エッセイ集 4
「さすらい」
私が兄の店を引き受けたのは、平成九年の十月半ばであった。
それが良いのか悪いのか判らないけど、今でも営業を続けているので、良いことだったと思ってる。「私は八十歳まで働き続けるんだ」、と公言してから五年は経つ。
その間にタカラホテルの跡地には三十階建てのビルが建ち、焼肉店「富士吉」が廃業の憂き目になっている。昨年一月、店主の高島市が亡くなってしまった。あまり急なので私は、その報を受けると涙が溢れてきた。その彼は、ひたすら肝癌を隠していたらしい。奥さんも知らなかったらしい。息子の和典君は、それ以来店に出てこなくなってしまった。夜中に突然凶暴になり、母親に暴力を振るうということだった。今では毎日来るのは、兄貴が居た時に比べ大幅に変わっていた。
とにもかくにも時代が一変したように、朝は年寄りが集まった。ピーク時が二回あるようになって来ている。朝の開店を待たず八十数才の中条老人が来て居、私に「早く開けないか!」、と強い口調で言うのであった。「俺は朝の三時に起きてたんだゾ!」、とおっしゃるが、私は朝の七時から夜八時迄働き詰め。店を開店していないのにもう五人も並ぶほどになった。彼等の思い通りではないかもしれないが、私にも休養を与えてほしい・・・と思ったりするが、接客の好きな私は、彼等の要望に応えてしまうのだ。「まだ早過ぎますヨ!」と言う私に向かって、江口のジーチャンは、「俺は、もう昼時なんだよヨ!」、とトンチン感な暴言を吐く始末。彼等にとっては昼だろうが、私にとっては通勤途上である。朝ぐらい、ゆっくり態勢を整えておきたい。がしかしである。私にとっては不条理である。私は、まだ朝食も食べていない。「オイ、オマエッ。あまり年寄りをバカにするな!」。そう言われても、私の一日は二十四時間しか無い。お昼は、いつもバナナ一本で食事を終えている。それが良いのか、五十席ある店は、九時に一度は満杯になる。
それから昼間の仕組みを始める。それを終えると、午前中は終わってしまう。
メイン料理はパスタである。私は細腕なので、長時間フライパンを振れない。そして考えたのがカレーと、ハヤシライスである。御飯時の炊飯器は、三台になる。この点が兄貴のころのメニューと大きく変わったところだ。
私は兄に言われた、「申し訳ございません」、の言葉を朝から言い通しである。
私が希望のスタイリストを辞めてから十五年たつ。私は、高校を卒業すると、京都の清水焼きの窯元で二年間働いている。私の人生の度は、そこで始まってしまった。
当時私は十九才。私は小学生から孤独を伴にして生きてきた。多かれ少なかれ、他の兄姉もその影響を受けている。兄は十九才で最初の家出をしていて、姉は英検一級の手づるを使って八重洲の谷口貿易商会に勤めだしていた。姉は、そこへ自宅から二時間かけて通勤していた。姉の仕事は順調だった。
私は私で、デザイナーになるための東京の専門学校に二年間通っている。その学校で、二年生の時に、ある芸能人のスタイリストとして働いていた。私の就職も順調であるかのように見えた。おまけに、長兄が東京上野で二軒の店を持つまでになった。「ここは、あなた達(姉と私)の止まり木になれば良いと思って開店させた」、と兄が言う。
姉も一時はこの店で働いているので、その意味では止まり木になっていた。よく遊びに来たし、友人の野口嬢をアルバイトで働かせている。
友人の野口嬢は、今では安穏な公務員の夫を持つ主婦として、長野の地で元気に生活している。
私が彼女を兄の元で働かせたころは、アバズレで手の施しようもなかった。兄も彼女には悩まされたみたいで、今でも「彼女には悩まされや、遅刻はするし仕事は放棄して逃げ出して家へも帰らず遊び呆けているし、手に負えず難儀した・・・。」と今でも語り草になっている。
その彼女が今では、誰よりも幸福になっている。なんとこの世は矛盾だらけで成り立っている。
そんな中で、私の職場は難渋している。暗がりが多かった私の人生の中で、私の希望は、絵画と本だけだった。
高校時代は、美術クラブと登山クラブだけだった。あの日光の男体山に登ったのは、高校二年生のころだった。眼下に美しい中禅寺湖を望み、その展望には、雪山の自根山を仰ぎ見その自根山を縦走し、夫婦は淵に下山し途中の山荘でテントを張って、一晩過ごし予定通り日光温泉にたどり着いたときの気分は壮観だった。忘れ路の日光山の縦走だった。その年の十日は、山形の月山羽黒山を縦走している。十月のはじめに雪が降ってくるのには驚かされた。それでも、登山の醍醐味は自然の恐ろしさとその達成感の幸福度だった。私の高校生活は満足なものだった。
今でも思い出すのは、松本俊介展と、ピカソ展だった。青の時代というピカソの作品群で現在の私の目には、ピカソの抽象画の方が価値があると思えるのだ。近代美術館で見た佐伯祐三等はヨーロッパ時代の貧乏な時代のほうが良い作品群に見えたことだった。
当時の私は孤独を友とし、貧を優先して生きてきた結果が、今も独身をかこってる原因である。時々は寂しくなるが、そこは自愛の念の方が強い。私の全ては孤貧を愛す生き方につながっている。私は小学五年で父無し子の扱いを受け、それを享受していた。母は精神病院へ追いやり、父を万年季節労務者のように扱ってきた因果であると諦めてしまっていた。あのころの方が幸福だった。
もう二度と実家へは帰るまいと思い京都の清水焼の窯元で働いた二年間。あのころの一日一日が充実していたのかもしれない。今ではもう忘れた過去の記憶が、鮮烈に蘇る。
上野の明証堂という本屋で、種田山頭火全集をみつけた時は、小躍りしたものである。
私は、高校の二年間龍ケ崎の管具書店でバイトしていた。そのころは、本の中に埋もれていたことに快感を覚えていた。芥川龍之介全集を二万円で買った時も、その書店で働いている時だった。私は、そこで良寛を識り一休宗純と出会えたのが良かった。
私は、デザイン学校を卒業すると、そのままスタイリストとして芸能人の衣服の世話をする事で難無くニコルというアパレル産業界に入ったが、もう、そのころには孤貧を識り傍観を旨として、瀬戸内晴美の小説に食らいついていた二十代を宝とし、今では意気揚々と現場仕事をしている。今の私は、『幾山河越えさり行かばはてなむ国ぞ我れ行かん』、という牧水の歌と『分け入っても分け入っても青い山』(山頭火)の心境で生きている。
今では、もっぱら落合恵子と吉本ばななの本で慰められている。
今日の昼もお客で満杯になっている。兄貴のようにタオルを冷蔵庫に入れておく程ではないが、昼の二時間で汗をビッショリかいている。兄貴は、どうやって二店舗の喫茶店を経営することになったのか聞いておくべきだった。接客仕事が好きな私は、兄の二店舗目の御徒町店で一年間世話になったが、再度スタイリストの世界へ戻ってしまった。あの時、兄貴はもう既に脳梗塞に罹患していたと言う。私がもう少し真剣にサポートすべきだった・・・と思う。
あのころは、木村さんに仕事を任せ過ぎていた。明日も、ジーチャン相手の仕事をせねばならない。兄貴は、開店の際一年後の売上を把握していたという。今なら私にも判る。兄貴の足跡のいかんであるかを。
明日で潰れる事になった、裏の丸屋そば店の解体が始まった。
「宇野政孝の予因」
この二日、宇野氏を書いていて、利行の伝記を読んでいる。彼は本物の貧乏画家だったことが知れる。それでも二科へ出品している。彼の作品を認めるのは熊谷守一と正宗得三郎ぐらいで、いつまで経っても平出品者にすぎなかった。
その彼の作品が、今では億の単位で取引されるようになっている。
彼を信望する絵描きは多いが、宇野氏はその代表格だろう。他にも沢山居る。私は楽屋口から眺めてるだけだが、近代美術館のピエロの絵が面白い。
宇野氏は、彼を崇めるために放浪の画家となっている。今頃は、新潟か金沢あたりにでも居るに違いない。金沢には、彼を贔屓にする医師がいると云う。
どこか海さんに似ている。政治的な野心家が揃っている。宇野、横田、水村の中では、横田海と水村喜一郎が一番ふてぶてしい。水村喜一郎に至っては、美術館なるものまで作ってもらっている。三流の画家で、身体不自由な身体障害者であり、両腕が無く、それを同情する人々の作意だろう。洲之内氏は云った。「芸術に障害と健常者の界は無いと・・・」
それにしても渡邊さんの絵は売れないらしい。昨日、その作品が送られてきたが、二〇一三年に描かれた「愛情の変形」は良い。白と黒とのモノトーンだけど、私は利行のように歴史に残るんじゃないか・・・、と思っている。そうならなきゃ、四十数点集めた私の眼が狂っていたことになる。売れるのは、やはり見栄えのする写実画なのだろう。そんな中にあって、渡邊氏の抽象画は五十年先を見据えている。他の誰にもこの技術は盗めないし、この色は一朝一夕には出来ない。ある日突然火がつくのではないか・・・?、と思っている。あの暗いシーレのような作品から、よくここまで昇華するとは、思っていなかった。三、四十年前から知る私には、この世界が判る。この詫と寂の世界が、いつかは判るだろう。諦観にまで昇華した世界が。
「宇野政孝を書いて気付いたこと」
貧乏神に取り憑かれた利行の寿命は五十年。彼の絵描き人生で産み出した作品は二万点。早描きで、常に日記と共にスケッチブックを持ち歩いていた。彼はその作品を己から紙屑と言っていた。彼の庇護者は画商の天城と売れない詩人の冒助だった。
天城は悪徳商売人で、売れない利行の弱点を付いて多量の絵を描かせ、利行の酒好きをねらって彼をアル中にした本人である。
彼を天才と称さずに他の誰を天才と呼ぶのであろうか。彼は一時精神異常者とされ、その文章も少し残っているが、私にも異常と思われる抽象言語を使う。私も真似てみたいものだが、それは先天的なもので、私には持ち合わせてない。
しかし、芸術を語る人物は、こんなにも精神異常者が多いのか?、そうでもなければ小説も絵も描けない。ゴッホ・ユトリロ・宮本輝・吉本ばなな・連城三紀彦・その他あらゆる場面で異常者が登場する。正気であるのは、横田海か池澤考ぐらいである。
しかし、その二人にしても、銭には執着していて、海さんは私から百万借りて返さないし、池澤に至っては二百万円ぐらい持っていっている。誠実なのは渡邊氏くらいである。
利行を愛す、宇野氏に至っては、最初の嫁さんをトルコ風呂で働かせていたし、海さん美しい奥さんは、キャバレーの女給だった。
「利行と芸術家」
貧乏神に取り憑かれた利行は、その寿命が五十年。胃癌で締めくくった。最後は板橋の養育院だったらしい。彼の後半生は悪徳画商天城に庇護されたらしい。
彼の生涯の友、昌助とは三十年の付き合いがあった。そして代弁者でもあった。彼だけが傷つきやすい利行の神経の慰撫者だった。悪徳画商から守ろうとしたのも彼であった。繊細な神経の利行の慰撫者は、この売れない詩人の昌助と同棲者葉子だけだった。
利行は、己の描いた絵を紙屑と言っていた。いや、それ以下だとも言っていた。ここに彼の厭世感がある。
二科会を追われ、一水会も追われた彼の末路は哀れだった。理解者は熊谷守一だということが救いだった。
生前の彼の作品はポエジーだけが残っている。アル中の彼に品位を求めるのは酷なような気がする。ユトリロもアル中だったが、酒を飲まなくてはいられない人間は優しい性根を持っている。海さんや宇野さんのように女にダラシない二人に比べて、利行やユトリロは、女性に淡白だった。彼等二人共精神病院に通っていたが、己の立つ位置は弁えていた。彼等二人に共通したのは、作画に没頭していたことだろう。
ゴッホを含めて言えることは、彼等が没後五十年を経てから、有名になったことである。三者共、今はその作品が一点億の単位で取引されている事である。そして真面目だった。絵を描くことだけが趣味であった。女にも金銭にも拘泥しなかったし、女に身を委ねたわけでも無い。文芸家と称する連中は、何故にこんなに精神を病んでいるんだろう。
美術では、利行、ゴッホ、ユトリロ。それに文学者では宮本輝、連城三紀彦、吉本ばなな。その精神が正常なら、誰も芸術家などには興味も無いだろう。ユトリロやゴッゴ・利行を理解しようとするなら、彼等は芸術馬鹿だろう。描くことでしか、この世に生きられないことを知っていただろうから。
我々が生きている現世のいやしい時代にあまりにも精神が純粋でありすぎた。彼等が、金銭に無頓着だったのは、芸術の魔術に取り憑かれたからであるだろう。あまりにも純粋でありすぎた。
いやしい時代にあって人々は伝説だけを心の拠り所にしている。そのほうが安全だからである。
私のように売れない作家の渡邊氏に二百万円も投資するのは馬鹿げている。しかし、私は歴史を買うのである。ドストエフもモーツァルトも狂人であった。
「末法の世」
仏教に正法、像法、末法の三時を立て、末法の次は、仏法が滅びる滅法を予想する考えである。
正法の時代は、現実に悟りを開く人間のいた時代。像法は、修行しても悟りを開けない時代。末法は、もはや修行も行われず、ただ教法だけが残っている時代ということで、末法期に入ると天変地異、破戒虚信、闘争、戦乱が根付くとされている。
日本では末法到来を一〇五二年からとしていて、平安時代がそれに当たる。それから平年近く延々と、日本は末法の世にあるわけだ。
末法を恐れた平安時代の貴族たちの間から無常観や、厭世感が生まれ鎌倉時代の浄土教信仰へと導いていく。この現在ほど、末法と言われる条件を全て兼ね備えている時代はない。
幼児殺しや、介護疲れからの心中、テロや中東戦争、日本の天変地異、日々のニュースは全て末法といわれる条件を全てこれでもか、とつきつめている。昨年は東北、関東水害、今年は熊本大震災である。
人間の定命は、生まれた時に定められていて、如何ともしがたいが、定命の尽きるまで夢を見たいものである。本当は夢もまた無なものであり、空是空、空即空なのである。心して生きなければならない。我々一個人は、この無常の世を生きねばならない。片隅の一老人文筆家にとっても、この世は生き難しい。
「いつも一人」
昨夜、熊本地方に震度七の地震があった。震害は、いつも私を避けるのだろう。私等、いつ来てもいいと思って生きている。昨年の秋には、東北関東水害があって、私も水海道を訪ねて来た。あれは十月の寒い日だった。野外で、「ローマの休日」の映画を見てきた。多分過去にも見ていたのだろう。ストーリーをよく覚えていた。オードリー、ヘップバンの美貌には恐れ入った。多分、池袋の文芸座で見ていたのだろう。モノクロだったのが寂しかった。二十歳ごろの記憶がよみがえってきた。
私は六十五才になるが、今だかつて当時のように孤貧である。当時と違うのは、当時はアパートの一人住まいだったが、今は老人ホームに缶詰状態だ。どちらが良いかとは比較にならないが、当時は若かった。若すぎた。
自由を失っただけで、何も変わらない。久し振りに日本酒を一杯飲んできたけど、何も変わらない。隣室に入ってきた群司の主張がまるで海さんを見るように自己主張が強い。
「或る女」
その女性とは、読書が好きである点で一緒であった。その上映画も好きであるという。ある面では、その生き方をお互い認めあっていた。しかし彼女は一人子、自分の家と名前が無くなる事に不満をかかえていた。そんな彼女の提案が「養子になって欲しい!」、ということだった。彼女は父親が肺癌に罹患してるとは、私に黙っていた。その父親が死の直前になってからだった。もしも、私が以前から知っていたら・・・・・。などとも考えたりしただろうが、それを知らされたのが、私の店が開店してからだった。何故もっと早く知らせてくれなかったのか、と悔やんだが・・・、もう遅かった。若い女の弾力のある体を抱いてしまった後だった。「私より、あの女性と付き合いだしたのネーッ!」、と女の勘で指摘されたとき、私の答えは曖昧にならざるを得なかった。
その後私は、二度程彼女の家を訪ねている。若い女人には、知性も時代性もまるでなかった。私との共通項が無かったのであった。それは前の彼女が同じ年齢なのに、女は、私より十歳も若かったので仕方がない事である。そんな私は、青い蹉跌を来してしまったことが死ぬまで忘れ去ることが出来ない行為となって行くのだ。
『中小企業コンサルタント、の資格を取っておくべきですヨ』、と言ってた彼女は公益財団法人の団体で働いていたが、その暇をかって司法書士になるための勉強をしていた。『アアー懐かしや』、と反省してる私である。あの高輪プリンスホテルでの饗宴が忘れられない。「本当に男はバカネ!」と言われてる気がする。
「苦境」
私はここで学ぶべきものは何もなかった。
老人ホームでも私には、多くの自由時間を与えてくれていて、私の身柄は勝手し放題であった。
このホームのほとんどの老人達は、認知度が四か五の末期症である。ゆえにこのホームは精神病の、あの狂騒曲を聞いている日々である。私には耐えきれない。そんな中で新しい小説を産み出すのだから、いい作品等書ける環境でもなく、またそれに見合う才能も無い。凡庸な人間は、これから先何を目的に生きて行くべきか?、迷うばかりである。
「春告げ花」
私にとっての蝋梅は、春告げ花だ。あの黄色い悲しいような花は、他の梅の花より先に咲く。
私が蝋梅を知ったのは、警備員をしてた時で、馴馬の坂下の古寺の墓前に、そそとその花を見せて私を冬の厳しさから解き放った。道路警備は、厳冬の北風が吹きすさぶ野面で立ち続けるのが仕事で、単調であるだけに、冬の野の風が冷たく感じるのだ。それが一月下旬に咲くと、もう雪も降らないだろうと、ホッと一息付くのだ。
もう一つ私にとっての春告げ花は沈丁花だ。早春、内側が白、外側が薄紫色の春のよい小さな花をつけて息を届けてくれる花だ。私は、新聞配達をしていた時、その芳香が二百メートルも離れた距離から薫ってくるのだ。かじかんだ指も、その香で幾分か和らいでくるのだった。これも、私にとっての春告げ花となっている。バイクの排気ガスの臭いと、そのけたたましい音を和らげてくれた花である。
「狂奏曲の老人ホーム」
ドアを開けると、前列の右丸テーブルに座っているのは、斉藤、山崎、内田、それにたった一人、歳の判らない大前が座っている。
このテーブルに居る連中は、皆正気だ。正気であるが、斉藤と山崎は、カラオケを毎日歌いに来るのが日課である。それに比べ大前と内田は音無しい。二人共、ほとんど会話をせずに過ごしている。
九十四才の内山さんは、相部屋であるが、私ともほとんど会話は無い。私には、無表情な大前という老人の正体が判らない。誰が話しかけても、ほとんど口を開くことが無い。唯一会話が通じるのは、ヘルパーの板倉さんぐらいだ。後は誰が話し掛けても、応答さえ無い。
玄関の正面で、いつも横になっているのは、アル中の群司で部員は私の隣となっている。彼の口癖は日立一高卒業でシャープの営業マンだと言うが、口うるさい程何遍も聞かされた。何か、事あるごとに日立一高とシャープが出て来る。私に「それがナンボのもんじゃい」、と言われても、それを繰り返す。性懲りも無く、英単語を繰り返すだけ。私に「英会話部なら英検は何級もっているの?」、と問われても言葉を濁らせているだけ。英単語が、全く会話になってない。その彼は、兄姉から絶縁されているらしいから、酒での悪癖は昔からあったと思う。そんな彼は酒が抜けて金が無くなるとその日常も荒れてくる。それを部屋付きのヘルパーにぶつける。毎日群司の気分が変わるので、ヘルパーは彼に戦々恐々だ。タチの悪いアル中だが、私は隣のヨッチャンを見ているので、あれ程の乱暴者でないのが救われる。字を見ると、彼の知性も見え隠れるんだが、何故アル中になったのかは判らねど、そろそろ正気に戻ってもらいたい。来月の年金日には、私に借りた「三百万円も返す!」、とは言っているが、カネを手にすればどうせ飲みに行ってしまうのだから、私は気にせずに待つだけ。毎日猪瀬さんから五百ミリリットルのビールを貰っている。その一本で、一日が終わるのだったら可愛いのだが、周に一度は必ず猪瀬女史に駄々をこねる。板倉さんに云わせると「恐い!」、ということになる。なかなか風呂にも入らないと云う。杖も離せず、ビッコを引いて歩く群司ヨ、「いい加減歯を直せ!」。私は、何度もそう言ってるが、「今後の年金を貰ったら!」、と言いながら半年経っている。「今度の年金を貰ったら!」、は彼の口癖だ。
交通事故後の腰痛も持っている、彼の交通事故は重症で、三ヶ月にも及んだようだ。自転車の前に「コロ」という名のシーズ犬を乗せ、もう一匹はロープを引いていたと言う。そのコロは平代田橋の近くの田圃に墓を作って埋めたと言う。
左側の丸テーブルには、少し重症な宇都宮夫婦が座っている。この二人が認知度が四、五らしい。どちらが四でどちらが五なのか区別は付かないけど、かなり変だ。夫の正さんは徘徊癖があるし妻の照子は年がら年中正に小言を言ってるし、やかましい。
後は、九十三才の高橋トリさんと岡村さんが二人で座って愚痴ばかり言っている。
足の悪い岡村老女とだ・・・。それに加えて無神経で腰の曲がった鈴木老女が座っている。このテーブルには秩序が無い。
それに、左奥の丸テーブルには、九十二才の男の老人で神経質な猿田と、助平な男老人鈴木常吉が座っている。この鈴木はヤカマしい。
その奥に私が一人本を読んでいる。
中間の右窓側テーブルには自殺未遂をした石垣氏と、マヌケな野平老爺が座っている。二人共便所に何遍も行く。石垣氏は神経症で、何遍もトイレへ行って、何遍も長い事手を洗う。一日に十回以上は行く。
それと、バカなエッチャンと鶴岡は放し飼いの状態だ。二人共、頭が狂っている。後に残るは、パーチンソン病の日下氏だが、彼は完全に狂っている。それが病的なものか、どうかは判断しかねる。
いずれにしてもこの老人ホームの人間は全員狂っている。そして一日中止まないカラオケが毎日大音響で鳴り続けている。その間私は外へ出るか、己のテーブルで本を読んでいる。カラオケに歌い興じるのは斉藤と宇都宮と山崎、鈴木の四名だ。私は山崎女史と斉藤女史が歌うときには必ず外へ出てしまうのだ。彼女達の高音は高すぎだ。彼女達も老人だが、高音が響く。そうなると私はいたたまれない。意外なのは、バカな行動する宇都宮正で、歌が上手だ。彼の本能が歌わされている様子だ。私のこの老人ホームでの生活も、もう既に二年たつという時期に来ている。
もう飽きた。
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