第6話

  半月近く経ったある夜、徳五郎は夢の中で戸を叩く音を聞いた。目覚めた後も、それが夢なのか本当に叩いている音なのか、けじめがつくまで間があった。

 「おい」

 徳五郎は手を伸ばしてお吉の鼻をつまんだ。お吉は四十過ぎた頃から臆面もなく鼾をかくようになった。

 「なんだい、お前さん」

 お吉は今まで大鼾をかいていた人物とは思えないほど、はっきり目覚めた声を出した。

 「誰か来たらしいぜ。いってみな」

 戸を叩く音は、乱暴なほど高くなっている。お吉は首を伸ばしてその音を聞いたが、すぐに布団をかぶってしまった。

 「あたしゃいやだよ。お前さん出ておくれよ。こんな夜中に、あたしゃ気味が悪いよ」

 「ちょっ」

 徳五郎は舌打ちをして起き上がった。

 土間に降りると、徳五郎は大きなくしゃみをし、襲ってきた寒さに胴震いをひとつした。

 「どなたですかい」

 「俺だ、開けてくれ」

 と外の声が切迫した口調で言った。徳治の声だった。

 「俺じゃわからねえよ。名前を言ってくんな」

 「ふざけてるひまはねえんだよ親父」 

 徳治は哀願するように言った。

 「追われている。いまやっと奴らをまいてきたところだ。かくまってくれよ」

 「駄目だな。ここへ逃げ込んだところで、連中はすぐやってくるぜ。よそへ行きな」

 「誰と話してんだい」

 いつの間にか、蝋燭をもったお吉が後にきていた。戸の外の声が圧し殺した声で呼びかけた。

 「おっ母、俺だ。中へ入れてくれ」

 徳治は不意に激しく戸を叩いた。

 「奴らが来た。入れてくれ。助けてくれよ」

 「逃げろ。中へ入ったら捕まるじゃねえか、馬鹿野郎」

 「駄目だ」

 外の声がすすり泣いた。

 「もう走れねえ。奴らもう、そこまで来ているんだ」

 「意気地のねえ野郎だ。しっかりしねえかい」

 「何言ってんのさ。早く入れてやんなよ」

 お吉が叫んだ。徳五郎を押しのけて、素足で土間に降りると、お吉は心張棒をはずした。黒い影が飛び込んできた。土間を駆け抜け、柱や唐紙にぶつかりながら、奥に走り込んでいった。手傷を負った大きな獣が、突然に飛び込んできたような感じだった。

 土間に白い日の光が射し込んだ。

 「おい、心張棒をかっときな」

 促されて、お吉は蝋燭を吹き消し、戸を閉めようとした。

 だが戸は半分ほど走って、そこで止まるともう一度静かに開いた。開ききった戸口を塞ぐように、男が三人立っている。

 「徳を貰って行くぜ、親父さん」

 と、真ん中にいる長半天が言った。背後から月に照らされていて、顔ははっきりしないが、仕事場にやってきたあの男達に違いなかった。

 「徳治なんか来てねえよ」

 「おや、またおとぼけだ。面白い親父だぜ、なあ」

 長半天は左右を見てくつくつ笑ったが、あとの二人は笑わなかった。

 「だがおとぼけは無理だ。中へ入るのを見ちまったんだ」

 「いねえものはいねえ」

 徳次郎は土間に下りて、お吉の手から心張棒をひったくると右手に握った。「あんた、危ないことをするんじゃないよ、穏やかに話してさ、帰ってもらったら」とお吉が囁いたが、徳五郎は「うるせえ、茶の間に引っ込んでいろ」と言った。

 「何も夜の夜中に乱暴しようというんじゃねェ!」

 と長半天の男が行った。

 「とにかく徳の野郎を、親分の前にしょっぴいて行かなきゃ埒が明かねえのさ。いつまでも鬼ごっこしているわけにはいかねえ。穏やかに渡してもらおうじゃねえか」

 「渡したらどうするつもりだい?」

 「そいつは解らねえ。親分が決めることだ」

 「痛めつけるだけか。殺したらお上の手が廻るぞ」

 「お上なんぞこわくはねえ」

 男はくつくつ笑った。

 「金を返せねえと、まずいことになるだろうなあ。ま、話しはこのぐらいでいいや。徳を貰うぜ」

 男が踏み込んできたのを、徳次郎は外に押し戻した。

 「徳治は渡さねえ」

 「そうかい、そうかい」

 男は一歩しりぞいて徳五郎をじっと見た。

 「そんなら話は早い。おい」

 長半天が顎をしゃくった。長半天が連れてきた若い者達に「早くしろ!」と言った。

 「何をしやがる」

 徳五郎は喚いた。

 「手前等のような悪党に、倅を渡せるかい」

 だが男たちはもう口を開かなかった。開くかわりに、荒々しく徳五郎を殴りつけた。一度男達の手から抜け出して、徳五郎は心張棒を振り回したが、棒は誰にも当たらず、一回転して自分で倒れたところを、息が詰まる程背中を蹴られて地に這った。顔も頭も、背も腰も殴られ、蹴られて、徳五郎は酒に酔ったように、全身が熱く膨らんでくるのを感じた。痛みはその底に沈んでいく。

 「徳治を逃がせ」

 と言おうとした時、頭の後を堅いもので殴られ、徳五郎は不意に何も解らなくなった。

 徳治が呼んでいる、と思ったとき意識がはっきりした。声が寅太だということも解った。

 お吉の呻くような泣き声もしている。

 「父、起きておくれよ」

 「大丈夫だ。いま起きてやら」

 しゃがみこんで胸をゆすっている寅太の手を握って、徳五郎はそう言ったが、軀を隈なく覆っている痛みに思わず呻いた。

 「気がついたかい。お前さん」

 お吉がにじり寄り、鼻がつまった声で言った。

 「このまま死んじゃうと思った」

 と、寅太がお吉の口を真似て言った。

 「なあに、殴られただけだ。少し横になってりゃ、すぐ起きれる」

 「こんなに叩かれて」

 お吉はまたすすり上げた。

 「冷たい土の上に寝て、なんてことだろう」

 「婆さんが、めそめそ泣くんじゃねえや」

 徳五郎は言ったが、大きな声を出すと軀中に響くので、ひどく優しい声になった。

 「徳はどうした?」

 「連れて行かれたよ」

 「暴れたか」

 「暴れるもんかね。可哀想に、おとなしく連れて行かれたよ」

 徳五郎は仰向けに寝たまま、空を見上げた。蒼黒い空に、ちりばめられたように日の光が散乱している。

 「意気地のねえ野郎だ」

 徳五郎は呟いた。すると思いがけなく眼に涙が盛り上がって、目尻を伝って流れた。

 「痛むかい、お前さん」

 「もともと一度諦めた人間だ。仕方がねえやな、なあお吉」

 「でもあの子、これに懲りて家に帰るといいんだけど」

 徳五郎は口を噤んだ。お吉は、徳治が何で追われているか解っていない。

 「さ、起こしてくれ。寅太も手をかせ」

 徳五郎は言った。お吉が後に廻って背を抱え、寅太は手を引っ張った。

 「おう痛え、つう。そっとやってくれ」

 軀を起こしながら、徳五郎は痛みに歯を食いしばったが、不意にあることに気が付き、こみ上げてくる笑いを感じた。痛みのために、笑いの抑えがきかず、半分立ち上がった中腰のままで、徳五郎は力なく笑った。

 「何だい、気味が悪いね」

 お吉は声を押さえて叱った。

 「あまり叩かれて頭がどうかしたのかい。いい加減にしないと、明日ご近所に叱られるよ。騒ぎに眼え覚ました人だっているんだからね」

 「お吉」

 徳五郎は漸く腰を伸ばして、足を踏み出しながら言った。

 「父って言ってたぜ、寅太がよ。はじめてだなあ、坊主もとうとう居付いてしまったぜ」

 

 一日中凍えるような風が吹き荒れた。

 低い雲が、飛ぶように空を掠め、それでも日暮れまで空はどうやら持ちこたえたが、仕事が終わった帰り道についに雨になった。半天を脱いで、道具箱をになった上からすっぽりかぶると、徳五郎は大正橋を渡って根町まで走って帰った。土砂降りではないが、かなり濡れた。

 「おう濡れた、濡れた」

 土間に飛び込んで言ったが、答えがない。それだけでなく、家の中はまだ灯も灯さず真っ暗だった。土間に足を踏みしめて徳五郎は怒鳴った。

 「おい、亭主のお帰りだ。居ねえのか、婆さん」

 「お帰り」

 茶の間でお吉の声がし、火打ち石を叩く音がして、障子が明るくなった。

 「いるんなら顔出しやがれ。暗闇の牛じゃあるめえし、何をのっそりしてやがる」

 「そんなに大きな声出さないでおくれ。あたしゃ頭が痛いんだから」

 お吉が立ってきた。大儀そうな身ごなしをしている。

 「頭が痛えのか、寅太はどうした?」

 「行っちゃったよ」

 「行った?」

 徳五郎はあわてて土間から上がると、お吉を押しのけるようにして茶の間に入った。火鉢のそばに卓袱台がぽつんと出ているだけで子供の姿はない。

 「坊主がどこへ行ったというんだ」

 「おっ母のところだよ」

 「一人で行ける訳がないだろ。また来たんだよ、あの人が」 

 おすえは、後添えに行くのを諦め、寅太と二人だけで暮らすと言った。

 「だから、この子をあたしにください、て畳に手をついて泣くんだよ。あの人が」

 「へッ、それでころりとだまされて、お前も一緒に泣いたってわけか」

 「そうじゃないよ。言ったさ。どこの馬の骨ともわかんないものを、たとえ半年でも親身で育てたのは、この家に授かった子だと思ってたからだ。あいよって渡すわけにはいかないよって」

 「言ってやったか」

 「言ってあげたよ。図々しい話しだもの、考えてみりゃ、いくら泣かれようと喚かれようと、とにかく亭主と相談の上、立派にご返事しましょう、てあたしゃ言ったんだよ」

 「それで坊主がいないのはどういうわけだい。おめえがはばかりに入ってる間に連れて行ったか」

 「そうじゃないんだよ。あたしゃそれが口惜しくて、いままで泣いていたんだよ」

 「ふーん」

 「おすえさんがね。寅太、おっかさんと行くかい、と言ったのさ。すると、あの子黙ってたって行って、おすえさんの袂につかまったじゃないか。あのひと容姿がいいだろ、声がきれいだろ。かないやしないよ」

 「酒買ってこい、お吉」

 と徳五郎は言った。

 その夜、徳五郎はへべれけに酔った。外で風雨の声がした。雨は風にあおられて、横殴りに戸や裏の窓を叩く。その音を開いていると、お吉と二人で海の底に住んでいるように淋しかった。

 「みんな行っちまったなあ、お吉」

 「わかったよ。さっきから同じ事ばかり言ってんだから。あたしゃ飯にするよ。腹が空いたから。いつまでも酔っ払いの相手をしていられないよ」

 「飯?お前よく食う気になれるなあ」

 「お前さんだって酒呑んでるじゃないか」

 「行っちまいやがった。徳の野郎も、坊主も。俺は婆と二人っきりだ」

 「婆で悪かったよ。本当にいい加減飯にして寝なさいよ。あんた」

 「よう、お吉」

 長火鉢の縁に縋るように指をかけて、ふらつく軀を支えると徳五郎は言った。

 「一ぺん父と呼んでみろ。寅太みてえによ」

 「ばかばかしいよ。まあ。こんなに飲んじゃって、悪酔いしてるよお前さん」

 「何がばかばかしい。へちゃくれ言わずに、父と呼んでくれ、な」

 「あいよ」

 とお吉は面倒くさそうに言った。

 「こうかい。チャン」

 「おう」

 と徳五郎は言った。徳五郎はじっと寅を見詰めたが、その眼にみるみる涙が溢れた。

 「もう一度やってくれ」

 上体を立て直すと、徳五郎は催促した。あほらしくて付き合いきれないよ、と言いながら。

 お吉は声を作った。

 「チャンよ」

 「おう」

 徳五郎はぽろぽろと涙をこぼした。

 「本当にばかばかしいよ」

 お吉は呟いたが、不意に自分の掌で顔を覆った。

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