第7課 最後に笑え


――それから、俺はゆっくりと旅支度を始めた。

何日もかけて、少しずつだ。焦るべきじゃない。

次に村に商人が立ち寄る時に、金を払って馬車に乗せてもらうのだ。まだ先の話だからと、準備は少しずつ進められた。

路銀やら旅の荷物やらは、バゾの厚意に甘えることにした。

馬車の主とは顔見知りだ、安心してくれ、とバゾは優しく笑っていた。


「――トーこれはゼスルむかしヤーズおれがスルジャーラつかってクスいたスルジャークどうぐだトフすこしストゥア古いけどスルジェーブラ使えるだろう


旅装を一式。王都はそう遠くないらしく、野宿までは想定していない装備だった。

ほぼ馬車移動だからか、重量はなかなかある。歩きの旅じゃないなら多少重くても大丈夫なんだろう。多分ヒーブ


このヴェースむらはフラディン・グロヴァンみやこのブリゼカーちかくにイェあるこのクヴァイ王国イェマルカーちいさいクヴァイくにだタケーさほどネ・ダルカとおくないムーセ・イェはずだ


バゾはそう言って旅の荷物を俺に持たせる。この重さなら歩けそうだ。山道を一日、というのでもなければ。

それからバゾは、腰の袋にいくらかの銅貨を入れてくれた。


「バゾ、トーこれはドゥア・カーなんで…」

ヤズおれにトジネ・ロズミウわからんドゥア・カーなんでタケーこんなにロビーウするのか…、ティおまえはヤケー・ヤズ・イェラおれににているドゥア・タからムーセ・イェだろうなヒーブたぶん


バゾの真意は分からない。本人も、特に何かを分かってほしいという様子ではなかった。

隣で袋の紐を結んでいるグーマも、何も言わない。

分からないことを分からないままにしておく才能が俺にはある。

言葉を追いかける者が決して失ってはならない才能だ。


「…トルギスタ商人がウ・クルートフ・サードフちかいうちにタクーこのヴェースクーむらにホディートくるベーだろうヴ・タキム・ラージェそうしたらラザムいっしょにホディーアイ行くといい


この小さな村にも定期的に行商人が訪れるとは聞いていた。

何度か顔を見たことがあるくらいで話をしたことはない。気心の知れた村の人ならともかく、俺の拙い言葉で商売の邪魔をしても悪いと思ったからだ。


レーパ良いレス・イェヤツだヴェリト信じてマギーシュいいぞ


そうは言うが。

村から出ることには、いずれにせよ不安が付きまとう。

とはいえ――それでも、俺の中には広い世界への憧憬めいたものが、多少は残っていたようだった。感傷的すぎるだろうか?

単に野良仕事ばかりの村の暮らしに飽きただけかもしれない。

そう、村の中は変わらず退屈だったが、去る前にはなんだって美しく思えるものだ。





「――ト?これは

「…スヴェスタろうそくスヴェスタろうそくイェです

レプよろしい

――それからの日々、バゾは今まで以上に俺に言葉を教えてくれた。具体的には、食卓なり炊事場なりで「これは何と言う?」と質問してくるようになった。

俺はそれに応える。

分からないときには教えてくれる。

俺の発言で文法的におかしいときは「そうは言わない」と訂正してくれる。

バゾは文法用語や修辞学といったものには疎いので、理路整然と解説してくれるわけではなかった。

「そういう言い方はしない」という感覚と、「普通はこう言う」という代案を示してくれるのみだ。

非常に良い教師だと思う。

グーマもそれに乗ってきて、色々と教えにきては最後に「ロズミーシュわかった?」と微笑んでくれる機会が増えた。


俺も俺で、魔法――彼らの言葉でいうところの「プロシェーニェねがいごと」を練習するようになった。薪割りや畑仕事の合間に俺が火を出すのを繰り返していても、取り立てて何も言わず、させるがままにしてくれた。

一応、作業の合間に遠くからチラチラと見てはいるようだが。俺としては別に隠すこともない。遠慮なく、様々に試す。

感動しにくいほうではあるが、魔法が使えるというのは中々どうして冒険心をくすぐる。色々試したくもなるじゃないか。


「――巨大なマグヌス火よイグニス来たれウェニー!」


形容詞をひとつ付けてみた。問題なく炎が――それも、拳ほどの大きさのものが――飛び出して、俺の手にまとわりつくように数秒間、ふらふらと躍った。熱さを感じないことに感心していると、すぐに消えてしまう。

「消えちゃうか」

手に炎がついてきてくれるなら、こう、そのまま殴りつける!とか出来そうなものだけど。

「じゃあ…――巨大な火よマグヌス・イグニス来いヴェニー我が手にてイン・マヌー・メアー 留まれマネー!」

冗談半分で更に長い文を唱えてみると、さっきと同じような炎が右手に灯り――

「消えない…」

たっぷり十秒燃えても、勢いを減じることもない。

試しに振るう。僅かに遅れるが、しっかり腕についてくる。

地面に近づける。

それなりに高温らしく、一拍の間をおいて枯れ枝が燃える。

でたらめに振り回す。

消えないし、忠実についてくる。相変わらず、熱くはない。

「――凄い」

偽りのない、シンプルな感想だ。

手に炎を纏う。いかにも魔法のようで、魅力的だった。

しばらく、魅入られたように様々な動作を試す。

かざす、殴る、振り回す、蹴る。蹴りは炎と関係なかった。

浮かれているのが自分でも分かる。


「飛ばせるかな」

草のない、乾いた地面をよく狙って――いや、どう狙うべきかも分からないのだけど。

「なんて言おうかな。行くイー向かうアディー? …いや、飛ぶウォラーレでいこう」

似たような意味のラテン語。細かいニュアンスの差はあるけど、まずは適当でいい。


「…巨大な炎よマグヌス・イグニス飛べウォラー!」


果たして、俺の腕から放たれた炎は真っ直ぐに宙を飛び――おおよそ二メートルで失速し、ぼてりと落ちた。

射程二メートル。どうだろう。本格的な闘争の世界に身をおいたことはない。達人同士の攻防なら、致命的な差になるのか?

「…実用的ではないかもな。…あ、飛び回れヴォリターとかどうだろう? もう一度炎を出して――」

――結果、俺の周囲をぐるぐる回る火球が生まれた。

ラテン語で「速くキティウス速くキティウス!」と急かしたら、炎の輪と呼べそうな速度にはなった。


…実用性や法則性を見出すのが楽しくて色々やっていたら、通りかかったグーマに見つかった。そこからは二人で実験をした。

グーマは心底楽しそうな顔をしていたし、俺が何かしてみせる度に「スタースナすごい!」を連発してきた。

日が暮れるまで、俺達は文字通りの火遊びに興じた。



それから数日が過ぎて――そわそわしながら過ごす日常はそれなりに贅沢だった――旅の商人の馬車が村を賑わした。

その横でバゾが俺を見送りながら、小さく呟いた。

「――ヴ・コンツァーフ・スマロヴァーイ、シューマ」

村中の良妻賢母が揃って細々した品を買いに走り、そう広くない広場には土埃が立っていた。

バゾの口から出たのは、知らない語彙で構成された文だった。


「…カー・トどういうことイェそのソーヴォことばはネ・ロズミウ分からない

「…スマロヴァーイ…スマロヴァート笑うことスマロヴァート笑うことをロビアーイしなさいヴ・コンツァーフさいごに


理解できた。もう体が覚えた文法事項だ。

「アーイ」で終わるのは命令形。

「アート」なり「ト」なりが付けば「~すること」だ。

「…ロズミウわかったインあと、…イェルうんソーヴォン・レスムそのことばもロズミウわかった

「最後に笑え」。妙な言い回しにさえ思えたが、ここでこの言葉が妙なのかどうか、俺はそれさえ判断できない立場にいる。

もしかして、旅立つ男に贈る言葉はこういうものなのかもしれない。慣習的な、「ボン・ヴォヤージュ」的な。

「…イェルああスマロヴァーウ笑おう

そう難しいことじゃない。多分ヒーブ



現れたのは、商人のイメージを裏切らない、早口でまくし立てる男だった。バゾに向かって、俺を指で示しながら言うのだ。


「イッ、トーこいつがムルヴィーシュ・クスおまえが話しよった・ズホディーティ・ヤケーずいぶん・スクォルナ・インしかも・バズスィルナ!」


語彙は高度、喋りは早口、発音も多分省略が激しい。

まずいな。何言ってるか、半分もわからない。

更にまずいことに、内容は分からないのに侮蔑的なニュアンスだけが伝わってくる。「スクォルナ」も「バズスィルナ」も、賭けてもいいがろくな意味じゃない。

細っこいとか貧弱だとか、かな。勘だけど。

軽く小馬鹿にしている程度の、気安い軽口程度なら構わない。

手間賃代わりに俺をイジって済むならいくらでもどうぞ。

ただ、真顔で(恐らくは)罵倒に近いことを言われれば、判断に困る。

しかも、バゾという優しい教師役を失った俺の言語野は緊張感に負けてしまう。

俺の言葉の下手さは、今やダイレクトに相手をイラつかせているのだ。

バゾやグーマが、たどたどしい言葉でも根気強く聞いてくれていた安心感というのは実は大きいのだ。


「…あー、ヤズおれは・シューマ、ラザムいっしょにホディーウいきますファーラありがとう


まるで教科書の第一課。素人丸出しの発話である。

素人には違いないんだが、どうにも気に入らない。

こちとら言語レベルは赤子同然なんだから、そんなに苛ついた表情をしなくてもいいと思わないか?

まあ、生き馬の目を抜く商人に、一銭にもならない俺の言葉をゆっくり聞き届ける義理はないんだろう。

"分かる言葉を喋れ"、"商売の邪魔をするな"

「――ホディーミ行くぞ」と呟いただけだが、言外にそんな雰囲気を纏っていた。

思い違いでありますように。

この空の上に居るかも分からない、神に祈った。



――最後には笑えるはずだ。多分ヒーブ






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