切り拓く
@kounosu01111
価値観と変歴の自己形成
(一)借り校舎の女学校から女子大へ
一九四五年、戦争が終わり、臨時の疎開先から帰京しました。消失した女学校に行ってみると、借り校舎を転々としながら授業を行っていました。年が明けた四六年、四年でも卒業できることになりました。
私でも進学できそうなところを探しました。
(二)
一九四六年五月六日、日本女子大学校の入学式に胸をときめかせて出席しました。「信念徹底・自発創成・共同奉仕」の三つが校是で、講堂の正面に書いてあります。
この学校に入学したものはみな創立者の娘として平等に扱う。本当に試験の結果など知りたい人は、担任に直接聞きに行くのです。聞いても覚えてませんから、自分の成績はわからずじまいでした。
一年生の授業は西生田校舎(神奈川県川崎市)で行われたので、混んだ小田急電車に乗り、さらに二〇~三〇分歩き、前年の晩秋に引っ起した板橋の家から二時間半もかけて通いました。
食糧難なので、農耕の科目があり、泥沼の田んぼまで田植えしました。夏休み(七月から九月末まで)は長時間でした。
当時はインフレーションと食料難で、公定価格の十倍以上もする闇米を買ったり、農村に買い出しに行ったりという生活でした。みな飢えており、焼け跡の東京はひどい住宅難でした。我が家は六畳に五人ぐらいで生活していましたが、三畳に六人という家や押し入れで寝ているような家もありました。
多くの人が貧困に苦しんでおり、同級生の中には退学せざるを得ない人もいました。専門学校で学ぶという自分たちののどかな暮らし方に、「同世代の皆がくるしい生活と闘っているのに、私達は勉強なんかしていいのかしら」、と疑問を提起する人もいて、私も悩み、苦しみました。
そして、「ご都合主義かもしれないけれど、私達は学ぶことで戦争・貧困の原因やそれをなくす道を探り、夜中まで働く同世代の人の分まで勉強してお返していく義務がある」、という結論に達し、学生生活を送る意義を見出したのです。
日本中でたくさんの同世代の人達が「食べるために働き、進学を断念している」のに、学校であることを後ろめたく思いつつ、その人たちへお返しすることが私の使命と心に刻んだのでした。このことは生涯の私の課題で、それ以降の生き方の指針になりました。
とはいえ、友人達と毎日話す内容は読んだ本のことや映画の話などが中心でした。そういう会話で刺激を受けて読書をし、満員の映画館通いもしました。知らないことばかりなので、上野の美術館・音楽会・演劇など話題になったところは何処にでも行きました。後から考えると、学生時代の良さは、このような友人達と交歓し、刺激を受けて知識を豊富にすることにあるのだなあ、と思いました。若いからよく動けるし、ナイーブな脳だから早く吸収できるので毎日が新鮮でした。
日々の講義は先生の独演場で、基礎教育を受けていない私にはよくわからないことばかりでした。だからといって、わかるための努力をする方法も知らず、細切れ知識をもっただけで、体系的に理解するには多くの月日が必要でした。
二年生から目白の校舎に変わり、上級生もいて「資本論研究会」といったサークル活動などの提示も出ていて、学生生活らしくなりました。私も新制大学四年時に社会福祉学科の中で、「婦人問題研究会」というクラブ活動を立ち上げました。
一年生だった一九四五年の秋、井上秀子校長が職追放で退職を余儀なくされた時、次の校長は民主的な人を、と学生たちがストを呼びかけました。女子大の目白構内で集会を開催し、近くの早稲田大学や学習院大学から応援がきて激励してくれ、一緒に目白駅までデモ行進しました。私も参加したのですが、これは私にとって初めての経験で、興奮し、盛り上がりました。
(三)学制改革で大学生に
戦前は尋常小学校六年が義務教育で、その次は高等女学校(四年制と五年制)がありました。専門学校は、三年生か四年生で、大学は予科または高等学校三年、学部三年で、女子の大学は許可されず、大学進学はごく少数でした。
一九四八年の学制改革で、中学三年生までが義務教育となり、高等学校は三年、大学は四年生に変わりました。公立の中学校はみな高等学校になり、その過渡期にあたった生徒は女子校四年で卒業するかを選択できることになったのです。学制改革前に女学校に入学したつもりが、高等学校に移行して六年も通学することになり、家庭の都合で通えなくなり、中途退学になる人もいました。
私が専門学校三年目(一九四八年)の学制改革で、それまで名ばかりで実態は専門学校だった日本女子大学校は新制日本女子大学と昇格しました。希望者は二年に移行を許可され、専門部に残る人と分かれました。
戦後は旧制大学に女性が入学できるようになり、専門学校卒業で東大や早稲田・慶応など旧制大学を受験する人達もいました。私は女学校でも二年半ぐらいしか授業を受けず、基礎学力、とくに語学が弱かったので、旧制大学の受験は諦め、そのまま家政学部社会福祉学科二年生に移行しました。
(四)社会福祉という進路に迷い
では、何を目的にどう学んでいけばよいか。新憲法の第二十五条には「社会福祉」という言葉が入りましたが、それまでの日本では「社会事業」が主流で講義も全て社会事業概論や社会事業法則といった内容がほとんどでした。
現場見学の単位もあり、毎週施設などを見学するのですが、当時は予算も貧しく慈善事業のような施設ばかりでした。そういう所で働くとすれば、低収入で奉仕することを覚悟して無ければなりません。それに将来をかける気にならず、「そのような暮らしは嫌だ。私だってきれいなブラウスの一枚も着たい」、という思いもありました。
近隣の大学の研究会などに出席しながら、どのような人生を生きたらよいか、同年代の青年たちは何を考えているか、見聞を広げていきました。
友人に誘われ卒業した女学校の地理歴史担当だった日高智恵子先生に会おうと行った場所は、「婦人問題研究会発足記念講演会」です。講師は山川菊栄さんで、のちに「女二代の記」をまとめた片です。山川さんとそのお母様のお話でした。明治のはじめに女子師範学校第一期生だったお母様は男袴をはいて颯爽と歩き、高齢になっても友人たちと政治を話題にする進歩的な片だったのに、大日本帝国憲法発布(一八八九年)教育勅語(一八九〇年)以降、女袴をはき、「良妻賢母」主義に変わった、というエピソードが強く印象に残っています。
明治時代の政治動向が変化を重ねて逆行していくさまがよくわかり、戦後の「民主主義の世の中」で青春を迎えられたことを有効に活かして生きなければ、と痛感しました。
(五)婦人問題研究会に入る
その後の懇親会にもお付き合いして出席すると、次回の研究会にも誘われました。見回すと級友も数名加わっていたのでついその会に入ってしまいました。このような研究会にも出席するのも、社会科学専門書を熟読するのも初めての事でした。リンゼイの「友愛結婚」、ベーベルの「婦人論」などあれこれ読み合ううち、私達にも分担が回ってきて、エンゲルスの「家族、私有財産及び国家の起源」を報告することになりました。
それから、ゼミなどでも一冊の専門書を読み込んで報告することになりました。初めての経験でしたが、一章ずつよく読み込んで理解し、要約する作業はたいへん勉強になりました。社会科学というものを初めて知り、筋道だった思想は私の好みに合って、すっかりマルクス・エンゲルス思想の虜になってしまいました。
私有財産制度について原始社会からの生産力と生産手段の所有関係を社会構造的に理解できました。社会事業の対象者だった貧困層がなぜ生まれるか。貧困がうまれる社会構造や資本主義のしくみや、「資本と労働」の諸関係が有ることを知って、「私は貧困をなくすための社会活動に参加しよう」、と進む道が見えてきたのです。
新憲法で決められた男女差別についても歴史的に明らかになり、女性解放運動とのつながりも解ってきて、男女平等を実質化することも私達の務めだ、と思うようになりました。
また東大法学部で民法ゼミを担当の来栖三郎教授は、女性もゼミに加わって欲しいと言われ、一年間(一九五〇)学びました。
戦争直後、これまで自由に研究できなかったという閉塞状態から開放された進歩的な学者たちが集まって「民主主義科学者協会」が発足しました。その中に出来た婦人問題研究会に誘われました。歴史部会や心理部会、法律部会、哲学部会などたくさんの分野別グループがあり、当時活動中の新進気鋭の学者たちが討論していました。
神田駿河台の焼け跡に残った小さいビルの一室の暗い電球のもと、諸先生方が硬い椅子に腰掛けてテーブルを囲み、討議しているのを聞いていると、知的好奇心が刺激され、参考文献を読みたくなります。通っている大学の図書館には経済学や哲学など、辞典・事典・辞書が揃っていました。それらと活用する方法を知り、わからない専門用語は辞書を引きつつ読み進みました。それまでは、難しい本だと三ページも読むと眠くなってしまうので小説ばかり読んでいたのですが、便利な解説書の存在を知って未来が開けた思いでした。
(六)女子労働問題をテーマに
一九四八年、井上清「日本女性史」が出版されました。それまでは皇国史観的な日本史しか学んでこなかったのですが、新日本史を学ぶようになり、女性の歴史に目を開かれました。
そういう勉強をすると現代女性の矛盾を探りたくなるものです。とくに「自分で生きていくための経済的独立こそ女性の解放」というのが私自身の目標でもあったので、女性労働者の実態がどうなっているのかということが気になり、そのテーマを研究したくなりました。
そこで卒業論文は、婦人問題研究会に入っていた友人たちと相談し、戦前の女子哀史がどう変わったかを明らかにするため、昔から女性労働者の中心であった繊維工場労働者の調査を実施することにしました。大工場に調査に入るのは難しいので、中小企業を的をしぼりました。
東京郊外の八王子に近郊農村から集めた繭を生糸にし、絹織物を生産する零細工場が林立していました。
一九五〇年夏、二、三週間かけて八王子に通い、お寺に泊めてもらって近隣の織物工場に女性労働者を訪ね歩きました。調査の指導は民家の部会で講師をされていた信夫清三郎先生にお願いし、論文の書き方まで含めて一から十まで教わりました。本当に多くの時間を費やして頂き、お世話になったのに、学生とは言え何のお礼もできず申し訳なく思いました。そのかわり、「世の中のためになるような生き方をしてお返しするのだ」と肝に銘じました。大学での指導教官は社会心理学の南博先生でした。
また、民家で出会った「思想の科学研究会」の諸先生片(川島武宜、磯野誠一、鶴見和子、鶴見俊輔先生)の農村調査も個人的にお手伝いし、ご一緒に東京近郊の鶴川村に寝泊まりしたり通ったりしつつ、学問のあり方や研究方法から日本の家族制度、農村の実態、生き方に至るまで、たくさんのことを学びました。
鶴見和子さんの「生活をつづる会」にも誘われて、先輩女性たちの悩みを聞きました。生活をつづる会は、これまで物を言えなかった主婦たちが参加して読み合う会で、「家庭内で経済力のない妻・嫁の立場は弱く、姑・夫の言うなりに家庭は運営され、何も言えない暮らし」など、若い私は初めて聞くことばかりでした。
また、東大教授の川島武宜先生に依頼されて、研究室で歌舞伎の河竹黙阿弥や近松門左衛門の脚本集から「恩・義理」の言葉を使っている部分を抜き書きするという手伝いもしました。
鶴見、川島両先生には特別目をかけて頂き、就職先の紹介、また一九五一年一月に「婦人公論」で「アプレゲール」というテーマの座談会企画された際、私を推薦してくださりました。日本女子大学には五年間在職しましたが、学内よりも外の研究会に数多く参加し、充実した学生生活を送ることができました。
卒業を前にして労働省の婦人少年局に就職を希望し、一月から婦人課でアルバイトをさせてもらいました。しかし、三月になって定員方実施のために人員整理する必要から採用停止となりました。語学力不足も不採用の要因で、語学の出来る人ひとりが採用されました。
当時、国家公務員試験の五級は受かっていたのですが、あまり希望しない部署からの問い合わせばかりなので、断ってしまいました。将来、女性労働問題を解決するための研究や運動をしたい、と考えていたのです。後から考えると、それを実現できる能力も体力もないのに、身の程知らずということでしょうか、思い上がっていたのでした。
(七)卒業後の進路、紡績工場に
一九五一年三月に新制一回生として大学を卒業しましたが、以上のような訳で、就職口のないまま、労働省婦人課で瞬時に人員整理実施の六月まで事務官の給与を支給され、その後は九月までアルバイト待遇で働きました。当時、大卒女性を採用する企業などなく、大学でも就職案内はごく少数だったので、個人的に探していました。
その頃「人民のなかへ(ヴ・ナロード)」という合言葉がマルクス主義を信奉する学生の間で流行っていて、私も「工場など現場に入ろう」という気になっていました。新聞広告に紡績工場の寄宿係募集がいくつか出ていて、女性で専門学校卒という条件に当てはまるので次々に応募しましたが、書類選考で断られる場合がほとんどでした。しかし、何回目かに応募した「帝人」三原工場の舎監にやっと合格し、十一月、広島県の三原へ赴任しました。
出発するとき、東京駅を夜行列車で出発し、広島まで十数時間かかって翌日の夕刻、帝人三原工場の舎監室につきました。
ここは常時約一万人が働く大工場で、構内に木造二階建ての女性用寄宿棟が約十五棟ありました。そこの舎監の先輩たちが迎えてくれ、その一人が私の指導役となりました。みな二十代の女性ばかり、さっそく歓迎会を開いてくれて、さらに歓迎旅行として福山市の鞆の浦まで連れて行ってくれました。このように一人前に扱われたのは初めてのことで、その豪勢さに気分が高揚しました。
しかし、舎監の仕事を見聞しているうちに「ひどいところに入ったな」、内心心配になりました。寮生である若い女性労働者たちは四時四十五分から十三時半の早番と十三時半から二十二時十五分までの跡晩の二交代勤務で、それに合わせて舎監の勤務時間も決まります。
まず四時に起床のベルを鳴らします。着替え、洗顔など支度をして工場に行く労働者達を「行ってらっしゃい」と見送り、その後各部屋を見て回ります。残留者がいないのを確かめて朝の仕事は一段落です。七時頃工場でみんなと一緒に朝食を食べ、あとは寮生たちに思想動向、勤務意欲などを報告し合う舎監会議などの管理業務です。終日二十四時間拘束ですが、寄宿舎の入り口にある舎監室(六畳)の奥で休むことが出来ました。敷地内には交代制にあわせて高等学校に代わる学校があって、家事、裁縫、社会、国語などの強化の授業をすることもあります。
そこで見た情景に二十二歳の私の心は大きく揺さぶられました。労働条件は労働基準法の最低限で、朝夕の十五分の時間延長は特例で許可されていて、通勤者もいるとはいえ、多くが寮生で十代の若い女性達です。長時間のきつい交代勤務のうえに、明治初期に建った木造二階建ての寄宿舎の一部屋十五畳に十人が雑居、押し入れは一人半間ずつ与えられ、そこに布団(貸与)・私物を入れるようになっているのですが私的な空間はその前だけしかありません。お風呂は打ちっぱなしのコンクリートの湯船にみんなが一斉に飛び込むので湯は膝までになり、二回目以降入る人達は汗だらけで臭い湯に身体を沈ませることになるという、まるで小学生の修学旅行のような毎日です。しかも外泊は許可制で、私的な生活など無視されているのです。寮生あての文書には必ず目を通す、はがきは内容を読んでおく、そういったことも仕事の一つでした。
(八)試用期限で解雇
そんな中で三週間経ったある日、他の舎監たちが噂をしていた、「赤の本屋」に一人でそっと出かけました。「赤の本屋」とは、共産党の機関紙「赤旗」なども出版する社会科学のいわゆる民主書店でした。
文庫本を買ってインテリ風の本屋の主人に「今度、工場に新任できた舎監です」と自己紹介すると、「お話しませんか」と誘われました。
私は嬉しくなって奥に上がりこんで工場のことなど話し始めました。夜にならないうちに帰ったのですが、翌朝、労務課から呼び出されて、「大阪の本屋に行くように」、と突然言われました。すぐに支度をして出掛け、数時間かけて大阪本社の人事部長の前に出ると、優しそうな声で「あなたはこの工場に適していない、まだ試用機関中だから採用中止ということにして雇用関係はなかったことにします。」嫁入り前の女性だから傷つかないようにと、円満にあれこれ言うのです。「このことは一切口外しないで三週間の入社試験だと思ってくれないか」と言われました。
最初は断ったのですが「あの工場にいても良心が苦しくなることばかりだから」とあっさり退職届に署名してしまいました。その時、「経歴にはならないのですね、履歴書にはかかないで良いのでね」と再三念を押したのですが、後述するように、これは無駄でした。
真相を知らない私は、退職手当をもらい、周囲の人達に優しく見送られて、帰途、倉敷の父の実家に寄り道をするなどしてのんきな顔をして帰宅しました。実際には、試験の結果待ちだった東洋紡浜松工場から寄宿係採用通知が来ていて、「浜松の方が近くていい」と喜んで翌年二月に就職しました。
(九)公安警察にマークされて
東洋紡浜松の工場は、帝人の工場より敷地内にある寮の建物も仕事内容も近代的に見えました。寄宿係兼付属学校の教師としての待遇で、会社の概要など研修を受け、工場内の各部署での作業実習もしました。
工場と寮生活に馴れ始めた三週間のある朝、電話で「昨日、公安警察の人が近所に聞き込みに来た」と知らされ、びっくりした直後、労務課長から「前に他の工場で務めてたでしょう。それが履歴書記載されていないから履歴詐欺で解雇してもいいのですが、試用期間中だから採用停止にします」と通告されました。「東京からお母さんが迎えに来る手はずになっています。特急の乗用券も二人分用意します」と通告された。これは紡績女子労働者を無理に帰すときに故郷から親たちを呼び寄せるという昔ながらのやり方で、親から自立している私まで同じように扱われた屈辱感と、問答なしの一方的な扱いをされたことが悔しくて、その場で泣いてしまいました。
あれだけ約束した帝人の人事部長は、公安警察や紡績協会、はては労働組合の全国繊維労働組合連合会にまで「注意人物」として私の名を報せたのでしょう。ほんとうに驚き、公安警察の存在に「恐ろしい世の中だ」と身のすくむ思いでした。このことは証拠がないので人権擁護局に訴えることも出来ません。
誰に話しても救済されようがなく。どこへでも相談できないまま、私の背中には「共産党のオルガナイザー」という虚飾のレッテルが貼られました。ブラックリストに乗って隠然と有名になっていたようで、そのことは次に世話されたデパートの「松屋」ではっきりしました。
松屋は労働組合の書記職でしたが、会社の試験も受けてほしいといわれ、人事部長と面接し、採用が決まりました。その二十日後、人事部長から呼び出されて「雇用関係はなかったことにする」と言われてからだった。その意を汲んだ松屋の人事部長から「試用期間だから履歴書には書かなくてよい」と言われ、どうもこれは採用されないと判った。ただはっきり解雇と言われたわけではなく、雇用が継続されたかどうかは、「大丈夫です」との答えでした。地裁に身分保全の仮処分を求めて提訴しました。しかし、私側の証人はいないまま却下されました。民事で有名な千種達央判事が担当でしたが、最後に「あなたの言うことは全くの嘘だ」、とはっきり言われた時には、「裁判官がこのような言葉で原告を侮蔑してもよいのか」と驚き、その人柄を疑いました。屈辱感と情けない思いでひどく落ち込み、「黙って退職に応じればよかった」「裁判などしなければよかった」と思いました。一九五四年、二五歳のときのことです。このことは機会があって一九五六年に刊行された平凡社編「現代残酷物語」に書きました。
私が就職した一九五一年は、二年前の四九年から大量に追放され、解雇反対闘争が盛んでした。また四九年の夏には、国鉄総裁が轢死した下山事件、電車が暴走した三鷹事件、列車が脱線し死亡者の出た松川事件などが起こり、社会運動が弾圧され、不穏な情勢の余波がつづいていました。
私の解雇事件で、松屋の労組は臨時大会を開くなど、大混乱しました。書記とはいえ、事務所に座って雑用ぐらいしかできない私でしたが、このような人間を松屋の労組はよくぞ二年も雇ってくれたと思いました。松屋事件は私の中に重く沈んでいたのですが、八六歳の今、思い出しつつ考えると、人事部長に呼び出されたあと、もう一度人事部長を訪ね、はっきりと「試用期間中に採用取り消しになったのか」を確かめ、そうであれば労組の実情も勘案し、迷っていた転職を決意するべきであった、と思います。
(十)社会変革をめざす人たちの仲間に
私は、研究会などで女工哀史を知り、資本主義社会における労使の仕組みを学んだので、女性労働者が少しでも幸せになれるような社会の仕組みを作ろうと思いました。
一九五一(昭和二六年)は、朝鮮戦争下のレッドバージ直後の時期で、公安警察や経営者たちは、尾行・聞き込みなどをして活動封じに熱心でした。
私のような大学卒業したての女性が、工場に就職するのは思想的背景があるということで、追放しようとしたのでしょう。
その後も私が友人の勤めている繊維工場を訪ねると、その友人は後から、「あの人は何をしに来たのか」と労務課の担当者から尋ねられたそうで、嫌になりました。
闇の中を歩いているような気分で不安に駆られた日々、社会的に孤立した青春でした。多くの友人たちのように、結婚して家庭に入り、おとなしく生きるか、選んだ道をさらに前に進むかの二者択一しかありません。
前々から誘われていた組織の中に入らなければ我が身は守れないとも思いました。
私は、初志通り公安警察などがマークしている「危険な思想」をもっと学び、貧しい人がなくなる社会、差別のない平等な理想の社会を創っていく活動に参加することを考え、本当の活動家にならなければ我が身は守れないとも思いました。
そうしないと、世の中に対して、特にこれまで色々と指導して下さった先生方、相談に乗ってくれた労働組合の方々に申し訳ないと思ったのです。
ところが、その組織は選挙違反容疑で、またもや監視がきつくなりました。のちに結婚した夫の職場に、結婚届を提出した一~二週間後、公安警察が総務部長に私のことを聞き込みに来たという位でした。
以来、どこにいても誰かに監視されているような気がしてなりませんでした。
その後も今日に至るまで同様のことが続いています。思想信条の自由は憲法で保障されていても、今の日本では思想規制は暗に強化されています。
二〇一四(平成二六)年に成立した特定秘密保護法は、このような人権無視をさらに広げるでしょう。
(十一)父母の怒り
実家に帰ってからの私は、「針のむしろ」の上にいるようでした。
学生時代、メーデーに行こうとしてからの私を(初めて足蹴にして)阻止した保守的な父は一言も言うことを聞きません。特に一九五二(昭和二七)年のメーデーの日は、家中鍵をかけて出られないようにされてしまいました。
後で母は「あの時止めてよかった」と言っていました。
その後、母は感情的になって私の顔を見ると文句を言います。時には眠った寝床まできて怒ったり「家族が全部お前のおかげで迷惑している。」と言われました。
夜帰宅すると、店先にやってきて皆の前で大きなご飯しゃもじを持って「手を使うと後が痛いから。」と泣きながら私のお尻を叩くのです。でも両親は、結婚するまで私を家に置いてくれました。
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