第2話

 「おう、今帰ったぜ」

 竹町の裏店の家に戻ると、徳五郎は威勢よく怒鳴った。

 「なんだい、今ごろ帰って大きな声を出すんじゃないよ」

 台所のあたりで、お吉が怒鳴り返す声がした。

「朝出かける時、お前さんなんて言ったんだい。今は万石屋の棟上げだから帰りは早え、今日こそ上がり框のかしいだところをなおしてやるって言ったじゃないかよ。あたりよく見廻してみな。日暮れどころか、もう夜だよ」

 「何だ、このあまァ」

 土間に足を踏みしめて徳五郎はどなり返した。

 「亭主がまた家に入らねえうちから、べらべらべらべら文句言いやがって。遅くなったのが悪いだと?、馬鹿いいやがれ、遅くなるには、それだけの訳があら。文句ぬかす前に、ご苦労様の一言が言えねえのか、てめえは」

 徳五郎とお吉の口喧嘩を、裏店の人達はもうだれも驚かない。二人の口喧嘩は三年前からめっきり派手になった。三年前、一人息子の徳治が失踪した。徳治は細工物が好きで、いい腕の細工師になるかと思われたが、二十歳頃から博打の味を覚え、身を持ち崩した。あの夜、酒に酔って帰った徳五郎と殺すの殺さないという大喧嘩の末に、家を飛び出して、今は行方が知れない。

 徳五郎とお吉の口喧嘩が派手になったのを、単純にあれから夫婦仲が悪くなったと見ている者もいたが、なに、あれは息子がいなくなって淋しいから、ああして景気をつけているのさ、とうがった言い方をする者もいた。

 ともあれ、徳五郎が仕事から帰ってきた途端に、滑稽な儀式のようにして、土間で怒鳴る。お吉にしてみれば、亭主の留守中に、音沙汰のないことや、先行きのことを考えたりしているうちに、気が滅入る。それが何もかも徳五郎が五十過ぎて棟梁になるあてもない、裏店住いの叩き大工の有り様だからこうなったように思え、腹が立ってくるのである。そこで怒鳴る。一通り怒鳴ると、今度は急に徳五郎が哀れになってくるのだった。口喧嘩のあとで、二人は少し無口になり、間もなく世間話など始めるのだが、その穏やかな時間は、いつもひどく淋しかった。そうしていると、どこか暮らしに穴があいていて、そこを風が吹き抜けているのを感じるのである。

 「何がご苦労様なもんか」

 お吉が手を拭きながら出てきた。

 「大方酒をくらって、あっちこっちふらついて・・・」

 おや、とお吉は言った。

 「その子は何だい」

 「拾ってきた。飯を喰わしてやんな」

 「拾ってきたって、お前さん」

 お吉は円い顎を引いて、まじまじと子供を見た。子供はやはり黙ってお吉の顔を見返している。障子に洩れる行燈の灯に、眼が光る。

 「遠慮することはねえ、上がんな、上がんな」

 言って徳五郎は茶の間に入った。お吉は根太が腐って傾いた上がり框に膝をついた。

 「お前、どこの子?」

 「・・・・・・」

 「おや、怖い眼ぇして睨んで。家はどこの?」

 「・・・・・・」

 「うちの亭主酔ってるからさ。どっちから攫ってきたと思ってね。ああ心配になってきたよ。お前、本当にどこから来たのさ。言ってごらんよ。え、口を聞けないのかね」

 「なにうだうだ言ってんだい」

 徳五郎が今度は茶の間で怒鳴った。

 「飯だ、飯だ、坊主にも早く喰わせな」

 がつがつと子供は喰った。一心に茶碗に食らいつくように食べている。徳五郎とお吉は時々顔を見合わせた。

 「おい、こりゃまるで飯喰ってなかったみてえだぜ」

 徳五郎が小声で言ったが、子供には聞こえないようだった。脇目も振らずに飯茶碗にかじりつき、時々ため息をついては食べ続けていた。

 飯を食べ終えると、子供は壁によりかかり、大人がするように膝を抱いて腰を降ろし、黙って二人を見つめている。子供に見られながら、二人は控えていた飯を食べ終わったが、子供が食べた分だけ足りなくなった。

 「どうする?」

 とお吉が言った。

 「何か作ろうか。足りないだろうお前さん」

 「おい、坊主をみな」

 と徳五郎は言った。

 抱いた膝を横向きに顔を乗せて、子供はうつらうつらしている。小さな躰だった。

 「腹の皮張って眼の皮たるむってやつだ。正直なもんだぜ」

 「で、どうするつもりなのさ、お前さん」

 お吉は探るように徳五郎の顔を見た。さっき飯の支度をしながら、お吉は徳五郎に簡単な事情を聞いている。

 「まさか、このまま家に置いとくつもりじゃないだろうね」

 「つもりもへちまもあるかい」

 と徳五郎は言った。

 「家もおふくろも無え、あのしょうもねえ親父と二人きりだというからには、ここへ置くしか仕方ねえだろ?」

 「この子がそう言ったのかい?」

 「坊主が置いてくれってなこと言うかい、馬鹿」

 「そうじゃないよ、家もないし、おっかさんもいないってことだよ」

 徳五郎は曖昧な表情になった。

 「家はどこだって聞いたけど言いやがらねえ。無えのかって言ったらこっくりしやがった。大方橋の下にでも寝てたんだろう。おふくろがいるわけがねえやな」

 「だけど、子供ってのは母親がいなくちゃ生まれないんだよ」

 「そういえばそうだ」

 徳五郎は一層曖昧な表情になった。

 「それも聞いたが、野郎黙りこくって俺を睨むばかりでよ。死んだのかも知れねえな」

 「気が重いねえ」

 お吉は溜息をついた。

 「うだうだ言うことはねえってんだ」

 徳五郎は大きな声を出したが、はっとしたように子供の方を見た。だが、子供は、抱えた膝の上に深く額を埋めたまま、石のように動かなかった。ぐっすり寝込んでいる。

 徳五郎は小声になった。

 「何も一生この小僧の面倒みようと言うわけじゃねえ。とり合えず様子が知れるまで飯を食わせて置こうてんだ」

 「でもこの子」

 お吉は子供を見た。

 「その親父さんと一緒になって泥棒してたと言うんだろう?。家の物持ち出したりはしないだろうね」

 「おめえは馬鹿だ」

 徳五郎は嘆くように言った。

 「坊主は金が欲しくてやったんじゃねえや。親父がやれと言ったから手伝ったのよ。けなげなもんじゃねえか。つまり家業を手伝ったのよ。こんな餓鬼にいいも悪いも判るもんかい」

 「それはそうだけどさ」

 「第一、家の中から何を持ち出そうてんだ。何もありゃしねえじゃねえか」

 「そんな、もらってきた猫みたいなわけにはいくかねえ」

 「さあ、布団敷いてくれ」

 どっこいしょ、と子供を抱え上げて徳五郎は言った。

 「無邪気に眠ってら、よっぽど安心したんだこりゃ。お吉、見ねえ、可愛い顔をしてんじゃねえか」

 仄かな行燈の光の中に、半ば口を開いた子供の顔が浮かんだ。口の端からよだれが垂れている。躰は驚くほど軽かった。


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