III - 02

 僕の目の前には鍵のかかったドアがある。

 僕の手には自作のピッキング道具がある。


 深く息を吸って呼吸を止め、鍵穴にレンチ、ピックの順番に滑り込ませる。


 指先から伸びた神経がピックに絡みついているように感覚が鋭利だ。身体の中を伝わる心拍や血流の一つ一つを感じる。背後には岸田がいて、その手にはカクテルが詰まった缶が提がっている。道路にはここまで僕を運んできたワゴンが止まっている。僕がいるのは普通の家だ。二階建てで一戸建て。ささやかな庭がある。二階を見上げると、ベランダでコスモスが咲いているのが見える。玄関脇に小さな自転車が置かれていて、足元にはプラスチックの植木鉢が置かれている。植木鉢では朝顔が枯れている。植木鉢の縁に油性ペンで書かれた名前が掠れていて、1ねん2くみ28ばん、とだけかろうじて読める。苗字は菊池、たぶん親二人、子一人の三人家族。


 僕が鍵を開ければ、岸田は家の中で缶の中身、カクテルを流す。

 何もかもあっという間に焼けるだろう。

 僕の手は震えていない。

 指先はピックを操り、着実に一本ずつピンを処理する。


 ひどく簡単だった。


 一、二、三、四、五。

 鍵穴がくるりと左に回り、かちんと小さな音を立てて錠が解ける。


 終わり。


 岸田が後ろから手を伸ばしてドアを開けた。


 岸田の持ち時間は五分だ。車の中ではドライバーが周囲を警戒している。

 本来この家に住んでいる家族はどこかに出かけていて、それを他の仲間が監視している。

 監視、運転、解錠、着火。分業制だ。


 岸田がスニーカーを履いたまま家に上がるので、僕もそれに倣うように土足で上がる。絨毯を踏みながら数歩進んでから、僕は車に戻ればいいことに気づくが、足は後ろには戻らない。細くも短くもない廊下を抜け、普通に明かりを点けてリビングに入った。


 車に戻ったところで、燃やすのを待つことになる。

 見ても見なくても一緒なら、見ておいた方がいい。


 広々としたリビングには一組の革張りのソファが置いてあり、絨毯が敷かれ、壁には子供が描いた絵が貼ってある。棚にはぬいぐるみが座り、一家が写った写真が飾られている。写真に写っているのはランドセルを背負った小さな男子小学生と若い両親で、左から母、子、父とみんな笑顔だ。普通の一家で、普通に幸福そうだった。頭の中で想像上の三人の笑い声が聞こえた。


 頭の中の笑い声はテレビのSEのように作り物じみて聞こえる。

 部屋自体が三文ホームドラマの作り物じみて見える。

 眉間の奥の奥がきりきり痛む。


 バチン、という音が聞こえ、部屋の明かりが消えた。廊下の先、洗面所の方に行った岸田がブレーカーを落としたのがわかった。トラッキングで着火されたら困る、と岸田は言い、取り出したペンライトをやや下に向けながら大きな直方体の缶を傾けた。

 窓から差し込む僅かな光が、いつも解錠で入る部屋のものと似ていて変に落ち着いた。


 岸田が手持ちの缶の中身を静かに流していく。愛称・カクテル、通称・混合ガソリン。一瞬光で照らされた液体は練乳をかけたブルーハワイのカキ氷のような乳白色混じりの水色だ。水色がゆっくりと家具を回り込み、絨毯に染み込み、揮発して匂いを撒き散らす。不快で癖になるような刺激臭が鼻を突く。

 もっと盛大に撒き散らすのかと思った。

 僕がそう言うと、岸田が答えた。

 容器の口から散らすように撒くと円弧状の燃料痕が残るから利き腕や身長が割れやすくなる。岸田の言葉に従うように、水色が液面を揺らしながら静かに広がる。


 空になった缶が床に置かれ、ぼおんと間延びした音が響いた。


 岸田がポケットから紙マッチを取り出す。紙マッチはどこかの店かホテルのものらしく、白地のパッケージに赤い星が二つ印刷されている。ロゴの下にアルファベットで屋号が書かれているようだが、読み取れない。


「普段は着火したらすぐに逃げるんだけどな」岸田が言う。「少し、見ていけ」


 撒いたガソリンに靴を浸けないようにして岸田が出口の側に回り、僕もそれを真似するようについて行く。岸田は紙マッチから一本を引き千切って着火し、台紙に残った紙マッチに火を移す。台紙に残った紙マッチ全てが着火し、五、六本分の火が合流して、ゆらゆらと背の高い赤と橙の混じった炎が上がった。


 心臓がゆっくりと大きな音を立てて鳴っていた。

 岸田の指先に炎があって、床には水面が揺れている。

 岸田の動きはスローモーションのコマ送りのように見えた。

 僕は吸い寄せられるように炎を見る。

 唾液を飲み込む、ごく、という音が心拍に重なった。


 岸田が力を抜くように手首を返した。得体の知れない引力を持ったそれが岸田の手を離れ、軽い放物線を描きながら宙を舞った。炎は空中で火の玉のようにゆらりと揺れ、濡れたフローリングに足を降ろした。


 赤い炎が青くなり、少し浮き上がった。

 炎が背を伸ばし、くの字に折れ、への字に潰れては波打つことを繰り返し、水面を放射状に広がった。円になり、円が広がり、モノに触れるたびに捻じれて這い上がるように上へと伸びた。右へ、左へ、上へ、上へ。青い炎は何かに触れては揺れ、部分的に赤くなった。


 赤と青が縦横無尽に駆けていく。

 モノというモノが炎に晒され、縮み、歪む。

 歪みに耐えられなくなったものから崩壊していく。

 絨毯の毛が捩れ、林立する炭の集まりになる。革張りのソファが黒煙を吐きながら裂け、膨張したスプリングが唸り声を上げる。火のついたぬいぐるみが腹から綿を吐き出しながら崩れる。熱されたガラスの花瓶がちかりちかりと赤く光っている。蛍光灯を覆う傘が熱で溶け、雨垂れのように降る。熱された空気が気流となり、きらきらと輝く火の粉を噴き上げる。瞬きのたびに火が網膜に焼き付く。プラスチックの焼ける強烈な甘い匂いを撒き散らしながら熱波が揺れる。音の出る絵本が熱に狂い、電子回路がチープなドレミの歌を演奏し始める。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ・レ・ド、と奏でられた歌が不協和音になって波打つ。プラスチックの玩具が溶け、白と水色の交じった液体になって沸騰している。プラスチックの水溜りが泡立ち、銀色のネジが踊っている。


 僕の頭の中には作り物じみたSEの笑い声が響いている。

 死者の笑い声。死者のリサイクルのリサイクル。

 ネクロマンサーが歌い続けている。


 絵本が狂った音色を吐き出し続ける。ド・ミ・ミ・ミ・ソ・ソ・レ・ファ・ファ・ラ・シ・シ、と愉しげな音が響く。熱された空気が対流し、油を流した水面みたいに景色がぐにゃりと変形する。転覆したオイルタンカーが海を真っ黒に覆いつくしていくように、熱と炎と黒煙が何もかもを塗りつぶす。炎の赤、炎の青、煙の黒、これが三原色だ。ソ・ド・ラ・ファ・ミ・ド、と音色を吐いた絵本がノイズ交じりになり、割れたドを繰り返し繰り返し鳴らしながら回路が焼ききれる。


 どうしようもなくざらついた空気が鼻や口から入り込んで、口腔の粘膜を這おうとする。一歩退いた場所でなければ、一瞬で肺の中が焼けるような熱。ちっぽけな肺に収まった、ちっぽけな肺胞が焼かれるのを想像する。炎で乾燥する目に涙が溜まっていた。目を擦ると手のひらが僅かに濡れた。波打つように風が吹いて火の粉が服を僅かに焦がした。身体が軽くなり、身体から力が抜けた。膝から崩れて床に横になりたくなった。

 炎を最後まで見届けて、煙を呼吸したかった。


「出るぞ」


 岸田が言った。

 僕は振り向き、ゆっくりと言葉を返した。


 ああ、わかった、行くよ。


 リビングを抜けて廊下を歩く。

 僕が鍵を開けたドアを潜り、家を出てくる。

 数分前と変わらず、玄関先には小さな自転車が置かれていて、プラスチックの植木鉢の中で朝顔が枯れている。道には来たときと同じワゴン車が止まっている。リビングに面した一枚の窓の中で暗闇がぼんやりと赤く光っているのが見える。


 カーテンはまだ残っていて、窓ガラスはまだ割れていないし、煙も漏れ出していない。


 それでも、崩壊は進んでいる。


 馬鹿みたいに簡単に、人知れず、崩壊している。


 僕らを乗せて車が滑り出す。消防車のけたたましいサイレンの音が聞こえてくる様子はない。静かな住宅街と、静かにそこを走る車。平和な光景そのもので、実際には何もかもハリボテだ。


 僕はアーミーナイフの刃を引き出し、人差し指の腹に押し当てる。

 熱を帯びた指先だけが別の生物になったかのように脈を打っている。

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