9 再会
9-1
オーリから託された辞書をしっかりと抱きかかえ、ステファンは庭伝いに4番目の窓に向かった。
磨きこまれたガラスの向こうは、賑やかな広間とは対象的な、しんとした吹き抜けの階段ホールだ。黒いアイアンレースの手すりも美しい螺旋階段が目に入る。上り口では乙女の姿をした彫刻が天を指差していた。
中に入ろうとしたステファンは、窓に鍵が掛かっていることに気付いた。
「うそ! こんなのないよ先生」
2、3度むなしく窓を揺すった後、ガラスに顔をくっつけて鍵の具合を見てみる。縦長い掃きだし窓は、中央に1つ、ステファンの背丈よりずっと高い場所に1つ、簡単な掛け金式の鍵が付いている。もっとも、上のほうは錆びて外れているようだが。
「どうしよう。先生なら、こんなの簡単に開けちゃうんだろうけど……」
解錠なんて初歩の魔法、以前にオーリはそう言っていた。けれど、ステファンはその『初歩』すら知らないのだ。もう1度広間に帰って別の入り口を探してみようか、とも思ったが、広間はあの髭男のことでもめているに違いない。恐ろしい3人の魔女につかまるのも面倒だ。
――ひょっとして、ぼくにもできたりしないかな。
ステファンは窓を見つめて唾を飲み込んだ。鍵は簡単な作りだ。掛け金を持ち上げさえすれば……
「やってみれば?」
突然後ろから声を掛けられて、ステファンは飛び上がった。誰も居ないと思っていたのに、いつの間にか少年がひとり、芝生の上からこちらを見ていた。年の頃はステファンと同じくらいだろうが、襟の高い黒い服に身を包み、長い金髪をきっちり分けた姿はちょっと大人びて見える。
「あ、ええと、ぼく……」
ステファンはわけもなく焦った。別に悪い事をしていたわけではないが、なんだかいたずらを見咎められたような気分だ。
「でも普通の解錠くらいじゃ入れないけど。その鍵、トラップなんだ」
少年はステファンになどお構いなしに窓を指差した。カチリと音がして、掛け金が外れるのが見える。少年が少し窓を押すと、途端にカーテンのドレープが崩れ、重そうな分厚い布がガラスの向こう側に垂れ下がった。
「ほらね。知らずに入ろうとすると、あのカーテンにつかまるよ。別にケガはしないけど、きっとパーティが終わるまで離してもらえない。あいつ退屈してるんだよ、ずっとここで番をしてるだけから」
「え、そ、そうなんだ。ありがとう……って君、もしかして魔法使い?」
「そうだよ。君もだろ?」
「すごいな。ぼくなんかまだ、見習いっていうか……7月から始めたばっかりで、杖も持ってないし」
簡単に魔法を使って見せた相手を前にして、ステファンは気後れを感じた。
「ふーん、見習いか。でも杖なんて本当は必要ないかもしれないよ。要は、自分が何をしたいかってことさ。君は、ここで何をしようとしてたの?」
少年の言葉に、ステファンは自分のするべき事を思い出した。
「ぼく、大叔父様に会わなきゃ。ね、あの階段のところまで行けないかな」
「階段に用があるの?」
「そうじゃなくて、大叔父様に会うにはあの彫刻に道を教えてもらわなくちゃいけないんだ」
「ああ、大叔父様ってイーゴリのことか。君、彼の何?」
ぼくは、と言い掛けてステファンは不審な目で少年を見返した。大叔父様の名がイーゴリなのは初めて知ったが、えらく気安い物の言い方をするこの少年こそ、何者だ。
「ぼくはステファン。オーリ、じゃなかった、オーレグ・ガルバイヤン先生の弟子だよ。君こそ、誰?」
「ああ、オーレグ、なるほどね。この窓のトラップのこと、知らなかったはずだ。イーゴリの部屋に行きたいなら、直接行く方法を教えてやればいいのに」
少年に可笑しそうに言われて、ステファンはむっとした。
「だから君、誰? 直接行く方法って、わ、わわっ」
突然身体がふわりと浮き始めた。同じく少年も宙に浮きながら、ステファンの腕をつかむ。
「フローティング・ポルカだよ。広間から聞こえるだろ? 教えてもらってないの?」
「だからぼくはまだ見習いで、ひぁああ!」
浮遊どころか急に高く舞い上がりながら、ステファンは目を回した。腕の中の辞書だけは必死に落とすまいとしたが靴が片方脱げて落ちてしまった。
「ドジだな。そら、ガーゴイルに掴まって!」
夢中で左手を伸ばし、軒下から突き出した冷たい石像にしがみつく。
「イーゴリの部屋はこの真上、3番目のガーゴイルの下にある窓から入るんだよ。じゃ、あとは自力で頑張るんだね」
「自力でって……ちょっとーっ!」
石像にぶら下がって慌てふためくステファンをよそに、少年の姿は消えていた。
なんでこんなことになってしまったのだろう。
醜悪なガーゴイル像にしがみつきながら、ステファンは必死に足をばたつかせた。利き腕とはいえ、左腕だけでぶら下がるのにも限界がある。さいわい、靴の脱げたほうの足が壁の凹凸に引っかかった。なんとかそれを足掛かりにして体勢を立て直す。が、さっきの少年が示した窓を見上げてまた愕然とした。
ここは1階の窓の上だ。大叔父様の部屋は3階。暗い石造りの壁面には、各階の窓の上にそれぞれ1体ずつガーゴイル像が突き出している。2階のやつは顔が欠けた鳥、3階のは翼を持つ獅子鳥の姿だ。けれどそこまで辿り着くのだってもう足掛かりになりそうな場所は無いし、どうやって上れというのだろう。
1度降りようかと下を見たが、足が震えた。1階部分が天井の高い造りになっているためか、今居る場所は結構な高さがある。あまり運動神経が良いとはいえないステファンが硬い石のテラスに飛び降りたりしたら、足を折るかもしれない。
どくどくという自分の鼓動と呼吸音ばかりが妙に大きく聞こえる。それをあざ笑うかのように、広間からは軽快な音楽と楽しげなさざめきが流れてくる。
こんなところで独り、暗い壁に取り付いたまま降りることもよじ登ることもできずに震えている自分がひどく間抜けに思えた。
どうしよう……どうしよう……どうすればいい?
ステファンは泣きそうになりながら目の前のガーゴイルを見つめた。
オーリの庭に居た奴は豚っ鼻のコウモリみたいな愛嬌のある姿だったが、こいつは悪魔のような恐ろしげな顔をした怪鳥だ。大体ガーゴイルなんて屋根から水を吐き出すための雨どいに付いているのが普通なのに、なんだって窓に付いているのだろう、こんな恐い姿をして。
まてよ。
ステファンの脳裏に、オーリの言葉が浮かんだ。
――オスカーが内緒で飼っていたガーゴイル――
『飼っていた』つまりただの石像などではなく、生きて動いていた、ということだ。実際そいつはオスカーの手紙を運んで、『事切れた』。
死んだり幽霊になったりできるのは、命を持つものだけだ。
今、宵闇の中に白々と浮かび上がる醜悪な顔は、どこから見てもただの石像だが、ここは魔法使いの屋敷だ。食べ残しを飲み込む天使像や侵入者をつかまえてしまうカーテンがあるくらいだ、ひょっとしたら……
「あのさ、君、もしかして動いたりできる?」
遠慮がちに訊いたステファンに、ガーゴイルはギロリと目を向けた。
「―― 命令セヨ」
「しゃ、しゃべった!」
口も動かさずしゃべる石像に度肝を抜かれて、危うく手を離しそうになった。
「命令セヨ。ワレニ使命ヲ与エヨ」
ガーゴイルは繰り返した。
ステファンは夢中で体勢を直し、ガーゴイルの背にしっかりとつかまった。
「ぼくを、大叔父様……ええと、イーゴリの部屋まで連れてってくれる?」
何も反応がない。ステファンは息を吸い込み、大きな声で言い直した。
「あの3番目のガーゴイルの下まで、飛べ!」
ぶるぶるっと振動が起きた。硬い石で出来たはずの翼が広がる。それは羽ばたきもせず、いきなり垂直に舞い上がった。2番目の顔の欠けたガーゴイルを追い越し、3番目へ。一呼吸のうちに、ステファンは3階の窓に到着した。
「来たか、オスカーの息子よ」
開いた窓の内側から大きな人影が迎えた。室内の明かりに目が眩んでいるうちに、その人はガーゴイルの背中からステファンを抱き取った。
「あ、あのう……?」
面食らっているステファンを高く抱き上げたままで、その人は豪快に笑った。
「見たか、イーゴリ。こいつはオーレグより優秀だぞ!」
天井の照明に頭をぶつけそうになりながら、ステファンは訊いた。
「ぼくのこと知ってるの? それにお父さんのことも」
「おお知っているとも。ははは、ここで会えるとは!」
低く響く弦楽器のような声だ。高々と差し上げる腕の力強さに圧倒される。
オーリや父のイメージが青空なら、この人物はさらにもっと高みにある、星々の界にまで続く空だ。艶を無くした白髪は幾分薄いけれど、老人という感じではない。アゴ鬚と髪がひと続きになって顔を縁取る様はライオンを思わせるし、深く皺の刻まれた額の下、銀色の炎のような目は若々しくさえ見える。
けれどステファンはすぐに我に帰った。いくら痩せっぽちでも、もうじき11歳になろうとしている身でこんな風に“高い高い”をされたまま話をするのはカッコ悪すぎる。
「降ろしてください!」
じたばたと足をもがいて、絨毯の上に飛び降りた。
「窓から入ったりしてごめんなさい。ぼく、ステファン・ペリエリです。大叔父様にどうしても聞かなくちゃならないことがあって来ました」
早口で言いながら水晶を首から外し、オーリから託された辞書の紐を解こうとしたステファンは、ふと多くの視線に気付いて手を止めた。広間で見た美女たちはいなかったが、壁の一面が大きな水槽になっており、群青色の水妖が何体か、漂いながらこちらを見ている。さらに天井の隅には、翼を折りたたんだハーピーがくつくつと喉を鳴らして様子を伺っている。その不気味な視線に、ぞわぁと全身が総毛立つのを覚えた。
「控えよ」
さっと右手を挙げて白髪の男が命ずると、水妖もハーピーもどこかへ姿を消した。
この人物はきっと強い力を持つ魔法使いなのだろう、とステファンは思った。
オスカーのことを知っているようだし大叔父イーゴリとも親しいようだが、何者だろう。ここで手紙のことなど訊いて良いものだろうか。
大きな暖炉の前でゆったりと揺れる革張りの椅子、その上で絹に包まれた茶色い塊がモゴモゴと口を開けた。
「訊くがよい、全て答えよう。この男も力を貸してくれようぞ。ただ待て、もうじき客人が揃うはずじゃ」
客人とは、オーリたちのことだろうか。白髪の魔法使いはイーゴリにうなずいてみせると、自分は肘掛け椅子に深く座り、ステファンにも椅子を勧めた。
ステファンは居心地悪い思いで腰を下ろし、目の前の人物を改めて見て、不思議な思いに囚われた。
――誰かに似ている。
襟の高い黒い服……そういえば、さっきの少年も同じような服を着ていた。
あの時は庭が暗くて少年の目の色までは判らなかったが、この人物と似通った雰囲気があった。
もしかしてあの子のおじいさんだろうか。
「なるほど、お前の目には子供の姿が見えたか」
ステファンの心を読んだように呟いて、銀色の目がいたずらっぽく光った。
『杖なんて本当は必要ないかもしれないよ。要は、自分が何をしたいかってことさ』
あ、とステファンは息を呑んだ。さっき聞いた少年の声だ。けれど発声したのは、確かに目の前にいる白髪の人物だ。わははは、と大きな声が響く。
「お前と庭で話したのは、私の『童心』だ。いや、なかなか面白かったぞ」
「童心? あなたが子供に変身してたってことですか?」
「いいや違う。私はここから一歩も動いてはいない。心の一部だけを飛ばしてみせたのだ。お前は見事にそれを受け止めて姿を見、会話さえした。たいしたものだ」
「心の一部だけを飛ばす? そんなこと……」
ステファンはさっきの少年とのやりとりを思い出した。
「嘘だ。だってあの子、ぼくの腕をつかんだんです。確かに人間の手の感覚だった。それにガーゴイルのところまで飛ばした時だって、すごい力だったし」
「なるほど、触感までイメージできたとは、鋭いな。なのにお前は、自分の力で飛んだ自覚が無いのか?」
「自分の力って……ええっ?」
そんな自覚は、もちろん無い。目まいがしそうだ。
「ふむ、2ヶ月にもなるのに初歩の魔法も教えていないのか。銀髪のヒヨッコめ、相変わらずのんきな奴だ」
ヒヨッコ、というのはオーリを指すのか。ステファンはむっとして言い返した。
「ぼくがまだ魔法を教わってないのは、その、いろいろあったからです。オーリ先生は立派な魔法使いです」
「ほう?」
銀色の目が面白そうに覗き込む。からかわれているような気がして、ステファンはむきになった。
「だいたいおじさん、誰? ぼくのことやお父さんのこと知ってるくせに、自分は名乗らないなんて、ずるいよ。それに先生のことヒヨッコなんて、失礼だ。オーリ先生は尊敬できる人だから、ぼくは弟子になったんです」
「ほほう」
「それにお父さんの、オスカー・ペリエリの親友だもの。それに、ええと……そう、ソロフっていう偉大な魔法使いの弟子でもあるし」
白髪の男は吹き出した。
「ソロフを偉大というか。お前は会った事があるのか?」
「いいえ。でも、ええと、ええと」
顔に血が上るのを感じながら、ステファンは懸命に言葉を継いだ。
「オーリ先生を見ていれば、わかります。落ち込んでる時だってソロフって師匠のことを話すと、すごく元気になるんだ。先生みたいな立派な人を育てたんだから、きっと偉大な魔法使いに決まってる!」
「カーッカカカカ」
今度は茶色い塊が妙な笑い声を立てた。
「よう言うた、オスカーの息子よ。さあ、時は来たり。客人を迎えようぞ」
言い終わらないうちに、ドアをせわしなく叩く音が聞こえた。
「遅いぞ、オーレグ」
肘掛け椅子で頬杖をついたまま、白髪の男が声を掛けた。
勢いよくドアが開き、挨拶もそこそこに飛び込んで来た者が居る。
「失礼、わたしの弟子が……ステファン! どうやって?」
慌てて立ち上がったステファンが事情を説明しようとする間もなく、オーリの手に思い切り引き寄せられてしまった。上着のボタンが鼻に当たって痛い。
「悪かった、窓のトラップのこと、わたしは知らなかったんだ。慌てて庭を探したら靴が落ちているし、ガーゴイルは居なくなっているし、何があったかと……」
階段を駆け上がってきたのか、心臓がおそろしく速く鳴っている。手にはステファンの落とした靴がしっかりと握られたままだ。
「トラップは去年のパーティに出ておれば判ったはずだ。ガーゴイルもしかり。つまり、事前に確認しておかないお前のミスだな。にも関わらず、このぼうずはちゃんと自力でここまで来た。お前のようなヒヨッコには勿体無い弟子だぞ、オーレグ」
白髪の男の言葉にオーリは居ずまいを正し、最敬礼した。
「ありがとうございます、ソロフ先生」
「ソロフって……ええ? じゃあ、この人が?」
慌てて振り向き、恐縮して頭を下げるステファンを見て、ソロフと大叔父イーゴリが再び大笑いする。
遅れて到着したユーリアン夫妻は、部屋の中でなぜ魔法使いたちが笑っているのかわからず、しばらく戸惑うことになった。
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