放ち、ソロフの髪が逆立つ。
「しっかり見ておくんだ、ステフ」
ステファンの両肩に手を置きながら、背後に立つオーリが緊張した声でつぶやいた。
「あれが、本物の同調魔法だ。ソロフ先生は今、わずかに残った手掛かりを手繰ってオスカーの意識に繋がろうとしているんだよ」
金色の光の中でソロフは目を閉じ、水に潜るように意識を集中している。
深く。深く。さらに深く。
やがて光の中に、人間の輪郭のようなものがおぼろげに現れ始めた。
「お……父さん!」
「オスカー!」
2人の叫ぶ声が、同時に部屋に響いた。
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