第8話

「鴻巣さん、これが最後の頼みごとになるのですが、御徒町店を買ってもらえないかナー!」と、富田社長が私の店に入ってきてカウンターの私の前に座りながら話しかけてくれた。

「チョット待ってください!私がそこへ行きますから!」と行って座らせた。

「実を言うと、渋谷店が一億円で売れたので、私はもうこれで商売から手を離したいのだけど、そこで御徒町も売りたいと思って。」こうも言っておられた。

「人間の雑事から、全て離れて、山小屋にでも遁世したいと思っているんだけど!」とも言っておられた。

「三千万円で、一昨日から売りに出しているんだけれど、この不況下では誰も買い手が現れないんだ!」と詠嘆していた。

そこで私は、

「その半分の値段だって売れないですヨ!」と追い詰めて言った。

「そこで話したいのだが、七百五十万円を現金で貰えばいいのです。残りの七百五十万円は、十年のローンで専務の銀行へ振り込んでほしい。」ということだったので、私は了承した。


 そうと決まったら、私の動きは早い。

その一週間後には、富田の六曜館(渡辺ビル)との交渉に入った。その年は、長期信用銀行が破綻した平成二年の二月の寒い日だった。

そんな世間の荒波の中、「コーノス」が船出したのであった。


 私は、御徒町の内装の一部(トイレ・階段)を改装して再スタートさせた。

私は、持ち駒の中で一番選び抜いた中から、五名を御徒町店へ送り込んだ。売り上げの目標は12万円で、そのことだけを木村店長に指示した。

私の予想は、早くも初日に出た。売り上げは、十一万九千円であった。その報を聞いた私は気を引き締めていた。

その頃の株価は、銀行のほとんどが三百円代だった。株価が三百円では、会社の体を成していない、と言われていた時代であった。

日産自動車も、人員整理を始めていた。あの銀行もこの銀行も、人員整理と統合を繰り返していくのであった。

あちこちの信用銀行も破綻や統合されていった。バブルの付けが、一気に頭をもたげて来た。 

 私の上野店だけは、平和だった。

私が狂い始めたのは、店の二十パーセントを占めていたガーンという貴金属会社が、千葉へ引っ越していった平成十年ぐらいからだった。

それに追い討ちを掛けたのは、日本で二番目の売り上げを誇っていた大和金属が倒産したことである。その小会社も三社揃って倒産したのである。

その中で一番悲劇的だったのは、三宝貴金属会社が倒産し、社長の工藤氏が、上野公園で首吊り自殺をしたことだった。

その債権者連中は、

「社長が死ねば済むと言うものではないヨ!俺は先月五百万円分の品を納めたばかりなんだから!」等、口さがない中傷誹謗を繰り返すのであった。

その頃、日産生命も倒産して、私は苦い思いもした。日産生命の保険に関する営業がなされたのは、東日本銀行・横浜銀行・千葉銀行であった。

それ等に関する裁判は、今でも続いている。


 その頃の私には、船団の安東社長が来店して、「俺の店である銀座店・日本橋店・田町店のいずれかを買ってくれないかなぁ」と言ってきたが、私の十店舗のチェーン店を展開する予定が崩れてきた時である。

私はバブルの崩壊で自信をなくしてしまった。それでも上野店の売り上げは、平成十四年の四月までは、連日十万円を超えていた。

奇跡的な粘り腰だった。


 その当時の御徒町店の売り上げは、五万代に低迷していて、抜けられなくなっていた。

私が「船団」の銀座店に行くと、私の店より活気が無かった。安東社長は、「お前が買わないから、こんなことになってしまったヨ!」と言われた。

外に出てみると、右側にドトール・左側にスターバックスが出店していたのに驚かされた。

銀座店は、決して立地条件のいい場所ではなかった。松坂屋の二ツ路地裏であった。私は「買わずに良かった。」と胸を撫で下ろすのであった。


 私は二年間働いていた田町店を模して作った上野店であったが、茨城の龍ヶ崎から通うのは絶対無理だと決め付けていた。

その田町店の売り値は一千万円だった。私が商売を始める頃には、四・五千万円の値が付いていた。

バブル崩壊は、多くの会社を倒産させたが、多くの個人である人間の心も切り刻んでしまった。


 その頃から、日本の一年間の自殺者が三万人にもなっていた。今年は、四・五千人位に低下して来ている。

昭和の三十年代は、交通事故死者が最も多く、それでも一万五千人前後だった。


 社会で一番変わったのは、上野公園等に住む、無職・無住所さの無宿者の青テントの数だろう。

私の店も、そんな彼等に、パンを盗まれたりした。駅への地下道も夜の十一時に閉じられるようになったのも、そんな殺伐とした世になったのも、政治のせいかとも思う。


 当時の自民党の政治では、何も変わらなかった。その後の民主党の政治も、何も変わらなかった。

それは、今の安部政権にも言える。どうせ、どうせ、と言いながら投票を棄権する人間の多さに表れているのだと思う。

投票率が50パーセント以下で、国民の民意が反映するはずが無いと思うのは、私だけではあるまいと思うのだ。

 

 私は今は老人ホームで世話になっている身だが、今の若者は、どうせ自分達が老年になる頃には、日本自身が破綻するだろうと読んでいる。

何せ日本の負債は一千兆円だというから、国民一人一人が八百万円の負債を抱えているようなものである。

国の借金が一兆円を超える国は、世界中でも他にない。ギリシャの破綻は、三千億円位であったと思う。


 宇宙観測のロケット一機で三百十億円もする。その上に東日本大震災があり、熊本震災に見舞われている。

この先、どこで大災害があるかも知れない。末法の世だ!オウム信者や顕彰会のような新たな宗教が跋扈するようでは、室町時代の新宗教の出自と何等変わることがない。

当時も末法の世と言われていた。江戸の天命飢饉では、多くの一揆が発生している。


 今年は、安全保障条約の改悪反争が、賑やかになっている。

私の愛する落合恵子さんや、沢地さん等が演説する姿がテレビに映る。これは、いいことだ。

もっと、もっと大きくならねばならない。


 今日、図書館へ行って来た。私が借りたいと思う山口恵以子の「あなたも眠れない」が、見つからない。

明日も探してみたい。明日見つからなければ、また未来書店に注文すれば良い事である。明日はとにかく、私の乱雑すぎる机の上を整理せねばならない。

それに、昨年印刷に出した原稿が戻らない。もう五回分くらい倉沢印刷に溜まっているはず。

今週来週は照夫さんの相続のことで動かざるを得ない。印鑑を押せなかった隆一君が百万円を催促してきているが、「貴兄のせいで銀行が動けなくなったので、それまで待て!」と言っている。

それも九日の弁護士との切接見で解決する。私は、どうなっても良いが、隆一君がこの後どうやって生活するのか判らない。

彼にとって百万ぐらいは、二、三ヶ月で使ってしまうだろう……。

そうなっても、もう誰も同情するものはいない。私の取り分が減っても構わない。私には孤貧が合っている。

私はこの先も、これまでと変わらない生き方だ。


 しかし、秋田博が余計な話を持ってきている。じっくり考えるつもりだ。


 熊本地震被害は、もう既に一ヶ月になる。

大変な事態だ。私には何の影響も無いが、ゆゆしき問題だ。

 

 私はいいが寝室の郡司君の評判がドンドン悪くなっていく。私もこんなにしつこいアル中者に会ったことはない。

まだ乱暴ざたにはならないので我慢が出来る。これが新宮良信のようであったなら、私も黙ってはいられない。

昨日一万円を得た彼は、今日はもうスッテン・テンである。次の年金までの一ヶ月をどうするつもりだろう。私は関係ないので何も知らない。

知らん振りして見て楽しんでやろう。昨日私から借りた二百円も、無いと来ている。何を思うや水戸一高の郡司君である。早く死んだほうが良い。


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