5-3
保管庫で見たオスカーの記憶の中で、ミレイユが『決定的な』ひと言を告げたのは、確かステファンが八歳の秋だった。暖炉の薪がはじけた音まで覚えている。
「あんまり思い出したくないな……でも間違いない。あの時、お母さんは魔法なんて存在しない、って言ったんだ」
「逆に言えば、2年前まではステフの力が何なのかを認識してたってわけだ」
オーリは居間の中を行ったり来たりしながら独り言のようにつぶやいた。
「2年前……オスカーが行方知れずになったのはその後か。11月の聖花火祭の夜、ひょっこりうちに訪ねて来たのが最後だったな」
「お父さん、ここへ来たの?」
「ああ。わたしのコレクションを借りたい、と言ってね」
オーリは悔しそうにコツ、と自分の額を叩いた。
「『忘却の辞書』という魔法道具だよ。昔の魔女や魔法使いが忘却魔法で相手から奪い去った記憶が文字で記されている。知っての通り、オスカーは遺跡を研究していたから、てっきり古文書の解読にでも使うのかと思っていたんだ。まさか彼が辞書本来の力を使えるなんて、それも自分の家族に魔法を掛けるなんて思いもしなかった。もしもあれを使ったとすれば……」
そこまで言って、オーリは急に難しい顔をして黙り込んでしまった。
「使うと、何かまずいことでも起こるの?」
「まずいさ。辞書というのは、言葉の海だ。言葉には人の思いが込められている。まして魔法で奪わなくてはならないような記憶なんて、どんな強い力を持っているか知れやしない――ステフ!」
オーリは急に顔を上げた。
「オスカーは君と同じように同調魔法を使えはしなかったか?」
「ええ?」
ステファンは驚き、首を振った。
「まさか。お父さんはぼくの力を使う遊びをいろいろ教えてくれたけど、自分で魔法を使うところなんて見たことないよ。先生だって言ったじゃないか、独力では魔法を使えなかったって。だから魔法道具なんてコレクションを……」
コレクション? 二人は同時に顔を見合わせ、同時に居間を飛び出した。
「ステフ、保管庫の中にあの辞書があるなんて、まさか思っていないだろうな?」
「先生だって! お父さんがぼくみたいに意識を取り込まれたとか、思ってるんじゃないの?」
2階に上がるだけの短い階段が、こんなにまだるっこしかったことはない。書庫の前に来るや否や、オーリはドアノブに触れるだけでバチッと大きな火花を散らし、鍵を開けてしまった。
「うわ……!」
書庫の中を見たステファンは言葉を失った。本が列をなして飛び交い、書架はアメのようにぐにゃりと曲がり、部屋全体が渦巻きのように歪んでいる。
「だから、まだ整理中なんだよ。危ないからステフはそこで待っていなさい」
オーリはそう言うと杖を取り出し、
「通してくれ!」
と叫びながら渦巻きの中に飛び込んでいった。
何分経ったろうか。書庫の渦巻きは一向に治まりそうもない。時折、稲妻のような金色の光が走るだけだ。ステファンが我慢しきれず、もう一度透視をしてみようかと思い始めた頃、ゆらり、と影のようにオーリが姿を現した。
「先生大丈夫? 辞書はあった?」
「ああ、あったよ……」
古びた黒い革表紙の辞書が、オーリの左手の中で禍々しい存在感を示していた。
「それで、お父さんは?」
オーリはうつむいて杖をポケットにしまいながら、首を振った。
「ここにはオスカーの手掛かりは無いよ。バカだな、わたしは。ミレイユさんが記憶を取り戻したってことは、辞書の魔法が効力を失ったってことじゃないか。それに、この中にオスカーの意識が取り込まれてるんだったら、ステフが保管庫で真っ先に気付いたはずだものな。何を期待したんだろう……」
ステファンは膝の力が抜けそうになった。近づいたと思ったオスカーが、また遠くなってしまった。
じゃ、いったいお父さんはどこに居るの、と言い掛けて、ステファンは言葉を飲み込んだ。長い銀髪が垂れて隠れたままのオーリの顔が、悔しさに震えているような気がしたのだ。
どうしていいのかわからないステファンは、空っぽのオーリの右手をぎゅっと握った。
「大丈夫だよ、先生」
ステファンは精一杯明るい声で言った。
「お父さんなら、きっとどこがで元気にしてるよ。なんでかわからないけど、ぼくそんな気がして仕方ないんだ」
思いつきや気休めで言っているのではない。父はとても遠いけど、確かにどこかに居る、はっきりと存在を感じる。ステファンにはそれを表す言葉がうまく出てこなくて、もどかしい思いだった。
オーリは長い髪を透かしてステファンをじっと見た。
「似てるな、そういう目をするところが……ああ、そうだな。君にわかるんなら、まちがいないさ。なんたってオスカーは、ステフの父親なんだからな」
そう自分に言い聞かせるように言って、オーリは二度、三度、ステファンと繋いだ手を振った。
「それ、見てもいい?」
ステファンは辞書を手に取ってみた。見た目よりもずっと軽く、拍子抜けするほどだ。が、そのページをぱらぱらとめくって、さらに驚いた。
「白紙だ。先生、文字がひとつも無いよ!」
「だから、効力を失ったって言ったろう」
オーリはやっと苦笑いのような表情を見せた。
「この辞書を作ったやつは、まさか十歳の子と魔力の無い母親に魔法を破られるなんて思いもしなかったろうな。たいしたもんだよ、君たちは」
「そ、そうなの? ぼく、とんでもないことしちゃった?」
「いや、いいんだよ」
辞書を受け取りながら、オーリは感慨深そうに言った。
「こんな物は存在しないほうがいい。オスカーの前に書き込んだ連中は多分この世に居ないし、記憶を奪われた人たちも今ごろ墓場の中でホッとしてるんじゃないかな」
辞書の裏表紙をめくったオーリは、うん? と怪訝な顔をした。
「ページが破れている。それに妙な焦げ跡だ」
「先生、それ! その焦げ方って、ぼく見たことあるよ」
ステファンに指をさされて、オーリはハッと顔を上げた。
「オスカーの手紙か!」
二人は再び同時に走り、アトリエに向かった。
本棚に積まれた本がが
ステファンの家で見せた、オスカーの半分焼けた手紙が挟んである。
「同じだ。ぴったり同じ」
手紙と辞書の見返しページを突き合わせるオーリの手が、微かに震えている。
「普通の紙でないことはわかっていたけど、罫線が引かれていたから便箋だと思っていたんだ。この焦げ跡にしたって、焼けたんじゃなくて『焼き切った』という感じだな」
「でもなぜ? なんで辞書の紙なんか使ったの?」
パタン、と辞書を閉じてオーリは力強く言った。
「専門家の助けが要るようだな。よし決めた。会いに行こう。ステフ、一緒に来てくれるな?」
是も非もあるものか。オスカーを探す手がかりになるなら何でもいい。ステファンは『専門家』が誰なのかわからないまま、はいっと返事していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます