第4話
龍ケ崎根町のその裏店は、徳五郎が住んでいる羽原町の裏店より古びて、最近手入れをしたこともないらしく、軒が裂け、屋根に秋草が生えているのが見えた。
「六さんのことですか」
丁度表に出てきた四十過ぎの女をつかまえて六臓のことを聞くと、女は無遠慮な眼でじろじろ徳五郎を見た。
「今はいませんよ。あの人どっかに越したんじゃないかしら」
「いやそれは解ってるんだ」
徳五郎はいそいで言った。
「ここにいた時、何をやっていた人か知りたくてね」
「この先の木場で働いていたと聞いたけどね。でも、ここ二、三年というもの、あまり働きに出なかったようだしね。さあ、何をしてたのかしらね。ときどき人相の悪いのが出入りしてたりして、わけ解かんなかったね。うちの亭主なんか、六さんは博打に凝ってんだと言ってんだと言ってたけど」
「・・・・・・」
「本当のところ、あたしはよく知らないんですよね。男のやることだからね」
「それで、かみさんはいなかったんですな」
「いえ、いましたよ」
「いた?」
眼をみはって徳五郎は女を見た。軽い驚きがあった。六臓は長いこと男女もめで、男手一つで寅太を育ててきたに違いないと思いこんでいたのである。寅太は、近頃は心を解いたように少しずつものを言うようになったが、母親の事を聞いても、当惑したように口をつむぐだけである。寅太の母親は、子供が小さいときに死んだか、六臓と別れるかしたものだろうと徳五郎は思ってきた。
そう思う徳五郎の心の中には、六臓と寅太を初めて見た日の、あの光景が焼き付いている。六臓が、叩かれながら老人にしがみついている。そこには長い間父親と子供だけで生きてきたことを示す必死な息遣いのようなものがあったのだ。
「おかみさんいたんですかい」
「ええ、一年前まではね」
やっぱりそうか、と徳五郎は思った。しかし一年前なら近いことではないか。
「一年前に別れたんだな」
「そうだねえ、別れたっていうのかしらねえ」
女は眩しそうに眼を細めて、青く晴れた空を見上げると指で頭を掻いた。
「なんか、いつの間にかいなくなった感じだったけどね。でも本当のところは、あたしはよく知らないんですよね、ええ」
「一緒に暮らしていた頃は、六臓の稼ぎで喰っていたわけだ」
「喰えるもんですか、あんた」
女は急に勢い込んで言った。
「おすえさんは、おすえというんですけどね、その人、ずーっと働いていましたよ。確か三間堂のそばの小料理屋とかに通いで、帰りはいつも夜だったね」
「それで別れてから、ここへ来たことはなかったんですかい」
「一度も来てないね」
女は断定的に言った。
「大方働いている先でいい人でも出来たに違いないって、あの頃噂したんですよ。あの人、きれいで、あたしらのようじゃなかったからね。垢抜けてましたよ」
「その小料理屋ってえところの名前は判らないだろね」
「知りませんね。聞きもしなかったしね。それにしても親方」
女は今頃になって不審そうな眼になった。
「六さんが何かしたんですか。そういえば六さんも男の子もいつの間にか見えなくなっちまったねえ」
例を言って徳五郎は裏店を出た。
町を抜けると、大徳寺と墨田徳右衛門の高い堀にはさまれた道を北に歩いた。突き当たって右に折れる。大正川の岸に出て、それから八原橋に出るつもりだった。
大正川にそって八原橋に出ると、徳五郎は眼を細めて川の下手を見た。日は丁度川の真上にあって、そのため水面は眩しく光っている。川波が細かく揺れ、光は細かく砕けて徳五郎の目を刺した。
『舟はどれだろう』
徳五郎は掌をかざして川下を見た。
昨日政吉はそばに寄ってきて「船が来ている」と囁いたのである。流人船が来たのである。船は鉄炮洲の島合所で交易の品を積み下ろし、その後流人を乗せると、川岸を離れて三日の間鉄炮洲沖に留まる。船が川岸を離れるのは明日だと政吉は言ったのだが、鉄炮洲と思われる河岸のあたりから、永代橋のきわまで船は幾艘か岸に繋がれていて、どれが流人船と見極めがたい。
船が鉄炮洲沖を出る時、徳五郎は寅太を連れて見送るつもりだった。六臓が住んでいたという元根町の裏店を訪ねたのは、念のために寅太の母親の消息を探りに行ったのである。しかし死んだのでないと解ったものの、行方が解らないことで、それは徒労だったようだ。
『野郎もとうとうみなし子になっちまうわけか』
島送りになる男も、そう考えているに違いないと思った。痩せた男が、老人の腕にしがみつき、子供が脚にしがみついていた光景がまた眼の裏に泛んだ。
突然夥しい鳥の啼き声が徳五郎を驚かせた。いつの間にか上空に無数の鯵刺しが群れていて、やがて徳五郎の目の前で、水中の小魚を啄みはじめた。鯵刺しの白い躰は、石を投げ下ろすように真っ直ぐに水面に落下し、高い飛沫を上げた。次々と落下し、一瞬の間に小魚を咥えて空に駆け上がる。
空を覆う眩しい光の中で、黒っぽく不吉に舞い狂う鳥の姿が、徳五郎の気持ちを落ち着かなくした。
『六臓に寅太のことは心配いらねえと言ってやりゃよかった』
もちろん流人に会うことは出来ない。だが政吉から手を回してもらえば、それぐらいの言伝ては出来たかも知れない。だが金がいる。頼めば政吉が自分で金を使って手を回すだろうと思い、言いそびれたのである。
物を質に置いて金を作って、親方に頼むんだった。といま徳五郎は後悔している。だがもう遅いようだ。船に乗せられる前に、流人達は牢屋を出され、手鎖、腰縄のまま莚に座って髪を調えてもらうという。いま頃六臓は髪を結ってもらいながら、子供のことを考えているだろうかと思った。
『しゃあねえじゃねえか、おい』
徳五郎は六臓にともなく、自分にともなく呟いた。鳥の声がいつの間にか遠のき、鯵刺しの夥しい群れは大正橋の方に移っている。目の前には、川面が弾ねかえす白い光があるだけだった。
三日目の朝、徳五郎は寅太を連れて永代橋に行った。流人船が見えた、船はツの中程に浮かんでいる。薄い霧が川波を隠していて、黒い船体は霧の中からそこに生えたように見えた。広い川幅のせいか、これから海を渡って行くほどの大きい船には見えない。
船が動き出したのは四半刻ぐらいした頃である。いつの間にか動いていたという感じだった。
「おい寅太。船を見な、船を」
徳五郎は慌てて叫んだ。寅太は出掛けにお吉からもらったするめの足を齧っていたが、徳五郎に言われて船を見た。するめを噛むのをやめなかった。
突然隣で低い泣き声がした。欄干につかまって、さっきから船を見ている老婆がいて、徳五郎は朝の早い年寄りが、散歩に来て川を見ているのかと思っていたのである。
だが泣き声で、そうではないことがわかった。恐らく流人船の中に、老婆の身寄りの者がいるのだろう。背中に大きな継ぎをあてた袷、素足に履いた草履は、縁が擦り切れて貧しい身なりだった。老婆は眼を船に据えたまま、固く握りしめた右拳で小さく欄干を叩いている。眼に涙が膨れ上がり、半ば開いた口から呻くような泣き声を洩らしているのだった。
「さ、行くか」
徳五郎は、するめをかむのをやめて老婆を見つめている寅太を促した。
川端を寅太と並んで歩きながら、徳五郎はふと、以前にやはりこうして寅太と並んで、沈んだ気分で今の道を歩いたことがあるように感じた。が、そんなことはあり得なかった。若い頃、徳治を連れてどこかに行った時のことだろうかと思った。
「いろいろなことがあったからな」
徳五郎は言った。
「これからも、いろいろとあらな」
「うん」
寅太が答えた。
徳五郎は立ち上がって寅太の頭を撫でると、振り返った。船は小さくなっていた。橋の上には老婆の姿が、もとの位置にじっと身動きもしないでいる。
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