17品目:監査と店長 /2

 ハンディを取って店内へと向かうと、そこには、今まさに見知らぬ高年齢男性に捕まった晴香先輩の姿があった。男性は少し白髪が目立つものの、きちんとジャケットを羽織ったスーツスタイルに、片手にはバインダーを持っている。多分、あの人が監査役なんだろう。晴香先輩が丁寧に挨拶している様子に、あたしは確信を持った。

 さあ、あたしも早速挨拶してこよう––––と歩き出そうとして、ふいに背後から肩を叩かれる。


「関さん、ちょっとちょっと」

「はい?」

 振り返ってみれば、後藤店長。心なしか、その表情には緊張の色が見える。

「何ですか、店長」

「いやさ、関さんって確か監査初めてだよね?だからまずは紹介から入ろうかと思って––––あ、その前におはよう」

「ああ、おはようございます」

 お互いワンテンポ遅れた仕事始めの挨拶を返し、あたしは首を傾げた。

「紹介って、店長がわざわざあたしの紹介をするんですか?」

「そうそう。関さん、監査役に会ったことってないよね?」

「それは勿論ないですけど」

「うん、だから緊張するかなと思って。紹介されてからが楽でしょ」

「はあ……」

 別にあたしは紹介なんていらないんだけどな、と内心で呟くが店長はお構いなしだ。晴香先輩が会釈して厨房に向かったのを見て、今だとばかりあたしの背中を押した。


「すみません、本郷さん」

 店長が声をかけ、あたしの隣に並ぶ。本郷と呼ばれた監査役は、あたしたちに気がつくとゆっくりと歩み寄ってきた。

「何でしょう」

 予想していたより、低く柔らかい声。ただ、柔らかさの中に強い芯がある、そんな感じ。目の前に立たれると明らかに只者じゃない佇まいが伝わってきて、あたしは思わず背を伸ばした。

「この子、最近アルバイトとして入った子なんですけど。一度本郷さんにご紹介しておこうと思いまして、ええ」

 店長はぺこぺこと小刻みに頭を下げ、額面通り下手からお伺いを立てる。あたしも店長に習って、ちょこっとだけ頭を下げた。

「あの、五月からアルバイトを始めた関と申します。不束者ですが精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」

 ――あれ、ちょっと待って?なんか違ったよね今?

勢いで言ってから、間違いに気づく。あたし、多分不束者とかって口走った。不束者って、結婚の挨拶とかで良く聞くやつじゃん!これじゃあまるで、本郷さんがお義母様みたいな……。

 苦し紛れに、あたしはもう一度頭を下げてみた。まあ、大して意味はなさなそうなんだけど。ただ、本郷さんは挙動不審・意味不明なあたしに対して怪訝な顔一つせず、にっこりと微笑んだ。

「なるほど、そうですか。私は監査役の本郷ともうします。居酒屋は大変かと思いますが、今後ともお願いしますね」

 店長やあたしとは違う、落ち着いた優しい口調。初めて会う監査役に良い印象を持たせようなんて息巻いてきたけど、むしろ反対だった。思っていた以上に良い人そうなんて、逆にあたしが好印象を持っちゃったんだもん。

 本郷さんの言葉に、ほっと安堵の息を吐いたのは店長も同じらしい。いつものニヤついた顔に戻って、「よし、じゃあ行っていいぞ。今日も宜しく頼むな」と再びあたしの背中を押した。

「はーい、いってきます」

 とりあえず元気よく返事して、あたしも厨房に向かった。


 厨房には、高野さんと晴香先輩がいた。ドリンクを作っていた晴香先輩は、あたしの姿を認めるなり手を止め、「大丈夫だったぁ?」と心配そうに尋ねる。

「はい、大丈夫でした!」

「そぉ?結構長く捕まってたみたいだからぁ〜」

「あ、あれは店長に紹介されてただけで……」

 返しながら、あたしは手を洗う。一応店内をチラリと見たが、本郷さんと店長は何やら話し込んでいて、厨房に来る気配はない。

「というか、むしろ思ってたより優しくてびっくりしました」

「そうなんだぁ。まぁ確かに、今日は本郷さんだしね〜」

「え?本郷さんじゃない事もあるんですか」

「そうだよぉ〜この前は違ったし〜」

「ええ?」

 晴香先輩は溜息を吐くと、くるくるとカクテルをかき混ぜ始める。リキュールとレモンジュースにソーダが混ざって、綺麗な琥珀色に変わっていく。最近よく出る、アプリコット・フィズだ。

「実は、監査役は三名いるんですよ」

 あたしの疑問には、高野さんがこそっと答えてくれた。

「その中でも本郷さんは一番柔和といいますか……。他の二人が結構厳しめ辛口評価なんです。この前の監査はその内一人が来ていて、余り評価が良くなかったんですよね」

 そのせいで店長もピリピリしてて、と高野さんは苦笑した。

「じゃあ、あたし割とラッキーでした?」

「そうですね。基本的な接客態度さえ出来ていれば、問題ないと思いますよ。––––はい、枝豆と西京焼き、6番テーブルにお願いします」

 そう言って、高野さんはトレンチ(お盆)に載せた料理を差し出した。

「はーい」

「あっ、わかばちゃん、これも2番テーブルにお願い〜」

「分かりました!」

 あたしは二人からドリンクと料理受け取って、もう一度ホールに出る。本郷さんの手前、笑顔と料理の出し方にはちょっとだけ気を配って。



 

 * * *


 


 それから一週間が経った朝。あたしは再び、ピロン、と聞き慣れたSNSの通知音に目を覚ました。丁度気持ちのいいファンタジーちっくな夢を見ていたところだったから、余り起こされたくはなかったんだけどな。まだ少し眠いし。

 目を閉じたまま枕元をまさぐって、スマホを手に取る。メッセージの確認なんて、もう一眠りしてからでも問題ないんだけど、何となく、これは今見ておいた方が良い気がした。つい先週似たようなことがあったばかりだし。唯のカンだけど。

SNSアプリを開いて、通知音の相手を確認してみると––––あっうん、やっぱりそうだと思った。『白虎』のSNSグループからだ。

 

 店長:「お早うございます。昨日、本社で監査役による店舗評価会がありました。監査の結果、お店は全ての項目で七割を超えることができました!(ニコニコ)特に店員の勤務態度、接客姿勢は良い評価だったのでおしらせします。次回の監査は数ヶ月後だと思いますが、次回も宜しくお願いします!(キラキラ)」


「へえ。やったじゃん」

 送られてきたのは、先週とは打って変わって随分テンションの高いメッセージだった。店長にしては珍しく、動く絵文字まで使っている。そのくらい、評価が良かったことが嬉しかったんだろう。いちアルバイトのあたしからすれば、評価項目も7割がどのくらい良いのかも全く分かんないんだけどさ。

 ごろんと寝返りを打つと、両手で握ったスマホが微かに震える。高野さんが、トーク画面に「やったね!」みたいな可愛いスタンプを送っていた。


 結果として、『白虎』スタッフ全員の勤務態度が評価を底上げしたわけだから、今回の監査対策は成功だったと思う。挨拶ではちょっぴり焦ったけど、あたしだって笑顔二割増しで頑張ったし……。本郷さんの人柄の良さに助けられたのかもしれないけれど、初めての監査にしては良くできた、うんうん。

 というか、今後だってきっとなんとかなるだろうって思っちゃう。もし本郷さん以外の厳しめ監査役が来ても、対応できる。大丈夫。––––だってあたし、一度学習したら、結構出来る子だもん。


 ふわあと一つ欠伸をすると、忘れかけていた眠気に襲われる。あたしはもう一度店長のメッセージを眺めてから、SNSアプリを閉じた。そうして最近一枚増やした掛け布団にくるまって、さっきまで見ていた夢の中へとゆっくりと落ちていった。

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