第3話
「徳さん、ちょっと」
帰り支度をしているとき、棟梁の政吉に呼ばれた。万石屋の普請は骨組みが出来上がって、細かい仕事にかかっている。明日からは壁師が入るはずだった。棟上げがあったあの日から、一ヶ月近く経っている。
政吉は焚き火のそばに徳五郎を誘った。火は消えかけていて、政吉と向かい合って立つと背筋が寒かった。
「こないだの話しだが、やっと判ったよ」
と政吉は言った。政吉は徳五郎よりも十も年下だが、宛のいい棟梁で、材木町の棟梁といえば大工仲間で一目置かれる人間だった。大きな仕事を幾つも手がけ、お上の御用筋の普請を背負うことも珍しくない。顔が広かった。
子供の父親、あの時の下手な追い落としの処分がどうなったか、徳五郎は一日も早く知りたかったのである。政吉は武家屋敷にも出入りしていたし、奉行所の仕事をしたこともある。難しい頼みではなかった。
「有難うござんした、親方」
と徳五郎は言った。
「それで?どんな具合になってますんで?」
「いけねえよ、徳さん」
政吉は首を振った。
「島送りだ。そう決まっているそうだ」
「でも親方」
徳五郎は暗然として言った。
「あっしは見ていたんだが、ありゃ追い落としなんてもんじゃありませんでしたぜ。そんな気の利いたもんじゃなかった。その達者な年寄りに逆に叩かれていたんでさ。恐らく懐中物には手も触れてませんぜ」
「余罪を吐いたそうだ、石橋様がそうおっしゃった」
政吉は知っているという北町奉行所の役人の名前を口にした。
「物を盗っていりゃ死罪のところを島流しで済んだ。有り難いと思わなきゃいかんと言ってたぜ」
「さよですか」
徳五郎は眼を落とした。足元には、消えかかった焚き火が、力なく小さな炎を噴き上げている。
ふと気がついたように徳五郎は訊いた。
「無宿者ですかね、あの男は」
「いや六臓と言ってな、龍ケ丘の元松葉町に住んでいたそうだ。もっとちゃんとした仕事があるわけじゃあなくて、人足をしたり、博打を打ったりして暮らしていたらしい」
政吉は言って、両手を差し上げて大きな欠伸をすると、じゃ俺は帰るが、後始末を頼むぜ、と言った。
政吉の幅広い顔が、ゆっくり仕事場を出ていくのを見送ってから、徳五郎は庭の隅に行って井戸の側に置いてある桶をとってくると、焚き火に火をかけた。ぱっという鈍い音がして、白い灰が勢い良く舞い上がった。
家の中に引き返して、道具をしまうと、箱を肩に担いで歩き出した。焚き火のそばを通ると、まだじゅうじゅうという音がした。
気分が重くなっているのを徳五郎は感じている。寅太の父親が島送りになるとわかったことが胸につかえている。寅太というのは子供の名前である。その名前を、ようやく最近になってお吉が聞き出したのだった。子供はいくらか馴れてきたようである。お吉が外に出るときは従いてくるし、夕方には自分から土間や家の前を掃いたりしているという。
だが、「どうしてこの子は、こう無口なんだろう」、とお吉が嘆いた。寅太は相変わらずものを喋らない。名前が解ったのも、しまいに腹を立てたお吉が
「それじゃ名無しの権兵衛にしとくよ、いいネ」
と言って、ゴンベ、ゴンベと呼んだ時、小さな声で「とらた」と言ったから解ったのである。女の子のように済んだ声だった。
「おや、ちゃんと口はきけるんだネ」
お吉はその時、なぜかひどく嬉しくなった。
「そうかい、いい名前じゃないか、強そな名前じゃないか」
などと子供におべんちゃらを言い、季節外れの白玉を作って寅太に食べさせたのだった。
だが、それで寅太の口がほぐれたわけではなかった。相変わらずものを喋らない。湯屋に連れて行って、こびりついた垢を落としてやり、お吉が仕立てた小ざっぱりした袷を着せてやると、寅太にはその思い出だけで十分なのだろうと徳五郎は思ったりする。六臓というあの男が島送りになれば、寅太は一生父親と会うことが出来ないと思った。すると、寅太の小さな躰が不憫に思えてくるのだった。
大正橋を渡って家の近くまで来た時、日はあらまし暮れかけていた。道の左右にはもう戸を閉めた家もある。五つ(午後八時)頃まで表戸を開け放し、蚊遣りの香が匂い、家の中から洩れるこぼれ灯の中を若い娘や子供たちが夕涼みしていたこの前までの夏の風景が遠い昔のように思える。家々の軒下に漂う薄闇には、どこか冷え冷えとした感触があった。
徳五郎は足を止めた。
裏店の木戸の前で、小さな人影が入り乱れ、鋭い叫びを交わしている。子供の喧嘩のようだった。五、六人で一人を殴りつけていると解った時、徳五郎は走った。殴られ、打ち倒された小さな躰が、気丈に立ち上がって一人にむしゃぶりついて行ったのを見ながら、徳五郎は怒鳴った。
「やめろッ、この餓鬼めら!、こら!」
駆けつけると、徳五郎はまだ揉み合っている子供達を引き離し、背丈の大きな子供を選んで頭を張った。殴られているのが寅太と解ったときから、徳五郎の頭は怒りで熱くなっていた。子供たちが、寅太より一回り躰が大きいのが癪にさわった。
「てめえら、弱いもんいじめやがって」
子供達は一斉に徳五郎を見た。突然割り込んできた大人が、すさまじい剣幕なのに驚いたようだった。
「あ、いけねえ」
一人が叫んだ。
「やばいぞ、こいつの親父だぞ」
あっという間に子供達は逃げ散った。薄闇の中に溶け込んだように、素早い行動だった。あとは急に静かになった。
「ひでえことしやがる。怪我はねえか」
徳五郎はしゃがみ込んで、寅太の泥まみれの着物をはたいた。顔も土がこびりついて、鼻血を出している。
「鼻血が出ているな?」
徳五郎は武骨な指で、黙って眼を光らせている寅太の鼻の下の血と泥をぬぐってやった。
「大したことはねえ、すぐ止まる。他に痛いところはねえかよ?」
不意に寅太が胸にしがみついてきた。中腰になっていた徳五郎は思わず尻餅をつきそうになったが、受け止めると軽々と抱き上げて立ち上がった。
「さ、家に帰るぞ」
耳のそばで泣き声が洩れた。歯を噛みしめるようにして寅太が泣いている。小さな躰の震えが手に伝わってくる。
「よし、よし」
と徳五郎は言った。
「今日からは俺がおめえの父だ。おめえをいじめる奴がいたら、片端から俺が退治してやら」
島送りだ。そう決まっているそうだと言った親方の政吉の声が、暗く蘇る。抱き上げた胸から肩に伝わってくる。子供の躰の温かみが哀れだった。
「父と言ってみな。え?」
「おうと返事してやるぜ」
「お吉はおめえのおっ母だ。な、父と呼んでみな」
泣き声は号泣に変わった。返事はなかったが、寅太が心を開いたのを徳五郎は感じた。寅太の手は徳五郎の首に巻き付き、しっかりと襟を掴んでいる。強い力で息苦しいほどだったが、木戸をくぐりながら、徳五郎は心が和み、満たされるのを感じていた。
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