父
@kounosu01111
第1話
徳五郎は一部始終を見た。
その日は、大統寺の裏の田町で、万石屋という酒屋の棟上げがあり、仕事はそれで終わって酒を頂いた。その帰り路だった。
大統寺の塀脇を過ぎて、浄念寺門前で道を右に曲がり、龍ケ崎城下門前町に続く御蔵場組屋敷の黒い塀なりに、今度は左に曲がって根町に出た。その通りは、商家ばかりだが、味噌や酒屋の蔵が建っていた。
ときどき足が縺れたが、そう深酒を飲んでいるわけではない。ただ五十を過ぎてから、酒が足にくるようになった。そしてすぐ眠くなった。要するに酒に弱くなったのである。
一年ばかり前、城下の坂下の西川という茶屋で深酒を飲み、川ひとつへだてた出し山の裏店にどうしても帰れず、大正川の橋の袂に寝込んだことがある。師走近い寒い風が吹く夜で、そのときは心配して見に来た女房のお吉が、枯れ草の中に丸くなって寝込んでいる徳五郎をみつけたが、「朝までそうしていたら凍え死んだよ」、とお吉にどやされた。「てっきりお薦かと思ったよ」、とお吉はしばらくの間近所にそのことを触れ回ったが、それ以来酒に対して口煩くなった。それが面倒だから、徳五郎も深酒にならないように多少気を遣っている。
それでも根町を外れて、馬場のあるところに来ると、柵をもぐって勢い良く土堤に駆け上がって小便をしたのは、やはり酔いが回って気分がいいからである。長い立ち小便を終って、土堤を降りかけたとき、馬場と反対側の前田兵部様の屋敷の塀ぎわに、縺れあう人影を見た。
中背の男が、腰が曲がりかけている大柄な白髪の男に襲いかかったように見えた。
「あ、あの野郎」と徳五郎は思わず声を出した。物盗りだと思った。空にはまだ十分明るみが残っているが、その塀際のあたりはうっすらと暗い。思わず土堤を駆け降りしようとしたが、足は不意に止まって、徳五郎は思わず声を出した。徳五郎はあんぐり口を開けた。揉み合っているのは二人だけだと思ったが、二人の間から蹴り出されたように子供が一人、路に転げ出たのを見たのである。驚いたことに、その子供は泣きもせず、もう一度白髪の男の脚にしがみついて行ったのである。『こりゃ驚いた!』、と徳五郎は呟いた。
しかし揉み合いは妙なことになっている。白髪の老人は意外に元気で、襲いかかった痩せた男のほうが殴られていた。しがみついているのがやっとのように見える。その時徳五郎は、馬場の先にある天王町の方から、人が駆けつけてくるのを見た。天王町の並びに家老黒田徳兵門の屋敷があって辻場所がある。争いをみつけた者が番人に知らせた模様だった。
ひとしきり人が揉み合って、やがて白髪の老人は何度も頭を下げ、人だかりから離れていった。その後痩せた男が揉み合いで痛めたらしい足を引きながら、番所の方に引き立てを降り、柵を潜って路に出た。
ゆっくり歩いていくと馬場の土堤下にそこだけ髙い樫の木が二本立っていた。その場に来て、木下は木槿に枯れた蔓草が絡んだ藪になっている。子供はその中にいた。人が駆けつけてくるのを見た時、痩せた男が鋭い声で叫び、その声で子供が一目散に道を横切り、この藪に隠れたのを徳五郎は見ている。
「おい」
と徳五郎は言った。
「出てきな。もう誰も居ねえぜ」
見ると五つくらいの男の子だった。子供は木槿の根もとに蹲ったまま、眼を光らせて徳五郎を見上げたが、動こうとはしなかった。ところどころ継当てがしてあり、当てきれないところは破けたままの、垢じみた袷を着ている。細い首が哀れに見えた。
「出てきなって。え?大それたことをしやがって。ま、それはいい。おじさんが家まで送ってやら。出てきな」
徳五郎は手を伸ばしたが、「いてて」と言ってその手を引っ込めた。子供がいきなり手の甲に噛み付いたのである。
「まるで犬の子だな、こりゃ」
徳五郎はひょろりとよろめいてから、噛まれた手を嘗めた。
「おめえ、なんだな、俺を疑ってるな。見損なっちゃいけねえや。こう見えても俺は大工の徳五郎だ。お役人が恐くて、おめえを引き渡すような俺じゃねえや」
徳五郎は見得を切った。
「さ、出てこいよ、送っていこう」
それでも子供が動かないのを見ると、徳五郎は猫撫で声になった。
「おめえ、腹減ってねえか」
ババンを腹掛けを上から叩いた。
「銭はある人だ。そのあたりでそばでも喰おうじゃねえか、え?」
男の子の躰が動き、やがて藪の中に立ち上がった。そのまま光る眼で徳五郎を見つめている。その背丈が、最初見た印象よりもさらに小さいのに徳五郎は胸を衝かれた。
「よし、行こう」
徳五郎は威勢よく言った。
「こうなりゃ焼いた魚であったけえ飯でも喰おうじゃねえか、な?」
徳五郎は威勢よく言った。
徳五郎は歩き出した。振り返ると、子供は道の脇まで出ている。
「それとも団子にするかな、団子」
子供は暫くの間距離を置いて従って来たが、田町と根町の間を抜けて土浦街道通りに出る頃には、徳五郎と並んでいた。
「あれはおめえの父か」
と徳五郎は言った。足をひきずり、大勢の人に引き立てられて行った男の姿が脳裏に浮かんだ。
「それにしてもだらしがねえぜ、え?あの爺の財布でも頂こうとしたんだろうが、なんとまあ、逆に叩かれていたじゃねえか。あれじゃしまりがねえってもんだ。俺ならああいうへまはしねえ。ちゃんと相手を見定めてからやる」
まだ少し酔ってるな、と思った。そう思ったとき、徳五郎はふと大事なことを忘れていたことに気付いた。
「おっと、うっかりしてたな」
徳五郎は立ち上がると子供を見下ろした。
「おめえ、家はどこだい」
「・・・・・・」
「おっ母が待ってるだろ?心配してるぜ、おっ母がよ」
子供は黙って、光る眼で徳五郎を見上げているだけだった。
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