2 修行開始
2-1
翌日は朝から雨が降っていた。
「ステファン、修行はじめだ。森へ行こう」
オーリは散歩にでも誘うような口調で言った。
「え、でも雨が降っているのに?」
「雨だからいいんだよ。マーシャに長靴を出してもらっておいで」
言われるままに長靴を借りに行くと、マーシャはうきうきと子ども用のゴム長靴とフードつきレインコートを出してきて、お昼はパンケーキを焼いておきますからねえ、とステファンを送り出した。
霧のような雨が降る中を、オーリは黒いローブだけで傘もささずに歩いていく。
「やあ男爵。やあ皇帝陛下どの」
庭に咲き誇る花々の間を歩きながら、オーリは時々挨拶の声を掛けた。
大きすぎるレインコートのフードを目の上に引っ張り上げて、ステファンはきょろきょろと辺りを見回した。オーリとステファン以外、人影は見えない。
「先生、この庭に誰か居るんですか?」
「居るさ、もちろん。そのうちわかるよ」
オーリは意味ありげな微笑を浮かべて庭の奥に続く森に向かった。
森の中はうす暗く、不思議な匂いに満ちていた。
大きな歩幅で歩くオーリに置いていかれないように気をつけながら、ステファンは昨夜から気になっていたことを思い切って聞いた。
「先生、アトラスさんは? 帰ったんですか?」
「ああそうらしいな」
「あの、昨日言ってたことだけど。竜や竜人がたどった道は……って、どういうことですか」
幾重にも折り重なった木の葉から、オーリの肩に雫がパラパラと落ちてきた。
「ステファン、ここに来るまでに君は竜を見たことがあったかい?」
「いいえ。お話の中にしか居ない、想像上の生き物だと思ってました」
「じゃ、魔法使いは」
「そういう人が居るとは聞いてたけど、実際先生に会うまでは、まさかと思ってました」
「正直だな」
広い背中が笑い声とともに揺れた。
「そういうことだ。竜や、竜人や、魔法使いなんて人々から忘れられつつある。忘れられるということは、存在しなくなることに等しい」
ステファンは改めてショックを受けた。
「じゃ、じゃあぼく、魔法の修行なんてしても誰にも認められない……?」
オーリは歩みを止めて振り返った。
「認められなかったとして、じゃあ君は、見えないはずのものが見えたりラジオを壊してしまったりする力を、無かった事になんてできるかい」
ステファンは首を振った。そんなことができるなら、家でも学校でも苦労はしなかった。
「だろう? わたしにもできないよ」
オーリは誰もいない空間に手を伸ばした。
「この世界は、定義しがたい曖昧な力に満ちている。わたしはその力を集めて、何かの形として表現せずにはいられない」
ていぎしがたいあいまいなちから、と口の中で繰り返して、ステファンはその意味を考えようとしたが、オーリはかまわず語り続けた。
「雨は天から大地に向けて降る。木々は大地から天を目指して伸びる。鳥は飛び魚は泳ぎ、それは誰にも止められない。魔法も同じことだ。誰に禁じれようとやむにやまれない力、それを意識的に操ることに長けた者が、魔法使いと呼ばれるんだ」
宙に向けたオーリの指先を見つめていると、今にも眩いスパークが飛び出すのではないかという気がして、ステファンは息をつめた。
「安心しなさい、こんな湿気の多い日にスパークなんて出せないよ」
オーリは何かを掴むような仕草をして、その手でステファンの胸をドン、と突いた。
「じゃ、健闘を祈る」
そう声が聞こえたかと思うと、オーリの姿はかき消えていた。
「せ、先生?」
ステファンは慌てて周りを見た。
「オーリ先生! どこ?」
声が木々の間に吸い込まれていく。辺りにはオーリの姿どころか、気配すら感じない。
「どういうこと……?」
誰も居ない森の中で、ステファンはしばらく茫然としていた。どこか遠く、森のずっと奥からなにやら不気味な音がしたような気がする。思わずぶるぶるっと震えた。これは悪い冗談だ。オーリは自分をからかっているに違いない。
帰ろう。まだそんなに遠くまで来てないはずだから、くるっと振り向いてまっすぐ歩けば帰れるはず。
長靴はステファンには大きすぎ、歩きづらいが、ともかくこんな森にひとりで居るのはごめんだった。
が、歩き出してすぐにステファンは立ち止まった。
景色がおかしい。さっき通ってきた道はこんなのじゃなかった。
ついさっきまでオーリと歩いていた時には、少なくとも地面が見えていた。が、今の足元は、びっしりと苔むしてケモノ道すら見えない。
こんなバカな、迷ったりするほど長くは歩いていないはずだ。ステファンは息苦しいほど鼓動が早くなるのを感じながら辺りを見回し、自分に言い聞かせた。
落ち着け、落ち着け、きっと少しだけ道から外れたんだ。
だが「道」などどこにも見えない。それどころか、さっきよりも周りの木が大きくなり、見通しがきかなくなったような気がする。ステファンは木々を見上げ、急にぞくりとした。
――見られている。
幾層にも重なる広葉樹の葉、そしてまた葉。枝、また枝、そして圧力すら感じる苔むした木々。その全てから、はっきりと『何か』の視線を感じる……
「いやだ!」
ステファンは駆け出した。が、大きすぎる長靴は走りにくく、思うように足が進まない。泣きそうになりながら懸命に声を出した。
「先生! オーリ先生! どこ!」
何度も苔で滑り、倒木につまづき、それでもやみくもに走って、もうどこを走っているのやらわからなくなった。
まずい。知らない場所で迷子になったら、やたら動き回るのが一番いけない、と父から以前聞いていたのに。それでもじっとしているのが怖くてたまらず、ステファンはひたすら足を動かした。
なんだか同じ所ばかり回っているような気がする。悪い妖精かなにかに目くらましをかけられたに違いない。きっとここは、人間が入ってはいけない森なのだ。
息があがって苦しくなってきた。ステファンは足を止めると、ぎゅっと目をつぶり、オーリの白い家を思い浮かべた。
帰るんだ、絶対、帰れるはずだ……
深呼吸して再び目を開くと、急に目の前にぽっかりと開けた空間が見えた。
空間の中央に、異様な形の巨大な樹が立ちはだかっている。
落雷でも受けたのだろうか、ごつごつした幹は縦に裂けている。
だが途中から枝分かれしている幹からは力強く新芽が吹き、若い枝が幾筋も伸びている。さらにその上の枝は長く長く伸び、その先は地面に垂れてそこからまた新たな根を伸ばし、独立した若木になっているものすらある。――つまり、この巨大樹を中心にドーム天井のような形に枝が張り巡らされているのだ。
この大きな樹は怖くない、ステファンは直感した。そして夢中で根元に駆け寄ると、助けて、と思いながら見上げた。樹は何も語らない。語らないが、いつの間にか呼吸が楽になっていく。ステファンは樹の幹に背中をぴったりと付けて、さっきまで自分を脅かしていた「何者か」をにらんだ。
「こわくなんかないぞ!」
精一杯の声は反響もせず、木々に吸い込まれた。
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