III - 11

 いつまで経っても誰も帰ってこなかったので僕も部屋を去った。


 上等な解錠道具をもらったばかりだったから、鍵なしで施錠するくらいは簡単だったが、ドアも開けっ放しのまま外に出た。通りには線路の敷かれた高架があって、窓から光を漏らす電車が轟音を立てながら頭上を走り去った。


 ポケットからアーミーナイフを取り出し、刃を立てて指の腹で撫でた。


 左手から提げた、解錠道具の詰まった鞄を高架下のゴミ袋の山に放り投げてやりたかったが、革紐が指を離れなかった。まばらに街灯が光る道を、来たときのことを思い出しながら帰った。


 部屋には紫苑がいた。


 キッチンでエプロンを着け、フライパンを火にかけているところだった。

 エプロンもフライパンも真新しい。

 棚の上に置かれたスマートフォンがラジオを流していて、たぶんジャズに含まれるような音楽を放送している。ピアノと、トランペットだかホルンだかトロンボーンだかわからない何かラッパの音が小さなスピーカーからこぼれている。


「おかえり」

「ただいま」


 鞄を床に降ろし、キッチンに目をやる。ボウルに入ったポテトサラダに、冷凍ではないハンバーグ。ランプを光らせながら炊飯器が蒸気を上げている。


「どこかに行ってたの? 探してもいなかったから一人で帰ってきちゃったよ」

「適当に買い物っていうか、フラフラしてただけだ。本屋とかCD屋とか」

「そうなんだ。楽しめた?」

「そこそこは」


 相変わらず、僕は普通に嘘を吐いた。

 嘘を吐いてから、嘘の吐き方を間違えたな、という気がした。

 普段行かない方に足を伸ばしたらエロいお姉さんにナンパされて断るのが大変で。

 それくらいのことを冗談であるかのように軽いトーンで話して笑ってしまうべきだった。紫苑が挽肉の形を整えてフライパンに並べるたびに、肉の焼ける小気味良い音がした。


「晩ご飯を作ってるんだけど、余計なお世話だったかな」


 フライパンに蓋を被せながら紫苑が尋ねる。


「余計なお世話とかじゃない。必要なお世話……違うな、なんだ、まあ、嬉しい」

「そっか。なら、よかった。きみは、ハンバーグはすき?」

「ああ、それなりに」

「なら、よかった」


 紫苑が笑った。とりあえずハンバーグにしてみたけど、きみが好きでよかったよ。ハンバーグが好きだっていうと子供っぽい気もするけど、やっぱり王道だね。そんなことを言いながら、紫苑がまた尋ねる。


「お風呂も沸かしてあるけど、どうする? 先にご飯? それとも先にお風呂?」


 漫画の定型文みたいな台詞だったが、紫苑はそれに気づかないまま軽く首を傾げた。

 それとも、がもう一つ続くこともない。第三の選択肢不在。

 ばかばかしさに僕は呆れ、笑う。


「先にご飯を頂きます」


 床に腰を降ろし、小さなテーブルに並んだ紫苑の食事に向かう。ハンバーグとポテトサラダ、スープに白飯。いただきます、と僕は言い、美味しい、と繰り返した。何かの確認の儀式めいているような気がした。


「明日は、オムライスにしようかと思うんだけど」紫苑が言う。「きみは好き?」

「好きだよ」

「じゃあ、作ろうかな」


 ふ、と紫苑が笑う。


「あんまり、気を使わなくていいぞ。俺は毎日冷凍食品のチャーハンでも飽きない」

「気を使うっていうか、私にはこういうことくらいしかできないからさ、やらせてよ。なんなら、リクエストも受け付けるよ? ケチャップで『萌え』とかハートマークとか書いたりとかさ」

「メイド喫茶かよ」

「それとも、魔法をかけるところまでやった方がいい?」

「なんじゃそりゃ」

「知らない? メイドの紫苑がご主人様のために魔法をかけさせていただきます、美味しくなあれ美味しくなあれ萌え萌えきゅん」平坦な声で唐突に魔法を唱え、両手でハートマークを作りながら紫苑が僅かに首を傾げる。「……みたいなやつ」

「……何やってんだお前は」

「きみを喜ばせるため一肌脱いでみようかと」

「一肌脱がれても。お前、恥ずかしげとかないのか」

「恥ずかしそうに魔法をかける方がいい?」

「そういう話じゃねえ」


 僕は笑って見せ、紫苑の作った夕食を口にする。

 紫苑が笑い、箸を手にとり、また箸を置いた。


「……あ」紫苑が顔を背けて言った。「駄目だ、遅れて恥ずかしくなってきた」


 口元を手で隠し、冷やそうとするみたいに、ぺたぺたと自分の額を触りながら呟く。ばかだな。ばかだな、まったく。もう、あああ、もう。紫苑の指先が髪を耳にかけ、赤くなった耳がちらと覗いた。


「結局、魔法は撃てそうか」


「ちょっと、MPが足りないからだめ」

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