6-4

 ウルリク……聞きなれない名前にステファンは首をかしげた。

「君が知らなくても無理はないよ。屋根から落ちた時、ウルリクはまだ10歳にも満たなかった。6人の伯父さんの中で――伯父さんというのは可哀想かな、死者は年を取らないから――誰より早く亡くなってしまったし、ミレイユさんもこの名を口にしたことはなかっただろう」

 

 オーリは言葉を切ると、トーニャに目を向けた。

「エレインに子守を任せてていいのか? ちょっと見てきたら?」

 ところがトーニャはちらっと庭を振り返ったただけで、席を立とうとはしない。

「人払いをするのが下手ね。それともミレイユの不幸話とやらが胎教に悪いとでも? ご心配なく、魔女はそんなにヤワじゃないから。さ、続けて」 

 オーリは諦めたように息をつくと、これは全てオスカーから聞いた話だけど、と前置きしてから語り始めた。

 

 ウルリクはミレイユより一つ上の兄だ。リーズ家の他の子供と同じく魔力を持ってはいたが、おとなしくて体が弱かったので、ミレイユとは似たような立場だった。上の兄姉にいじめられると、二人は花壇の隅だの屋根裏だのに逃げ込んでは、一緒に空想のお話を作って現実の憂さを忘れた。ミレイユにとってはただ一人の味方だったと言える。

 ところがウルリクが10歳になる直前、突然彼は空を飛んでみせると言いはじめた。またいつもの空想話だろうと思ったミレイユが飛ぶところを見せて欲しい、とからかうと、ウルリクは他の兄姉が寝静まった後、ミレイユを連れて屋根裏から外へ出た。そして――


「飛んだの?」

 ステファンは聞かずにはいられなかった。

「ああ。ほんの数秒間、確かにミレイユの目の前で飛んでみせたそうだ。でもその直後……」

「落ちたのね」

 あっさりと言葉を継ぐトーニャに、オーリは眉をしかめた。


「ミレイユさんは泣きながら他の兄姉を起こしたところまでは覚えているが、その後のことは覚えていないそうだ。記憶があるのはウルリクの葬儀の日からで、その頃には家族は嘆きつつも、勝手に結論を出していた。事故の前日に、煙突掃除夫が子ども部屋の窓から屋根に上がるところをウルリクは面白がって見てたから、きっとその真似をして足を滑らせたのだろう、と。

ミレイユさんは何度も自分が見た事実を告げたが、誰にも取り合ってもらえなかった」

 

 保管庫の中で見た小さなミレイユと兄姉たち。ステファンは一瞬あの光景の幻を見た気がして頭を振った。あれはウルリクの生前だったのか、死後だったのか。オーリは気遣うように顔を覗きこんで言った。

「ステファン、事故なんだよ。家族の出した結論はある意味正しかった。夢見がちな子供が空を飛ぶ真似をした、そして運悪く墜落死した。8歳の女の子がそれを止められなかったからといって責めを負うべきではない。わかるね?」

 ステファンは答えられず、ただうつむいて膝の上でこぶしを握り締めた。 


「でもミレイユさんは自分を許せなかったんだろう。彼女はそれから、絵本やおとぎ話の本を全て暖炉で焼いた。玩具の動物も、一つだけ持っていた人形も。彼女にとっては、兄が持っていた魔力はもちろん、子供らしい夢や空想ですら、罪悪と同じ意味を持つようになったようだ。彼女はわずか8歳にして、現実しか見ない、信じない生き方をするようになった。ウルリクを野辺に送った時、ミレイユさんは自分の童心も一緒に葬ってしまったんだね」

 窓のカーテンを揺らして風が吹いてくる。風が運ぶアーニャの笑い声に、ステファンは耳を塞ぎたくなった。

 

「そう、それが『最大の不幸』と言うわけ。珍しくもない。そんな話なら魔女の間ではザラにあるわよ」

 冷めた口調で言ってのけるトーニャをユーリアンは慌ててたしなめた。

「トーニャ! ステファンの前でそんな……」

「いいよ、ユーリアンさん」

 ステファンはやや青ざめた顔をキッと上げた。


「先生は、だからお父さんが魔法に関わる嫌な記憶を消したって思うんだね。でもぼくの力のことは? ぼくの魔力とウルリクは関係ないでしょう」

 オーリは重い表情でステファンの頭に手を置いた。

「それに関しても、ちょっと辛い話をしなくちゃいけない。ステフ、君はウルリクに似たところがあるそうだ。その茶色い髪といい、本ばかり読んで空想癖のあるところといい。ミレイユさんは君が成長するにつれて、どうしてもウルリクの姿とダブってしまうようになった。やがて君に魔力があることがわかると、毎夜悪夢にうなされて、しばしばオスカーに泣きながら言っていたそうだ。あの子はきっと10歳まで生きられない、ウルリク兄さんのようにいつか手の届かない場所へ行ってしまうに違いない、とね」

 

 ステファンは唇をかんだ。母がヒステリックに叱る時、そんな思いをしていたとは知らなかった。

「ねえトーニャ。母親が自分の子供の成長を喜べず、むしろ恐れてしまう、そういうのは不幸とは言わないのかな」

 オーリの問いかけに、トーニャは片眉を上げただけで答えなかった。


「わたしはオスカーに癒しの魔法をいくつか教え、医者に行くことも勧めたよ。だから7月にステフを迎えに行った時、ミレイユさんが別人のように元気にまくしたてるのを見てホッとしたぐらいだ。あれが忘却魔法のせいだったとは……」

「大変だ!」

 ステファンは突然立ち上がった。

「もう魔法は解かれちゃったんだ。お母さんはウルリクのことを思い出して、また泣いてるよ、きっと!」


「そうかしら」

 トーニャが指先の紅い爪をひらりと舞わせて、暖炉の上から手鏡を引き寄せた。

「その心配は無いようよ。ミレイユはもう行動を起こしてる。見なさい、ここはどこかしらね」

 手鏡を覗き込んだトーニャは、ステファンを手招きした。

 ステファンが手鏡を覗くと、そこにはパラソルを差したミレイユの姿が映っていた。強い意志を秘めた顔で、彼女は古い館を見上げている。


「ここはたしか……おじいちゃんの家だ。一番恐い伯母さんが住んでるはずだよ。なんでお母さんが?」

「実家に行ったのか。戦闘開始というわけだ。やるじゃないか、ミレイユ母さん」

 オーリもまた手鏡を覗き込んで、ニヤッと笑った。

「戦闘って?」

「前に言ったろう、ステフ。誰だって辛い事を抱えている、けど自分で解決するしかないって。君のお母さんは8歳の時の記憶に立ち向かいにいったんだよ」

 

 ステファンは手鏡を見つめた。館の中から出てきたのは、母が一番恐れる、ステファンの一番嫌いな伯母だ。久しぶりに訪ねてきた妹を抱きしめもせず、相変わらず意地悪そうな目つきで見下ろしている。けれどミレイユは臆することなく細い顎を上げて真っ直ぐに階段を昇り、館の中に消えていった。


「お母さん、大丈夫かなあ」

 心配そうなステファンの肩をオーリが叩いた。

「あの様子なら心配ないよ。ステフ、優しいのはいいけど、君はそろそろお母さんから離れなくちゃ」

「え、今離れてるでしょう?」

「住む場所のことじゃないよ」

 オーリは笑ったが、ステファンは首を傾げるばかりだ。

 

 お茶のお代わりを、とトーニャが立ち上がりかけたが、ユーリアンはそれを止めて自分でポットを持ってきた。

「オスカーが辞書を使った目的は、おそらくオーリの言うとおりだろう。辞書に書き込めるのは一人一項目に限られている。オスカーは何にも優先して『魔法』に関するミレイユさんの悲しい記憶を消したかったわけだ。けどわからないのはこの手紙だ。文面からすると、自分が帰れなくなることを予測しているようじゃないか」

 

 慣れた手付きでお茶を注ぐユーリアンに、オーリはうなずいた。

「正直、この手紙を受け取った時は焦ったよ。オスカーの身に何があったのかと。あちこちに協力を求めて探索魔法も……ガーゴイルの足に付いていた粘土も調べてもらったよな?」

「100遍も調べたよ。でもオスカーにはつながらない。お手上げだ」


「あのう……」

 ステファンが顔を上げた。

「警察に探してもらうとか、しないんですか?」

 大人たちは互いに顔を見合わせ、笑いをこらえるような、悲しいような表情をした。

「ああ、一般の人なら当然そうすべきだろうな。でもできない理由がふたつある。

まずミレイユさんが望まない。意地になってるのかもしれないな。

そしてもうひとつ、オスカーの手掛かりを探すとなると、どうしても『魔法』がらみになる。ほら、この辞書も。でも魔法だの魔法使いだの、表向きは存在しないことになってるんだから、そんなややこしいことには警察もタッチしたくないだろうね」

「我々の探索魔法のほうがが早い、とはっきり言っていいんじゃない? オーリ」

 トーニャが手鏡を爪で弾いた。ミレイユの映像は消え、変わりにゆらゆらと青白い光が踊り始める。

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