7-3

 鈍色にびいろの雲が低く垂れ込める下で、昼間とも思えないほど辺りは暗くなってきた。3人の立つ道には人通りもなく、道の脇には丈の長い草に覆われた岩が、あちこちで墓標のように白く顔を覗かせている。

 

 オーリはエレインと目を合わせず、苦い表情をしている。

「――先生、どういうこと?」

「ステフ、エレインを見るまで、君は『竜人』というと半人半獣のような姿を想像してはいなかったか?」

 ステファンは顔を伏せた。じつは、そうだ。だって本に出てくる竜人は、たいてい恐ろしい怪物として描かれているのだから。

「あれは、故意に作られたイメージだ」

 オーリは言葉を続けた。


「さきの大戦で多くを失ったこの国は、豊かな竜人の土地に目を付けていた。『竜人は人を喰らう』というデマを流せば、簡単に人の心は動かせた。伝説で刷り込まれてきた怪物のイメージを利用したんだろう。

 そして大勢の魔法使いが臆面もなく、竜人退治と称して近代兵器を持たない彼らを狩る先導役になったんだ。それまで異端視される側だったのが、まるでうっ憤を晴らす手立てを見つけて小躍りするようにね。

 誇りを守って抵抗した種族は滅ぼされ、生き残った竜人も管理区に押し込められるか――さっきの少年を見たろう、ああいう酷い扱いを受けている」


「でも先生は違う」

 言いかけて、ステファンは気付いた。

 エレインの待遇は、特別なのだ。魔法使いの守護者といいながら、家族のよう暮らし、対等に言い争いまでする竜人。そんな関係は、オーリの家に来るまで見たことも聞いたこともなかった。エレインが人間の社会に疎かったのは、平和な森の中でオーリが彼女を守っていたからだ。


「でも、でも、トーニャさんも、ユーリアンさんだって、エレインと友だちだよね。魔法使いがみんな酷いことをしたわけじゃないよね?」


「もちろんソロフ門下の魔法使いはこぞって竜人狩りに反対したし、かくまってもきたさ。でも、竜人から見れば魔法使いなんて皆同罪だろうな……」

 

 そこまで言ってオーリはハッと顔を上げた。

「エレイン……!」

 オーリの視線を追ったステファンは思わず後ずさった。

 

 赤い髪が逆立ち、生きもののように蠢いている。風が悲鳴のような音を立ててまとわり付き、しだいに小さな竜巻の形になってエレインと同化する。目に見えぬ何かの意思が集まり、撚り合わさっていく姿にも見えた。


『驕れる・者・たちよ……その・尖兵・たる・魔の使いよ』 

 

 口の端から出ているのは、聞きなれた彼女の声ではない。何人もが同時に発声しているかのように不気味な倍音を含んでいる。

「ばかな。契約の時にあの力は封印したはずだ」

 オーリは再び杖を取り出し、素早く地面に向けながら何事かを短く呟いた。銀色の杖の先から青白い光が走り、それはサークルの形となってオーリとエレインの間に広がっていく。

「先生、エレインは? どうしちゃったの?」

「今説明している時間はない。ステフ、離れてろ。ただしゆっくりとだ。彼女エレインを刺激しないように」

 低い小声でオーリに命じられ、ステファンは足音を立てないように環から離れた。


「守護者どの、契約はどうした。誰に感応している?」

 オーリの声は穏やかだが、張りつめている。

 ステファンは周囲を見た。自分たち以外、人っこひとり居やしないのだ。だがエレインは、確かに意志に反応している。

 緑色の目が異様に光りながら、左右別々の動きをし始めた。カタカタと機械仕掛けのように体が揺れている。


 光る環がエレインの足元まで届いた。すかさずオーリが杖を掲げて叫ぶ。

「離れよ! 其の者は虚空を逍遥さまように非ず、現世に生くる者なり!」

 銀色の杖からエレインの頭上に向けて閃光が走る。

 目に見えない撚り糸のようなものが一度霧散した。

 が、それらは再び這い寄り、撚り合わさってエレインの中で統合してしまう。

 何度か杖を向け何度も閃光を投げるうちに、足元の環は見えない霧に喰らわれるように消えてしまった。代わりに、長身のオーリが圧をくらったように後ろ様に撥ね跳ぶ。ステファンはオーリの体当たりを食らう形になり、そのまま地面に突き飛ばされる。


『愚かなり――愚かなり人間よ! 汝が罪を恥じよ!』 


 振り向いたステファンの目にしたものは、長く鋭く伸びる竜人の爪だった。

 オーリの身代わりのように、人の形を留めた上着が切り裂かれた。その間に身を翻し、オーリは相手エレインの後ろに回り込もうとしたものの、エレインからあり得ない角度に伸びた手によって一瞬早く喉を掴まれ、顔を歪めた。


「だめ! エレイン、だめ!」

 夢中で起き上がり、ステファンは青い紋様の手をオーリから引き剥がそうとした。が、竜人の力にかなうはずもない。

「先生は竜人の味方だよ! 目を覚まして、エレイン!」

 けれどそこに居るのは、ステファンの知っている天真爛漫な竜人の娘ではない。ただ目の前の魔法使いに憎しみの全てを向けた、見知らぬ生きものの姿だ。


『はらからを返せ! 我らが誇りをかえせええ!』 


 地の底から幾人もが這い出すような声だった。竜人の長い爪は、そのまま魔法使いの喉を引き裂くかに思えた。金色の光が舞っているのは、何らかの盾となる魔法をオーリが掛けているからに違いない。必死にしがみつくステファンの目の端に、杖を向けようとする手が見える。

「だめだ、こんなのって……こんなのって」

 

 ステファンは祈るように暗い空を仰いだ。雲と雲との間に稲妻が行き交っている。

 分厚い雲の向こうに何か大きな存在を感じる。何かとてつもなく大きなその存在は、下界の全てを冷ややかに見通しているようだ。ステファンは夢中で叫んだ。


「お願いだよ! これ以上争わせないで!」 

 

 突然、空が裂けた。

 強烈な閃光の中、ステファンの目に巨大な緋色の竜の姿が映った。

 翼を持つドラゴンではない。稲妻が化身して命を宿したかのようなそれは、雲の中で身を躍らせ、はるかな高みから地上に光のつぶてを投げつけた。

 

 地響きと轟音。と共に、道の脇に点在する岩が次々に発光して砕けていった。

 エレインは何かを叫び、赤い巻き毛を揺らして膝を折った。力を失った緑色の瞳が宙を見たまま、空っぽの表情になる。

 苦しげに咳き込みながらオーリもまた、エレインを抱えて力なく座り込んだ。 

「先生!」

 泣きそうなステファンに、大丈夫だ、というようにオーリは手を挙げた。

「エレインは? 感電したんじゃ?」

「違う。トランス状態から脱したんだ」

 オーリはエレインの顔を確かめるように上向けた。

 緑の瞳が焦点の定まらないまま、空を見ている。

 かあさま、とその口元が動いたように見えた。


「母さまって、さっきの竜のこと?」

「竜? 竜を見たのか?」

「だって! さっきカミナリを落としたじゃないか。翼が無くて、エレインの髪みたいに赤くて。あんなに大きな竜を見なかったの?」

 ステファンは驚いた。アガーシャの光がそうだったように、自分に見えてオーリに見えないものもあるのだろうか。

 

 オーリは重い雲の波打つ空を見上げた。

「雷を操る、翼の無い竜? まるでフィスス族が『始母』と呼んでいる竜のようだ。まさか本当に居たのか? 伝説に過ぎないと思っていたのに……」

「先生、あの岩」

 ステファンはさっきの落雷で砕けた岩に目を留めた。何かとても嫌なものを感じる。

「見るんじゃない!」 

 オーリの手が視界を塞いだ。が、もう遅いよとステファンは思った。ほんの一瞬だが、強烈な映像が透かし見えてしまった。

 何かを叫ぶような人の顔、顔、顔。無念を訴えるかのように伸ばした手、また手。何体も折重なって、それらはレリーフのように岩から浮き出ていた。

 そっと手をどけると、オーリは沈痛な表情で目を閉じていた。彼もまたステファンと同じように、望まぬ透視をしてしまったのだろう。

「先生、あれって」

「ああ、竜人たちだ。君にも見えてしまったんだな……」 

 オーリは悔しそうに目を開けると、唇を噛んで辺りを見回した。


「ここは、このリル・アレイは……花崗岩を切り出して港まで運ぶ中継地だったんだ。多くの竜人が苦役に使われて、反乱を起こした者もいたと聞いている。彼らがどうなったかずっと不明だったんだが、まさかこの場で岩に封じられていたとは……」 

「じゃ、さっきのカミナリは、それを教えてくれたの?」

 ステファンの目には、酷い扱いを受けて抵抗した末に、岩に変えられ、封じ込められた竜人たちの無念が、ひりひりと感じ取れる。耐え難くなってオーリの肩に顔を伏せた。


「あんなのひどいよ! あれも魔法使いが?」

「そうだ。魔法使いは、時に残忍にも、卑怯にもなる。それは事実だ。そしてその酷い歴史の延長上に今があるのも、変えられない事実なんだ」

 悔しそうに震えるオーリの声を聞きながら、ステファンの震えも止まらなくなった。

「エレインはあの人たちに代わって怒ったの?」

「そうかもしれない……いや、むしろ強い怒りが引き金になって、岩の中の竜人たちと感応してしまったんだろう。エレインはね、僕に出会う前は強い感応力を持つ『語り部』だったんだ。けどあの力は憑依魔法に近い。繰り返し多くの竜人の言葉を受け止めて語っていると、精神が壊れてしまう。それを恐れたからこそ、契約の時に力を封印したのに」 

 

 オーリはエレインの髪を掻き分けて左耳の後ろを確かめた。黒い小さな輝石の破片がぽろぽろと手に落ちてくる。

「封印の石が砕けている」

 信じられない物を見る面持ちで、オーリは問いかけた。

「なぜだ?」

 エレインは答えない。ただ光を映さない空虚な目を空に向けるばかりだ。

 オーリは草の中の砕けた花崗岩を見渡した。墓標のようにばらばらに点在しているように見えるそれらは、地面の下ではひと続きにつながっている。竜人の心もあるいは……


 足元で杖の転がる音がした。 

「封印だって? 仲間と苦しみを共有しようとする力を、封じるだって? なんて思い上がっていたんだ」 

 オーリは顔を歪め、エレインを抱きしめた。その肩にポツ、ポツ、と雨が落ち始める。

「ごめん、エレイン……僕は竜人の痛みが何もわかってなかった。人間は傲慢だ。魔法使いは、それ以上に傲慢だ!」 

 オーリの襟やタイには、さっき受けた傷の血が滲んでいる。けれどそんなことには構わず、彼はエレインを抱きしめたままで、何度も何度も竜人に詫びる言葉を繰り返した。

 

 緑の瞳に生気が戻り始めた。オーリの言葉が届いたように、やがて穏やかな顔になったエレインは、

「もう、ねむっていい?」 

 と子どもの声で聞いた。

 目隠しするように手でその顔を覆って、オーリは静かに答えた。

「ああ、眠っていい。エレインはもう、何も負わなくていい」 

 オーリの腕の中で、安心したような寝息が聞こえ始める。


 雨はどろどろと鳴る雷を引き連れ、本格的に降り始めている。ステファンは寒さとさっきのショックで震えながら、それでも自分の上着を取ると雨の雫を払ってエレインの背に掛けようとした。オーリは首を振って、着ていなさい、と言ったがステファンは聞かなかった。

「ぼく、何もしてあげられないんだ。エレインにも、竜人たちにも。ぼく、謝りたいんだ」 

「なぜ? 君が謝ることなんてない。竜人の歴史なんて、何も知らなかったんだろう」

「そうだよ、知らなかった。あんなにいっぱい本を読んだのに、竜人のことは知ろうともしなかった。だから……」

 

 オーリがうなずき、顔を上げた。口元を無理に曲げている。目は悲しみでいっぱいのくせに、こんな時にまで笑顔を作ろうというのか。

 なぜ笑ったりできる? 今くらい、竜人たちのために号泣したっていいじゃないか、そう思うとステファンは余計に悲しくなって、雨でぐしゃぐしゃになりながら、声をあげて泣いてしまった。

「ステフ、泣き虫め。つくづく君が羨ましいよ」 

 オーリの顔には、雨で銀髪が張り付いている。

 

 やがてエレインをしっかりと抱きかかえたまま、オーリは立ち上がった。 ステファンはしゃくりあげながらオーリの広い背中を見上げる。 

 羨ましい? ではオーリは泣かないのではなく、泣けないのだろうか。魔法使いは、そんな不自由な中で生きていかねばならないのだろうか。  

 

 容赦なく冷たい雨は降り続いている。その雨に顔を打たせて、水色の目が天を仰いだ。

「竜よ、竜人の母よ。そこに居るのか? あの岩の中の魂は、貴女の許に還れたのか?」 

 雷鳴は次第に遠ざかりつつある。短い夏はもう終わろうとしていた。  

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