16品目:監査と店長 /1

 ピロン、と聞き慣れたSNSの通知音で目が覚めた。

 半開きの眼を左手で擦りながら、空いた右手で枕元をまさぐる。二、三度柔らかな枕を掴むだけだった右手は、四度目で漸くお目当のスマホに辿り着いた。

 指先に染み付いた一連の動作で、ロックを解除。そのままSNSアプリを開いて、通知音の相手を確認してみると––––どうやら、『白虎』のSNSグループからだ。


「朝っぱらからグループが動くなんて、珍しい……」

 『白虎』のグループが動くのは、大抵欠席や遅刻の諸連絡とかブログ記事更新の連絡だ。それに、居酒屋は夜遅くまで働く夜型人間の集まりなわけで、早朝から起きてる人はあんまりいない。徹夜でゲームしてる山くんみたいに、起きてる人は、いるかもしれないけどね。


 一応、今日シフトに入ってる身としては確認しておくか。


 あたしはごろん、と寝返りを打つ。両肘の下に枕を敷いて、ふわあと一つ大きな欠伸。

 少しずつ、瞼が開いてきた。

 

「店長からかな〜」

 誰に言うともなく呟きながら、グループのトーク画面を表示。送られてきていたのは、何やら長ったらしい文だ。

 面倒臭いなぁと読み始めて、あたしは瞠目した。

「え……?」

 その文章は、当たりをつけた通り店長から送られてきたものだったんだけど、

「ええ、ちょっと待って……?」

 書かれている内容に、あたしは面食らった。

 意味が分からず何度も何度も読み直すうちに、寝起きのボヤけた頭が段々とはっきりしてくる。はっきり、というより血の気が引くような、すっと芯が冷えるようなそんな感覚。


 ––––何故かって?


 店長:「お早うございます。本日、店舗に本社から監査が来ています。監査の結果はお店の評価に関わるため、大変重要な一日です。出勤の皆さんは気を引き締めて頑張って下さい。手洗いうがい、八大用語、監査の人への挨拶を忘れずに!」

 

 日頃から店長が怖れているなんていう存在に会うのは、今回が初めてだったから。




 * * *




 監査というのは、ざっくり言えばある規準に基づいて監督し検査することだ。これまで、学校の生徒会とかPTA総会なんかでも「会計監査」なんて言葉は聞いたことがあるし、見たこともある。決算書、つまりお金の出入りなんかが正しいかどうか検査して、全体に報告する仕事をしていた。

 けれど今回、あたしたちの店舗を見に来るのは、そうした会計関連ではなく、「業務監査役」って人たちだ。監査役という会社のお偉いさんが各店舗を回って、店舗経営の状態やら従業員の教育やら、様々な項目をチェックするらしい。店長からのメッセージにあった、手洗いうがいや八大用語は従業員の教育項目の一つ。他にも、料理の出来栄えとか厨房やトイレの清掃状況とか、とにかく見られるところは沢山あるみたい。

 そしてその項目ごとに点数がつけられて、最終的に店舗評価や店長評価ってのものに繋がるわけだから––––まあ、聞くだけで物凄く面倒臭いよね。



 やる気の出ない、重たい心をぶら下げてなんとか『白虎』に着くと、先に来ていた先輩たちも何だか浮かない顔をしていた。

「先輩でも、緊張とかするんですか?」

 ロッカールームで、晴香先輩に尋ねてみる。

「え〜?そりゃあするに決まってるじゃん〜」

 そう答えて、先輩はと大きな溜息を一つ。制服のシャツのボタンを億劫そうに留めながら、こうも続けた。

「わかばちゃんは初めてだから知らないだろうけどさぁ〜。あの人、人が手を洗ってるところを隣でじっと見つめてくるし〜、お客様対応から、ドリンクの作り方から、料理の出し方から、ぜーんぶ目敏いんだもん」

 流石に負担だよね〜と眉根を寄せて、先輩は再び嘆息した。

「うわ、それはかなり面倒臭そうですね……」

「でしょ〜?今更だけど、シフト入れなきゃ良かったぁ〜」

 同意の代わりに大きく二回頷いて、あたしも制服に着替える。ポニーテールにした髪も、いつもよりきちんと結んだ。初対面で、だらしない従業員がいるなんて思われるのは癪だしね。どうせなら、めちゃくちゃ良い印象にしておかなきゃ。明るくて可愛い、良い従業員を雇ったじゃないか、って思わせてやろうじゃないの。


「あ、そうだ。わかばちゃん、八大用語は大丈夫だよね〜?」

 一足先に身支度を終えた先輩が、ロッカールームの入り口で振り返る。

「あっ、はい、大丈夫です!」

「おっけ〜。じゃあ先行って、でもしてくる〜」

「ご挨拶?」

「せめて機嫌でも取っとこうかなって思って〜」

「機嫌……なるほど」

「ふふ」

ひらひらと手を振って出て行く先輩は、あたしの内心で燃えていた闘志を見事に鎮火していった。相変わらずの癒し系っぷりだ。


 ––––もっかいリップでも塗り直して、あたしも行こうっと。


 晴香先輩を見習って、謙虚にでもしてみようかなんて考えながら、薄ピンク色のリップクリームをそっと唇に引き伸ばした。

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