IV - 09

 いつものドライバー、いつものようなワゴン車、いつものような服。

 岸田。

 午前二時。

 ヘッドライトが闇を切り抜くように走っていく。

 空気が乾いていて、細く雪が降っている。

 闇の中で降る雪が窓に付着しては溶けて水滴になって落ちていく。服からは相変わらず煙草と防虫剤の匂いが混じったような苦い匂いがする。服を着替え、着てきた服を畳み、帽子を上に乗せる。


「もう慣れただろ」岸田が言った。「二回やったらあとは何回やっても一緒だ」

「二回が区切りなのか」

「量の区分なんか、ゼロか一か二しかねえからな。無、単数、複数、以上」


 フロントガラス越しに景色を見ると、紺色の石でできたアクセサリーがバックミラーにぶら下がって揺れている。この車はどこから調達してきたものなのだろうかと思うが、特に訊かない。


「今日の行き先は?」

「郊外の戸建て。なんの特徴もない」

「住人は?」

「両親子一人の一家。家族旅行中」

「歳とかは?」

「知らん。訊いてどうする」

「別に。どうもしない」


 想像しようとするがまったく頭の中で像を結ばない。


 都市部から外れた郊外の住宅街の一軒で車が止まった。交通の便の悪さと引き換えに広さを手に入れたような少し古い一軒家だった。道が広く、家と家が密接していない。都市部の隣人事情なんかには無縁そうな家に見える。門をくぐり、飛び石状に埋められた石を踏みながら玄関に向かい、ドアに触れる。


 銀色のドアは取っ手の上下に二つ鍵穴がついているタイプのものだった。解錠そのものは難しくないが、解錠の手間を二つ分に増やして諦めてもらおうという程度の、ベストじゃないがベターではある程度の錠だ。


 開けろ、と岸田が言うまでもなく、僕はポケットの中でアーミーナイフを握る。

 ロックピックを繰り出し、革のケースからテンションレンチを取り出す。


 上か、下か、上下どちらもか。

 上下両方ともに施錠するほど几帳面な人間は少ない。

 大抵はどちらか一方だが、どのように鍵をかけているかはあくまでわからない。


 まずは上の鍵穴から着手する。

 雪が降り続け、肌を切りつけるように空気が冷えているが、指の調子は悪くない。レンチを鍵穴に滑り込ませ、ピックでピンを処理する。一、二、三、とピンを押し上げ、鍵穴がゆるやかに滑るように回る。


 早々に鍵穴の回転が止まった。

 上の錠には鍵がかかっていなかったことになる。


 となると、下か。まあ、珍しいことじゃない。僕は気を取り直して膝を地面に突き、下の鍵穴へと身を屈める。まったくもって難しい鍵じゃない。同じ鍵で開く錠に、同じように解錠を試みると、鍵穴はすぐに回った。


 滑るように鍵穴が左に回転し。


 背筋が冷えた。


 カチリと噛み合う音もなく。


 鍵穴の回転が止まった。


 上の錠には鍵がかかっていなかった。

 下の錠にも鍵がかかっていなかった。


 ということは。

 僕らが来る前から、すでに鍵は開いていたことになる。


 鍵穴を元の位置に戻してピックとレンチを引き抜き、ノブに手を掛けると、元から鍵などかかっていなかったドアは僅かに開いた。


 心臓が鳴り出した。

 どうする。

 元々鍵は開いてた、と言ったらどうなるか。

 貧困な想像力が想像を走らせようとし、それが一瞬だけ返事を遅らせた。


 岸田がドアを開け、隙間からペンライトを足元に向けると、少しだけ靴が並んだ玄関が闇の中から浮かび上がった。手に提げられた携行缶の中で液体がちゃぷりと揺れる。僕は岸田を見る。台詞を作る。声が出ない。


 動き出した列車は止められない。

 一度降り逃すと降りられなくなる。


 僕はやや強引な勢いで、岸田の腕を掴む。


「……どうした」


 僕は言葉を作る。


「ドア、鍵が開いてたんだ、元から」なんとか、僕は言う。「引き返さないか」


 僕の言葉に、岸田は考え込む表情を作ったあと、スマートフォンを取り出して画面を叩く。播磨か、ドライバーか、一体誰とやり取りしてるのかはわからないが、メッセージが行き来する。


 周囲に誰かいるか、あるいは、この建物の住人はここから離れたどこかにいるか。

 十数秒、あるいは数十秒そんな情報をやりとりをしたのだろう、岸田は言う。

「問題ない」


 岸田が靴を履いたまま廊下に上がり、奥に進んでいく。家は少し古いのか、板張りの廊下が時折軋んだ。廊下を進み、リビングへと入っていく。モノが少なく片付いた部屋に入り、岸田がブレーカーを落とす。


 落とされたブレーカーに呼応するように、テレビやスピーカーが点灯させていたオレンジや青のLEDがぷつりと消えた。岸田が蓋を緩めた携行缶を傾け、傷のないフローリングに水色がゆっくりと広がっていく。


 早く。

 早くしろ。


 何かが僕の気を急かして、ドアを背にしながら僕は岸田の作業を見る。岸田が片手で缶を傾けながら、いつものマッチを取り出してパッケージを僕の方に向けて尋ねる。


「着火、今回もお前がやるか?」


 声が、身体を緊張させた。


「いや、いい」

「前回のは特例か」

「そんなとこだ。とにかく、早くしてくれ」

「何を焦ってんだよ。言われなくとも早くやってる」


 ゆっくりと、液面が広がっていく。

 岸田が、携行缶を床にことりと置いた。


 ひゅっ。


 と。


 喘息のような息が聞こえた。

 短く二度、足音がした。


 振り向くよりも先に、肩甲骨の真ん中、背骨を突かれるような衝撃があった。

 痺れが走って、一瞬呼吸が止まった。僕の意思と無関係に身体が硬直し、バランスを崩して倒れた。肩から床に落ち、僕の体重を叩きつけられた肺から空気を絞り出すような声が漏れた。


 缶が倒れたのか、騒々しい音を立てた。


 くたびれた革靴を履いた誰かの足が僕の身体を跨ぎ、岸田と向かい合っている。革靴の足が前のめるように踏み込む。横になった缶がトクトクトクと音を立てながら中身を零し続けている。影が腕を振り、何かが岸田に振り下ろされた。白く光るペンライトが宙を回転し、床を転がった。


 弧を描くように転がったペンライトが一瞬網膜に焼き付き、視界が白んだ。


 物を打ち付けるような鈍い音が二度響き、岸田が半身を押さえながら蹲っている。呻くような叫び声が上がり、闇の中で動いた腕が岸田の胴を殴打した。何かが岸田の身体に沈み、岸田が床を転げた。


 床を覆っていた水色がぱしゃと水音を立てた。


 男がいた。


 男はスマートフォンのバックライトを一瞬点灯させ、男が灰色のトレーナーと紺色のジーンズを履いているのがわかった。光の中見えた目が濃い隈に縁取られながらも血走っていて、興奮し、錯乱しているのがわかる。


 男は僕を見て、岸田を見て、僕の傍で身体を屈めた。


 膝で背中を圧迫するようにしながら僕の身体をひっくり返し、手首に冷たい金属の感触を触れさせた。十中八九、手錠だろう。男の荒い息に混じってカチカチと金属音が聞こえ、チェーンが鳴った。


 岸田が咳き込みながらこちらを見たが、男が唸るような声を漏らした。


「っき、く」と、男が口を開いた。「ころっ、殺すぞ、さ、騒いだら、大声で」


 男の台詞は吃音がかっていて、言葉と言葉の繋がりがバラバラだった。


 背中にちくりと刺すような感触がし、男は腹這いの僕にも認識させるかのようにナイフを見せた。ナイフの刃渡りは一〇センチくらいで極端に大きいというわけではなかったが、刺されば死ぬんじゃないかと思った。


 男はナイフを片手に、岸田の元に歩み寄り、僕と同じように岸田に手錠をかける。

 僕らを拘束する男の動作は慣れているという風ではなく、ぎこちなかったが、それがかえって危険に思えた。発火物の傍での静電気の閃きが爆発を起こすように、男が何かの拍子に爆発を起こしてもおかしくないような気がする。


 床が冷たく、混合ガソリンの水色が揺れている。


 手首にまとわりつく輪を指先で引っ掻く。鎖の根元、その近くに鍵穴はある。開けられるかどうか、指先で鍵穴を撫でるがわからない。ピックが欲しい。僕はなんとか手を太腿に回し、ポケットの感触を確かめる。アーミーナイフがない。


 嘘だろ。

 どこに行ったんだ。

 あたりを見回すが、暗闇の中で真っ黒なアーミーナイフは見つからない。


 手を動かそうとすると、手錠の鎖が鳴った。男はバックライトが灯ったスマートフォンをかざし、岸田の顔を照らした。岸田は男を睨んでいて、状況に合わない笑みを口元に浮かべている。


「お前らだな」


 男が言った。

 男は息切れでもしているかのように肩が上下している。


「お前ら、だな、俺の家、燃やしたの」


 確認でもするように、バラバラの文節で男が同じ台詞を繰り返す。


 俺の家を燃やしたのはお前らだな。


 僕はやっと言葉を捉え、意味を捉える。

 僕らに火を点けられた家のどれかの住人が復讐でもしているつもり、らしい。もしかすると、僕が合流する前、岸田が一人で燃やした家の住人かもしれない。それが、なんらかの方法を使って火点け屋を依頼して、復讐のために待ち構えていた。


 らしい。


 と。


 男の台詞からはそんなストーリーが読み取れたが、僕には因縁みたいなものをうまく感じられなかった。なにか、漠然とした曖昧な何かが襲い掛かってきたとしか思えなかった。危機に陥りつつも、それが僕の想像力の限界だった。


 僕と岸田と、どちらが会話役を受け持てばいいかわからず、少し沈黙が生まれた。


 結局、岸田が口を開く。


「どこの家だよ。顔と家が結びつかない」


 岸田の言い方は傲岸不遜で、暴力を目の前にしているようではなかった。

 岸田の台詞に返すように男は震えた声で住所を言った。

 市区町村、丁目、番地。

 住所だけじゃ僕にはよくわからなかった。

 たぶん、岸田にもわかっていない。


「それで、それがどうした」


 岸田は尋ねた。

 あまりにも平然としていて、何か問題でもあったのかという平坦なトーン。


「どうしたって」


 拍子を外されて、男は感情の行き場がないように声を漏らした。


「復讐か?」


 そうだ、復讐だ、と言うことがいかに間抜けに聞こえるかと思ったのだろう。岸田が言うと、男は言葉を失った。希望や絆という言葉が胡散臭いように、復讐という言葉も日常的に口にするにはあまりにも作り物じみている。


 男はナイフを持っていたが、僕も岸田もまだ刺されてはいない。

 躊躇がある。抵抗がある。

 話を聞こうとしてしまっている。


「なんだよ、たかが家だろ。家を燃やされた仕返しに二人殺すのは、ちょっと不釣り合いじゃねえかな。なんだ、思い出がたくさん詰まった家だったのか? 火事がきっかけで妻子に逃げられたとかで八つ当たりしてんのか? それとも、家くらいしか築き上げたものがない人生だったのか?」


 よどみなく岸田は言った。


 罰を待ち続けた人間が、罰に対して何と返すか。それは、普段から岸田が考えていることなのかもしれなくて、その言葉は明確にまともな価値観から外れてしまっている。


 男はエンジンを再スタートするみたいにもう一度激昂しようとしていたが、空回りしていた。怒りに我を忘れるところまで振りきれていない。うまく怒るにも才能がいる。


「訊いてるだけじゃねえか。なあ、何が、家を燃やされただけでそこまで怒らせてるんだよ、語ってくれ。金か。もし金の問題で、もし、ここでポンと大金が降ってきて手渡されたら怒りは収まりそうか。どうだ」


 僕はアーミーナイフの行方を捜して床の上を目で浚うが何も見つからない。何か何か何かとジーンズのポケットを探る。尻ポケットには何も入っていない。車のドアを閉める音、砕けたアスファルトが鳴るのが聞こえる。


「なんだよ、じゃあ思い出か、なんだ、語ってくれよ。どんな思い出があれば、家を燃やされて殺意が涌くほどになるんだ。お前にも大事な家族がいるだろ、とか言って説明を省こうとしてるならやめろよ。生憎、俺は俺の家が燃えたところでなんとも思わないんだよ。ほら、どれだけ立派な思い出があるのか語ってくれ、頼むよ、ほら」


 玄関のドアを開ける音が小さく聞こえた。


「それとも」岸田が言う。「人の家に火を点けるような悪人を捕まえてヒーロー気取りでもしたかったのか。世に知られていない悪人を裁いて思う存分正義面すれば、みんなに褒めてもらえるとでも思ったのかよ。義憤か、自己満足か、知らねえけど、何かの拍子でその歳で正義に目覚めちゃったのか。一発で刺さなかったのも、情報を聞き出したいとかそういうことか、悪の組織を一網打尽とでも考えてたのかよ、おい、めでたいな」


 部屋の入口に、光がよぎった。

 そこにドライバーが立っていた。


 一瞬、年齢の読めないドライバーの目と男の目が合い、弾けた。


 ドライバーは何か構えをとろうとし、男は弾かれたようにドライバーに飛び込んだ。男は冷静じゃなかった。ただ脳の回路がショートしていて、殺さなければ殺されるという考えが短くスパークしただけのように見えた。


 それでも、男の方が、若干早かった。


 それが、ドライバーにとっては致命的だった。


 ナイフの刃先がドライバーの太腿に沈み込んで、男が飛び込んだ勢いのままに身体が崩れた。男はナイフを抜き、刺し、刺した。血は噴き出さなかったが、ナイフを抜くたびに飛沫が散り、床を覆うガソリンの水色に混じった。


 火種をドライバーが運んできてしまった。 


 岸田が笑いを上げていた。


 僕の指先はジーンズのポケットを探り、ベルトの下、ベルトループに沿うように何かが留めてあるのを指先で見つける。金属製、細長い、真ん中で折れている。ヘアピン。留め金を開きながら引き抜き、なるべく真っすぐに伸ばして手錠の鍵穴の中を探る。


 男は身体を起こすと笑い声を漏らす岸田の方を向いた。

 ドライバーの身体が痙攣している。

 男は胸から下がドライバーの血で黒くなっていて、岸田の方へと歩くたびに床が汚れた。男が何か呟いているが聞き取れない。ゆっくりと歩く男の動きからは、余裕のようなものが見える。


 鍵穴の縁でヘアピンの先を曲げる。


「殺したか、気分はどうだ」岸田は男に言った。「すっきりしたか。どうだ、興奮するか。犯罪への後悔は自分の未来が失われたって認識によって生じるとか何とか、前に何かの本で読んだんだが、夢も希望もないやつなら罪悪感ゼロで犯罪を繰り返せるのかね。どう思う。どうだ、その辺、何か感じるか」


 男が岸田に馬乗りになり、ナイフの柄で岸田を殴りつけた。

 皮膚を通して骨が打たれる鈍い音がした。

 ヘアピンの先端が手錠の歯止めに噛み、留め具が滑った。


「やれよ」


 岸田が言った。


 それはこの状況で言う台詞としては不合理だ。

 それでいて、意地を張った挑発でもない。

 どうせできないだろうという見くびりでもない。


 殺せ。

 殺してくれ。


 岸田はそうメッセージを滑り込ませている。


「早く」


 右手首から手錠が外れ、僕は床に手を突いた。


 男が逆手で握ったナイフを振り上げた。


 やれ。


 僕は跳ね起き、膝を立て、床を蹴った。体勢を崩しながら跳ね、飛び込むようにぶつかる。手に握っていたピックの先が柔らかく脆いものを突き崩す感触がした。男の身体を床にたたきつけ、その反動で男の肩が僕の鳩尾にめり込んだ。ナイフが男の手を離れ、二、三度床を跳ねて、転がる。


 這いつくばった僕の目先で、横たわったナイフがくるくると回転している。


 詰まった息を通すように、息を吸い込む。床に広がったガソリンの刺激臭が喉の奥に流れ込んできて、咳き込む。ナイフに手を伸ばしながら這うと、服がガソリンを吸い上げ、左手にぶら下がったままの手錠の鎖が擦れあって鳴った。


 肘を突きながら軋む床を進み、ナイフを押さえる。

 なんとか膝を突いて立ち上がろうとするが、ぎしぎしと身体が鳴る。

 身体が重い。

 ナイフを握ったままなんとか立ち上がり、肩で息をする。


 部屋の入口でドライバーが死んでいた。後ろ手に手錠をかけられた岸田が倒れていた。男は僕に倒されたところで横たわったまま、足で空を掻いていた。男の耳には即席ロックピックが突き刺さり、細く血を流している。足をじたばたとさせ、頭を中心に回っては時おり寝返りを打つ。ロックピックの先端が床を叩いてはかつ、かつ、と掠れた音を立てている。


 ああ、ああ、と呻きながら男がもがいていて、僕は頭のもげたトンボやバッタを思い出す。


 男は耳を押さえて呻き声を上げ続けているが、立ち上がらない。


 解錠用のアーミーナイフが陰に転がっているのを見つけ、ポケットに入れる。男から距離をとるように大回りで岸田に近づき、歩み寄って床に膝を突く。殴られたときに切ったのか、額の端、こめかみの近くに切り傷があったが、岸田に大きな怪我はなかった。


 アーミーナイフからロックピックを繰り出し、岸田の後ろ手の手錠を探る。

 岸田はいつも通りの表情で、僕を見上げながら尋ねた。


「……開きそうか」

「開く」


 力をかけて階段状に変形させたヘアピンよりも、ロックピックの方が何倍も使い勝手がいい。少し奥の方に先端を引っ掛けるとするりと手錠の留め具は滑って外れた。岸田の右手首、左手首、と繰り返し、最後に自分の右手首にかかったままだったのを外した。

 自分の右手首の手錠を外すには左手でやらざるを得ないから、そこにだけ手こずった。


「手錠は安物だったのか」

「たぶんな」


 岸田は立ち上がり、部屋を見渡した。


 岸田は、僕がさっき見たのと変わらない景色を見ながら、呻く男に歩み寄り、身体を叩き折るように足を踏み下ろした。二、三度、胴体に靴底が沈み、男の身体が跳ねた。内臓が破裂するとか、肋骨が折れるとか、そういう損傷が男に起きているのかもしれなかったが、皮膚の上、服の上からではわからなかった。

 男は静かになって止まった。

 靴底の跡がガソリンのシミとして服の上に残った。


「逃げるか」

「……火は」

「点けたら報知器が鳴るだろ。俺らは無免許運転で逃げなきゃなんねえんだぞ」


 岸田は耳にヘアピンの刺さった男のポケットから財布を取り出し、運転免許証を引き抜く。人を殺すつもりだったのに身分証を持っていた、というのを僕は不思議に思う。


 次に岸田は血だらけのドライバーに近寄り、ポケットから車のキーを取り出す。

 ドライバーは沈黙している。

 作業は淡々としていた。


 身体を跨ぎ、廊下を歩いていく。

 岸田の靴の先には血がこびりついていた。それに鼻を突くような強い匂いがした。額にじっとりとした汗をかいていて、血と汗と揮発したガソリンの臭気がまとわりついている。ドアを開けると外気に冷やされた呼気が湯気のように漂った。


 通りは静かそのものだった。

 建物も車もすべて自然で、緊張に縛られている僕らだけが風景から浮いている。


 気がつくと呼吸が浅くなっていて、僕は意識的に大きく息を吸い、吐いた。


 まだ雪が降り続けている。

 月がやけに煌々と光っている。


 ゆっくりと歩くだけでいいのに、心臓が無駄に拍動し続けている。危険事態危険事態危険事態走れ走れ走れ。血を全身に巡らせて運動させようとしている。それを押し殺して、一歩ずつ足を出す。


 周囲には誰もいない。

 岸田が車のキーのボタンを押すと、ヘッドライトが短く光った。

 車のドアを開け、岸田が運転席に乗り込んだ。キーを差し込み、キーを回し、シフトレバーをパーキングからドライブに入れた。ヘッドライトをハイビームに点灯させ、息を吸い、吐いた。


 免許なし、カーナビなし。

 岸田の勘とスマートフォンのマップアプリだけを頼りに車は発進した。

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