10品目:森内先輩は弱みを握られている
七月下旬。長く続いた梅雨も終わり、分厚い雲と温い雨の代わりに、空にはギラギラとした夏の太陽が顔を出している。
もう夕方だっていうのに、蒸し蒸しとした特有の暑さ、降り注ぐ紫外線と滲む汗、アスファルトからの照り返し。木陰で風を受ければ少しはマシな筈なのに、ひしめく人と建物のせいで風の通りが悪いらしい。地元にいた時思っていたより、都会って暑い。暑すぎる。
そんな今日も、これからバイトだ。バイト先が屋内なのが幸い。しかも今日は水曜日だから、予約はあんまり入ってなかった筈。
頰に伝う汗を拭って、あたしは『白虎』のドアを押した。チリリン、と風鈴にも似た、ドアベルの軽やかな音。同時に、店内の冷んやりとした空気が火照った肌を撫でた。
あ〜〜〜、生き返る!!
心地いい温度に、ふう、と一息。そして思いっきり吸い込む空気は、外の湿った暑さとは裏腹に、ひやりと涼やかに鼻腔を抜ける。最高。何なら、厨房で仕込み中らしい料理の匂いも漂ってくる。多分宴会の先付けの匂い。最高以外の、何者でもない。
さぁて、じゃあさっさと着替えてきますか。
そう思って更衣室に行こうとする。と、バタバタと重たい足音が聞こえてきた。
「いらっしゃいませっ、こんばんはっ!」
厨房の奥から駆けてきたのは、森内先輩だ。今日も白い制服をピッチリと着こなして、お客様に向ける満面の笑みを浮かべている。
「あ、先輩」
「一名様で……っておい、なんだわかか」
あたしの顔をまじまじと見つめて、先輩はため息を吐いた。
「お客様かと思ったじゃねーか」
そう言うや否や、満面の笑みも真顔に戻る。真顔っていうか、いつもの強面ね。初対面の人が少しビビっちゃうくらいの。
ただ、初対面じゃないあたしには全然怖くない。
「ちょっと先輩、なんだ、は失礼でしょ」
あたしは先輩の強面に負けじと、むっと眉を寄せ顰めっ面をした。
「ん?」
森内先輩は、あたしの文句が理解できないような顔。眉根を寄せたその顔は、普段に増して益々おっかない。
ただ残念ながら、そんなおっかない顔にももう慣れました。ちなみに、先輩の弱みだって少しは分かるようになりました。
「ん?じゃないですよ、先輩」
「え?」
「え?でもなくって」
先輩を困らせそうな方法を思いついたあたしは、内心でほくそ笑む。外面は顰めっ面のまま、唇だけツンと尖らせた。さぁ、その強面にお返ししてあげますよっと。
「だって先輩、ひどいじゃないですか。あたしの顔見て、あからさまに笑顔消したりして。すみませんね、お客様じゃなくって」
そして、大袈裟にそっぽを向く振り。さぁ、どんな反応をしてくれるかな。
ちらりと横目で伺うと、先輩は途端に目を丸くして、「いや、そんなつもりじゃ」と慌てたように口を開く。
ほらね。三ヶ月かけて気がついた先輩の弱みその一。怖い顔こそしてるけど、案外、森内先輩は純粋な一面を持ってるらしいってとこ。
「わか、俺は別に、な?別にわかが来た事が残念とかじゃなくて、」
そっぽを向いたままのあたしの顔を覗き込んで、先輩は懸命に説明し始める。
「ほら、ドアベルが鳴ったから思わず、な?」
おろおろと、先輩は店のドアを指差す。何故か身振り手振りまでつけるその姿が可笑しくて、あたしは思わず吹き出した。
「んっ、ふふっ、先輩、」
「ごめんな、でも本当に俺は」
「いや先輩、さっきの冗談です」
「聞いてくれって、わか。だから俺は……は?冗、談?」
「はい、冗談です。ちょっと怒ったふりしてみただけで」
あたしの言葉に、森内先輩はさっきとは違う意味で目を丸くした。そして一瞬口をパクパクとさせ、気が抜けたように一つ大きく息を吐いた。
「あのな、わか」
「何ですか?」
再び強面になった先輩が、あたしを見下ろして睨む。
「俺を揶揄うのはやめろよ」
今度は素の強面とかじゃなくって、一応本当に怒っているつもりらしい。
が、あたしは弱みを知っている。このくらいじゃ動じない。
「揶揄ったんじゃなくて、怒ったふりです」
あたしは、にっこり微笑んで先輩を見上げた。
「それに、本当はちょっぴり怒ってましたよ。だって、先輩の折角の笑顔だったのに」
「えっ……?」
「じゃっ、あたし着替えてきますね!」
先輩の弱みその二。純情すぎてキザな台詞にも演技にも引っかかるところ。
呆然とする森内先輩を余所に、あたしはくるりと方向転換。多分後ろでは、先輩がまた目を丸くしてるんだろうな。
込み上げる可笑しさを必死で押し込めて、あたしはそそくさとその場を後にした。
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