第5話

再開して三ヶ月が過ぎた寒い日、社長は「皆で親睦会をしよう!」と言ってくれた。

その頃アルバイニュースの広告で、千葉大卒の池内君が入ることになった。御子柴さんと私、それに三十歳の池内君に、社長の奥さんが洗い場に入ってくれていた。

私は、三十年飲食店ばかり歩いてきたが、あの時のメンバーが一番充実していると思えた。今でもそう思っている。

私の渋谷店での仕事は二年間に及んだ。私は、その後一年して再び渋谷店の再建を頼まれることになるのだが、御子柴さんとの仕事が一番面白かった。

彼は、試験に合格し結婚するのだが、彼の頭は禿げ上がっていた。残った頭髪は長く、後ろで束ねていた。

彼の変化は、それだけで、中身と真面目さは全然変わっていなかった。

仲人は富田夫婦が務めた。彼は試験に受かると、日本で一番大きな会計事務所の青木赤松法人会計の中心メンバーになった。


 私は相変わらず店舗探しをしていて、御子柴さんに先を越された気持ちで少しばかり焦っていた。

私もあと二年で三十歳になろうとしていた。そんな夜は、私は神田の「磯吉」という割烹小料理屋へ行くのであった。

その店は四卓あるカウンター席と四人掛けテーブルが二つきりの小料理屋だった。

私は、そこの味が好きで、イカワタのレモン汁焼きなど、そこで覚えた。サバの味噌煮等は、特別に美味だった。


渋谷店を二年で立て直した私は、御子柴さんと別れ、例の小料理屋の下働き店員として働いた。

私はそこで、おでんや刺身の作り方等を覚えた。三杯酢のホヤや、カラスミやこのわたの作り方も覚えた。

その店での目的は、あくまでの己自身の店の糧だった。

喫茶店は、どうしても夜の客数が減る。かと言って、私はスナックはやりたくはなかった。

ジャズバーもやりたかったが(実際に二年間営業した)、それはいずれ己の店が決まってから他人にやってもらうことにした。

その小料理屋に勤めていた時、再び富田社長から御呼びがかかった。

 今度は、店をレストランにしようとして失敗したとのことであった。

その厨房には、六曜館の巣鴨店の一階にあったコージ・コーナーのコック長だった四十過ぎの松本氏が働いていた。

富田社長に委細を聞くと、松本氏は本格的なレストランにしようとし、社長と他の従業員は、その松本氏と方針の違いが鮮明になって来、松本氏以外の従業員が全員辞めようとして収拾が付かなくなっているとの事だった。

社長の本心をまず聞いた。社長は、本格的なレストランには反対で、電子レンジで済む食材でランチを出したい旨を私に言うのである。

私は、それに答える変わりに己の店舗が見つかった場合、その借り入れの連帯保証人になってほしいと言った。

「鴻巣さんに借りた恩は必ず返すつもりでいます!その答えがそういうことなら、私(社長)はいつでもその覚悟をしております!」という答えが返って来た。

私は内心「してやったり!」と微笑んだ。私には一つの結果が出た。三十歳までに、店も見つかるような気がした。

その頃までに私の探した店は七十軒を越えた。それらが帯に短し、襷に長しで良い立地条件が見つからなかった。



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