II - 05

 昼前に駅で紫苑と待ち合わせをし、電車に乗り込んだ。


 紫苑の私服姿はパーカーにショートパンツで、頭にはいつものキャスケット帽が乗っていた。


 電車に揺られて十数分。


 映画館に行き、紫苑が選んだハリウッド産ロードムービーを観た。

 映画は捻くれた話で、存分に人が死んだ。

 聞いた人間を死に至らしめる呪いの詩を見つけた主人公とヒロインがアメリカ中を旅するという内容で、二人は各地を回り、詩が掲載された本を焼き払って力の独占を目指す。目指すは世界征服だ。アパートで、レストランで、主人公はなんとなく呪いの詩を唱え、特に恨みもなかった人が次々と死んだ。

 主人公もヒロインも死なず、呪いの詩もまだまだ世界に残ったまま、物語は終わった。


 世界は混沌に向かっていく。


 それだけ示唆し、エンドロールが延々と下から上に流れていった。


 面白かったね、と紫苑は言った。

 バンバン死人が出るような話だったけどな、と僕が言うと、紫苑は笑った。

 だったけど、っていうか、だったから、面白いんじゃないかな。

 かもな。

 紫苑の言葉は僅かに露悪的で、それがよかった。


 軽い近視なのか、紫苑は映画を観るときだけ眼鏡をかけていて、それがやけに似合っていた。


 休日で、どこに行っても人が溢れていた。映画館のロビーでは特撮ヒーローの劇場版を観に来た子供が甲高い声を上げていて、道では異様に短いスカートを履いた女がスマホに向かって狂ったような大声で話しかけていた。電話先は男らしく、女が媚びるように笑ったが、屠畜される豚の鳴き声みたいに高い声だった。


 これからどうしようか。


 紫苑が尋ねるので、なんとなく本屋に入り、紫苑の後を歩いた。

 紫苑が本棚の谷間をゆったりとした足取りで歩きながら、時折棚差しの文庫本を引き抜いては裏表紙のあらすじを睨む。一冊を手に取って表紙を僕に向け、紫苑が言う。これ、今度貸してあげるから読んでよ。真相が酷くてさ、主人公が実は四重人格で被害者以外の登場人物はみんな主人公だったんだよ。やりすぎだよね、そんなガッカリ感をきみにも味わって欲しい。

 すごい薦め方をするなお前は。僕は笑う。


 他愛ない話をしながら書店を回り、紫苑は自分の手元に本を積み重ねる。

 すり減ったスニーカーで硬い床を擦りながら、紫苑の後をついていく。

 何かの機会にもらった図書カードが財布に入っていたので紫苑に押し付け、数冊分の本の会計をさせる。


 そんなことをしているだけで時間は経ち、また電車に揺られて帰る。


 紫苑が隣に座っていて、電車が揺れるたびにときおり肩が触れる。窓の外に立ち並ぶビルの谷間から西日が目に飛び込んでくる。橙色に染められた紫苑の横顔を見て、額から鼻先、口元に流れる線を眺める。疲れが溶けている頭の中で、眉間の奥の奥がじわりじわりとゆっくりと痛む。


 楽しかったか? 頭の中で僕が僕に尋ねる。


 楽しみすぎるなよ。お楽しみは終わる。


 所詮、束の間の楽しみだ。浮かれるな。


 頭の中の思考は声になり、死んだ母親の声が混ざる。


 お前はああいうふうになる。あいつと血が繋がったお前は将来ああなる。


 テレビで鳴り続けるSEの笑い声のように、死者の声が眉間の奥の奥をきりきり痛める。死者に寿命はない。故人は思い出の中で生き続けますという言葉よろしく、母親は僕の脳と頭蓋の間で生き続けてお決まりの台詞を繰り返す。お前は、お前は、お前は。


 僕は紫苑に笑ってみせる。


 電車が駅に着く。

 駅から道を歩く。

 戻ってくる。


 結局。


 どこに行っても戻ってくるのはこの部屋だ。

 どうしようもない。何もかもが台無しになる。


 鍵を開けっ放しのドアを潜り、玄関に靴を揃え、紫苑が小さくただいまと呟く。窓からの夕陽しか明かりがない部屋で、紫苑の姿はただのシルエットになる。紫苑がLEDライトを取り出して点灯させ、腰を降ろす。


「楽しかったね」

「ああ、なら、よかった」僕は相槌を打つ。「また、来てくれると助かる」

「うん、また、ね」


 ゆっくりと時間が過ぎていく。

 静かに部屋が真っ暗になっていく。

 空気が冷たくなるのを肌で感じる。

 紫苑の指先がページを捲っていく音だけが静かに聞こえる。


 適当な時間を見計らって立ち上がり、僕は言う。「じゃあ、な」

「またね」

 紫苑が手のひらを小さくゆっくりと振る。


 ライトが照らす範囲の外は真っ暗闇で、闇の中、壁に手を突きながら短い廊下を抜ける。

 玄関に並んだ靴を足先で探し、紫苑の靴の隣、自分の靴を履く。


「おやすみ」

 僕は言う。

「おやすみ」

 紫苑も言う。


 バタン、とドアを閉め、薄汚れた蛍光灯でぼんやりと白い廊下を歩き出す。

 エレベーターには乗らず、階段を一段ずつ、足音を響かせて下る。


 じわり、じわり、と思考から何かが滲み出る。入れ替わりに冷たいものが思考に染み込んでくる。わかってる、わかってる。僕は自分に言い聞かせる。結局。結局。結局。


 こんなもの、なにかの機会にあっという間に崩壊する。


 何があっても最終的に戻ってくるのはあの部屋で、あの部屋だって何かの機会に居られなくなる。管理人があの部屋を訪れて僅かな異変に気づく、新しい居住者が来て住み着く、そんなことだけで僕らは行き場を失う。そんなところで何をやってる。何を楽しんでる。眉間の奥の奥がきりきり痛む。わかってる。わかってるよ。


 家に帰ると今日は父親がいる。

 テレビでは安っぽいドラマが流れていて、父親役の俳優が子役を抱きしめている。僕は無表情な顔を作って食事を済ませ、シャワーを浴びてベッドに横になる。

 紫苑は、まだあの部屋で起きているだろうか、と思った。


 敵が欲しかった。


 安い漫画の安いヒロインのように、分かりやすい敵を抱えていて欲しかった。イジメに遭っているとか、分かりやすい悪役に追われてるとか、不幸の原因がそういうことに収束していて欲しかった。悪役がいるなら、自爆の一つくらいはかましてやれる。特攻くらいなら食らわせてやれる。


 それくらいなら、僕でも救える。


 現実は僕にはどうしようもない。


 携帯ゲームの電源を点けるとレベルアップした主人公が先手の全体攻撃で敵を殲滅している。街の人々が他の街の噂をし、次に行くべき場所と倒すべき敵を提示してくれる。次はこの街、この敵、このアイテム。クリアできる程度に調整された困難。素晴らしきレベルデザイン。


 翌日も、翌々日も、屋上とあの部屋で紫苑に会う。根本的解決は何も伴わないまま日々を潰す。いろいろなことに気づきながら気づいていないふりをする。紫苑が笑うように、僕も小さく笑う。結局。結局。


 結局。


 そういうことをしているから足元を掬われる。

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