番外編
あたしの名前は
おじいさんには随分と前に先立たれてしまい、もう長い間一人で過ごしておりますじゃ。
残りの人生も後僅か、静かに余生を過ごしていこうとしておりますじゃ。
今日は何時ものように年金から、今月分の生活費を降ろしてきたところですじゃ。
毎月この日だけは、ほんのささやかな贅沢をしよう。
そう決めてある日でもありますのじゃ。
夕飯は何にしようかと悩みながら歩いていると、物凄い痛みが突然あたしを襲ったのじゃ。
痛みと同時に視界が大きく揺れ、いよいよお迎えでも来たのかと思ったのじゃがそうではなく、後ろから何かがぶつかって来たみたいじゃ。
暫く呆然と痛みに耐えておると、手もとにあるはずの、大事な大事なカバンがなくなっておったのじゃ。
今月分の生活費が丸々入ったカバンが。
ここでようやく自分に起こった出来事を理解する事が出来たのじゃ。
ああ、あたしゃひったくりに遭うてしもうたのじゃと。
「だ、誰か助けておくれ……」
情けない事に蚊の鳴くような声しか出せず、頭も回らず、オロオロとしか出来ない自分を不甲斐なく思っていると――
「き、きゃーーー! ひ、ひったくりよーーー!」
自分の状況を見てくれていたであろう女人が、あたしの代わりに大きな声を上げてくれたのじゃ。
しかし周りにいた人達は、何があったのだと集まって来てくれてはいるのじゃが、誰も何もしてくれなかったのじゃ。
他人に頼り過ぎだと思われるかもしれんのじゃが、この年寄りには一人ではどうしようもないのじゃ。
膝を擦りむいて座り込んでしまっていると、周りが何やら騒がしくなって来たのじゃ。
少し離れた場所から、徐々に騒動の中心が近付いて来るみたいじゃった。
一体何が起こっておるのじゃ?
更に何かが近付いて来ておるみたいで、あたしの周りにいる人達も、その何かに向かって騒めき始めたのじゃ。
その後すぐに、周りの人達が騒動の方へと道を開け始め、まるでファションショーのランウェイのような一本の道が出来たところで、何が起こっているのか理解出来たのじゃ。
がが、外人さんじゃーーー!
しかもどこぞの王子様のような雰囲気を漂わせておる!
一歩一歩、足を運ぶ度に奇麗な髪が揺れ、髪の色だけではなく全身から、キラキラと音を出しているかのように眩しく、目を開けておる事でさえ困難な程じゃ。
現に視界に入る、完全に背景と化しておる雑多な女人達も、眩しさのあまり掌を目の前にかざしながらのけ反っておるわい。
その王子様は何処までも、未来さえをも見据えておられる様子で、澄んだ緑の宝石みたいな両の瞳を、一直線にあたしの方へと向けて下さっておる。
あたしだけを見据えておられるのじゃ。
この年寄りの心臓を止めるおつもりなのですか?
いつの間にか騒動は、衝撃のあまり沈黙へと変わっており、何名かの女人が正気を保っておれずに腰を抜かしたところで、王子様はあたしの前で足を止めて下さったのじゃ。
そして映画でしか見た事がないような、そしてこの人になら全てをお任せしたい!
そう思わせられる仕草で一言――
「だ、大丈夫でしゅか?」
じゃ。
こんなもん、あたしに耐えられるわけがなかろう!
しかも、100万ドルの笑顔でじゃ!
ぎゃっぷ萌えというやつじゃ!
可愛らし過ぎるじゃろう!
言葉と笑顔の衝撃波で、あたしは身体ごと後ろに持っていかれ、意識を暫く刈り取られていたみたいじゃ。
その後も王子様はあたしに何か仰っておったのじゃが、正直覚えておらん。
この間もずっとキラキラと光ったままの瞳が、あたしの両目を見据えたままじゃったので年寄りには刺激が強過ぎて、最早しどろもどろで精一杯じゃ。
「わかりました。僕が何とかしてみます!」
少し話した後、王子様は爽やかに言い切ると、膝の擦り傷にも気付いて下さっておられたのじゃ。
出来れば王子様に手当てをお願いしたかったのじゃが、周りの人達にお願いされておられた。
そしたらば、王子様に気に入られたい女人達が、挙って手当てを申し出始めたのじゃ。
先程は何もしてくれなんだ女人達が。
色々と考える事もあったのじゃが、素直に有難く手当てを受けておったのじゃが、王子様が走り去った後、何名かは急に扱いが雑になった。
こうも下心が見え見えじゃと逆に清々しいですじゃ。
割とすぐに帰って来られた王子様は、どうやら犯人を見失われたみたいじゃった。
そりゃ仕方がないわい。
この広い街で随分と前に逃げて行った犯人を捜してくるなど――と、えぇぇ! あたしのカバンを持っておられる! 一体どうやって犯人を、い、いや先ずはお礼を言わねば!
「あ、有難う御座いますじゃ! 何とお礼を言えばいいのやら……」
ぐわぁー! なんじゃこの無様で失礼極まりない言い方は! もっと別の言い方があったじゃろうが!
何の為の年の功なのじゃ……。自分の不甲斐なさに涙が出そうじゃわい。
そそ、そうじゃ、お礼じゃ! お礼をせねば! カバンがそのままなら降ろしてきた年金がソックリそのままあるはず!
くそ、焦ってしもうて封筒がうまく取り出せんのじゃ。
「お婆さんに大きな怪我がなくて良かったですよ。それでは僕はこれで失礼します」
1億ドルの笑顔と共に、そう言って踵を返すと王子様は颯爽と立ち去られたのじゃ。
待って、待って下されなのじゃ! せ、せめてお名前を!
しかし肝心の言葉がちっとも出て来ない。
王子様の周りの風景には、白い靄が掛かったように見え、その靄からは大勢の歓声と拍手が鳴り響いておるのじゃが、あたしには今、王子様しか見えておらぬ。
後ろ姿を眼の奥に焼け付ける為に、瞬きをも惜しんでじっと見つめる。
何せお忍びか何かで日本に来られた何処ぞの国の王子様なのじゃから、もう二度と会う事は叶わんのじゃろう。
ずば抜けた美貌、立ち居振る舞い、優しさ、正義感、そしてあの笑顔。
絶対に忘れないのじゃ。
有難う御座いますじゃ、あたしの王子様。
手もとに戻って来た年金の入ったカバンを胸にギュッと抱きしめ、いつまでもタケルの後ろ姿を見つめていた、
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